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English Korean Air Lines Flight 007
Russian Інцидент з рейсом «Korean Air» 007
Chinese 大韓航空007號班機遭擊落事件
French Vol Korean Air Lines 007
Spanish Vuelo 007 de Korean Air
Japanese 大韓航空機撃墜事件
German Korean-Airlines-Flug 007
Korean 대한항공 007편 격추사건
Italian Il volo 007 della Korean Air Lines
Swedish då Sovjetunionen sköt ner Korean Airlines-flygplanet KAL 007
Arabian ا لخطوط الجوية الكورية رحلة007
Hebrew טיסה 007 של קוריאן אייר
Thai โคเรียนแอร์ไลน์ เที่ยวบินที่ 007
Vietnamese Chuyến bay 007 của Korean Air Lines
Portuguese Korean Airlines Voo 007


Reference

  1. CVR transcript on August 31 in 1983 about the accident of Korean Air Flight 007, Boeing 747-230B off Sakhalin Island (Russia)
  2. Rescue 007 Home website by the International Committee for the Rescue of KAL 007 Survivors,Inc
  3. FLIGHT SIMULATION KAL 007 CROSS TRACK DISTANCE 365 NAUTICAL MILES
  4. Discovery:Unsolved history KAL-007
  5. The case of KAL 007
  6. Mistery of KAL007
  7. KAL Flight 007 Remembered Written by Warren Mass,2008
  8. Russian Close up on Web
  9. Secret of the Empty Airplane, Izvestia Investigation (Russian newspaper publishing company)
  10. ABC,CNN,CBS,RT,BBC,NHK,FOX,BRαTV NEWS
  11. NOVA,NASA,UNITED NATIONS
  12. KGB,Radio Moscow,EARAT Infomation,Air Crash Investigation
  13. Russian Navy,United Stats Navy,Japan Self-Defense Forces, Rescue,other combination trainings,etc
  14. China Air Lines Flight120炎上事故那覇空港CI120
  15. Japan Air Lines Flight123墜落事故
  16. TOP SECRET/Cordword(Central Intelligence Agency)米国共和党局員によるCIAへの報告書草稿「CIA報告」
  17. 外交青書」1983年外務省発行 日本政府と外交関係の記録資料
  18. Wikipedia 大韓航空機撃墜事件
  19. 「核の冬」第三次世界大戦後の世界 カール・セーガン
  20. 北海道警察白書
  21. 朝日新聞,読売新聞,産経新聞.韓国新聞,朝鮮日報,北海道新聞,New York Times,You Tube,etc
  22. Russian Music,Chinese Music,Japanese Music,Corean Music,Iranian Music,Canadian Music,American Music,etc

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KAL007大韓航空機撃墜事件に関する目撃録2

KAL007 大韓航空機撃墜事件に関する目撃録2 

 米軍偵察機RC-135は、ソ連極東の領空侵犯を既に行っていた。国連事務総長ハビエル・ペレス・デ・クエヤル時代(1981〜1992)の国際司法裁判(国連裁判)において、米国大統領ロナルド・レーガンは、RC-135によるソ連国境付近の偵察と領空侵犯に関して、米国空軍による領空侵犯を認めざるを得なかった。その時の常任理事国による国際司法裁判の判決は、3対2(露中仏:米英)で米国側が敗訴という状況だった。








United Nations Headquarters in NY


 アブラハム・シフリンや一部の遺族によれば、KAL007便の生存者がおり、情報や話として伝えられているが、具体的にひとりも確認されず、生還していない。
 私としては、KAL007便に乗っていた友人のNakazawa Takesiにそっくりな人(あるいは本人)を、2009年12月、インターネットのロシア番組(サハ共和国ヤクーツク/オイミャコン)で偶然見つけた。その番組にはエスニック・グループとして、KAL007機長チュン・ビュ・インの他、何人かの生存者とその子孫も混ざっている。さらに、チュコツカのアナディー郊外にも米国下院議員ラリー・マクドナルドをはじめとするKAL007の乗客らしき人々を見つけた。
 しかし、実際現地へ行って確認すべきか、確認してもらえるように政治的に取り計らうべきか、どちらも必要と思えるが難しい問題が含まれている。彼らは戦時下民間人捕虜の扱いから、現在はトナカイ遊牧民として国籍や住所が無い状態に置かれ、広大な森林や平原に囲まれた閉ざされた僻地で自給自足の生活をしている。その場所がラーゲリ流刑地であれば、集落の外側に銃を持った監視が付き、場所により通行許可証が必要とされるなど、現実的には確認が難しい状態にある。
 ラーゲリ内の通行許可証は、管理責任のための正当な理由がなければ降りない。ロシアの地方情報局や教育関係の取材で、ロシア大統領や州知事の助力で許可される可能性もあるが、他国の干渉の対象になりそうな場合は降りず、許可されたとしても撮影内容がチェックされるなどの条件がある。
 ロシアの町から離れた所にある村々は、1990年代後半まで閉鎖的だった。現在は「グラスノスチ情報公開」によってオープンになりつつあるが、自然環境が厳しいため、道から外れると思わぬ事態に陥りやすい。車の場合、冬から春の間の氷の厚さがある時期に装備と帰路の燃料があれば通れる。しかし、ガードレールの無い断崖絶壁の道を延々と走らなければならないなど、通った事のある人でなければ本当の状況は解らない。厳しい自然環境を含めて疑ってかかる必要性がある。夏場は橋が壊れていたり、泥沼の道が続いていたり、凍土が溶けると深さ2m以上に達する泥沼地帯もいたる所にあるので通れない。その他、一度入ったら出られなくなるほどガソリンが不足している地域で給油所など無いと推測している。



「KAL007大韓航空機撃墜事件 編集後記」

1983年9月1日 記者会見
 
 この事件で最も怪しい箇所は、不時着水後のブラック・ボックスのテープ内容で、燃料タンクの大爆発後でさえKAL007が海上に浮いていた間、テープ録音は止まっていなかった。その最後の箇所のCVRボイステープが存在するはずで、それを隠していると考えざるを得ない。ミサイル爆発による機内減圧のため、酸素マスクを装着した時までのコクピット会話とその他の音は、ICAO国際民間航空機関によるブラック・ボックス解読内容として既に国連で公表(ロシア語英語訳)されている。

 国際司法裁判(国連裁判)の時は、「KAL007によるソ連領空侵犯が操作ミスによる過失か、意図されたコースだったか」が最も重要な問題で、背景に米ソによる冷戦、米空軍RC-135による偵察と関係している「意図された領空侵犯」という判決だった。最高スピード900km/hのジャンボジェット機の上や下に、その2倍以上速い迎撃戦闘機が隠れ、ランデブー飛行する事は、実際に行われ、空軍基地レーダー、管制塔レーダーからしばしば観察される事もあった。そのような飛行行為とロッキード社によって1981年に開発され、1983年に配備された合衆国空軍の偵察兼戦闘機ステルスへの警告も含まれていた。

 常任理事国3対2の米国側敗訴の内容は、乗員DH・乗客の遺族による訴訟、保険・損害賠償問題へ影響する(勤務中・勤務外・出張などで異なる労災保険・生命保険なども含まれる)。事故後に不信な電話連絡のあった1〜2名以外、1983年から1990年までKAL007の生存者がいるとは自由主義国の誰も推測していなかった。

 この事件の鍵は、その他にもいくつかあり、最も重要な箇所が意図的に省かれている。何がそうさせたか。CNNやABC NEWSのTV放送によれば、米国ジョージ・シュルツ国務長官は、1983年9月1日、

"18:26 hours, the Soviet pilot reported that he fired missiles and the target was destroyed" "...destroyed the target and breaking away." "18:34 hours, Korean airplane disappeared from the radar screen.”

と言っており、「18時26分、ソビエトパイロットの連絡によれば、彼はミサイルを発射し、その標的は撃墜された」「...その標的を破壊したが逃げている」「18時34分、大韓航空機はレーダースクリーンから消えた」が正確な放送内容だった。各新聞で報道された「乗員乗客全員死亡」という言葉は、TVによる放送から除外されている。しかしその後、乗員乗客の生存の可能性についての解説が行われ、結果的にはその日の記者会見の時に"No survivers"と伝えたようだ。Washington ABC NEWS アナウンサーは、"no survivers" 捜査にも関わらず「生存者はいません」と付け足した。

 その時の記者会見状況の録画が残されている。当時のソ連政府と国家保安委員会は、この事件について、アメリカ側で即断した内容が早過ぎたため、合衆国の軍事基地や日本の自衛隊基地で傍聴録音されていたSukhoi Su-15TMの交信内容通りに事故後の処理を行った痕跡がある。
 しかし、1990年からのイズベスチア新聞による追跡調査とアブラハム・シフリンの再調査(1989年〜1991年)報告、その他の現地目撃談により、KAL007の生存者は現在もロシアに居る可能性があるという結論に至った。

  1. KAL007機長は、韓国空軍に10年間勤務していた元空軍大尉で、その後、大韓民国首相専用機の待機パイロットに任命され、大韓航空パイロットとして2年以上勤めていた。米空軍RC-135による偵察とKAL007の関係で疑惑はあるが、それを裏付ける確定的な証拠が無い。
  2. ボーイング旅客機元パイロットの検証によれば、KAL007のコース逸脱によるソ連領空侵犯は、アンカレッジ国際空港を離陸する前に行われた現在位置の座標を拾う操作ミスによる可能性が高いという説。
  3. この事件のソ連側の目撃談によれば、全員死亡したのではなく生存者がいたという現地漁民、民間人の話。
  4. 1983年9月1日、各国のニュースで公開された"No survivors"の報告日と判断状況、その確認の出所を厳密に調べ比較すると、その後の現地リポートによる異論反論説の方が事件の真相、事実に近い。


