AUTOMATIC TRANSLATION 15 LANGUAGES

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English Korean Air Lines Flight 007
Russian Інцидент з рейсом «Korean Air» 007
Chinese 大韓航空007號班機遭擊落事件
French Vol Korean Air Lines 007
Spanish Vuelo 007 de Korean Air
Japanese 大韓航空機撃墜事件
German Korean-Airlines-Flug 007
Korean 대한항공 007편 격추사건
Italian Il volo 007 della Korean Air Lines
Swedish då Sovjetunionen sköt ner Korean Airlines-flygplanet KAL 007
Arabian ا لخطوط الجوية الكورية رحلة007
Hebrew טיסה 007 של קוריאן אייר
Thai โคเรียนแอร์ไลน์ เที่ยวบินที่ 007
Vietnamese Chuyến bay 007 của Korean Air Lines
Portuguese Korean Airlines Voo 007

         < 目 次 >

  1. KAL007事故後の作業(1)
  2. KAL007事故後の作業(2)
  3. KAL007事故後の作業(3)
  4. KAL007事故後の作業(4)
  5. KAL007事故後の作業(5)
  6. 貨物とトランク・乗員乗客はどこに(6)
  7. 綾里大気環境観測所(7)
  8. KAL007_コクピット会話Ⅰ(8)
  9. KAL007_コクピット会話Ⅱ(9)
  10. ブラックボックス・CVRボイステープの信用性(10)
  11. KAL007海底からの引き上げと目撃談の日付け(11)
  12. バディム・コンドラバエブの報告(12)
  13. ロマネンコ将軍とKAL007乗員乗客の靴(13)
  14. KAL007事故後の遺体処置(14)
  15. アブラハム・シフリンの再調査-1(15
  16. アブラハム・シフリンの再調査-2(16)
  17. ラリー・マクドナルド議員の運命(17)
  18. 精神矯正収容所と精神医療(18)
  19. 国連裁判で「意図された領空侵犯」の判決理由(19)
  20. JAL123 航空機事故を参考(20)
  21. KAL007便生存者存命の可能性(21)
  22. ヤマロ・ネネツ族Yamalo-Nenets(22)
  23. 大韓航空機撃墜事件の概略(23)
  24. KAL007乗員乗客の行方:中澤健志(24)
  25. KAL007の海没位置と海底移動9月4日~9月8日(25)
  26. KAL007乗員乗客リストと座席番号Ⅰ(26)
  27. KAL007乗員乗客リストと座席番号Ⅱ(27)
  28. 米国ジョージ・シュルツ国務長官「生存者はいない」の根拠(28)
  29. 核戦争後の世界(29)
  30. チュン・ビュン・インKAL007機長(30)
  31. この文章を書くまでの経緯Ⅰ(31)
  32. この文章を書くまでの経緯Ⅱ(32)
  33. この文章を書くまでの経緯Ⅲ(33)
  34. KAL007大韓航空機撃墜事件____「目撃録」1983年9月1日朝(34)
  35. KAL007大韓航空機撃墜事件____重要「解決の糸口」2024年(35)
  36. AUTOMATIC TRANSLATION 15 LANGUAGES(36)
  37. ソ連参謀総長オガルコフ元帥の演説(37)
  38. カメンスキー中将(コルヌコフの上司)2001年(38)
  39. 1983年8月31日の気象状況(39)
  40. ミハイル・ギルス機長_海の底のKAL007残骸と乗客(40)
  41. アナトリ・コルヌコフ極東司令官(41)
  42. KAL007の爆発と千鳥丸(42)
  43. KAL007の事故原因(43)
  44. 落下したKAL007の乗員乗客(44)
  45. ゲンナジー・オシポビッチ防空軍少佐Ⅰ(45)
  46. ゲンナジー・オシポビッチ防空軍少佐Ⅱ(46)
  47. アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンの演説(47)


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, 2009-2024.8.25-

KAL007大韓航空機撃墜事件-重要『解決の糸口』2024年(37)

 米軍偵察機RC-135は、ソ連極東の領空侵犯を既に行っていた。国連事務総長ハビエル・ペレス・デ・クエヤル時代(1981〜1992)の国際司法裁判(国連裁判)において、「米国大統領ロナルド・レーガンは、RC-135によるソ連国境付近の偵察と領空侵犯に関して、米国空軍による領空侵犯を認めざるを得なかった。」
その時の常任理事国による国際司法裁判の判決は、3対2(露中仏:米英)で米国側が敗訴という状況だった。

United Nations Headquarters in NY and 国際司法裁判所

 アブラハム・シフリンや合衆国の一部の遺族たちによれば、KAL007便の生存者がおり、情報や話として伝えられているが、具体的にひとりも確認されず、生還していない。


🔷私としては、KAL007便に乗っていた友人のNakazawa Takesiにそっくりな人(あるいは本人)を、2009年12月、インターネットのロシア番組(サハ共和国ヤクーツク/オイミャコンOymyakon)で偶然見つけた。その番組にはエスニック・グループとして、KAL007機長チュン・ビュ・イン(撮影当時65才、現在84才)の他、何人かの生存者とその子孫も混ざっている。さらに、チュコツカのアナディー郊外にも米国下院議員ラリー・マクドナルドをはじめとするKAL007の乗客らしき人々(2004~2010年)を見つけた。彼らは事件から20年後、戦時下民間人捕虜扱いから、キャンプ定住民やトナカイ遊牧民として自給自足の生活をし始めた。


 ロシアの町から離れた所にある村々は、1990年代後半まで閉鎖的だった。現在は「グラスノスチ情報公開」によってオープンになりつつあるが、自然環境が厳しいため、道から外れると思わぬ事態に陥りやすい。
 車の場合、冬から春の間の最高気温が零度以下の時期に、予備タイヤ等の装備と帰路の燃料があれば通れる。しかし、厳しい自然環境を含めて疑ってかかる必要性がある。橋が壊れていたり、泥沼の道が続いていたり、凍土が溶けると深さ2m以上に達する泥沼地帯もいたる所にあるので氷が軟らかい秋と春、夏場は通れない。その他、真冬は夜が長く、車はパンクしやすく給油所のガソリンも凍って使えなくなる。




「KAL007大韓航空機撃墜事件 編集後記と解決方法」 


 この事件で最も怪しい箇所は、不時着水後のブラック・ボックスのテープ内容で、燃料タンクの大爆発後でさえKAL007が海上に浮いていた間、テープ録音は止まっていなかった。その最後の箇所のCVRボイステープが存在するはずで、それを抜き出して隠していると考えざるを得ない。機内バッテリーに電気は残っていたはずで、油圧4基のうち3基故障のため、ブラックボックスの電源が切れた事も考えられる。通常、テープが終了した場合は、最初に戻り、自動的に上書き録音される。また、ブラックボックスは遭難信号と蓄電器を内臓している事が多く、電気が切れる事は少ない。ただし、1983年今から41年前のブラックボックスに関して、当時使用していた人でないと正確には解っていない。
 着水前後の会話テープを公開すると、生存者がいた確定的証拠となるので、その個所を公表せず、アメリカと日本の新聞やマスメディア通り「乗員乗客全員死亡」という事にした可能性もある。着水前後の会話録音は、そのブラックボックスの所有権のある大韓航空へ損害賠償額の確定的証拠資料として渡し、そのために韓国側の情報として、KAL007着水間際の会話の一部が、他のパイロットによる必然的推測、出所不明のニュースとして伝えられた。大韓航空側では、誰が生き残り誰が死亡したか、を調べたリストがないため、乗客には一律30万円の旅費代(弔慰料)しか当初支払われず、その事件は放置されていた。
 ミサイル爆発による機内減圧のため、酸素マスクを装着した時までのコクピット会話とその他の音は、ICAO国際民間航空機関によるブラック・ボックス解読内容として既に国連で公表(ロシア語英語訳)されている。

 国際司法裁判(国連裁判)の時は、「KAL007によるソ連領空侵犯が操作ミスによる過失か、意図されたコースだったか」が最も重要な問題で、背景に米ソによる冷戦、米空軍RC-135による偵察と関係している「意図された領空侵犯」という判決だった。
最高スピード900km/hのジャンボジェット機の上や下に、その2倍以上速い迎撃戦闘機が隠れ、ランデブー飛行する事は、実際に行われ、空軍基地レーダー、管制塔レーダーからしばしば観察される事もあった。そのような飛行行為とロッキード社によって1981年に開発され、1983年に配備された合衆国空軍の偵察兼戦闘機ステルスへの警告も含まれていた。

 常任理事国3対2の米国側敗訴の内容は、デッドヘッドを含めた乗員・乗客の遺族による訴訟、保険・損害賠償問題へ影響する(勤務中・勤務外・出張などで異なる労災保険・生命保険なども含まれる)。事故後に「生きている」不信な電話連絡のあった1〜2名のアメリカ人以外、1983年から1990年までKAL007の生存者がいるとは自由主義国の誰も推測していなかった。

 この事件の鍵は、その他にもいくつかあり、最も重要な箇所が意図的に省かれている。何がそうさせたか。CNNやABC NEWSのTV放送によれば、1983年9月1日、

1983年9月1日、大韓航空機撃墜事件の記者会見 9月1日午前11時、米国ジョージ・シュルツ国務長官による発表
"18:26 hours, the Soviet pilot reported that he fired missiles and the target was destroyed" "...destroyed the target and breaking away." "18:34 hours, Korean airplane disappeared from the radar screen.”

と言っており、「18時26分、ソビエトパイロットの連絡によれば、彼はミサイルを発射し、その標的は撃墜された」「...その標的を破壊したが逃げている」「18時34分、大韓航空機はレーダースクリーンから消えた」が正確な放送内容だった。ただし、was breaking awayという熟語には、日本語訳で「離脱していた、壊れていた、逃げていた」などの意味があり、ロシア側では防空軍パイロットの通信内容から「撃墜した→2つに折れて海へ激突した」という意味に解釈されたようです。
各新聞で報道された「乗員乗客全員死亡」という言葉は、TVによる放送から除外されている。しかしその後、乗員乗客の生存の可能性についての解説が行われ、結果的には、その日の記者会見の時に"No survivers"と伝えたようだ。Washington ABC NEWS アナウンサーは、"no survivers" 懸命な捜査にも関わらず「生存者はいません」と付け足した。

 その時の記者会見状況の録画が残されている。当時のソ連政府と国家保安委員会は、この事件について、アメリカ側で即断した内容が早過ぎたため、合衆国の軍事基地や日本の自衛隊基地で傍聴録音されていたSukhoi Su-15TMの交信内容通りに事故後の処理を行った痕跡がある。
 しかし、1990年からのイズベスチア新聞による追跡調査とアブラハム・シフリンの再調査(1989年〜1991年)報告、その他の現地目撃談により、KAL007の生存者は現在もロシアに居るという結果に至った。
 その証拠は合衆国元上院議員ジェシーヘルムズとその側近、J・ルシエ博士、D・サリバン、V・フェディの3名とロシアの目撃者がシフリンの事務所に招待され、
9月1日未明の事故現場状況を答弁によって話し、その内容に間違いはない事を宣誓書にサインする事によって誓わせられた。録音したテープはヘルムズ議員か側近3人が保管している。ロシア側のその告発者は、『ボートに乗って事故現場にいた最初の一人のロシア人』で、ロマネンコ将軍の部下たちによって口止めされていなかった最初の目撃者であった。

  1. KAL007機長は、韓国空軍に10年間勤務していた元空軍大尉で、その後、大韓民国首相専用機の待機パイロットに任命され、大韓航空パイロットとして2年以上勤めていた。米空軍RC-135による偵察とKAL007の関係で疑惑はあるが、それを裏付ける確定的な証拠が無い。
  2. ボーイング旅客機元パイロットの検証によれば、KAL007のコース逸脱によるソ連領空侵犯は、アンカレッジ国際空港を離陸する前に行われた「停止中ではなく移動中に現在位置の座標を拾う操作をしてしまった」による可能性が高いという説。---移動しながら、現在位置の座標を拾ったのかも知れないという説。
  3. この事件のソ連側の目撃談によれば、全員死亡したのではなく生存者がいたという現地漁民、民間人の話。
  4. 1983年9月1日、各国のニュースで公開された"No survivors"の報告日と判断状況、その確認の出所を厳密に調べ比較すると、その後の現地リポートによる異論反論説の方が事件の真相、事実に近い。
  5. アメリカ合衆国政府と日本政府で「KAL007は撃墜された」という事実をソ連側に認めさせたかったため、ソ連防空軍による『撃墜』という言葉から「生存者無し」「生存者はいない」とソ連側で断定した返答をした事による。