その他、コクピット会話内容のダイナスティーはコールサインで、キンポ国際空港管制塔の別名か説明不足。TOKYO HF(東京管制塔)とDYNASTY HFへの連絡、業務日誌の書き込みについての機長による指示、通過地点と高度の報告以外、偵察用連絡箇所が具体的に指摘されていない。


  1. 首相官邸 拉致問題対策本部宛に連絡と質問Eメールを送信済み。2010年4月1日11:02  質問の場合、窓口が異なっているので質問主意書として再び送らなければならない。内容により返答不可の場合もある。
  2. ホワイトハウス 米国バラク・オバマ大統領宛てに英文EメールでKAL007生存者確認願いについて連絡済み。2010年9月14日
  3. Committee for the Rescue of KAL 007 Survivors, Inc. International Director:Bert Schlossberg(KAL007生存者救助委員会 国際ディレクター:バート・シュロスバーグ氏)へEメールで連絡済み。2010年9月14日09:20

日本の場合、行政文書や外務省公文書は、「原則として作成・取得から30年が経過した行政文書は公開する」という事情がある。大韓航空機撃墜事件に関する行政文書は、「外交青書」以外にもあれば、2013年9月より。「KAL 007」に関するICAO報告書は1983年12月に公表され、米国共和党局員によるCIAへの「報告書草稿」TOP SECRET/Cordword(Central Intelligence Agency)も既に公開されている。


■日本国政府外務省「外交青書」資料編(日本語):1983年外交記録

■日本国政府外務省「外交青書」資料編(英語):1983外交記録_9月12日KAL007 Air Liner Incident



注意:「1984年資料編第3部」のリンク先が符号化される場合は、ブラウザのエンコードシフトJISUTF-8を選択してクリックすると日本語で表示されます。32ビット・エクスプローラ8以前は自動でシフトJISUTF-8が切り換わりました。64ビット・エクスプローラでは手動の場合があるようです。


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,2010-2014/04/08.

KAL007 大韓航空機撃墜事件に関する目撃録1

KAL007 大韓航空機撃墜事件に関する目撃録1 >ENGLISH 

 目撃や証言は、部分的な事実として信憑性があり、KAL 007についての報告・目撃は、場所の違い、時間的なズレ、訳語としての多少の違いがあるとしても全て事実と考えられる。目撃談以外は、国際水域や日本領海に流れ着いたKAL 007航空機の破片、所持品、貨物の一部、乗員乗客の靴、インタービューによる証言、報道記録、写真・ビデオ録画、著作などが基本的な証拠や資料となりえる。

  1. 「一発目は外れて左翼エンジン(左翼ジェット・エンジン2基の内どちらか)にあたり、黄色いフラッシュ(接触)があった。2発目は機体後部へ命中して爆発した」Gennadiy Nikolayevich Osipovich防空軍少佐 
  2. 「爆発後、上昇し、ほとんど垂直になるまで反り返えり、炎上しながら急降下した」 Gennadiy Nikolayevich Osipovich防空軍少佐
  3. 「エンジンは正常です!機長!」KAL007副操縦士Son(1983年9月1日JST:3時26分45秒 ブラック・ボックス録音記録)
  4. 「島の上空で音をたてながら降下する様子を見ていた」「頭すれすれの低空飛行だった」「ドカーンという爆発音の後、水平線がパーとオレンジ色に明るくなった。少ししてから再び爆発した。二度目の爆発は最初の爆発より小さめだった」「しばらくしてから油(ケロシン)のすごい臭いがした」。第58千鳥丸乗り組員
  5. ソ連沿岸警備隊の船が最初に爆発現場に到着した。その27分以内にロシア人を乗せた一隻のボートが現場付近にいた」ソ連沿岸警備隊による報告
  6. 「事件当日、着水した機体から乗員乗客が救助され、トランクと一緒に運び出された」サハリン西海岸ネべリスクの漁師たちと日本人漁師の目撃談(アブラハム・シフリンによる調査報告)
  7. 「海面に激突する前に、その飛行機がおよそ10分間飛行していた事を思い出してください。この間、乗客は、全てではないにしても救命胴衣を着る事ができたはずです。そのうえ、彼らは確かにシートベルトを閉めました。海面に衝突する際の飛行機の勢いがどのくらいあったとしても、跡形もなく姿を消している269人の人々を想像するのは難しい事です。乗客の何人かは、救命胴衣によって海上へ浮かなければなりませんでした。何人かは、シートベルトを着けながら海底に残ったはずです。乗員乗客全員が、姿を消すなど無理な話です」ジェームズ・エーベリ
  8. 「KAL007便乗員乗客269人の内、12才以下の子供たち23名が乗っていました」乗客の遺族
  9. 「海底に沈んでいた機内には、誰もいなく、シートベルトがすべて外されていました」ダイバー
  10. 「事故現場の海上には一体の遺体も無かった。27分以内に一隻のボートがその場所に到着していたという話は本当だろうと思える」ソビエト太平洋艦隊総司令官ウラジミール・シデロフ提督(イズベスチア新聞)
  11. 「無傷だった」「下から上へ上がれる状態だった」ソコル防空軍基地将校と技官(イズベスチア新聞)
  12. 「不時着水した飛行機は大半が無傷な状態で、KGBロマネンコ将軍指揮下の国境警備隊の船に回収され、乗客と荷物が飛行機の外に運び出された」サハリン西海岸ロシア漁民たちの話
  13. 「海軍と民間ダイバーが見つけた航空機は、基本的に欠ける所が無く完全な物体でした。構造上傷の無いものでした」
  14. 「9月4日と5日、事故現場付近の上空は、ヘリコプターや飛行機が何十機も飛び交い、空からも捜索が行われていました。上空から下を見ると、モネロン島北側の岸沿いに警備隊がぞろぞろ歩き、流れ着いた物を何でも拾い集めていました」「私は繰り返し毎日飛びました。その時の私の仕事は、ユジノサハリンスクからネベリスクへ保安委員会の連中と人を運び、発見されたあらゆる物を巡回してヘリコプターに積み、ネベリスクへ戻る仕事でした」
  15. 「日本からのパトロールボートは、ヘリコプターが離着陸できるように装備されていました。そして見たところ均一な英国船。信じられませんが多い時は100隻以上ありました」
  16. 日本の海上保安部の巡視船2隻は、防衛庁稚内レーダー監視基地から9月1日JST3時29分にKAL007の飛行情報を受け取り、サハリン西の海域に派遣された。稚内には飛行機2機が待機。9月1日JST6時10分から14時30分の間に海上保安庁は、8隻の巡視船をサハリン西海域へ派遣。
  17. 「海軍ダイバーの任務は、民間ダイバーと異なり別々だった。海軍ダイバーたちは、撃墜された航空機を引いて行き、沈め、海底に沈められた航空機を爆破させ、空中爆発をしたように見せかけるため、その残骸を四方に散らしたほど奇妙だった」民間ダイバー
  18. 「KAL007が海面に浮いている状態を空から見ていました。その飛行機は、ソビエト領海のモネロン島付近まで引かれて行き、故意にソビエト領海内の浅瀬に沈められた」ソ連側ヘリコプター民間パイロット
  19. 「9月5日から委員会の役員を運んだり、モネロン島に集められた袋や機体部分をネベリスクへ運び始めました。モネロン島北側の浜にKGB職員が番をしていて、運ばれた物の整理をしていました。私は、ヘリコプターにそれらの荷物を積んでいる時、その人とよく話をしました」「軍事機密という事を知らされていなかったため、何を運んだか知っています」ソ連側ヘリコプター民間パイロット
  20. ボーイングには何の火災も無かった。その事は確かです。すべてのものは油で浸され無傷でした」民間ダイバー
  21. 「1020点の機体部分と遺品・遺体部分を回収。その内2/3は日本の領海内で発見されたり、流れ着いた遺品や機体、遺体部分だった。韓国人9人の遺体も海上で発見されている。しかしKAL007に積まれていた450個以上のスーツケースがひとつも見つからなかった」報道
  22. 「乗員乗客の遺体がなかった」とダイバーたちは驚きながら報告。しかしダイバーのうちの1人は、「首を切られた胴体、身体の肉片と10回遭遇。いくつかのスーツケースも見ました」と報告した。
  23. 「私はひとつの黒い手袋を発見し、その中を見ると人の手が入っていました」
  24. 「最初の何人かの死体を見た時、驚きましたがぎょとはしませんでした。後で頭のような毛の生えた人間の皮膚を見ました。髪の毛は黒かった。しかし触ると全部ばらばらになりました」
  25. 「ライフジャケット(救命胴衣)を着た頭の無い胴体を見ました。そして彼らの体を回して見ると、ライフジャケットの下からいくつかの白い紐が伸びていました。明らかに内臓の残りです」
  26. 「飛行機残骸に加えて多くの物がありました。乗客の手荷物の中身のようです。衣類、文書、財布、女性の財布、その中のお金も発見しました。スーツとドレス、文書があり、その文書を抜き取ることが困難だった。衣類など。私は学生IDのパスポートも見つけました。これらの物品は海軍担当者からBPKセバスポリに渡されました」
  27. この事件の翌日、1983年アメリカ時間9月1日午前11時40分(11時30分からの報道)、米国国務長官ジョージ・シュルツは、「大韓航空機は破壊され、逃げた」とテレビや記者会見で発表。
  28. 1991年12月10日、米国上院議員ジェシー・ヘルムズは、ロシア大統領ボリス・エリツイン宛にKAL007便に関する具体的な情報を求める書簡を送った。
  29. 1992年6月17日、ロシア大統領ボリス・エリツィンは、KAL007便に関する文書の存在を報告。「KGBによるKAL007覚え書き」が存在する事を明らかにした。その3ヵ月後、「ブラックボックス」の存在を認め、1992年10月28日、「生存者はいない」と返答。
  30. 1989年8月2日、アメリカ人遺族によるワシントン地方裁判所での訴訟で、大韓航空に対し5000万ドルの損害賠償請求がなされた。その判決によってアメリカ人遺族の中には解決済みの人たちもいるが、未解決で終わっている遺族もいる。その時期のワシントン地裁では「KAL007によるソ連領空侵犯が、操作ミスではなく、意図的に行われた」という判決であった(米国空軍戦略司令部と米国国務長官による可否)。


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,2010-2012-2013/10/30.  

この文章を書くまでの経緯_3

水没したボーイング747(KAL007)と乗員乗客の遺体 2016/04/14>ENGLISH


 スウェーデン製ミハイル・ミルチンク号が1983年9月3日から回収作業をしていた場所は、46"27N,141-13Eで、モネロン島北26km地点付近だった。ミルチンク号の外見はスウェーデン製石油掘削船だが、その仕事の依頼主はソビエト太平洋艦隊ウラジミール・シデロフ提督で、彼はその船に乗船していた。そのために日本船第3海幸丸がミルチンク号の傍で停泊し、錨を降ろそうとした時、ソ連船が突っ込んできて危うく衝突しそうになったこともあった。場所としては国際水域であり、モネロン島北22.224kmまでがソビエト領海だった。

 KAL007の回収作業をするために潜水した人たちの目撃録は、イズベスチア特派員たちが1990年に収録し、同新聞紙上で1991年6月まで公表されたもので、その英訳の一部の日本語訳を読んでから、5年以上疑問に思い続けたことがあった。KAL007が第2地点N46°33' E141°19'の東寄り海域に曳航されてから海上で爆破され、沈んだ後も爆破され、それでも何人かの乗員乗客の遺体部分が残されていた事が不可解であった。
 浮上したKAL007の機内は、火事跡も無く、ほとんど完全な状態で、すべてがケロシンでびしゃびしゃだったことが報告されている。ソ連の民間ダイバーたちは、海底の機体残骸や荷物などを拾い集め、ダイビングベルと言われる鉄檻の中に入れ、船の上にあげる事が主な仕事内容で、第2地点で海底の残骸の中に残されていた遺体は、その位置を知らせるだけであった。遺体収容の作業は、海軍ダイバーたちに限られていた。機内後部座席の遺体は、ボーイング747を海面に浮上させてからシートで包んで船の上に網やロープで引きあげたか、他国船から発見されないように海底で遺体収容の作業をし、船の上にあげられたかは伝えられていない。ただし、この時のガバン地区海軍の働きは、ソビエト海軍の功績として表彰され、この辺りの作業に関して口外されていない事を考えると、かなり大変な仕事内容だった事が推測される。

 船に上げられたKAL007後部座席の乗員乗客の遺体は、モネロン島北側へ運んだか、ネベリスクやゴルノザゴーツクの火葬場へ運ばれたかも不明にされている。モネロン島の海岸沿いに漂着した所持品やゴミなどは、その島の北側に集められていた。9月4日に緊急雇用され5日から働き始めた民間ヘリコプターのパイロットは、「海上に離着陸できる水上飛行機の資格免許を持っていないか」と聞かれた時があった。そのヘリコプターパイロットの話では、島の北側の浜にテントを張り、KGB職員が番をしてゴミや荷物、遺品などをチェックしていた。9月5日頃から、KGB職員や役員たちをユジノサハリンスクからモネロン島へ運んだり、要所に集められ袋に詰めた残骸・所持品・ゴミなどをヘリコプターに積み、ネベリスクやユジノサハリンスクまでそれらを運んでいた。ボーイング機内から取り出された精密機器の内、電子機器はネベリスク、他の精密機器はゴルノザゴーツクの指定会場に集められ、テーブルの上にひとつひとつ並べ、スパイ行為として使用されていた機器がないか、特殊な専門家たちによって細かく検査された。


 9月6日から8日頃、KAL007を海上に浮かべて水深174mの東寄り第2地点まで曳航していた時、完全に片付けたはずの遺体部分は、ボーイング747の機体の中に見えない状態で残されていた。ボーイング747を第2地点の深い場所にわざわざ移動させる必要があったか。必然性がないため、その意図がまだはっきりしない。もしかしたら、KAL007をネベリスクまで曳航するつもりで、その途中で参謀本部の指令が入り、爆破して細かく砕いてから回収作業にあたらせたか。機体を解体して全てを回収する方法であれば、モネロン島北側の浅瀬の方が作業しやすかったはずではないか。これには何か理由があると疑問に思い続けていた。

 第2地点は第1地点の東側で、ミルチンク号と同じように船から距離を置いてブイを並べ、網で囲いをつくり、約1カ月間、他国船や潜水艇・潜水艦の侵入を監視するため、国際水域であるにもかかわらずソビエト側の要所として確保しなければならなかった。それに加え第2地点は、11,000m上空から落ちてきたミサイルによる破片や遺体を海底で探すため、第1地点は海上に難着水した時の燃料タンクの爆発破片や海底に散らばった貨物などを回収するための基点として、ソ連側では必要だったという客観的な意味が含まれていた。

 第2地点で潜水作業をしたダイバーたちの話によれば、アメリカ合衆国のハイドロノート船が大音響を発したり、ラジオブイによる音波によって海底での会話が盗聴・妨害され、夜間に潜水しなければならないこともあった。さらに第2地点で自家製の潜水艇で作業をしていたキルギス船長の他、多くのダイバーたちによれば、最初の内は海底の岩の間に機体半分が直立していた。しかし、いつの間にか直立した機体半分が無くなり、主脚支柱と車輪なども一緒に残骸として海底に残されていた様子を伝えている。第2地点でさえ、ダイバーたちによって遺体部分や人骨が発見され、それがソビエト海軍の指令によって意図的に放置されたものか、偶然残されたものかがはっきりせず、長い間不可解であった。海底からKAL007を引き上げた当初は、焼け跡の無い、すべてがケロシンで浸された、誰もいないほとんど完全な状態の機内だった話、そのKAL007を浮上させた時、機体後部が海面より沈んでいたのではないかと現場状況をできるだけ正確に想像しようと努力していた。

 しかし最近になって思い浮かんだことだが、高度11,000m上空でミサイルの爆発によって吹き飛んだ乗員乗客の遺体部分は、KAL007が急上昇したり急降下した時に後部座席の下に挟まり、第2地点の海上や海底で爆破された時に機内座席下に挟まっていた遺体部分と残留物が散らばったのではないかという想いが閃いた。水深174mの第2地点でKAL007の回収作業をしていた時に、まだ遺体部分が海底に残されていたというのは、「KAL007機内の遺体は、ソビエト海軍によって全て片付けられたはずであったが、座席の下に手荷物と一緒に頭部や胴体、腕などの遺体部分が挟まって見えなかった。または座席の下を点検し忘れていたかのどちらかであるに違いない」という解釈が最も事実の核心を突いていると思えるようになってきた。ソ連側の民間ダイバーたちが遺体部分を発見する度に、監視していた海軍ダイバーは、「それはどのあたりにあったか」と位置を尋ね、ひとつひとつ片付けていったため、海底で遺体部分を発見できなかったダイバーもいた。しかし、中身の入っている黒い手袋だけが、機体残骸のある海底に最後まで残されていたとソ連側民間ダイバーによって報告されている。




 9月3日、ミルチンク号はモネロン島東側から北側26km付近へ移動し、最新の機器を使用しながらあっちへ行ったりこっちへ行ったり、何度も移動して広範囲に探したが簡単には見つからなかった事が伝えられています。ボーイングELT遭難信号音の位置を発見してから、その日の夕方から夜にかけて生存者が機内にいないか、救助命令が出ていたため海軍には即刻確認する義務がありました。ボーイング水没地点9月4日、海軍ダイバーたちが機内の遺体をシートに包みロープで縛り、海底から船の上に引き上げた後、翌日の9月5日、ボーイングの機体を浮上させてから空の機内を検査したKGB役員たちと英国の航空機保険会社調査員たちが、「ボーイング機の中には誰もいなかった」と伝えたのかも知れません。そして、この時の仕事内容に関しては原因と状況がはっきりするまで、少なくとも残りのブラックボックスが発見され解読されるまで軍事機密として外部へ漏れないように口止めしたと考えられます。この事件の9月3日から9日までの作業に関しては不明で、民間人による断片的な目撃談がわずかにある程度です。海底から引き上げた遺体をどこへ運んだか、モネロン島北側の浜か、ネベリスクの火葬場まで船で運んだかも隠され、いまだに不明にされています。この時期の作業に関して何も伝えられていないということは、意図的な方法によって揉み消したとしか考えようがありません。



【解説】
 最初は、この事件を、今さら調べ始めても時間の無駄に終わるのではないかという先が見えない心配がありました。日本国内のサイトに残されていた大韓航空機撃墜事件に関する記事は、数が限られ、部分的に散在するだけで、この事件は完全に終わっているのか、不明なままでずるずる延長されている事件か、生存者がいる可能性はあるか、最も重要な個所がつかめませんでした。
 しかしバート・シュロスバーグ氏の"Rescue 007"に生存者がいた話があり、それが本当に根拠のある事実か、調べなければ信じられないことでした。KAL007がどのような事件であったかを確認するためには、米国共和党局員による草稿CodewordとThe mystery of the KAL-007を読まなければなりません。これら3つの資料を基本にしなければ、この事件の真実から脱線した作り話、事実に対する歪曲ではないかと疑われる恐れがありました。他の仕事を持つ人たちにとって、この事件に深入りする事は、人生を脱線し始める何も得られない危険な道に思えた時期もありました。この事件に関して調査した作家でさえ、事件の部分的側面だけに終わっています。もし大韓航空機撃墜事件を最初から最後まで正確に書き綴るとしたら、少なくともイズベスチア新聞記事の1990年12月から1991年6月までの再調査を日本語に訳し、Codewordとアブラハム・シフリンによる調査リポートを読み、基本的な知識にする必要があります。その他、サハリン地元新聞・北海道新聞朝鮮日報・韓国新聞・NewYorkTimes・各国のTV放送による特集・雑誌スクープ等々。