 KAL007の乗員乗客は、『生命保険会社』と『労災保険会社』が関係しており、乗員29名と合衆国下院議員ラリーマクドナルドの合計30名は、保険に加入し勤務中であった。他、ビジネスクラス約10~20名の乗客も「出張勤務中の死亡事故」と確定されれば、約40~50名の保険金が当時即刻降りた事になります。
 ボーイングジャンボジェット機自体は『戦時下民間航空機保険』に加入し、9月13日に大韓航空へ約65億円の支払いが済んでいました。大韓航空へ支払われたそのお金は、合衆国ボーイング社へのKAL007航空機ローンの残金として、残額は新規ジャンボジェット747型1機の頭金として、業務を続けるならば簡単に全額使いはたしているはずです。
 この事件が複雑なのは、保険金を支払い済みの人達に関して「死亡」した事実を曲げられず、保険に加入していなかった人たちには片道の旅費代(葬儀代)しか支払われなかった「乗員乗客が全員死亡した事件」として処理されている事にあります。
 大韓航空に「全員死亡した事故」として「保険に加入していなかった乗客」に対して『死亡責任(慰謝料)』を民事裁判で問う事ができるか否か。 


■ 日本では、2020年4月1日から民法改正があり、国や地方、裁判官によって判決が異なる場合があります。生命・身体の侵害による損害賠償請求権の時効期間の特則⇒知った時から5年。不法行為の時(権利を行使することができる時) から 20 年。2020/04/01---被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から5年、又は不法行為の時から 20 年で時効の消滅が成立すると解釈しています。
「INS3台の内、1台不備」と連絡のあったINSの操作が副操縦士と決まっていれば副操縦士の過失で、コースがずれているのにきずかなかった機長にも過失責任があります。加害者が防空軍内規(夜間領空侵犯機は撃墜)に従ったロシア防空軍という事ですが、もともとは冷戦時代に領空侵犯した大韓航空側に、死亡事故を起こした過失責任があるはずです。
 問題性があるのは、自由主義・民主主義・資本主義諸国側から「乗員乗客の全員が死亡した事件」、この事件から約1年後、「死亡検案書」が大使館経由で死亡被害者の遺族宛てに郵送され、葬儀が行われた。しかし、実際には社会主義国で生存しているが帰れない、或いは帰らぬ人たち数十人が居るという事です。ただし、1983年にKAL007の生存者が200人前後いたとしても、40~100年以上経つと確かに全員死亡した事件ということになります。



アメリカ合衆国ワシントン地方裁判所では、KAL007の死亡した乗客(合衆国国籍62人)、残された遺族たちに大韓航空に対し5000万ドル(約65億円、当時の相場で1人平均1億円)の支払い判決がありました。しかし、その額で支払われたか否かは不明。合衆国や韓国以外、その他の死亡乗客の遺族たちは、未解決の状態で残されている事と思います(大韓航空KAL007の訴訟判決の記事やニュースが無いので公開されず伏せられているのかも知れません)。
 自由主義・民主主義諸国の遺族には、「死亡慰謝料、及び損害賠償請求権」が大韓航空会社に対して残されている事になります。事件後41年を経た現在、この大韓航空機撃墜事件に関して冷戦時代の刑事事件としては「時効」になっており、民事時効の見直しや民事裁判の判例等の知識が必要なため、民法に詳しい司法書士か損害賠償問題に強い弁護士が被害者側に付かないと、訴訟も起こさず権利が消滅してしまうはずです。
 「KAL007の乗客日本人28名の場合、遺族たちによる訴訟を起こしていないので未解決のようです」。中華民国(台湾)23人、フィリッピン16人、香港12人、カナダ8人、その他の国々の乗客は、解決済みか未解決か不明で、民事裁判で提訴しなければ、未解決のままで終了という事になります。



            大韓航空の諸問題>

①1997年8月6日、米国領グアム島着陸事故があり、丘に激突して228人死亡、23人重傷、乗員3人が重傷でした。その時は、保険金1,600万円が死亡した遺族へ、1,200万円が重症者家族へ、保険に加入していた乗員と一部の乗客遺族へ支払われ、弔慰金136万円が死亡した乗員乗客の遺族に支払われました。
②2021年2月、「モスクワ空港税関の許可なく空港を離陸した大韓航空貨物機」問題で、課徴金129億円の訴訟に対し、ロシアの裁判所で64億円の課徴金支払い判決が下った。 
③2022年4月、「ロシア空港税関局から大韓航空に対して、書類に税関の印が押されていなかった」ため、課徴金80億ルーブル(124億円)の提訴があり、大韓航空では、その問題に対して「控訴(不服申し立て)」し、モスクワの「航空海上交通検察庁」が、職権で税関措置を審査中です。今後誠実に究明し、行政訴訟などで過度な課徴金処分の取消や軽減のため、可能なあらゆる措置をとる計画だという事を明らかにしました。その裁判の判決結果は、まだ報じられていず不明瞭なため、時期を見はからう必要があります。



 日本の海上保安庁自衛隊北海道警察等も動員され、9名分の韓国人遺体部分を回収して韓国政府へ送った。その物的証拠によって、ロシアのエリツイン大統領が韓国国会でKAL007の犠牲者遺族たちに謝罪。しかしアメリカ、日本、台湾、その他の犠牲者遺族たちへロシア側では謝罪に来ていません。
 旧ソ連側では、この事件が政治・軍事上の問題であれば、通常の経費予算内で充分片付き、被害者側の大韓航空に請求などできなかったはずと思えます。



       <飛行機事故で死亡した乗客の賠償請求額_国際線>

■ 1999年までの「ワルソー条約」では、死亡の際の損害賠償額の上限が、約280万円までと規定されていました。
■ 2000年の「モントリオール条約」で最低約1,800万円まで「無過失責任」として、航空会社に過失がある無しに関わらず、遺族に賠償金を支払わなければなりません。また、モントリオール条約は、賠償額の上限に関して撤廃を行いました。モントリオール条約では、無過失責任をこえる約1,800万円以上の賠償に関し、航空会社に過失がないという反証がなければ、上限なく損害賠償が支払われる事になりました。
■ 出発地か到着地が「モントリオール条約」に加盟していない場合は、「ワルソー条約」の規定により、上限が約280万円までとなります。また「ワルソー条約」において、航空会社に過失が無かった場合は、被害者に賠償する必要がありません。さらに裁判を起こす際、契約の締結地ワルソー(ポーランド首都ワルシャワの英語読み)又は航空会社の所在地(ソウル地方裁判所)で起こさなければなりません。
■ 損害賠償額に納得できない場合、乗客遺族の居住地のどの場所の裁判所でも訴訟を起こすことが出来ます。東京都内で訴訟を起こす場合、損害賠償に強い弁護士や同時通訳が必要になります。
■ 死亡事故の慰謝料請求額は、現時点で平均2000万~2500万円で損害賠償額と異なります。


 1985年8月の日航123便墜落事故(御巣鷹山墜落事故)は、重傷4名、死亡520名で1人2000万~1億円以上、平均8000万円と多額な判決でした。実際の支払い額は乗客によって差があり、年齢・職業・性別で異なり、ボーイング747型機と乗員乗客の損害賠償請求額に600億円かかった事が知らされています。当時は、その請求額で会社が倒産するので、日本政府に支援を要請した事などがニュースで報じられました。その事故の夜に中曽根康弘首相へ電話が入り、事故位置の発見が日没直後と速かった横田基地米軍ヘリコプターによる救助を断り、自衛隊や消防隊、長野県警による救助にした事により、実際の救助が12時間遅れた事によります。その事故で慰謝料請求はできず、損害賠償の請求だけでした。
 また、日本の法律には、2014年12月10日に施行された秘密保護法「特定秘密の保護に関する法律」があり、漏洩すると国の安全保障に著しい支障を与えるとされる情報などで処罰される事もあります。
●主に陸上自衛隊海上保安庁、警察官、消防士、公務員などに適用されています。



※ 遺族の方や関係者の方は、左下の[コメントを書く]をクリックして、感想や相談等を入力してお知らせください。入力ミスの場合、ご自分で消去・修正ができます。
(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007,2010-2024.9.1

KAL007 大韓航空機撃墜事件-目撃録1983年9月1日朝(36)

◆1983年9月1日、「1発目赤外線ミサイルが左翼エンジンに当たり、左翼を壊した。2発目レーダー式ミサイルが尾翼に当たり、尾翼を破壊した。暗くてはっきり見えなかった。12kmから8kmまでターゲットに接近し、ミサイル2発を発射した」と初日、オシポビッチ防空軍少佐は報告した。9月1日初期の報告から、KAL007は左翼と尾翼を失い、海面へ激突した確信が生まれ、ソ連タス通信を介して、それが世界中に報道された。

 1983年9月7日にKAL007を海底から引き揚げて確認し、1発目は左翼タービンをかすり、2発目が後ろから10mの客席に命中。180cmの穴が開いた事が事実として認識された。その後、オシポビッチ防空軍少佐の報告が間違っていた事を、コヌルコフ司令官から直接聞き、1996年のニューヨーク記者会見でコルヌコフ司令官と一緒に検査済みの正しい見解を公表した。

 13年後の1996年11月9日ニューヨーク記者会見で、「一発目は外れて左翼エンジンに接触し、黄色いフラッシュがあった。2発目は機体後部へ命中して爆発した」と、オシポビッチ防空軍中佐は、より正しい見解に訂正し、ニューヨーク記者会見で発表した。

◆ 「爆発後、上昇し、ほとんど垂直になるまで反り返えり、炎上しながら急降下した。上昇中、機内のライトは点灯していた。降下中にライトが消えた」。オシポビッチ防空軍中佐・ニューヨーク記者会見(晩年は大佐)。 
◆「エンジンは正常です!機長!」KAL007副操縦士Son(1983年9月1日JST:3時26分45秒 ボイスレコーダー録音記録)
◆「島の上空で音をたてながら降下する様子を見ていた」「頭すれすれの低空飛行で頭上を通過していった」「ドカーンという爆発音の後、水平線がパーとオレンジ色に明るくなった。少ししてから再び爆発した。二度目の爆発は最初の爆発より小さめだった」「しばらくしてから油(ケロシン)のすごい臭いがした」。第58千鳥丸乗り組員
◆「9月1日未明(JST3:32-33) 突然、ターゲットがレーダーに映った。時速800kmで移動していた。レーダー表示縮尺を40マイルに拡大してから40秒後、3つの点に分離した様子だった。私は一瞬爆発したと思った。そのとたんターゲットはレーダーから消えた」。モネロン島沿岸に停泊していた国境警備艇船長ヴァレリー・アニシモフ中尉(ソ連医科大中退)
◆「ソ連沿岸警備隊の船が最初に爆発現場に到着した。その27分以内にロシア人を乗せた一隻のボートが現場付近にいた」ソ連沿岸警備隊による報告
◆「事件当日、着水した機体から乗員乗客が救助され、トランクと一緒に運び出された」サハリン西海岸ネべリスクの漁師たちの目撃談(アブラハム・シフリンによる調査報告。
◆9月1日未明の現場状況は、サハリンの目撃者1名が招待され、米国上院議員ジェシーヘルムズと側近3名が直接面会して質疑答弁した。ジェシーヘルムズ議員と側近3名は、その時に録音されたテープを合衆国議会で公表したか隠したかまでは不明。8月31日、2人の少女を見送ったヘルムズ議員はロシア大統領エリツィンに質問事項を送り、その解答を手紙で受け取っている。質問事項に対する「エリツィン大統領の回答」は、合衆国議会で公表された。
◆「海面に激突する前に、その飛行機がおよそ10分間飛行していた事を思い出してください。この間、乗客は、全てではないにしても救命胴衣を着る事ができたはずです。そのうえ、彼らは確かにシートベルトを閉めました。海面に衝突する際の飛行機の勢いがどのくらいであったとしても、跡形もなく姿を消している269人の人々を想像するのは難しい事です。乗客の何人かは、救命胴衣によって海上へ浮かなければなりませんでした。何人かは、シートベルトを着けながら海底に残ったはずです。乗員乗客全員が、姿を消すなど無理な話です」ジェームズ・エーベリ


「1991年イズベスチヤ新聞紙上で大韓航空機事件の再調査が行われ、目撃談を公表するようになってから、ソ連海軍による口外禁止の勧告が緩み、名前を載せない日時を載せない条件で、当時の現場状況を断片的に話すようになった。その当時、記者に対しては私服姿のチェッカー(秘密警察)ではないかと誰もが用心深くしていた」。


◆「9月1日朝、モネロン島南側を3隻の国境警備艇で捜索したが、何も見つからなかった。午前中、北側を調べたら子供のおもちゃと肉片、骨の無い肉片が海上に浮いていた」。国境警備艇船長
◆「9月1日2日の夜は、投光器を付けた漁船が海面を照らし、海面は明るかった。しかし、波の隙間に女性の片足とはぎ取られた乳房が浮いていました。2日頃の肉片は黒ずんでいた」。
◆「モネロン島の島民は20人ぐらいで、テレビを2台以上持っていた。ひとつは日本の番組放送用、もうひとつはソ連TV用で、日本語も少し話せる人達だった」。
◆「遺体部分は、あとから魚の名前(ゴビウス:Гобиус)や半導体(ポルプロボニック:полупроводник)、ハゼ(ビチョク:Бычок)とコードワード(暗号読み)の呼び方が変化したため、間違える事が多かった。
◆「遺体部分が見つかると、他の漁船に渡し、誰も冷凍保存しなかった。冷凍室には食料が保存され、遺体部分を一緒に置く事ができなかった。ひどい時は海へ捨てる人もいた」
◆機体残骸は、原則として持ち帰る事は禁止されていた。初めゴルノザゴーツクに指定されていたがネべリスクでも倉庫に保管できるようになり、鍵が掛けられるようになった。しかし外壁のジュラルミンは記念に持ち帰る人が多かった。チタン製ボルトナットなどは、溶かしてカップをつくったりしていた。
◆「ジュラルミン外壁がちぎれて浮いていた。それを船から拾い上げると筋肉の筋がくっ付いていた」
◆「KAL007便乗員乗客269人の内、12才以下の子供たち23名が乗っていました」乗客の遺族
◆日本の海上保安庁宗谷海峡海上で発見したKAL007の外壁は、サイズが180cm×360cmで窓付、長方形型だった。その外壁がカラー写真で新聞に掲載されていた。地面に置かれたそのKAL007の外壁の側に、大きさの比較のため、しゃがんだ発見者も撮影されていた。右後のミサイルによる爆発部分は180cm前後の穴のため、ミサイルで、このような形に壊されるとは思えない。壊された外壁が南下漂流していた物か、事件当時は不明とされた。
◆日本の海上保安部の巡視船2隻は、防衛庁稚内レーダー監視基地から9月1日JST3時29分にKAL007の飛行情報を受け取り、サハリン西の海域に派遣された。稚内には飛行機2機が待機。9月1日JST6時10分から14時30分の間に海上保安庁は、8隻の巡視船をサハリン西海域へ派遣。
◆「9月1日の朝、ネべリスクの町は兵隊たちで騒然としていました。どうやら、この町に緊急に本部を設置する様子でした」8月31日にネべリスクで偶然宿泊した記者。
◆1983年9月1日JST朝5時、ソ連海軍から連絡を受けたソ連遠洋マグロ船団は、モネロン島北約25kmの海面で乳白の油が200mほど浮遊しているのを発見した。海底から鎖のように湧き出ていた。その位置と現場の状況を、JST午前8時ごろ連絡を受けた海軍に伝え、そのマグロ船団はいつもの仕事に戻った。ラジオ番組の「ボイス オブ アメリカ」を聞いて、この事件を知った。
ソビエト海軍が集めた遺体部分に関しては、ソ連の大型冷凍トロール船BMRTカレンガに冷凍保存し、最終的に①ホルムスクへ運んだと言われているが、たしかではない。②モネロン島北側の仮設焼却炉で燃やしたとされている。海底で見つけた遺体の一部や骨は、民間ダイバーが海軍ダイバーにその場所を知らせるだけであった。遺体処理に関しては海軍が行う事になっており、どこで焼却したか軍事秘密にされていた。
◆上空で爆発する前から連絡を受けていた稚内自衛官は、KAL機を双眼鏡で観察していたが、爆発の状態から「助かる見込みがない」と判断していた。雲の上でドッカーンと鳴り響き轟音をたてていた音が、それほど大きかったことによる。「双眼鏡で雲の切れ間から上昇する様子が見えていた」。サハリン島南端から宗谷岬先端まで43km。上空爆発地点まで約100km。

◆「暗いうちに外でドカーンとすごい音がして目が覚め、窓ガラスがガチャガチャ揺れた。9月1日の早朝、島周辺の海には、バッグや布、毛布や遺体、子供の服、ゴミなどがあちこちに浮いていた」という状況が現実だった。サハリン西海岸漁民の亡父の娘が、その日の海を確かめるために船を出した父の話を聞き伝えていた。(朝日北海道版デジタルニュース)
◆「日本のニュースでは大韓航空機消息不明の速報ニュースと、ソ連側放送番組ではスパイ機を撃墜したニュースが放送されていた。あれは、スパイ機ではなく民間機だったという事を誰もが知っていました。しかし当時のソ連政府(秘密警察)が怖くて話す人がいませんでした」。サハリン南側では日本のラジオ・TV放送が受信できる。


 1983年9月1日JST3時32分、KAL007便はモネロン島上空北東部の雲の上で追撃機Mig-23の後方から追尾していたMig-31(RTF)が発射した2発のミサイルを右旋回で回避し、追撃機の視界とレーダーから逃れた。島周辺の雲の中で3回、雲の下で2回、合計5回螺旋状に旋回しながら降下しているとCIA報告書に記述されている。
 この時、ソコル防空軍基地レーダーと稚内自衛隊基地レーダーからも姿を消した。雲の下では、海からの霧と海面すれすれの飛行のため、レーダーで機影を捉える事ができなかった。イカ釣り船以北までの低空飛行は高度50~30m程で、イカ釣り船上空で約20m~10mの高度であれば、そこからモネロン島方向1km~2kmで不時着水している事になる。海底から引き揚げた当初は、機体の破損が後ろだけで、「機内に焦げ跡が無く、油でビシャビシャだった」という報告がある。燃料が漏れていたために着水時の衝撃によって機体底部に配線されていた油圧系ケーブルの切断個所から引火し、燃料タンクが爆発したという事になる。徹甲弾がケーブルの太い束を突き抜けると、ハの字型に切断され、ビニールカバーが熱で溶け、コードが剥き出し状態になる。それが上下左右にズレると+と-が接触し火花が散り、引火する。


 燃料タンクの前後はコンテナーが積まれているため、爆発によって破片が飛び散る方向と範囲が限られていた。但し燃料は、少ないとはいえ、残っていたので海面に浮いた油が一瞬激しく燃え上がり、数秒間周りと海面をパーッと明るく照らし出した。
KAL-007便が北へ低空飛行をして、イカ釣り船以北からユーターンしたのは、燃料不足の警報が鳴り続けていたためで、ユジノサハリンスク空港までの燃料がないため、やむなくモネロン島北側の浜へ難着水する事を考え、引き返した。イカ釣り船上空を低空飛行で通過後、夜間離着陸用ランディングライトを点灯し、海面を照らしたはずだが、油圧系機器が故障して点かなかった可能性もある。ランディングライトが付けば、エンジン4基が正常だったために不時着水できた可能性が高い。「ソフトランディングで着水に成功した」という出所不明の噂話が残されていた。
 乗り物の燃料計は、空(エンプティー)で0であったとしても、自動車などでは数十キロ(40km前後)走行できるようにされてある。この場合、空の状態で5%~10%残っていた燃料が爆発したと考えられる。
「KAL機長は着水間際まで、東京管制塔を呼び出していたが応答がなかった」という、これも出所不明の話しが伝えられていた。
 着水して間もなく東京管制塔から応答があり、「無事に着水した」事を連絡したという話もあるが、出所不明で本当かどうかはハッキリしていない。朝鮮日報の記事にあったこれらの話しが本当であれば、ブラックボックスが回り続け、録音されていた事になるが、他のKAL機パイロットによる着水した場合の推測の可能性もあるので、ソフトランディングしたかどうかは不明(「構造上問題のないものであった」「無傷だった」「機内に燃え跡がなかった」などのKAL007初期断片報告に基づく)。
 但し、着水間際の機体の飛行状態を目撃していた人たちが何人もいた事は事実で、ロマネンコ将軍率いる沿岸警備隊員たちと一隻のボートに乗っていたロシア人が民間人であれば、サハリン西海岸で噂になって伝えられた事にも真実性があり、明らかな嘘は自然消滅するか伝達されづらいはずと思える。



① 9月1日JST朝4時頃、ロマネンコ少将は無線でユジノサハリンスクKGB本部へ連絡し、集めた兵隊たちを直ちにネべリスクへ移動させ、本拠地を仮設設置するように手配した。早朝JST5時過ぎ、海上の事故現場から東のネべリスク港に沿岸警備隊2隻が到着する予定で、ユジノサハリンスクで集められた新兵(年齢不問)たちをホロ付トラック十数台でネべリスクへ移動した。そのホロ付トラックにKAL007乗員乗客約230名を乗せ、ユジノサハリンスクへ直行した。ホロ付トラックは、ユジノサハリンスクでテント・折りたたみ椅子・テーブル、軍隊キャンプ用具、毛布、携帯食料飲料水、無線機・送信受信アンテナ、仮設トイレ等をネべリスクまで運ばなければならなかった。ネべリスク本部の本部長は、ウラジミロフ・アポロノフ少将がその任務に就いた。
 9月1日、ソ連海軍の掃海艇合計8隻が海面で回収した物は、ネべリスク本部へ集められ、念入りに選別された。その時の遺体部分は、即時焼却する前にまとめて冷凍保存し、ソ連大型冷凍トロール船BMRTカレンガへ引き渡された。ボイジャー747のジュラルミン外壁部分はゴルノザゴーツクへ移動し、電子機器と精密機器類はネべリスク会場に集められた。子供のおもちゃ・毛布・バッグ・衣類の内、壊れて使えない物は埋めたり、焼却処分にした。


② カメンスキー中将とソコル防空軍司令官コルヌコフ大佐が未明の早朝JST4時過ぎ、車に乗ろうとした時に道を聞かれた韓国人トラック運転手は、その軍隊を移動中、濃霧のため隊列からはぐれ、南側のソコル基地付近まで南下し、道に迷った。韓国運転手の言う「運動場(訓練場)」はネベリスクの聞き違えかも知れない。あるいはネべリスクの墓地がある小高い丘の上、それらはロマネンコ少将が沿岸警備船の無線で連絡した下準備だった。カメンスキー中将は霧が深く未明の時間に、どこへ行くつもりだったか。ネべリスクからモネロン島へ船で渡り、事故現場を確認する必要があった。コルヌコフ司令官は、それを察して同行し、意見を聞きたかった。カメンスキー中将は、民間機かも知れないため「撃墜命令」を下せなかった。オガルコフ総参謀長の気質であれば、「夜間の領空侵犯機は撃墜」。結果は参謀総長の意見に従うしかないと考えていた。コルヌコフ司令官は、侵入機はボーイングで左翼と尾翼を撃破した事を知っており、しかも正常に飛行できる状態で、後部にミサイルが当たった事も報告を受けていた。
 カメンスキー中将はネべリスクで国境警備艇に乗船し、その侵入機が海上に墜落したか、不時着水したか、実際にどうなったか、その位置を確認する必要があった。軍専用通信無線機を搭載している国境警備艇を捕まえる事ができれば、極東軍管区総司令官トレチャク(大将)に連絡できる。約2時間後のJST6時過ぎ、新兵たちで騒然としていたネべリスクへ到着した。