 この事件について個人的に察した事は、1983年にトロール船ゲオリギ・コズミンの海軍ダイバーだった人であれば、1983年9月4日と5日の作業内容を詳しくを記憶しているはずで、ロマネンコ将軍もこの事件の経過を知り過ぎていたということです。残念な事に公務員を定年退職して年金暮らしをしている人は、職務上で知りえた情報を退職後も外部へ漏らしてはならない制約があるため、裁判などで必要な証言や報道によるインタビューなどの質問に対してしか答えられません。実際にKAL007の事故現場を目撃している人が、自分の判断で細かく正確に告白し直さなければ、遺族・知人友人・関係者に心理的・経済的負担を負わせながら時代の中で不明な事件として忘れ去られる可能性があります。肝心なことは、KAL007の生存者が現在もロシアにいる可能性があり、それを確認する事はきわめて難しい状況にあるという事です。


■ロシアの不凍河1 2 3 4 5 ■永久凍土の夏


■ユンガスロード(死の道でバス転落)

 2007年ごろ、私は断崖絶壁の綾里崎の砂利道(綾里崎林道)を車でゆっくり走ったことが2度ありました。ガードレールのない海抜150mの断崖沿いにある凸凹道は、まったく知られていず、1度目は前方のまったく予想がつかず、ぞっとするほど危険な場所が幾つもありました。その記憶の後味も悪く、印象が強かったため、崖から転落する夢を何度も見ました。このような類の事件や確認に関しても、それ以上の場所があり、楽観的に考え、方法を間違えると命取りになる事もあります。録画などについては、KAL007乗員乗客側からの視点、潜水艇を使用した海底での作業、海軍ダイバーによる遺体収容の視点からであれば、かなり異なるかも知れません。できるだけ客観的に正確に想像する時もあります。 


 結果としては「1992年にロシア大統領ボリス・エリツィンは、亡くなられた遺族に対して韓国国会で哀悼の意を表した」ということになりますが、アメリカ・日本・中国に対しては謝罪までに至らず、事件に関するソ連海軍による救助捜索報告・作業日誌(1983年9月1日〜9月10日)を公表せず、当時のソ連軍事機密保護法とソ連国家保安委員会(KGB)により事実が放置、あるいは意図的に隠され続けた事件でした。(解説:日本側の海上で発見され、韓国へ送られた韓国人乗員乗客9人分の遺体遺族に対しての謝罪か、乗員の他、各国の乗客に対しての謝罪か不明。明らかな証拠がなければ、この事件に関係していなかったロシア大統領ボリス・エリツインは、韓国国会で公に謝罪しなかったはずです)。


 1983年9月8日以前にモスクワ参謀本部へ提出されたソ連極東防空軍ソコル基地司令官によるこの事件の報告書・顛末書の表題はどのように記入されているか。<夜間領空侵犯偵察機_撃墜の経緯>など偵察機による領空侵犯という防空上の問題が主軸で、回収・検証作業が終了した約30日後以内に提出されたロマネンコ少将あるいは極東軍総司令官による『領空侵犯機の回収・検証・作業報告書』と比較し、参謀本部側で協議・検討したはずと考えることもあります。

【解説1】
 「ボーイング機の中には初めから遺体が無かった」という目撃談を、私は長い間、"嘘のようでもあり、本当のようでもある"と距離を置いて疑問に思い続けていました。この事件の乗員乗客の遺体に関して様々な説があるのは、その報告によります。9月10日から潜水し始めたコンドラバエブも機内は空だったと雑誌記者のインタビューで答えています。「初めから遺体は無かった」という報告は、水深174mの第2地点で仕事を始める前に、民間ダイバーの彼に海軍ダイバーが状況説明をした話の一部であれば、本当にそうだったのかも知れないということです。しかし、さらに現実的に想像力を絞ると、9月3日にミルチンク号が海底に沈んだKAL007の位置を発見した後、ただちに有人潜水艇が潜り、海底のボーイング機内を調べたはずです。事故当初、実際に海軍ダイバーたちに割り当てられた指令は「救出と修理(水中溶接)」でした。その時の状況が少しも伝えられていない事が不思議でした。ゲオリギ・コズミンとミルチンク号には有人潜水艇無人潜水艇が備えられていました。海軍ダイバーたちもミサイルで開いた穴や非常扉から中へ入り、海底に沈んでいたボーイング機内を確認したはずです。有人潜水艇から水中ライトを照らしながら、窓越しに機内の座席を見たはずです。その時に既に遺体がなかったのであれば、南へ流れ始めた寒流で血の匂いを察した鮫の群れと小エビ・アナゴ・カニによって、9月1日と2日3日の夜明け前から朝方、骨ごと食われたとしか答えようがありません。少なくとも私はそれが事実だったと思っています。ホホジロ鮫は、アザラシやオットセイが生息する周辺海域に集まるので、トドが繁殖しているモネロン島(海馬島)付近に、夏場、既に集まっていたことは現実的に考えられる事です。
 そして、もうひとつのケースとして推理できる事は、9月3日にミルチンク号が海底のボーイング機の位置を発見してから、4日頃海軍ダイバーたちが潜水し、エコノミークラスで死んだ20〜50人の遺体を船の上に引き上げたという事です。その中には急減圧と酸素欠乏のために無傷で死亡した乗員乗客もいたはずで、残りは見るも無残な状態なため、軍事機密として隠したのではないかということです。血を流していれば鮫の群れが来るはずで、数十人分の遺体が鮫に食べられていたのではないかと、それは充分に考えられることです。

 9月3日、ミルチンク号はモネロン島東側から北側26km付近へ移動し、最新の機器を使用しながらあっちへ行ったりこっちへ行ったり、何度も移動して広範囲に探したが簡単には見つからなかった事が伝えられています。ボーイングELT遭難信号音の位置を発見してから、その日の夕方から夜にかけて生存者が機内にいないか、救助命令が出ていたため海軍には即刻確認する義務がありました。ボーイング水没地点9月4日、海軍ダイバーたちが機内の遺体をシートに包みロープで縛り、海底から船の上に引き上げた後、翌日の9月5日、ボーイングの機体を浮上させてから空の機内を検査したKGB役員たちと英国の航空機保険会社調査員たちが、「ボーイング機の中には誰もいなかった」と伝えたのかも知れません。そして、この時の仕事内容に関しては原因と状況がはっきりするまで、少なくとも残りのブラックボックスが発見され解読されるまで軍事機密として外部へ漏れないように口止めしたと考えられます。この事件の9月3日から9日までの作業に関しては不明で、民間人による断片的な目撃談がわずかにある程度です。海底から引き上げた遺体をどこへ運んだか、モネロン島北側の浜か、ネベリスクの火葬場まで船で運んだかも隠され、いまだに不明にされています。この時期の作業に関して何も伝えられていないということは、意図的な方法によって揉み消したとしか考えようがありません。

【解説3】
 2015年12月24日付の朝日デジタルニュースによれば、元外務審議官福田博氏の極秘メモ(1983/11/14)には、「2発目が(KAL007)左翼に命中し、11分間キリモミ状態の後、同機は墜落した」と記入されてあります。・・・その情報がアメリカと同じ内容であれば、ソ連側の作業報告書や顛末書と一致するはずです。一致させる必要があったのは、航空会社の戦時下保険26,824,000ドル(1983年為替レート1米ドル226〜247円)のためで、ずれや相違があるとイギリスのスチュアート・ライトソン社から戦時下保険金がいつまでも降りず、領空侵犯による撃墜機の回収・撤去・検査作業費用とソ連側軍事経費が損害賠償として大韓航空に対して請求されていても、その支払いが遅れるからです。1983年9月13日にライトソン社から大韓航空へ戦時下保険65億円の支払いがあり、これについては翌日14日付けの朝日新聞で報道されていますので確認する事ができます。
ソ連政府が大韓航空に損害賠償請求をする事ができる内容は、大韓航空機を使用した偵察目的の場合のみで、ソ連側では各国からの損害賠償と慰謝料請求を拒絶するために乗客のいないパイロットたちだけのスパイ機として報告した痕跡があります。オシポビッチ防空軍中佐も、そのために証拠なしでスパイ機説を晩年まで押し通していたのです。ソ連側ではそのために乗員乗客の遺体証拠を隠滅し、この事件の生存者はいなかった事にしたのです。

【解説4】
 その後の航空機事故例からも解るように、最も重要に思えるのは、第58千鳥丸船員による目撃内容で、「頭をかすめるほどの低空飛行で、最初は大きく爆発し、2回目は小さな爆発だった」という信憑性のある目撃談です。これは1回目は胴体下のメイン燃料タンク、2回目は左ウィング燃料タンクの爆発を意味しています。着水失敗であれば爆発は1回だけなはずです。1回目と2回目に十数秒の間があれば、着水は成功し、徹甲弾によって燃料漏れしていた燃料タンクの爆発という事になり、その間とその後の数十秒間、KAL007は海面上に浮いていたはずです。
 海上で大型機が爆発した後、日本の漁船であろうと通常は救助へ向かうか、生存者がいるか様子を確認に行くはずで、それをしなかったのは操業中のため、すぐには行くことができず、なおかつソ連側の国境警備艇(大型ボート)がサーチライトを照らしながら接近していたためではないかと思えるふしもあります。「日本の漁船に見られていた」というソ連側の報告があり、どこまで見ていたかが疑問に思えます。
 ・・・これらの事実内容に間違いがなければ、私にはこの目撃談がこの事件の最も身近なカギに思えて仕方がありません。「ドカーンと爆発音がしてから水平線がオレンジ色にパーッと明るくなった」。第58千鳥丸船員は、爆発地点の方角と距離まで正確に言えなかったようですが、方角と距離が最も重要な問題で、それが欠けています。聞き方と聞く方法、数年後の目撃内容を確認する方法に問題があり、KAL007の通過高度が頭をかすめるほどであれば、イカ釣り船からの着水地点は案外近く、500m〜1kmだったのではないかという事です。