③ 元イズベスチア編集長アンドレ・イ―レッシュは、大韓航空機撃墜事件を1991年に再調査・編集して紙上で発表したソ連人だが、当初KAL007はきりもみ状態で墜落し、海面に激突して粉々になったと信じられていた。世界の各新聞で、1983年9月2日に報じられた「大韓機乗員乗客全員死亡」のニュースは、9月1日のタス通信情報とモネロン島北側の朝の現場目撃情報による。サハリンの漁民たち以外は、高度1万メートルで韓国機が撃墜され、海面に衝突し粉々になったと誰もが信じ疑わなかった。
 しかし、イスラエルアブラハム・シフリンからイズベスチア編集長宛ての手紙をイ―レッシュが受け取り、KAL007はモネロン島北側に不時着水し、残りの乗員乗客は強制収容所と子供たちは孤児院へ送られた事を知り、どちらが正しいか曖昧になった。シフリン説がほぼ正しく、それに加え日本のイカ釣り船員たちが実際に目撃した当時の事実(NHK取材)が含まれ、更に事故現場の状況が正しく認識されるようになった。 


④ 2003年まで機長チュンビュイン、米上院撃墜マクドナルド、その他の乗員乗客たちは半数以上が東シベリアで生きていた事実を録画で発見し、シフリン説がより現実に近いと考えるに至った。ただし、事件から8年後のイズベスチア再調査によって、嘘の塊から本当の事実が解るようになった。事件の全容を把握できた功績は、イズベスチア新聞の目撃談にあると言える。


⑤ ソ連国境警備艇の船長の話しが本当であれば、KAL007の着水後に2隻の沿岸警備船がいた可能性が高くなる、しかしその後レーダーから消えたという話が不可解。濃霧が発生し始めていたので、霧でレーダーから消えたと解釈する事もできる。JST3時34分に、KAL007はRTFによる2発のミサイル攻撃を右旋回で除け、雲の中に突入した。レーダーが捉えた3つの点は、Mig23とRTF、KAL007であり、時間的に国境警備艇のレーダー時刻JST3時32-33分が正確であれば、高度5,000mの3機の機影であった。その後の海上イカ釣り船と海上低空飛行していたKAL007を、JST3時45分頃レーダーで観測できなかった。ソコル防空軍基地のレーダー観察者ゲラシメンコ中佐は、JST3時34分高度5,000mでKAL007がレーダーから姿を消したのを観察している。その時、2機の追撃機が後を追っていたので、国境警備艇船長が見た3つの点は、その時のレーダー反応の話しと言う事になる。重要な事は、稚内レーダーでさえイカ釣り船とKAL007の海上低空飛行を捉える事ができなかった。


⑥ 9月1日未明の4時ごろ、オシポビッチ少佐が濃霧のソコルの滑走路に着陸して間もなく、韓国人記者が詰め寄り、最初に撃墜の状況を詳しく尋ねた。ユジノサハリンスクに居たサハリン新聞(イズベスチア)のその記者は、ロマネンコ少将から無線で取材するようにたのまれ、写真やビデオでオシポビッチ少佐本人を撮影した様子だった。ソコル基地へ戻って司令官に報告した後は、Suhoi-15TM、Mig23パイロットたちは、すぐにモスクワ本部へ転送させられた。KGB書記長のアンドロポフは、KAL007がモネロン島北の海上に不時着水し、乗員乗客をユジノサハリンスクKGB本部へ連行した事をロマネンコ少将の上司、極東軍管区総司令官トレチャク(大将)から無線で直接話を聞いていた。ソ連時代は、軍用無線中継網とTV・ラジオ中継局、東と西を瞬時でつなぐ中継局が整備され、初期携帯電話はまだ無かった。


⑦ モスクワのオガルコフ参謀総長(元帥)は、ロマネンコ少将に無線で「TACC通信(ソ連国営報道機関/新聞・ラジオ・TVなど64ヵ国)へ乗員乗客は全員死亡した」と報告し、その時に「海に沈んだボーイングをより深い海域に移動する事」をロマネンコ少将へ命じた。


 私はKAL007乗員乗客には重軽傷者が数十人いたはずなので、ユジノサハリン病院へ重軽傷者を運ぶため、9月1日早朝、最も近いネべリスクへ直行した説を取る。そして9月10日以降、ユジノサハリンスクKGB本部からソビエツカヤ・ガバニKGB収容所へ移送され、子供たちはサハリンの孤児院へ収容された。

 1990年頃の話しだが、顎髭をはやしたロマネンコ少将の顔を撮影したビデオやモネロン島の海に面した岩場でKAL007機長と十数人のパイロットたちが尋問されていた様子がYouTubeで公開されていた時期があった。
そのビデオ録画によれば、9月1日午前中、KAL機パイロットたち十数名は海水に浸かったため、そして目立たないようにするためソ連の軍服を着用していた。その中でも機長チュン・ビュイ・インは目立つほど背が低かった。その時、ソコル基地司令官コルヌコフは、海水で濡れた札束を破いていた。それはKAL007パイロットたちがコクピットで談話していたキンポ国際空港で交換するはずのスーツケースに詰めたアメリカドル紙幣だった。機長はロシア語が話せず、英語でスーツケースに入っているアメリカドル紙幣の説明を試みたが、人権意識が希薄な社会主義国家ではアメリカをはじめとする外部諸国のような為替相場や保険制度が全く無いため理解されなかった。ソ連側ではアメリカドル紙幣を破く行為によって無視する意思表示をした意味のある断片映像だった。

 これが当時の現場録画であれば、KAL機長と十数人のデッドヘッド(帰還パイロット)たちは、9月1日早朝、モネロン島北海岸へボートで移送され、目だたないようにソ連軍服に着替えさせられた後、尋問を受けてからユジノサハリンスクKGB本部へ連行された事になる。
 9月2日か3日頃、海上に札束が散らばっていて大騒ぎになったのは、そのアメリカドル紙幣だった。
 他に、潜水艇のある大型船のクレーンで海中から吊り上げられた人体サイズの青いポリエステル袋の中身はKAL機に残された遺体だったか、そのような証拠映像も含まれていた。それらはソ連防空軍側(退役した元極東総司令官)が許可した当時のビデオ録画で、KAL007の動画として3年ほど見る事ができた。しかし、アナトリ・コルヌコフ総司令官(晩年にロシア空軍総司令官)が退役し、死去したデジタルニュースが報道されてから削除されたためか見当たらなくなった。大韓航空機撃墜事件に関する記事やブログは2~5年経つと検索できなくなるため、記録しておく必要がある。



(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007,2010-2024.8.25.

この文章を書くまでの経緯_Ⅲ(33)

水没したKAL007と乗員乗客

 スウェーデン製ミハイル・ミルチンク号が、1983年9月3日から回収作業をしていた場所は、46"27N,141-13Eで、モネロン島北24km地点付近だった。ミルチンク号の外見はスウェーデン製石油掘削船だが、その仕事の依頼主はソビエト太平洋艦隊ウラジミール・シデロフ提督で、彼はその船に乗船していた。そのために日本船第3海幸丸がミルチンク号の傍で停泊し、錨を降ろそうとした時、ソ連船が突っ込んできて危うく衝突しそうになったこともあった。場所としては国際水域であり、モネロン島北22.224kmまでがソビエト領海だった。

 KAL007の回収作業をするために潜水した人たちの目撃録は、イズベスチア特派員たちが1990年に収録し、同新聞紙上で1991年6月まで公表されたもので、その英訳の一部の日本語訳を読んでから、5年以上疑問に思い続けたことがあった。KAL007が第2地点N46°33' E141°19'の東寄り海域に曳航されてから海上で爆破され、沈んだ後も爆破され、それでも何人かの乗員乗客の遺体部分が残されていた事が不可解であった。
 浮上したKAL007の機内は、火事跡も無く、ほとんど完全な状態で、すべてがケロシンでびしゃびしゃだったことが報告されている。ソ連の民間ダイバーたちは、海底の機体残骸や荷物などを拾い集め、ダイビングベルと言われる鉄檻の中に入れ、船の上にあげる事が主な仕事内容で、第2地点で海底の残骸の中に残されていた遺体は、その位置を知らせるだけであった。遺体収容の作業は、海軍ダイバーたちに限られていた。機内後部座席の遺体は、ボーイング747を海面に浮上させてからシートで包んで船の上に網やロープで引きあげたか、他国船から発見されないように海底で遺体収容の作業をし、船の上にあげられたかは伝えられていない。ただし、この時のガバン地区海軍の働きは、ソビエト海軍の功績として表彰され、この辺りの作業に関して口外されていない事を考えると、かなり大変な仕事内容だった事が推測される。


 船に上げられたKAL007後部座席の乗員乗客の遺体は、モネロン島北側へ運んだか、ネベリスクやゴルノザゴーツクの火葬場へ運ばれたかも不明にされている。モネロン島の海岸沿いに漂着した所持品やゴミなどは、その島の北側に集められていた。9月4日に緊急雇用され5日から働き始めた民間ヘリコプターのパイロットは、「海上に離着陸できる水上飛行機の資格免許を持っていないか」と聞かれた時があった。そのヘリコプターパイロットの話では、島の北側の浜にテントを張り、KGB職員が番をしてゴミや荷物、遺品などをチェックしていた。9月5日頃から、KGB職員や役員たちをユジノサハリンスクからモネロン島へ運んだり、要所に集められ袋に詰めた残骸・所持品・ゴミなどをヘリコプターに積み、ネベリスクやユジノサハリンスクまでそれらを運んでいた。ボーイング機内から取り出された精密機器の内、電子機器はネベリスク、他の精密機器はゴルノザゴーツクの指定会場に集められ、テーブルの上にひとつひとつ並べ、スパイ行為として使用されていた機器がないか、特殊な専門家たちによって細かく検査された。


 9月6日から8日頃、KAL007を海上に浮かべて水深174mの東寄り第2地点まで曳航していた時、完全に片付けたはずの遺体部分は、ボーイング747の機体の中に見えない状態で残されていた。ボーイング747を第2地点の深い場所にわざわざ移動させる必要があったか。必然性がないため、その意図がまだはっきりしない。もしかしたら、KAL007をネベリスクまで曳航するつもりで、その途中で参謀本部の指令が入り、爆破して細かく砕いてから回収作業にあたらせたか。機体を解体して全てを回収する方法であれば、モネロン島北側の浅瀬の方が作業しやすかったはずではないか。これには何か理由があると疑問に思い続けていた。


 第2地点は第1地点の東側で、ミルチンク号と同じように船から距離を置いてブイを並べ、網で囲いをつくり、約1カ月間、他国船や潜水艇・潜水艦の侵入を監視するため、国際水域であるにもかかわらずソビエト側の要所として確保しなければならなかった。それに加え第2地点は、11,000m上空から落ちてきたミサイルによる破片や遺体を海底で探すため、第1地点は海上に難着水した時の燃料タンクの爆発破片や海底に散らばった貨物などを回収するための基点として、ソ連側では必要だったという客観的な意味が含まれていた。


 第2地点で潜水作業をしたダイバーたちの話によれば、アメリカ合衆国のハイドロノート船が大音響を発したり、ラジオブイによる音波によって海底での会話が盗聴・妨害され、夜間に潜水しなければならないこともあった。さらに第2地点で自家製の潜水艇で作業をしていたキルギス船長の他、多くのダイバーたちによれば、最初の内は海底の岩の間に機体半分が直立していた。しかし、いつの間にか直立した機体半分が無くなり、主脚支柱と車輪なども一緒に残骸として海底に残されていた様子を伝えている。第2地点でさえ、ダイバーたちによって遺体部分や人骨が発見され、それがソビエト海軍の指令によって意図的に放置されたものか、偶然残されたものかがはっきりせず、長い間不可解であった。海底からKAL007を引き上げた当初は、焼け跡の無い、すべてがケロシンで浸された、誰もいないほとんど完全な状態の機内だった話、そのKAL007を浮上させた時、機体後部が海面より沈んでいたのではないかと現場状況をできるだけ正確に想像しようと努力していた。