 KAL007の乗員乗客は、戦時下民間人捕虜の扱いから移民としてロシア国籍を取得する方に同意させられ、ロシア名に改名させられているのではないか。ロシア名に改名すれば、国外からの干渉を受ける事がない。自由主義国の生存者がいれば、そのような手続きを経るのは当然なことで、強制収容所で取り調べを受けた後、当時の収容所内規通りのコースを辿り、この事件からの時効25年後(2008年)からは収容所外の近辺で移民として生活する事を余儀なくさせられているようにも思えます。


[cf:民事訴訟の時効とは事件発生日からの権利有効年数の期限を言う。日本の民事訴訟時効年数は、損害賠償請求権3年(又は20年)、殺人死体遺棄15年、過失運転致死10年、業務上過失致死10年_懲役又は禁固刑。死亡事故の慰謝料請求についての時効は3年又は20年。その他、精神的苦痛を含め様々な事例判例、特例等がある。例:ひき逃げなどによって結局加害者が分からなかったというような特別な場合➝<参考文献15>公訴時効の見直しについてISSUE BRIEF-No.679を参照]



 このドキュメントの題名に関しては、1.「真実の表裏」2.「空白の10日間」3.「目撃」4.「インディギルカ」5.「最後の生存者」などを考えましたが、さらに発想が異質で適切な閃きがないか、思案しています。
 この事件に関して、助言・感想・質問・相談などがございましたら、左下のコメントを書くをクリックし、匿名と内容を入力して投稿ボタンをクリックして下さい。外国語サイトからの投稿はできませんので、日本語サイトからお願い致します。




<参考文献>

  1. 2012年9月1日KAL007アメリカ遺族会の生存者捜索・著名運動について(英語)
  2. KAL007 Families and Friens コミュニティー(英語)
  3. KAL007:大韓航空007の行方不明の乗客と乗組員のためのロシア語解説→(日本語自動翻訳)
  4. KAL007に関するアメリカ合衆国側からの見解(英語)
  5. アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンによるスピーチKAL007(英語)
  6. アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ 「KAL007 and MH17」 Presidential response by Dr.Paul Kenger 2014.07.22(英語)
  7. 「MH17対KAL007」アメリカ合衆国大統領オバマ対レーガン(英語)
  8. ロシア新聞イズベスチア調査リポートとKAL007に関するインタビュー(英語)
  9. ロシア新聞イズベスチア調査リポートとKAL007に関するインタビュー(日本語)
  10. VVS Commander in Chief Army General Anatoly Kornukov ロシアVVS陸軍総司令官アナトリ・コルヌコフ
  11. The Moscow Times:ロシア司令官アナトリ・コルヌコフ,74才
  12. The NewYork Times:ゲンナジーオシポビッチ防空軍中佐 1996年(英語)
  13. 共同通信社:現在のゲンナジーオシポビッチ元防空軍大佐 2013年12月25日(日本語)
  14. KAL007に関する朝日新聞デジタルニュース_元外務審議官福田博氏による事件当時の極秘メモ 2015年12月24日22時04分
  15. 公訴時効の見直しについてISSUE BRIEF-No.679_行政法務課調査と情報 第679号


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side, April 14, 2016.

この文章を書くまでの経緯_2

この文書を書くまでの経緯_2 >ENGLISH



 2005年頃、KAL007事故現場付近の中立海域で潜水し、確認したことのある日本の民間人ダイバーによるブログを読み、考えさせられたことがあった。海底に引きずった跡のある海域は国際水域(中立地帯)で、「実際に潜水して見ると、その引きずり跡は海底に確かにあり、長々と続いていた」と日本語サイトで報告していた。どのような引きずり跡かまで書かれていなかったが、海底の砂をえぐりながら移動した真っ直ぐな道のような跡ではないかと思える。1983年9月4日に大型トロール船の網にかかり、そのまま引き上げられる状態であれば、引き上げたはずで、そのようにできなかった理由を考えていた。1.5kmも引きずる必要があったのは、それを浮かばせると他国船やヘリコプターから見つけられる中立地帯で、さらに引き上げられないほど重過ぎたという理由以外にない。ロープをできるだけ長く(200m以上)伸ばし、他国に気づかれないように国際水域からソ連領内であるモネロン島の方へ引っ張る必要があった。少しでも浮上させると100フィート(約30m)の浅瀬のため、他国のヘリコプターから見つけられる。そのためにできるだけロープを伸ばし、ボーイング747の先端を上げないように移動させた。その間に、船の上から空気を送ると膨らむ救助用ゴムボートや救命筏などを付近にいた各船に連絡して集め、翌日の5日、海底に沈んでいるKAL007をどうにか海面上に浮かばせることができた。その後、モネロン島の方へボーイング747を曳航し、その様子をパイロットや民間人、海軍の作業員たちが見ていた。

大型トロール船 Kozmin

「引きずり跡」が、燃料タンクの後ろにかかった海底の砂跡であれば、両車輪の付いている主脚を上げて胴体着水したのではないか。主脚は両翼の後側に2組、胴体下に2組、合計4組横に並んでいる。2本(又は4本)の車輪跡であれば、特徴があるのでそのように伝えるはずで、引きずり跡というのはボーイング747の底で引きずった跡のようだ。両翼の4つのエンジンは、滑走路などではかなり重いため胴体下より少し下がり、飛行中や水中では両翼の浮力により上がる。その場所はスウェーデン製ミルチンク号が作業していた付近(モネロン島北方26〜24km)で、ロシア側のダイバーたちが、9月10日の夜から潜水作業をし始めた東寄りの第2地点水深174mとは異なっている。第2地点水深174mは、KAL007の残骸しか残されていず、潜水が無理な深さであった。「その場所から水深200m以上の深い方へ、さらに移動させた跡がある」ということもそのブログで報告されてあった。


 2008年にKAL007ボーイング747型機の外壁残骸部分がニューヨークタイムズに掲載されている画像を見た事もあった。その外壁部分は、左側副操縦席後150cm四方で、弾丸の跡からどのような角度から撃ったか解析できるものだった。直径25mmのくっきりした穴が1つ、45度角の斜めの穴が2つ3つ、10度角で幅25mm・深さ10mm・長さ200mmの徹甲弾によるえぐり痕が1つ2つと多数の擦り傷。それらの弾丸痕から、1.ボーイング747の燃料タンクと貨物を後方45度角下から撃ちながらボーイング747操縦室前へ抜け出、2.左後ろ下から角度を変えながら徹甲弾を連射し、右前へ抜け出、3.左真横からまばらに垂直に撃ちながらボーイング操縦室後ろ上を通過した事が解かる。合計3回から4回の徹甲弾による250発の連射と大砲3発、ミサイル2発の攻撃があった。貨物室のトランクに詰め込んだ衣類に大きな穴が開いていたのは、下から砲弾を撃ったためではないかと思える。その画像から考えると、11,000m上空でミサイルが爆発する前から徹甲弾による攻撃によって燃料漏れしていた事になる。それによって不時着水の際に機体底部の燃料タンクに引火して爆発したのではないかと言うことがはっきりし始めた。


 さらに、KAL007の事故現場を目撃していた日本側漁船員の「ドカーン」という言葉が気がかりで、激突音ではないかと類推される個所が怪しかった。ボンやボカーンでは迫力や真実性に欠ける。水中爆発の場合、水圧や海面の関係でドカーンと響くのかも知れない。しかも漁船の上をすれすれに飛行したのであれば遠くとも3km以内、近い場合は1km前後の距離の可能性もある。海面すれすれの低空飛行は距離が限られているため、その圏内__モネロン島北方22~23km領海沿いにロマネンコ将軍率いるソ連沿岸警備船(又は国境警備船)が日本漁船を監視し、ロシア人のボートも付近にいたという事が気になり始めた。



International waters and Soviet territorial waters

 日本のイカ釣り漁船は、10tから50tぐらいであれば、2隻以上で距離を置いて操業することが多い。「日本の漁船に見られていた」というソ連側の報告には、日本の漁船が事故現場付近に何隻いたかと言うところまで伝えていない。イカ漁目的であれば複数、イカ釣り漁船によるカニ漁であれば一隻の可能性もないわけではない。モネロン島沿岸から12航海マイル(22.224km)内がソ連領海であれば、その島から北西・北・北東、あるいは南側からの他国船の領海侵犯や侵入を監視する義務があるはずで、沿岸警備隊国境警備隊による海上トロールは、定期的に行われていたはずであった。そうであれば、KGBロマネンコ将軍率いる沿岸警備船(又はソ連国境警備艇)が、KAL007事故現場付近(北方22.224kmの国境)に夜通し無灯で停泊していても、まったく不思議ではない。

 しかし、ロシア人を乗せた一隻のボートが夜明け前に単独でKAL007の海上爆発付近(モネロン島北26km)、サハリン西海岸から約50kmにいた事実は、往復の燃料費を考えると誰が考えても疑問に思わざるを得ない。国境付近の国際水域で亡命・拉致・密漁・密輸・密売・物々交換などをできるだけ接近して確認するための民間人視察偵察役で、Spyplane(偵察機)と伝えられていた大型旅客機の水没地点を知らせるため、この事故現場の状況を軍事機密ということで口止めされて残された人ではないか。KAL007不時着水付近にソ連国境警備艇が監視していたことは、偶然ではないという状況認識が、さらに正確に深まりつつある。「ロシア人を乗せた一隻のボート」は、警備艇の救命ボートか、釣などに使用されている民間のモーターボートか、大き目の沿岸警備船(警備船をボートと言うこともある)かは、現在もはっきりしていない。

 もうひとつ疑惑があるのは、269人中、返還された213人分の靴や履物で、正確に考える必要がある。213人分の靴が、焦げ跡や傷のないきれいな履物であれば、ロマネンコ将軍によって海へ脱ぎ捨てる事を命じられた可能性もある。ソコル防空軍基地からSpyplaneと連絡されていれば、KGB職員はそれを信じるしかない。民間人の服装をしていても誰々がスパイか、調べ終わるまではっきりしない。それで助かった乗員乗客全員の逃走時の用心のため、沿岸警備船の上で靴を脱がせ、海へ投げ捨てたのではないか。あるいは、沈み行くボーイング747の外で、泳ぐために自ら脱ぎ捨てたか。これらの事々に関しては、何等かの手がかりがなければ、はっきりさせる事が難しく、両方ではないかと思える。

 アブラハム・シフリンによる1990年の再調査によれば、「この時KGB職員だったロマネンコ将軍は、KAL007の操縦室の中に入り、2本のブラックボックスを引き抜き、生存者たちをさっさと連れ去った」という話をサハリンの地元住民から聞き取っていた。充分に信頼できる話かどうかは別として、その可能性も無いわけではない。「ロマネンコ将軍は、残り2本のブラック・ボックス(フライトレコーダーかボイスレコーダー)を取り忘れてその場を去ったため、参謀本部から後々散々罵られた」という話があり、参謀本部との会話は部分的に広域無線などで傍聴されていた事が知らされている。事故現場のこれらの状況を考えると、200人近くの生存者たちは、ボーイング747-230Bの中央非常口を開け、ライフジャケット姿で手荷物を持ちながら両翼に直接降りる事ができたはずで、その両翼も沈んで行ったため、そこから炎の消えた機体背後へ泳いで移動し、背面から操縦室の上の方へよじ登っていたのではないか、という事が近年の他の航空機事故例からも薄々推測することができる。ただしKAL007の場合は、右後ろと窓、燃料タンクのある床に大きな穴が開いたため、機体後方から早めに沈み始め、海上爆発から10分以内、KGBロマネンコ将軍率いる沿岸警備隊(又はソ連国境警備艇)が事故現場へ到着してから4〜5分で水没したと想定される。これらの話が事実であれば、この事件は、闇に閉ざされたまったく不可解な話ではないと言うことが解かり始めてきている。

 残りのブラックボックス2本の内の1本と箱は、水深174mの海底でプロダイバーのバディム・コンドラバエブが発見し、残り1本は不明だったため、後々までサハリン西海岸の地元漁民たちの中には探し続けていた人もいた。ブラックボックスを発見した者は、(警察署・海上保安庁派出所へ)必ず届け出る事を内容とした政府からの公報ビラがサハリン西海岸の各世帯に配られ、その後はブラックボックスの箱と使用説明書だけ、KAL007の残骸が残された付近の海底から地元漁民によって発見されたという事実が伝えられている。



<参考文献>

  1. Secret of the Empty Airplane(英語)
  2. The untold story of KAL007 and its survivors(韓国語)
  3. 13.The untold story of KAL 007 and its survivors(韓国語)
  4. KAL007-CVR transcript of the August 31.1983(英語)
  5. アラスカにおけるロシア軍キャンプ/FEMAキャンプ(日本語)
  6. シベリア抑留体験図解画像
  7. シベリア強制収容所ラーゲリ
  8. シベリア抑留鎮魂歌 早田貫一画伯
  9. 「しべりやの捕虜記」鈴木幸一著
  10. 「私のシベリア抑留体験記」高橋秀雄著
  11. 「シベリア抑留記」近藤昌三著
  12. 「忘れ難き歳月」楠正徳著
  13. 「シベリア抑留記」故岡本輝雄著
  14. 「固く閉ざされたパンドラの箱」2012年

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,5 September 2013.

この文章を書くまでの経緯_1

この文書を書くまでの経緯_1 >ENGLISH


 1983年9月1日、大韓航空機が撃墜された日、私はテレビも無く新聞も取っていない暮らし方だった。その夜、大学の友人である橋詰から電話がかかり、中沢がその便に乗っていたという知らせを受けた。驚きというより信じることが難しかった。夏季休暇の間、中沢がアメリカ旅行をしてニューヨークに住んでいた服部さんのスタジオに宿泊した帰りの便だった。翌朝、雨の降りしきるなか、出勤前に駅前の売店で朝刊を買い求め、傘をさしながら確認。「撃墜!大韓航空機の乗員乗客全員死亡」という一面記事で顔写真まで掲載されていたことを記憶している。
 翌年、1984年5月に橋詰と横浜で展覧会を開催した後、「大韓航空機はモネロン島付近の比較的浅い海上に難着水し、乗員乗客の何人かは助かったらしい」という知らせを橋詰から聞いた。「中沢は助かったのかな。何メートルぐらいの浅瀬かなー」。浅瀬と言われても何メートルか、はっきりしなかった。その情報は、週刊誌などで知る事ができたその事件から8ヶ月後の経過だった。しかしその災難の1年後、大学の同窓生の石井から中沢建志の葬儀案内状が届いた。その時わたしは、まだ死亡確認がされていない状態で葬儀をしなければならない理由が腑に落ちなかった。事情や説明を聞くべきだったかもしれないが、何か芝居じみている。間違い報道の多かったこの事件に関わりたくなかったことが本心だった。







1978年F15油彩「20才の自画像」中沢建志


 それから5年以上が過ぎた1990年ごろ、中沢が暮らしていた部屋と自画像などがNHK特集で放送され、その番組が放送される度に郷里の部屋で2回見る事となった。あいつが住んでいた所にも美大在学中、友人たちと訪れたことがあった。彼のアパートにはヨーロッパ旅行から帰った後に画いたF15号程度の自画像が飾ってあり、光が反射しないように鴨居の上に額無しでそのまま架けてあった。

 それまで、生まれ故郷で私が高校美術の授業をするなど思ってもいなかった。それも臨免と言われる期限付きの助教諭免許による。美術非常勤講師として2つの高校へ通勤する時もあった。年末に手紙を整理していると、1982年と1983年正月付けの中沢建志からの年賀状がある。それをどうすべきか、私には大韓航空機撃墜事件についてどうする事もできなかった。それが彼の葬儀を回避する理由で、それ以外の言い訳はない。彼からの葉書を捨てれば、忘れる。あるいは気にしないでいられる。しかし、ゴミ箱に捨てるには心理的な負担がある。どちらでもあまり違いはなかったが、レターケースに空きがあったので捨てないで保管していた。

 死亡届けには「死亡診断書」が必要で、死亡した原因が変死・事故死の時は、監察医が死因を確認する。監察医によって作成された「死体検案書」を「死亡届」に添付し、遺族が役所へ提出する。外国で死亡した場合、3ヶ月以内に現地の大使館や領事館へ提出されなければならない。国内の届出先は、死亡者住所地の市町村役所の戸籍課へ提出。KAL007の場合、ソ連現地の各国大使館・領事館に「死体検案書」が3ヶ月以内に提出され、大使館経由で乗員乗客全員の親族に送付された事になる。

「危難失踪」とは、地震・洪水による災害・飛行機の墜落・船の沈没などによる失踪のことで、失踪して1年以上経過した場合には家庭裁判所に「失踪宣言の審判申立書」を提出し、それ以後2ヶ月経っても消息不明の場合、「失踪宣言の確定」が認められる。裁判所によって失踪宣言が確定した後、10日以内に「失踪届」を市町村へ提出して受理されると、消息不明者は、法律上死亡したとみなされる。失踪届が役所で受理された時点で、消息不明者は除籍され、その名前が戸籍から削除される。危難失踪から死亡届による除籍まで約1年7ヶ月かかる事になる。

 中沢建志の葬儀の場合は、事件から1年経過していなかった。「失踪届」は役所に提出されていず、在ソ日本大使館か在日ソ連大使館から「死体検案書」が3ヶ月以内に親族へ送付され、それによって死亡届けを役所へ提出した事による。中沢が通勤していた神奈川県中学校職員室の彼が使っていた机の上に、事件後は花瓶と花が置かれていたはずで、何ヶ月も放置しておくわけにはいかなかった。その後は、学校長によって臨時に美術教師が新しく委任され、その授業が継続されたことは誰でも予想する事ができる。

 このような事件の場合は、遺体を確認できなくとも、「死体検案書」があれば死亡したことになり、葬儀がなされ、お墓が建てられる。KAL007乗員乗客全員の親族へ「死体検案書」が送付されたことにより、法律的に全員死亡した事件として処理されている。現実的には実際に死亡しているか、被害者各国から確認できない状態であった。


 これが最も重要な個所で、9月1日未明、11,000mの上空と着水時の2度にわたる爆発の事実から、KAL007に乗っていた乗員乗客の半数(仮に約130名)が死亡し、飛行機内に残された状態で、10分以内で海底に沈んだ。9月2日、カムチャッカ半島沖からモネロン島東側にミルチンク号が到着。11,000m上空から落下して海底に沈んだボーイング747の残骸や遺体を探すため、投錨する。9月3日、ミルチンク号モネロン島北26km付近へ移動。水没したKAL007の場所を発見。この時KAL007は、海底で自動的にELT遭難信号音を電波発信し、位置を知らせていた。しかしながら、上空ではありとあらゆる飛行機やヘリコプターが飛び交い、各国の捜査船によるソナーやエンジン音などでかき消されたため、3日まで海底に沈んだボーイング747を発見できなかった。9月4日、海軍トロール船ゲオリギ・コズミンの網にかかり、モネロン島の方へ1.5km引きずる。9月5日、その機体を海面に浮上させ、ソ連側の大型船で周囲を隠しながらモネロン島北側の浅瀬まで曳航した。または浮上させた状態で機内の遺体と手荷物などを片付け、東寄りの第2地点の方へ曳航し始めた。9月4日と5日、モネロン島付近の天候は晴れであった。