 しかし最近になって思い浮かんだことだが、高度11,000m上空でミサイルの爆発によって吹き飛んだ乗員乗客の遺体部分は、KAL007が急上昇したり急降下した時に後部座席の下に挟まり、第2地点の海上や海底で爆破された時に機内座席下に挟まっていた遺体部分と残留物が散らばったのではないかという想いが閃いた。水深174mの第2地点でKAL007の回収作業をしていた時に、まだ遺体部分が海底に残されていたというのは、「KAL007機内の遺体は、ソビエト海軍によって全て片付けられたはずであったが、座席の下に手荷物と一緒に頭部や胴体、腕などの遺体部分が挟まって見えなかった。または座席の下を点検し忘れていたかのどちらかであるに違いない」という解釈が最も事実の核心を突いていると思えるようになってきた。ソ連側の民間ダイバーたちが遺体部分を発見する度に、監視していた海軍ダイバーは、「それはどのあたりにあったか」と位置を尋ね、ひとつひとつ片付けていったため、海底で遺体部分を発見できなかったダイバーもいた。しかし、中身の入っている黒い手袋だけが、機体残骸のある海底に最後まで残されていたとソ連側民間ダイバーによって報告されている。


 9月3日、ミルチンク号はモネロン島東側から北側26km付近へ移動し、最新の機器を使用しながらあっちへ行ったりこっちへ行ったり、何度も移動して広範囲に探したが簡単には見つからなかった事が伝えられています。ボーイングELT遭難信号音の位置を発見してから、その日の夕方から夜にかけて生存者が機内にいないか、救助命令が出ていたため海軍には即刻確認する義務がありました。ボーイング水没地点9月4日、海軍ダイバーたちが機内の遺体をシートに包みロープで縛り、海底から船の上に引き上げた後、翌日の9月5日、ボーイングの機体を浮上させてから空の機内を検査したKGB役員たちと英国の航空機保険会社調査員たちが、「ボーイング機の中には誰もいなかった」と伝えたのかも知れません。そして、この時の仕事内容に関しては原因と状況がはっきりするまで、少なくとも残りのブラックボックスが発見され解読されるまで軍事機密として外部へ漏れないように口止めしたと考えられます。この事件の9月3日から9日までの作業に関しては不明で、民間人による断片的な目撃談がわずかにある程度です。海底から引き上げた遺体をどこへ運んだか、モネロン島北側の浜か、ネベリスクの火葬場まで船で運んだかも隠され、いまだに不明にされています。この時期の作業に関して何も伝えられていないということは、意図的な方法によって揉み消したとしか考えようがありません。



 最初は、この事件を、今さら調べ始めても時間の無駄に終わるのではないかという先が見えない心配がありました。日本国内のサイトに残されていた大韓航空機撃墜事件に関する記事は、数が限られ、部分的に散在するだけで、この事件は完全に終わっているのか、不明なままでずるずる延長されている事件か、生存者がいる可能性はあるか、最も重要な個所がつかめませんでした。
 しかしバート・シュロスバーグ氏の"Rescue 007"に生存者がいた話があり、それが本当に根拠のある事実か、調べなければ信じられないことでした。KAL007がどのような事件であったかを確認するためには、米国共和党局員による草稿CodewordとThe mystery of the KAL-007を読まなければなりません。これら3つの資料を基本にしなければ、この事件の真実から脱線した作り話、事実に対する歪曲ではないかと疑われる恐れがありました。他の仕事を持つ人たちにとって、この事件に深入りする事は、人生を脱線し始める何も得られない危険な道に思えた時期もありました。この事件に関して調査した作家でさえ、事件の部分的側面だけに終わっています。もし大韓航空機撃墜事件を最初から最後まで正確に書き綴るとしたら、少なくともイズベスチア新聞記事の1990年12月から1991年6月までの再調査を日本語に訳し、Codewordとアブラハム・シフリンによる調査リポートを読み、基本的な知識にする必要があります。その他、サハリン地元新聞・北海道新聞朝鮮日報・韓国新聞・NewYorkTimes・各国のTV放送による特集・雑誌スクープ等々。

 この事件について個人的に察した事は、1983年にトロール船ゲオリギ・コズミンの海軍ダイバーだった人であれば、1983年9月4日と5日の作業内容を詳しくを記憶しているはずで、ロマネンコ将軍もこの事件の経過を知り過ぎていたということです。残念な事に公務員を定年退職して年金暮らしをしている人は、職務上で知りえた情報を退職後も外部へ漏らしてはならない制約があるため、裁判などで必要な証言や報道によるインタビューなどの質問に対してしか答えられません。実際にKAL007の事故現場を目撃している人が、自分の判断で細かく正確に告白し直さなければ、遺族・知人友人・関係者に心理的・経済的負担を負わせながら時代の中で不明な事件として忘れ去られる可能性があります。肝心なことは、KAL007の生存者が現在もロシアにいる可能性があり、それを確認する事はきわめて難しい状況にあるという事です。


■ロシアの不凍河 1 2 3 4 5  ■永久凍土の夏  ■ユンガスロード(死の道でバス転落)

 2007年ごろ、私は断崖絶壁の綾里崎の砂利道(綾里崎林道)を車でゆっくり走ったことが2度ありました。ガードレールのない海抜150mの断崖沿いにある凸凹道は、まったく知られていず、1度目は前方のまったく予想がつかず、ぞっとするほど危険な場所が幾つもありました。その記憶の後味も悪く、印象が強かったため、崖から転落する夢を何度も見ました。このような類の事件や確認に関しても、それ以上の場所があり、楽観的に考え、方法を間違えると命取りになる事もあります。録画などについては、KAL007乗員乗客側からの視点、潜水艇を使用した海底での作業、海軍ダイバーによる遺体収容の視点からであれば、かなり異なるかも知れません。できるだけ客観的に正確に想像する時もあります。 


 結果としては「1992年にロシア大統領ボリス・エリツィンは、亡くなられた遺族に対して韓国国会で哀悼の意を表した」ということになりますが、アメリカ・日本・中国に対しては謝罪までに至らず、事件に関するソ連海軍による救助捜索報告・作業日誌(1983年9月1日〜9月10日)を公表せず、当時のソ連軍事機密保護法とソ連国家保安委員会(KGB)により事実が放置、あるいは意図的に隠され続けた事件でした。(解説:日本側の海上で発見され、韓国へ送られた韓国人乗員乗客9人分の遺体遺族に対しての謝罪か、乗員の他、各国の乗客に対しての謝罪か不明。明らかな証拠がなければ、この事件に関係していなかったロシア大統領ボリス・エリツインは、韓国国会で公に謝罪しなかったはずです)。


 1983年9月8日以前にモスクワ参謀本部へ提出されたソ連極東防空軍ソコル基地司令官によるこの事件の報告書・顛末書の表題はどのように記入されているか。<夜間領空侵犯偵察機_撃墜の経緯>など偵察機による領空侵犯という防空上の問題が主軸で、回収・検証作業が終了した約30日後以内に提出されたロマネンコ少将あるいは極東軍総司令官による『領空侵犯機の回収・検証・作業報告書』と比較し、参謀本部側で協議・検討したはずと考えることもあります。


 「ボーイング機の中には初めから遺体が無かった」という目撃談を、私は長い間、"嘘のようでもあり、本当のようでもある"と距離を置いて疑問に思い続けていました。この事件の乗員乗客の遺体に関して様々な説があるのは、その報告によります。9月10日から潜水し始めたコンドラバエブも機内は空だったと雑誌記者のインタビューで答えています。「初めから遺体は無かった」という報告は、水深174mの第2地点で仕事を始める前に、民間ダイバーの彼に海軍ダイバーが状況説明をした話の一部であれば、本当にそうだったのかも知れないということです。しかし、さらに現実的に想像力を絞ると、9月3日にミルチンク号が海底に沈んだKAL007の位置を発見した後、ただちに有人潜水艇が潜り、海底のボーイング機内を調べたはずです。事故当初、実際に海軍ダイバーたちに割り当てられた指令は「救出と修理(水中溶接)」でした。その時の状況が少しも伝えられていない事が不思議でした。ゲオリギ・コズミンとミルチンク号には有人潜水艇無人潜水艇が備えられていました。海軍ダイバーたちもミサイルで開いた穴や非常扉から中へ入り、海底に沈んでいたボーイング機内を確認したはずです。有人潜水艇から水中ライトを照らしながら、窓越しに機内の座席を見たはずです。その時に既に遺体がなかったのであれば、南へ流れ始めた寒流で血の匂いを察した鮫の群れと小エビ・アナゴ・カニによって、9月1日と2日3日の夜明け前から朝方、骨ごと食われたとしか答えようがありません。少なくとも私はそれが事実だったと思っています。ホホジロ鮫は、アザラシやオットセイが生息する周辺海域に集まるので、トドが繁殖しているモネロン島(海馬島)付近に、夏場、既に集まっていたことは現実的に考えられる事です。
 そして、もうひとつのケースとして推理できる事は、9月3日にミルチンク号が海底のボーイング機の位置を発見してから、4日頃海軍ダイバーたちが潜水し、エコノミークラスで死んだ20〜50人の遺体を船の上に引き上げたという事です。その中には急減圧と酸素欠乏のために無傷で死亡した乗員乗客もいたはずで、残りは見るも無残な状態なため、軍事機密として隠したのではないかということです。血を流していれば鮫の群れが来るはずで、数十人分の遺体が鮫に食べられていたのではないかと、それは充分に考えられることです。

 9月3日、ミルチンク号はモネロン島東側から北側26km付近へ移動し、最新の機器を使用しながらあっちへ行ったりこっちへ行ったり、何度も移動して広範囲に探したが簡単には見つからなかった事が伝えられています。ボーイングELT遭難信号音の位置を発見してから、その日の夕方から夜にかけて生存者が機内にいないか、救助命令が出ていたため海軍には即刻確認する義務がありました。ボーイング水没地点9月4日、海軍ダイバーたちが機内の遺体をシートに包みロープで縛り、海底から船の上に引き上げた後、翌日の9月5日、ボーイングの機体を浮上させてから空の機内を検査したKGB役員たちと英国の航空機保険会社調査員たちが、「ボーイング機の中には誰もいなかった」と伝えたのかも知れません。そして、この時の仕事内容に関しては原因と状況がはっきりするまで、少なくとも残りのブラックボックスが発見され解読されるまで軍事機密として外部へ漏れないように口止めしたと考えられます。この事件の9月3日から9日までの作業に関しては不明で、民間人による断片的な目撃談がわずかにある程度です。海底から引き上げた遺体をどこへ運んだか、モネロン島北側の浜か、ネベリスクの火葬場まで船で運んだかも隠され、いまだに不明にされています。この時期の作業に関して何も伝えられていないということは、意図的な方法によって揉み消したとしか考えようがありません。


 2015年12月24日付の朝日デジタルニュースによれば、元外務審議官福田博氏の極秘メモ(1983/11/14)には、「2発目が(KAL007)左翼に命中し、11分間キリモミ状態の後、同機は墜落した」と記入されてあります。・・・その情報がアメリカと同じ内容であれば、ソ連側の作業報告書や顛末書と一致するはずです。一致させる必要があったのは、航空会社の戦時下保険26,824,000ドル(1983年為替レート1米ドル226〜247円)のためで、ずれや相違があるとイギリスのスチュアート・ライトソン社から戦時下保険金がいつまでも降りず、領空侵犯による撃墜機の回収・撤去・検査作業費用とソ連側軍事経費が損害賠償として大韓航空に対して請求されていても、その支払いが遅れるからです。1983年9月13日にライトソン社から大韓航空へ戦時下保険65億円の支払いがあり、これについては翌日14日付けの朝日新聞で報道されていますので確認する事ができます。
ソ連政府が大韓航空に損害賠償請求をする事ができる内容は、大韓航空機を使用した偵察目的の場合のみで、ソ連側では各国からの損害賠償と慰謝料請求を拒絶するために乗客のいないパイロットたちだけのスパイ機として報告した痕跡があります。オシポビッチ防空軍中佐も、そのために証拠なしでスパイ機説を晩年まで押し通していたのです。ソ連側ではそのために乗員乗客の遺体証拠を隠滅し、この事件の生存者はいなかった事にしたのです。


 その後の航空機事故例からも解るように、最も重要に思えるのは、第58千鳥丸船員による目撃内容で、「頭をかすめるほどの低空飛行で、最初は大きく爆発し、2回目は小さな爆発だった」という信憑性のある目撃談です。これは1回目は胴体下のメイン燃料タンク、2回目は左ウィング燃料タンクの爆発を意味しています。着水失敗であれば爆発は1回だけなはずです。1回目と2回目に十数秒の間があれば、着水は成功し、徹甲弾によって燃料漏れしていた燃料タンクの爆発という事になり、その間とその後の数十秒間、KAL007は海面上に浮いていたはずです。
 海上で大型機が爆発した後、日本の漁船であろうと通常は救助へ向かうか、生存者がいるか様子を確認に行くはずで、それをしなかったのは操業中のため、すぐには行くことができず、なおかつソ連側の国境警備艇(大型ボート)がサーチライトを照らしながら接近していたためではないかと思えるふしもあります。「日本の漁船に見られていた」というソ連側の報告があり、どこまで見ていたかが疑問に思えます。
 ・・・これらの事実内容に間違いがなければ、私にはこの目撃談がこの事件の最も身近なカギに思えて仕方がありません。「ドカーンと爆発音がしてから水平線がオレンジ色にパーッと明るくなった」。第58千鳥丸船員は、爆発地点の方角と距離まで正確に言えなかったようですが、方角と距離が最も重要な問題で、それが欠けています。聞き方と聞く方法、数年後の目撃内容を確認する方法に問題があり、KAL007の通過高度が頭をかすめるほどであれば、イカ釣り船からの着水地点は案外近く、500m〜1kmだったのではないかという事です。

 KAL007の乗員乗客は、戦時下民間人捕虜の扱いから移民としてロシア国籍を取得する方に同意させられ、ロシア名に改名させられているのではないか。ロシア名に改名すれば、国外からの干渉を受ける事がない。自由主義国の生存者がいれば、そのような手続きを経るのは当然なことで、強制収容所で取り調べを受けた後、当時の収容所内規通りのコースを辿り、この事件からの時効20年後、2003年からは収容所外の近辺で遊牧民、移民として生活する事を余儀なくさせられているようにも思えます。



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この文章を書くまでの経緯_Ⅱ(32)

 2005年頃、KAL007事故現場付近の中立海域で潜水し、確認したことのある日本の民間人ダイバーによるブログを読み、考えさせられたことがあった。海底に引きずった跡のある海域は国際水域(中立地帯)で、「実際に潜水して見ると、その引きずり跡は海底に確かにあり、長々と続いていた」と日本語サイトで報告していた。どのような引きずり跡かまで書かれていなかったが、海底の砂をえぐりながら移動した真っ直ぐな道のような跡ではないかと思える。1983年9月4日に大型トロール船ゲオリギ・コズミンの網にかかり、そのまま引き上げられる状態であれば、引き上げたはずで、そのようにできなかった理由を考えていた。1.5kmも引きずる必要があったのは、それを浮かばせると他国船やヘリコプターから見つけられる中立地帯で、さらに引き上げられないほど重過ぎたという理由以外にない。ロープをできるだけ長く(200m以上)伸ばし、他国に気づかれないように国際水域からソ連領内であるモネロン島の方へ引っ張る必要があった。少しでも浮上させると100フィート(約30m)の浅瀬のため、他国のヘリコプターから見つけられる。そのためにできるだけロープを伸ばし、ボーイング747の先端を上げないように移動させた。その間に、船の上から空気を送ると膨らむ救助用ゴムボートや救命筏などを付近にいた各船に連絡して集め、翌日の5日、海底に沈んでいるKAL007をどうにか海面上に浮かばせることができた。その後、モネロン島の方へボーイング747を曳航し、その様子をパイロットや民間人、海軍の作業員たちが見ていた。

大型トロール船 Kozmin

「引きずり跡」が、燃料タンクの後ろにかかった海底の砂跡であれば、両車輪の付いている主脚を上げて胴体着水したのではないか。主脚は両翼の後側に2組、胴体下に2組、合計4組横に並んでいる。2本(又は4本)の車輪跡であれば、特徴があるのでそのように伝えるはずで、引きずり跡というのはボーイング747の底で引きずった跡のようだ。両翼の4つのエンジンは、滑走路などではかなり重いため胴体下より少し下がり、飛行中や水中では両翼の浮力により上がる。その場所はスウェーデン製ミルチンク号が作業していた付近(モネロン島北方26〜24km)で、ロシア側のダイバーたちが、9月10日の夜から潜水作業をし始めた東寄りの第2地点水深174mとは異なっている。第2地点水深174mは、KAL007の残骸しか残されていず、潜水が無理な深さであった。「その場所から水深200m以上の深い方へ、さらに移動させた跡がある」ということもそのブログで報告されてあった。


 2008年にKAL007ボーイング747型機の外壁残骸部分がニューヨークタイムズに掲載されている画像を見た事もあった。その外壁部分は、左側副操縦席後150cm四方で、弾丸の跡からどのような角度から撃ったか解析できるものだった。直径25mmのくっきりした穴が1つ、45度角の斜めの穴が2つ3つ、10度角で幅25mm・深さ10mm・長さ200mmの徹甲弾によるえぐり痕が1つ2つと多数の擦り傷。それらの弾丸痕から、1.ボーイング747の燃料タンクと貨物を後方45度角下から撃ちながらボーイング747操縦室前へ抜け出、2.左後ろ下から角度を変えながら徹甲弾を連射し、右前へ抜け出、3.左真横からまばらに垂直に撃ちながらボーイング操縦室後ろ上を通過した事が解かる。合計3回から4回の徹甲弾による250発の連射と大砲3発、ミサイル2発の攻撃があった。貨物室のトランクに詰め込んだ衣類に大きな穴が開いていたのは、下から砲弾を撃ったためではないかと思える。その画像から考えると、11,000m上空でミサイルが爆発する前から徹甲弾による攻撃によって燃料漏れしていた事になる。それによって不時着水の際に機体底部の燃料タンクに引火して爆発したのではないかと言うことがはっきりし始めた。


 さらに、KAL007の事故現場を目撃していた日本側漁船員の「ドカーン」という言葉が気がかりで、激突音ではないかと類推される個所が怪しかった。ボンやボカーンでは迫力や真実性に欠ける。水中爆発の場合、水圧や海面の関係でドカーンと響くのかも知れない。しかも漁船の上をすれすれに飛行したのであれば遠くとも3km以内、近い場合は1km前後の距離の可能性もある。海面すれすれの低空飛行は距離が限られているため、その圏内__モネロン島北方22~23km領海沿いにロマネンコ将軍率いるソ連沿岸警備船(又は国境警備船)が日本漁船を監視し、ロシア人のボートも付近にいたという事が気になり始めた。



International waters and Soviet territorial waters

 日本のイカ釣り漁船は、10tから50tぐらいであれば、2隻以上で距離を置いて操業することが多い。「日本の漁船に見られていた」というソ連側の報告には、日本の漁船が事故現場付近に何隻いたかと言うところまで伝えていない。イカ漁目的であれば複数、イカ釣り漁船によるカニ漁であれば一隻の可能性もないわけではない。モネロン島沿岸から12航海マイル(22.224km)内がソ連領海であれば、その島から北西・北・北東、あるいは南側からの他国船の領海侵犯や侵入を監視する義務があるはずで、沿岸警備隊国境警備隊による海上トロールは、定期的に行われていたはずであった。そうであれば、KGBロマネンコ将軍率いる沿岸警備船(又はソ連国境警備艇)が、KAL007事故現場付近(北方22.224kmの国境)に夜通し無灯で停泊していても、まったく不思議ではない。

 しかし、ロシア人を乗せた一隻のボートが夜明け前に単独でKAL007の海上爆発付近(モネロン島北26km)、サハリン西海岸から約50kmにいた事実は、往復の燃料費を考えると誰が考えても疑問に思わざるを得ない。国境付近の国際水域で亡命・拉致・密漁・密輸・密売・物々交換などをできるだけ接近して確認するための民間人視察偵察役で、Spyplane(偵察機)と伝えられていた大型旅客機の水没地点を知らせるため、この事故現場の状況を軍事機密ということで口止めされて残された人ではないか。KAL007不時着水付近にソ連国境警備艇が監視していたことは、偶然ではないという状況認識が、さらに正確に深まりつつある。「ロシア人を乗せた一隻のボート」は、警備艇の救命ボートか、釣などに使用されている民間のモーターボートか、大き目の沿岸警備船(警備船をボートと言うこともある)かは、現在もはっきりしていない。

 もうひとつ疑惑があるのは、269人中、返還された213人分の靴や履物で、正確に考える必要がある。213人分の靴が、焦げ跡や傷のないきれいな履物であれば、ロマネンコ将軍によって海へ脱ぎ捨てる事を命じられた可能性もある。ソコル防空軍基地からSpyplaneと連絡されていれば、KGB職員はそれを信じるしかない。民間人の服装をしていても誰々がスパイか、調べ終わるまではっきりしない。それで助かった乗員乗客全員の逃走時の用心のため、沿岸警備船の上で靴を脱がせ、海へ投げ捨てたのではないか。あるいは、沈み行くボーイング747の外で、泳ぐために自ら脱ぎ捨てたか。これらの事々に関しては、何等かの手がかりがなければ、はっきりさせる事が難しく、両方ではないかと思える。

 アブラハム・シフリンによる1990年の再調査によれば、「この時KGB職員だったロマネンコ将軍は、KAL007の操縦室の中に入り、2本のブラックボックスを引き抜き、生存者たちをさっさと連れ去った」という話をサハリンの地元住民から聞き取っていた。充分に信頼できる話かどうかは別として、その可能性も無いわけではない。「ロマネンコ将軍は、残り2本のブラック・ボックス(フライトレコーダーかボイスレコーダー)を取り忘れてその場を去ったため、参謀本部から後々散々罵られた」という話があり、参謀本部との会話は部分的に広域無線などで傍聴されていた事が知らされている。事故現場のこれらの状況を考えると、200人近くの生存者たちは、ボーイング747-230Bの中央非常口を開け、ライフジャケット姿で手荷物を持ちながら両翼に直接降りる事ができたはずで、その両翼も沈んで行ったため、そこから炎の消えた機体背後へ泳いで移動し、背面から操縦室の上の方へよじ登っていたのではないか、という事が近年の他の航空機事故例からも薄々推測することができる。ただしKAL007の場合は、右後ろと窓、燃料タンクのある床に大きな穴が開いたため、機体後方から早めに沈み始め、海上爆発から10分以内、KGBロマネンコ将軍率いる沿岸警備隊(又はソ連国境警備艇)が事故現場へ到着してから4〜5分で水没したと想定される。これらの話が事実であれば、この事件は、闇に閉ざされたまったく不可解な話ではないと言うことが解かり始めてきている。

 残りのブラックボックス2本の内の1本と箱は、水深174mの海底でプロダイバーのバディム・コンドラバエブが発見し、残り1本は不明だったため、後々までサハリン西海岸の地元漁民たちの中には探し続けていた人もいた。ブラックボックスを発見した者は、(警察署・海上保安庁派出所へ)必ず届け出る事を内容とした政府からの公報ビラがサハリン西海岸の各世帯に配られ、その後はブラックボックスの箱と使用説明書だけ、KAL007の残骸が残された付近の海底から地元漁民によって発見されたという事実が伝えられている。

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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007,5 September 2013-2024.7.6-.