  1. 海底にあった約1.5kmの引きずり跡は、ロシア人、日本人によって確認されている。
  2. 海面に浮いた飛行機をトロール船で曳航していたようすは、9月5日、ソ連側民間ヘリコプターのパイロット他、多くの人たちに目撃されている。

 モネロン島の浅瀬へKAL007を曳航したのは、海底では作業が困難だった事による。そして4日間海底に沈んでいた機内から運び出された遺体と遺品などは、モネロン島北側の浜に設置された仮設テントの中に運ばれ、シートに包まれた状態で並べられた(その中には赤子や子供の遺体もある)。この状況によって、乗員乗客の身元が判明しないまま、浜に近い仮設火葬場で燃やされ、「死体検案書」が作成された。エリツィン大統領によるアメリカへの返答を信じれば、この事件に関するソ連参謀本部への報告書(顛末書)には「生存者はいない」もしくは「生存者無し」と記されてある。9月1日から9月10日までの空白の10日間は、民間の目撃者以外公表されていない。モネロン島北側の砂浜付近に建てられた仮設焼却炉で遺体と共に遺品なども隠滅しなければならなかった。

 隠蔽・隠滅という言葉は、適切ではないかも知れないが、当時のソ連社会主義国では、秘密警察が存在し、アメリカのCIAやFBIに対抗してKGBの組織権力が強く、政治にも深くかかわっていた。しかし、ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフによる情報公開とボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンによる秘密警察の解体によって、現在はオープンになりつつある。KAL007の事故処理で臨時雇用されたロシア民間人たちには、「この事に関しては、あまり多くを語らないように」という忠告付けで、労賃が支払われた。交通規則として考えると、部分的に少なめであれば違反にはならないと言う意味。告白した者は、老後の年金が減額されたり、重要度に応じて支払われないなどの罰則が、この当時以前まで実際にあり、サハリンの地元新聞で取りざたにされたことがあった。この事件に協力したが、緊急雇用されていないロシア民間人には賃金が支払われていない。サハリン西海岸の地元漁民による目撃談やうわさが残されていたため、アブラハム・シフリンは1990年前から再調査し始め、イズベスチア記者も同じ時期に再調査し直し、1990年12月から1991年6月までイズベスチア新聞で公表された時期があった。

 この事件の重要な個所は、1983年9月1日から10日までの空白の10日間で、その間の事実と記事に関しては非常に希にしか見つける事ができず、特に9月1日からの乗員乗客の遺体と処置、生存者に関する最も肝心な事実が究明されずに組織的に回避・隠滅させられている。これは、この事件にかかわった政治家や公務員、海軍の口封じ工作を規約文書で具体的に行ったからに他ならない。事件当時のモスクワとサハリンのソ連側の無線交信で、「なんて事をしてくれるんだ!あれは民間機だったんだぞ!」と言う[脚注1]"ロシア語による交信会話が、日本の稚内自衛隊基地局調査第二課二部別室の通称"調別"から内閣情報調査室"内調"と稚内基地局NSAプロジェクト・クレフ(CLEF)から三沢米軍基地経由で米国NSAへ自動送信される無線受信システムによって録音傍受されていた。事故現場のソ連側の調査としては、"あれは民間機だった"という結果が一部の指揮官に知らされていたことになる。その交信が、ソ連外務省長官(外務大臣)とソコル防空軍基地コルヌコフ司令官(当時大佐)か、撃墜判断に迷っていたハバロフスク極東軍管区空軍中将カメンスキー(Vladimir Kamenski)か、KGB少将ロマネンコか、KGB書記長アンドロポフの声かは、はっきりしていない。しかし民間機かスパイ機か、事件当初、確認できる場所にいたのはKGB少将ロマネンコであり、彼の他に事実を確認し断定できる人はいなかった。
 9月6日、大韓航空機撃墜前後の英訳文字付きビデオが合衆国カークパトリック国連大使によって国連で公表された。9月9日、モスクワにおける各国共同記者会見でソ連参謀総長オガルコフ元帥(Nikolai V. Ogarkov)は、「偵察機による領空侵犯」とソ連極東各基地からの報告書・資料を基に事件の経緯を語り、各国テレビ局によってその解説状況が全国で放送された。


 その後の様々なエアークラッシュの事故例を調べ、比較すると、飛行機の不時着水の場合、両翼が残っていれば生存者はかなり多い。不時着水で片翼が折れた場合、死傷者がでるほどの事故だが生存者も少なからずいる。両翼が折れていない場合は、着水に成功し、数分間は海上に浮かんでいたことになる。そうであれば、着水時のショックが少なかったため、KAL007の生存者がいたことになる。9月4日と5日に海軍トロール船ゲオリギ・コズミンによってボーイング747が曳航されていた写真やその状況の目撃は、9月1日未明に生存者がいたかどうかを決定づける証拠となりえる。燃料タンクと右側後部に穴が開き、海水に機体の全てが4日間浸かったため、修理しても直らない部類で処理された。大韓航空は、イギリスの保険会社スチュアート・ライトソン社と契約し、戦時下保険に加入していた。生き残った乗員乗客も戦時下民間人捕虜扱いにされ、連行された後は取り調べられたことは充分に考えられる。その後、KAL007は海面上に現れた状況が撮影されると国際問題になるため、そのボーイング747を爆破させて沈め、プロダイバーたちを臨時で雇用し、海底で見えないように残骸の回収作業にあたらせた。2000年10月にロシア雑誌Itogiのインタビューに答えたプロダイバーのバディム・コンドラバエブによれば、「初めから映画を作るつもりで撮影していた録画が船の上で盗難にあい、私服姿の厳粛な男性のために、撮影された写真やビデオが全て破棄された」。記録物を全て破棄する権利がその人にあるかどうかはっきりしないが、「盗難にあったその後の晩、この事件にかかわった重要人物ひとりひとりに電話で連絡し、記録物を即刻破棄するように要請されたことがあった」。それによって、この事件の真相の手がかりとなるソビエト側の記録物が、秘密警察によって隠蔽されていた重要機密物以外、ほとんど無くなることとなった。

<Reference Videos>
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豚の海中腐敗とエビ・魚・鮫による蚕食 泥砂地の海底では夜間にエビやカニ、アナゴやサメなどが活動している。 

<参考文献> 

  1. 怪文書保存館「大韓航空機撃墜事件について」(日本語)
  2. 大韓航空機撃墜事件について(日本語)
  3. 大韓航空機007便の撃墜と乗客のその後(日本語)
  4. TOP SECRET/CODE WORD(英語)
  5. The mystery of the KAL-007(英語)
  6. 日本国政府外務省「外交青書」資料編:1983年9月9日モスクワ共同記者会見,ソ連参謀総長オガルコフ(英語)
  7. 日本国政府外務省「外交青書」資料編:1983年外交記録 (日本語)
  8. 1983年_事件当初の稚内基地と後藤田官房長官の対応
  9. 1983年第100回日本政府国会参議院外務委員会「大韓航空機撃墜事件に関する件(国会会議録検索システム)」
  10. 1985年日本政府国会「撃墜事件の全貌解明に対する答弁書」内閣衆質102第40号(国立国会図書館
  11. 1985年日本政府第102回通常国会大韓航空機007便撃墜事件の真相究明に関する質問主意書」「大韓航空〇〇七便に関する答弁書
  12. 1992年日本政府第125回臨時国会参議院大韓航空〇〇七便による旧ソ連領空侵犯及び撃墜事件の全貌の解明に関する質問主意書」「答弁書」内閣参質102-39号
  13. 1995年日本政府第134回臨時国会参議院大韓航空〇〇七便撃墜事件_ICAO報告についての質問と答弁書」内閣参質134
  14. 1998年日本政府第142回通常国会大韓航空機事件の真相究明過程で明らかになった諸問題に関する再質問主意書答弁書
  15. 「国会議員白書2013年」_1998年瀬谷英行質問/答弁「大韓航空機事件諸問題に関する再質問/答弁」
  16. 「プロジェクト・クレフ」NSA電子情報部隊の暗号名「目標は撃墜された 大韓航空機撃墜事件の真実」セイモア・M・ハーシュ著_篠田豊訳より
  17. 脚注1:1998年発行「法の男 後藤田正晴(元内閣官房長官テレビ朝日出版 」,1998年第142回通常国会大韓航空機撃墜事件の真相究明の過程で明らかになった諸問題に関する質問主意書」参照

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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side, January 14, 2014.

チュンビュインKAL007機長

Chun Byung-In KAL007機長


 サハ・ヤクティア共和国のレナ川には、シベリアチョウザメの他、カラフトマスやアメマス、キングサーモンが遡上している。ロシア人は、ウォッカを飲みながら天然冷凍保存されたサケやマスなどの魚を削り、魚も常食としている。レナ川のサーモンのサイズは2種類あり、40-70cmのカラフトマスと1.0-1.5m(60kg)にも達する大型キングサーモンも上がる。しかし、最近は大型サーモンが少なくなったと言われている。ヤクーツクYakutskは、1月に−55℃まで下がり、6月に平均気温15℃まで急上昇。大き目の蚊がレナ川や沼地付近で発生する。夏の3ヶ月間(6月7月8月の平均17℃、最低5℃、最高25℃、例外的に40℃)、船が行き来できるほど凍らないが、ヤクーツク郊外の舗装されていない道が泥沼化する。9月から雪が降り始め、冬場は氷の上を車で渡れる状態になるまで完全に凍結する。2008年のレナ川観光客によると、-45℃の真冬の暗いレナ川氷上で釣りをしていた人を見かけたという記事があった。ヤクーツクの真冬は、日中も夜のような状態になり、-45℃だと釣り上げた魚は、10秒20秒で見る間に凍り始める。サーモンは、川の中流や支流でも産卵するので、ダムなどの位置が上流であれば川の生物への影響は少ない。レナ川の両岸は、上流から下流まで厚さ200m以内の永久凍土、その下に石灰大地があり、石灰を削ったり溶かしながら流れている。