この文章を書くまでの経緯(いきさつ)_Ⅰ (31)

 1983年9月1日、大韓航空機が撃墜された日、私はテレビも無く新聞も取っていない暮らし方だった。その夜、大学の友人である橋詰から電話がかかり、中沢がその便に乗っていたという知らせを受けた。驚きというより信じることが難しかった。夏季休暇の間、中沢がアメリカ旅行をしてニューヨークに住んでいた服部さんのスタジオに宿泊した帰りの便だった。翌朝、雨の降りしきるなか、出勤前に駅前の売店で朝刊を買い求め、傘をさしながら確認。「撃墜!大韓航空機の乗員乗客全員死亡」という一面記事で顔写真まで掲載されていたことを記憶している。
 翌年、1984年5月に橋詰と横浜で展覧会を開催した後、「大韓航空機はモネロン島付近の比較的浅い海上に難着水し、乗員乗客の何人かは助かったらしい」という知らせを橋詰から聞いた。「中沢は助かったのかな。何メートルぐらいの浅瀬かなー」。浅瀬と言われても何メートルか、はっきりしなかった。その情報は、週刊誌などで知る事ができたその事件から8ヶ月後の経過だった。しかしその災難の1年後、大学の同窓生の石井から中沢建志の葬儀案内状が届いた。その時わたしは、まだ死亡確認がされていない状態で葬儀をしなければならない理由が腑に落ちなかった。事情や説明を聞くべきだったかもしれないが、何か芝居じみている。間違い報道の多かったこの事件に関わりたくなかったことが本心だった。



1978年F15油彩「20才の自画像」中沢建志




 それから5年以上が過ぎた1990年ごろ、中沢が暮らしていた部屋と自画像などがNHK特集で放送され、その番組が放送される度に郷里の部屋で2回見る事となった。あいつが住んでいた所にも美大在学中、友人たちと訪れたことがあった。彼のアパートにはヨーロッパ旅行から帰った後に画いたF15号程度の自画像が飾ってあり、光が反射しないように鴨居の上に額無しでそのまま架けてあった。

 それまで、生まれ故郷で私が高校美術の授業をするなど思ってもいなかった。それも臨免と言われる期限付きの助教諭免許による。美術非常勤講師として2つの高校へ通勤する時もあった。年末に手紙を整理していると、1982年と1983年正月付けの中沢建志からの年賀状がある。それをどうすべきか、私には大韓航空機撃墜事件についてどうする事もできなかった。それが彼の葬儀を回避する理由で、それ以外の言い訳はない。彼からの葉書を捨てれば、忘れる。あるいは気にしないでいられる。しかし、ゴミ箱に捨てるには心理的な負担がある。どちらでもあまり違いはなかったが、レターケースに空きがあったので捨てないで保管していた。

 死亡届けには「死亡診断書」が必要で、死亡した原因が変死・事故死の時は、監察医が死因を確認する。監察医によって作成された「死体検案書」を「死亡届」に添付し、遺族が役所へ提出する。外国で死亡した場合、3ヶ月以内に現地の大使館や領事館へ提出されなければならない。国内の届出先は、死亡者住所地の市町村役所の戸籍課へ提出。KAL007の場合、ソ連現地の各国大使館・領事館に「死体検案書」が3ヶ月以内に提出され、大使館経由で乗員乗客全員の親族に送付された事になる。

「危難失踪」とは、地震・洪水による災害・飛行機の墜落・船の沈没などによる失踪のことで、失踪して1年以上経過した場合には家庭裁判所に「失踪宣言の審判申立書」を提出し、それ以後2ヶ月経っても消息不明の場合、「失踪宣言の確定」が認められる。裁判所によって失踪宣言が確定した後、10日以内に「失踪届」を市町村へ提出して受理されると、消息不明者は、法律上死亡したとみなされる。失踪届が役所で受理された時点で、消息不明者は除籍され、その名前が戸籍から削除される。危難失踪から死亡届による除籍まで約1年7ヶ月かかる事になる。

 中沢建志の葬儀の場合は、事件から1年経過していなかった。「失踪届」は役所に提出されていず、在ソ日本大使館か在日ソ連大使館から「死体検案書」が3ヶ月以内に親族へ送付され、それによって死亡届けを役所へ提出した事による。中沢が通勤していた神奈川県中学校職員室の彼が使っていた机の上に、事件後は花瓶と花が置かれていたはずで、何ヶ月も放置しておくわけにはいかなかった。その後は、学校長によって臨時に美術教師が新しく委任され、その授業が継続されたことは誰でも予想する事ができる。

 このような事件の場合は、遺体を確認できなくとも、「死体検案書」があれば死亡したことになり、葬儀がなされ、お墓が建てられる。KAL007乗員乗客全員の親族へ「死体検案書」が送付されたことにより、法律的に全員死亡した事件として処理されている。現実的には実際に死亡しているか、被害者各国から確認できない状態であった。


 これが最も重要な個所で、9月1日未明、11,000mの上空と着水時の2度にわたる爆発の事実から、KAL007に乗っていた乗員乗客の約20名が死亡30名負傷、飛行機内に残された状態で10分以内で海底に沈んだ。9月2日、カムチャッカ半島沖からモネロン島東側にミルチンク号が到着。11,000m上空から落下して海底に沈んだボーイング747の残骸や遺体を探すため、投錨する。9月3日、ミルチンク号モネロン島北26km付近へ移動。水没したKAL007の場所を発見。この時KAL007は、海底で自動的にELT遭難信号音を電波発信し、位置を知らせていた。しかしながら、上空ではありとあらゆる飛行機やヘリコプターが飛び交い、各国の捜査船によるソナーやエンジン音などでかき消されたため、3日まで海底に沈んだボーイング747を発見できなかった。9月4日、海軍トロール船ゲオリギ・コズミンの網にかかり、モネロン島の方へ1.5km引きずる。9月5日、ボーイング機体を海面に浮上させ、ソ連側の大型船で周囲を隠しながらモネロン島北側の浅瀬まで曳航した。機内の遺体や手荷物などを片付けた後、大韓航空代表取締役と重役、戦時下民間機保険会社社長と調査員、ソ連軍総参謀長と提督、特殊技官と通訳などによって保険が降りる状態かどうか、確認のため機体内部を調査した。ソ連軍側には、臨時労賃・報酬料・総燃料費等の請求権があるので、KGB書記長アンドロポフが、後から大韓航空へ全額請求したものと思える。それでKAL007乗員乗客の遺族には、当初30万円程の旅費代しか支払われなかった。9月4日と5日、モネロン島付近の天候は快晴であった。

  1. 海底にあった約1.5kmの引きずり跡は、ロシア人、日本人によって確認されている。
  2. 海面に浮いた飛行機をトロール船で曳航していたようすは、9月5日、ソ連側民間ヘリコプターのパイロット他、多くの人たちに目撃されている。

 モネロン島の浅瀬へKAL007を曳航したのは、海底では作業が困難だった事による。そして4日間海底に沈んでいた機内から運び出された遺体と遺品などは、モネロン島北側の浜に設置された仮設テントの中に運ばれ、シートに包まれた状態で並べられた(その中には赤子や子供の遺体もある)。この状況によって、乗員乗客の身元が判明しないまま、浜に近い仮設火葬場で燃やされ、「死体検案書」が作成された。エリツィン大統領によるアメリカへの返答を信じれば、この事件に関するソ連参謀本部への報告書(顛末書)には「生存者はいない」もしくは「生存者無し」と記されてある。9月1日から9月10日までの空白の10日間は、民間の目撃者以外公表されていない。モネロン島北側の砂浜付近に建てられた仮設焼却炉で遺体と共に遺品なども隠滅しなければならなかった。

 隠蔽・隠滅という言葉は、適切ではないかも知れないが、当時のソ連社会主義国では、秘密警察が存在し、アメリカのCIAやFBIに対抗してKGBの組織権力が強く、政治にも深くかかわっていた。しかし、ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフによる情報公開とボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンによる秘密警察の解体によって、現在はオープンになりつつある。KAL007の事故処理で臨時雇用されたロシア民間人たちには、「この事に関しては、あまり多くを語らないように」という忠告付けで、労賃が支払われた。交通規則として考えると、部分的に少なめであれば違反にはならないと言う意味。告白した者は、老後の年金が減額されたり、重要度に応じて支払われないなどの罰則が、この当時以前まで実際にあり、サハリンの地元新聞で取りざたにされたことがあった。この事件に協力したが、緊急雇用されていないロシア民間人には賃金が支払われていない。サハリン西海岸の地元漁民による目撃談やうわさが残されていたため、アブラハム・シフリンは1990年前から再調査し始め、イズベスチア記者も同じ時期に再調査し直し、1990年12月から1991年6月までイズベスチア新聞で公表された時期があった。

 この事件の重要な個所は、1983年9月1日から10日までの空白の10日間で、その間の事実と記事に関しては非常に希にしか見つける事ができず、特に9月1日からの乗員乗客の遺体と処置、生存者に関する最も肝心な事実が究明されずに組織的に回避・隠滅させられている。これは、この事件にかかわった政治家や公務員、海軍の口封じ工作を規約文書で具体的に行ったからに他ならない。事件当時のモスクワとサハリンのソ連側の無線交信で、「なんて事をしてくれるんだ!あれは民間機だったんだぞ!」と言うロシア語による交信会話が、三沢米軍基地経由で米国NSAへ自動送信される無線受信システムによって録音傍受されていた。事故現場のソ連側の調査としては、"あれは民間機だった"という結果が一部の指揮官に知らされていたことになる。その交信が、撃墜判断に迷っていたハバロフスク極東軍管区空軍中将カメンスキー(Vladimir Kamenski)か、KGB少将ロマネンコか、KGB書記長アンドロポフの声かは、はっきりしていない。しかし民間機かスパイ機か、事件当初、確認できる場所にいたのはKGB少将ロマネンコであり、彼の他に事実を確認し断定できる人はいなかった。
 9月6日、大韓航空機撃墜前後の英訳文字付きビデオが合衆国カークパトリック国連大使によって国連で公表された。9月9日、モスクワにおける各国共同記者会見でソ連参謀総長オガルコフ元帥(Nikolai V. Ogarkov)は、「偵察機による領空侵犯」とソ連極東各基地からの報告書・資料を基に事件の経緯(いきさつ)を語り、各国テレビ局によってその解説状況が全国で放送された。


 その後の様々なエアークラッシュの事故例を調べ、比較すると、飛行機の不時着水の場合、両翼が残っていれば生存者はかなり多い。不時着水で片翼が折れた場合、死傷者がでるほどの事故だが生存者も少なからずいる。両翼が折れていない場合は、着水に成功し、数分間は海上に浮かんでいたことになる。そうであれば、着水時のショックが少なかったため、KAL007の生存者がいたことになる。9月4日と5日に海軍トロール船ゲオリギ・コズミンによってボーイング747が曳航されていた写真やその状況の目撃は、9月1日未明に生存者がいたかどうかを決定づける証拠となりえる。燃料タンクと右側後部に穴が開き、海水に機体の全てが4日間浸かったため、修理しても直らない部類で処理された。大韓航空は、イギリスの保険会社スチュアート・ライトソン社と契約し、戦時下保険に加入していた。生き残った乗員乗客も戦時下民間人捕虜扱いにされ、連行された後は取り調べられたことは充分に考えられる。その後、KAL007は海面上に現れた状況が撮影されると国際問題になるため、そのボーイング747を爆破させて沈め、プロダイバーたちを臨時で雇用し、海底で見えないように残骸の回収作業にあたらせた。2000年10月にロシア雑誌Itogiのインタビューに答えたプロダイバーのバディム・コンドラバエブによれば、「初めから映画を作るつもりで撮影していた録画が船の上で盗難にあい、私服姿の厳粛な男性のために、撮影された写真やビデオが全て破棄された」。記録物を全て破棄する権利がその人にあるかどうかはっきりしないが、「盗難にあったその後の晩、この事件にかかわった重要人物ひとりひとりに電話で連絡し、記録物を即刻破棄するように要請されたことがあった」。それによって、この事件の真相の手がかりとなるソビエト側の記録物が、秘密警察によって隠蔽されていた重要機密物以外、ほとんど無くなることとなった。

<Reference Videos>
0102
豚の海中腐敗とエビ・魚・鮫による蚕食 泥砂地の海底では夜間にエビやカニ、アナゴやサメなどが活動している。 


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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, January 14, 2014-2024.7.5-

チュンビュインKAL007機長(30)


 Chun Byung-In and the river of Oymyakon by Russian TV
①ロシア番組Reindeerのオイミャコン(2003~2005年)
②ロシア番組Reindeerのオイミャコン(2003~2005年)
③民間人捕虜の強制労働Ⅱ(1985~1990年)
④民間人捕虜の強制労働Ⅰ(1984~1990年)
 ロシア連邦サハ・ヤクティア共和国のレナ川には、シベリアチョウザメの他、カラフトマスやアメマス、キングサーモンが遡上している。ロシア人は、ウォッカを飲みながら天然冷凍保存されたサケやマスなどの魚を削り、魚も常食としている。レナ川のサーモンのサイズは2種類あり、40-70cmのカラフトマスと1.0-1.5m(60kg)にも達する大型キングサーモンも上がる。しかし、最近は大型サーモンが少なくなったと言われている。ヤクーツクYakutskは、1月に−55℃まで下がり、6月に平均気温15℃まで急上昇。大き目の蚊がレナ川や沼地付近で発生する。夏の3ヶ月間、6月7月8月の平均17℃、最低5℃、最高25℃、例外的に40℃。船が行き来できるほど凍らないが、ヤクーツク郊外の舗装されていない道が泥沼化する。9月から雪が降り始め、冬場は氷の上を車で渡れる状態になるまで完全に凍結する。2008年のレナ川観光客によると、-45℃の真冬の暗いレナ川氷上で釣りをしていた人を見かけたという記事があった。ヤクーツクの真冬は、日中も夜のような状態になり、-45℃だと釣り上げた魚は、10秒20秒で見る間に凍り始める。サーモンは、川の中流や支流でも産卵するので、ダムなどの位置が上流であれば川の生物への影響は少ない。ダムや車道、学校や公共施設などは、民間人捕虜の人たちが建てたのかも知れない。

 場所はヤクーツクから約500km(道程1,000km)東のオイミャコンのインディギルカ川沿い。最近はリカ(ロシア語で川の意味)が付き、リカ・インディギルカと命名されている。オイミャコンの南側周辺に、たくさんの凍らない沼や湖があり、何故凍らないかまだ解明されていない。200m下の地面が暖かく、凍土が溶けて地下水が流れているのかも知れないが、地下までは、はっきりと観測されていない。
 北極圏の地軸のズレ方が近年速まり、カナダからロシア中心の方へ毎年0.5度づつ移動している。しかし、スウェーデンやオイミャコンは、地軸の進行方向と90度違っているので、気温はさほど変わっていない。

オイミャコンの気象観測所            不凍の水の源泉 お湯では無いので5~10℃前後?
 ロシアの場合は、悲観の極致に外国人捕虜の現実があり、戦後のシベリア抑留から77年、大韓航空機撃墜事件から41年の歳月が経ち、方法や待遇が少しは改善されたかもしれない。しかし、あまり変わっていないと見た方が現実に近い。40年前、生存者が200名近くいたとしても分散され、凍死や老死で現在は50名にも満たない事が予想される。KAL-007機長Chun Byung-Inは、1983年に45才だった。2003年で65才と高齢(2024年で86才)のため、年金など全く無い境遇に置かれている。
 眉毛、目鼻立ちと鼻の下のわずかな長さ、上唇の力の入り方や歪み方、肩幅の狭さ、身長と姿などがKAL-007の機長Chun Byung-In(千炳寅)と一致している。機長Chun Byung-Inの顔の特徴は、本人左側の目が鼻元に近い。左目の寄り方がまったく同じ。ロシア風の服装のためか、20年前より少し面長で若く見える。20年以上経つと両親の身体的違いから顔形が変わる人もいる。機長Chun Byung-Inの場合は、ベトナム系韓国系の特徴が混ざり、左目と笑窪の位置、口端の窪みの角度にも特徴が現れている。彼の特徴が全部一致しているのでChun Byung-Inに間違いない。黒人ひとりひとりの違いを識別しづらいように、白人でその身体的特徴が著しい人は、痩せ型の黄色人種の顔の特徴を識別しづらい。ロシアTVカメラマンも、中国人、北朝鮮人、韓国人、日本人が最初はほとんど同じに見えるため、先住民と同じように無頓着なのかも知れない。このあたりに住んでいる人たちは毛皮を使用せず、服が違っているので、国外からの移住者や最近の社会的動向として撮影したのではないかということが伺える。
 1840年代にヤクーツクを探検したロシアの歴史家A.F.Middendorfによると、水銀温度計が-38.8℃以下で凝固し、硬い金属となり、鉄を叩くとガラスのように鋭く割れる。夏の猛暑日は、蚊やブユの大群に人が襲われる。ヤクートとは「無人」という意味で、音は寒くなれば寒くなるほど伝わりやすくなり、靴音などは見えない遠距離から聞き取れるようになる。樹木も凍り、樹木が割れる音がするというような知られていない怪現象が記されている。
 ヤクーツクまでの旅費は往復約10万円。1週間の宿泊などを混ぜると、15万円以内で現在は行くことができる。しかし冬は平均-40℃、-70℃を超えた記録もある。-40℃で機械類や精密機器は、10分以内で霜が着き使えなくなる。山の形が場所の目印になっているが広大な地形のため車でなければ危険。ヤクーツク北東100km遠方に聳えている連山は休火山で、高さ2,000m近い。山頂付近のオレンジ色の所は、溶岩として流れた出た酸化第二鉄。
バイカル湖付近の強制収容所で、しばらくの間労働をしていたのであれば、真冬にバイカル湖を横断しようとした強行軍で、子供や女性を含めた25万人の人々が-70℃の湖上の途中で凍死した冬将軍の話を聞いた事があるに違いない。-70℃の外気であれば、どのような事をしても、どのような人でも完全に凍結する。


オイミャコンは、ヤクーツクから約500km(道程1,000km)東方、オホーツク北方約400kmの山間にあり、人口900人(2024年)ほどの村で、凍らない水が流れる川リカ・インディギルカの南岸にある。最低気温-71.2℃を記録し、ギネスブックに登録されている。南側には永久凍土が溶けたり、凍ったりしてできたサーモカルスト(凸凹)台地と言われ、多くの沼や湖があり、場所によって温暖化の原因となる大量のメタンガスが発生している地域もある。

Oymyakon,Sakha Yakutia,Russia by Google Map
 オイミャコンという地名は、「川が凍結しない場所」エヴェン語で「不凍の水」と言う意味がある。南東30km離れているトムトル(Tomtop)には、空港と気象観測所が町の南西にあり、滑走路と気象観測所は囚人によって造られたと伝えられている。トムトルは人口数がオイミャコンの2倍で1500人ほど、スパーマーケットがある町になりつつある。オイミャコンやトムトルだけでなく、隔絶された小さな村々は、元収容所だったようだ。オイミャコンの南西40kmのユチュゲイには、トナカイ牧畜民たちが存続していると言われ、村を形成していない。
 オイミャコンは、山々に囲まれた盆地で、冬場は冷気が溜まり寒さが-60℃まで下がる。山の方が10℃~20℃暖かいと言われているが、民宿やホテル等の宿泊施設は、まだ無い。2010~2015年、インディギルカ川の河川敷にセスナ機が飛来しているので、トムトル空港とオイミャコンをつなげる空港を造成する計画があるのかも知れない。そのセスナ機は、ソフトランディングだった。旅客用ヘリコプターの発着場所は、村の外れに既に造られている(2020年頃)。

インディギルカ川の中州(又は河川敷)に着地するセスナ機2010年頃

KAL-007機長Chun Byung-Inの顔は、左下の顔写真が新聞などで一般的に公表されているため、ロシアやアメリカでは左上の人がChun Byung-Inという事が解っていない。希に僅かな人たちが知っていたとしても、仕事外の事々に関係しなければならなくなるので見放されている。


 サハ・ヤクティア共和国(自治区)は、ロシアで最も面積があり、人口数が最も少ないうちのひとつで、サハの冬の気温は、ほぼ-70℃まで下がると解説されてある。しかし太陽が沈まない夏は、+30℃まで上がる地域もあり、夏と冬の寒暖の差が激しい。
 モスクワTV局のアナウンサーは「非常に面白い伝統的なライフ・スタイル」 と、ヤクーツクTV局のアナウンサーは、「彼らはアイデンティティーとプライドが高い」と解説している。この中に、元KAL007の乗客だった人たちと捕虜が混ざっているということについては関与していない。元ニューヨークに滞在していた旅行客たちという事をこのアナウンサーの世代は全く知らず、彼らがどこから来たか気づいていないことになる。ラーゲリ内の外国人捕虜ということにも触れていない。「ロシアで最も大きな共和国だが、もっとも人口が少ないうちのひとつ」と、最近の移住者や開拓民の生活状況を解説している。南サハリンの地元漁民による噂話以外は、モスクワ国内でさえ、「KAL007の乗員乗客269名は全員死亡。生存者がいなかった事件」とテレビや新聞で報道されている。

 この生活環境は、ロシア語で「ラーゲリ」と言われている反体制側(自由主義国)の捕虜によるキャンプ生活です。ロシアのラーゲリでは、家族生活や出産も可能だが、政治的に利用されたり、強制労働に駆り出される時もある。このビデオに元KAL007の乗員乗客が撮影されているのであれば、いまだに捕虜扱いで差別されているという事になる。生活状態は換金性のあるものが、トナカイの角、毛皮、肉などで、実際には収入など全く無い自給自足の状態にさせられている。一見するとホームレスのような自由なライフスタイルに置き換えられているが、生活費などの収入は無い。私有地ではないため、小屋や家を建てることもできず、建築物は全て建設許可が必要とされている。公共施設などの建設のための強制労働期間中は、若干の食事や生活必需品などが配給されている。しかし労働賃金は支払われていない。ラーゲリと言われている広範囲な強制収容所エリアの自給自足生活のため、テントや無線機器なども27年以上前の廃棄物が使用されている。

 これが何年前の番組を再編集したか肝心な事が表示されていない。ロシア国内の時効年数が20年であれば、2003年に撮影され、放送局にこの事件の行方についてある程度知っている管理者が局内にいる可能性もある。KAL007生き残りの乗員乗客は、書類上でいまだに「戦時下外国人捕虜」扱いで、その後、結果的に訂正されていないということになる。なぜ、訂正されていないかは、国連常任理事国による国際司法裁判でソビエト連邦が全面的に悪いというアメリカ合衆国側の敗訴(3対2)によって、ロシアの正当性あるいは妥当性が公けにされたため、この事件の処置に関して変更がなされていない。

 大韓航空に対しての賠償請求は、ある程度解決したアメリカ合衆国の親族関係者もいる。しかし、いまだに解決されていない他の国々の親族関係者が残され、KAL007便の生存者存命に関しては、証拠不十分、未解決、書類と報道で「生存者はいない」「269名全員死亡」のままで訂正されずに放置されている。
 元々は、「大韓航空機によるソ連領空侵犯」、ソコル防空軍基地司令官アナトリ・コルヌコフとSu-15TM迎撃戦闘機のミサイルを発射した防空軍少佐ゲンナジー・オシポビッチによる「スパイ機か民間機か」の誤認事件で、ゲンナジー・オシポビッチの「スパイ機説」の後、「民間機に便乗したスパイミッション説」を訂正せずに「撃墜」を正当と見なし、反証となる証拠を隠したため、関係のない乗員乗客まで巻き添えをくらい、KAL007の生き残りが外国人捕虜として不当に扱われるに至った。その確認がなされていず放置されている事に問題性がある。



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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, 2010-2024.7.19-