 Chun Byung-In and an ice hole for fishing on the river(Indigirks) of Oymyakon by Russian TV
 ロシア人の服装(正装)をしている人がChun Byung-In。この画像から彼は右利きということが判る。場所はヤクーツクから約500km(道程1,000km)東のオイミャコンのインディガークス川沿い。何度か緊急にパイロットの仕事の依頼があった背景的な感じがする。ロシアの場合は、悲観の極致に外国人捕虜の現実があり、戦後のシベリア抑留から65年、大韓航空機撃墜事件から27年の歳月が経ち、方法や待遇が少しは改善されたかもしれない。しかし、あまり変わっていないと見た方が現実に近い。27年前、生存者が200名近くいたとしても分散され、凍死や老死で現在は100名にも満たない事が予想される。KAL-007機長Chun Byung-Inは、1983年に45才だった。2010年の現在、72才と高齢のため、臨時職から既にはずされ、年金など全く無い境遇に置かれている。
 眉毛、目鼻立ちと鼻の下のわずかな長さ、上唇の力の入り方や歪み方、肩幅の狭さ、身長と姿などがKAL-007の機長Chun Byung-In(千炳寅)と一致している。機長Chun Byung-Inの顔の特徴は、本人左側の目が鼻元に近い。左目の寄り方がまったく同じ。ロシア風の服装のためか、27年前より少し面長で若く見える。20年以上経つと両親の身体的違いから顔形が変わる人もいる。機長Chun Byung-Inの場合は、ベトナム系韓国系の特徴が混ざり、左目と笑窪の位置、口端の窪みの角度にも特徴が現れている。彼の特徴が全部一致しているのでChun Byung-Inに間違いない。黒人ひとりひとりの違いを識別しづらいように、白人でその身体的特徴が著しい人は、痩せ型の黄色人種の顔の特徴を識別しづらい。ロシアTVカメラマンも、中国人、北朝鮮人、韓国人、日本人が最初はほとんど同じに見えるため、先住民と同じように無頓着なのかも知れない。このあたりに住んでいる人たちは毛皮を使用せず、服が違っているので、国外からの移住者や最近の社会的動向として撮影したのではないかということが伺える。
 1840年代にヤクーツクを探検したロシアの歴史家A.F.Middendorfによると、水銀温度計が-38.8℃以下で凝固し、硬い金属となり、鉄を叩くとガラスのように鋭く割れる。夏の猛暑日は、蚊やブユの大群に人が襲われる。ヤクートとは「無人」という意味で、音は寒くなれば寒くなるほど伝わりやすくなり、靴音などは見えない遠距離から聞き取れるようになる。樹木も凍り、樹木が割れる音がするというような知られていない怪現象が記されている。
 ヤクーツクまでの旅費は往復約10万円。1週間の宿泊などを混ぜると、15万円以内で現在は行くことができる。しかし冬は平均-40℃、-70℃を超えた記録もある。-40℃で機械類や精密機器は、10分以内で霜が着き使えなくなる。山の形が場所の目印になっているが広大な地形のため車でなければ危険。ヤクーツク北東100km遠方に聳えている連山は休火山で、高さ2,000m近い。山頂付近のオレンジ色の所は、溶岩として流れた出た酸化第二鉄(赤鉄鉱)。ヤクーツクからちょうど南に位置する溶岩による一枚岩(橄欖岩)がレナ川の背後に見える。半球体の溶岩の塊である南側の山は、単独に吹き出た形状をしている。粘性がほとんど無く高温のため薄く堆積しながら盛り上がった。石灰岩岩盤の場合、層が厚くても薄くても角ばって砕けるため、背景の山のように丸くはならない。しかしキンバーライトかどうかは、その山の付近を調べないと解らない。ヤクーツクに住んでいる人であれば、高温の溶岩による一枚岩ということを知っている人もいる。
もし、バイカル湖付近の強制収容所で、しばらくの間労働をしていたのであれば、真冬にバイカル湖を横断しようとした強行軍で、子供や女性を含めた25万人の人々が-70℃の湖上の途中で凍死した冬将軍の話を聞いた事があるに違いない。-70℃の外気だと、どのような事をしても、どのような人でも完全に凍結する。


オイミャコンは、ヤクーツクから約500km(道程1,000km)東方、オホーツク北方約400kmの山間にあり、人口800人ほどの小さな村で、温水や凍らない水が流れる川Indigirksの南岸(インディギルカ川西2km)にある。最低気温-71.2℃を記録し、ギネスブックに登録されている。


Oymyakon,Sakha Yakutia,Russia by Google Map


 Chun Byung-Inの居る場所は、ヤクーツクTV局か地元新聞社に尋ねた方が時間がかからず確かかも知れない。KAL-007機長Chun Byung-Inの顔は、左下の顔写真が新聞などで一般的に公表されているため、ロシアやアメリカでは左上の人がChun Byung-Inという事が解っていない。希に僅かな人たちが知っていたとしても、仕事外の事々に関係しなければならなくなるので見放されている。


  1. モスクワとサハ共和国ヤクーツク(YAKUTSK)を背景にアナウンサーが解説しているこのロシア番組には、KAL007の乗客だった人たちが、他にも何人かいる。27年前の乗客の子供たちは、孤児院と学校でロシア語と英語で教育を受け、国籍や住民権、ロシア国内の資格をいくつか持っている。しかし乗客の成人以上は、孤独な労働と電気の無い生活を強いられ、仕事上の行き場が、先住民や開拓民として言語的にも同化するしかなかったのかも知れない。
  2. サハ・ヤクティア共和国(自治区)は、ロシアで最も面積があり、人口数が最も少ないうちのひとつで、サハの冬の気温は、ほぼ-70℃まで下がると解説されてある。しかし太陽が沈まない夏は、+30℃まで上がる地域もあり、夏と冬の寒暖の差が激しい。
  3. モスクワTV局のアナウンサーは「非常に面白い伝統的なライフ・スタイル」 と、ヤクーツクTV局のアナウンサーは、「彼らはアイデンティティーとプライドが高い」と解説している。この中に、元KAL007の乗客だった人たちと捕虜が混ざっているということについては関与していない。元ニューヨークに滞在していた旅行客たちという事をこのアナウンサーの世代は全く知らず、彼らがどこから来たか気づいていないことになる。ラーゲリ内の外国人捕虜ということにも触れていない。「ロシアで最も大きな共和国だが、もっとも人口が少ないうちのひとつ」と、最近の移住者や開拓民の生活状況を解説している。南サハリンの地元漁民による噂話以外は、モスクワ国内でさえ、「KAL007の乗員乗客269名は全員死亡。生存者がいなかった事件」とテレビや新聞で報道されている。
  4. この生活環境は、ロシア語で「ラーゲリ」と言われている反体制側(自由主義国)の捕虜によるキャンプ生活で、強制収容所内に他ならない。ロシアのラーゲリでは、家族生活や出産も可能だが、政治的に利用されたり、強制労働に駆り出される時もある。このビデオに元KAL007の乗員乗客が撮影されているのであれば、いまだに捕虜扱いで差別されているという事になる。生活状態は換金性のあるものが、トナカイの角、毛皮、肉などで、実際には収入など全く無い自給自足の状態にさせられている。一見するとホームレスのような自由なライフスタイルに置き換えられているが、生活費などの収入は無い。私有地ではないため、小屋や家を建てることもできず、建築物は全て建設許可が必要とされている。公共施設などの建設のための強制労働期間中は、若干の食事や生活必需品などが配給されている。しかし労働賃金は支払われていない。ラーゲリと言われている広範囲な強制収容所エリアの自給自足生活のため、テントや無線機器なども27年以上前の廃棄物が使用されている。
  5. これが何年前の番組を再編集したか肝心な事が表示されていない。ロシア国内の時効年数が20年か25年であれば、2003年か2008年に撮影され、放送局にこの事件の行方についてある程度知っている管理者が局内にいる可能性もある。KAL007生き残りの乗員乗客は、書類上でいまだに「戦時下外国人捕虜」扱いで、その後、結果的に訂正されていないということになる。なぜ、訂正されていないかは、国連常任理事国による国際司法裁判でソビエト連邦が全面的に悪いというアメリカ合衆国側の敗訴(3対2)によって、ロシアの正当性あるいは妥当性が公けにされたため、この事件の処置に関して変更がなされていない。
  6. ロシアで水葬(日本では不許可)が法律的に許可されているのであれば、広範囲なラーゲリ内で凍死などで亡くなった同僚は、どのように処置されているか。火葬、埋葬、水葬等、最悪の場合、湖の底に石を繋げて沈め、淡水生物や魚の餌にしていることも十分に考えられる。
  7. 大韓航空に対しての賠償請求は、ある程度解決したアメリカ合衆国の親族関係者もいる。しかし、いまだに解決されていない他の国々の親族関係者が残され、KAL007便の生存者存命に関しては、証拠不十分、未解決、書類と報道で「生存者はいない」「269名全員死亡」のままで訂正されずに放置されている。
  8. 社会主義国では底辺の労働力を強制収容所の囚人や捕虜、反政府労働者に依存している。このビデオからは、KAL007乗員乗客の生き残りは捕虜として扱われ、ラーゲリ内で自給自足の生活を強いられているということになる。
  9. 元々は、「大韓航空機によるソ連領空侵犯」、ソコル防空軍基地司令官アナトリ・コルヌコフとSu-15TM迎撃戦闘機のミサイルを発射した空軍少佐ゲンナジー・オシポビッチによる「スパイ機か民間機か」の誤認事件で、ゲンナジー・オシポビッチの「スパイ機説」の後、「民間機に便乗したスパイミッション説」を訂正せずに「撃墜」を正当と見なし、反証となる証拠を隠したため、関係のない乗員乗客まで巻き添えをくらい、KAL007の生き残りが外国人捕虜として不当に扱われるに至った。その確認がなされていず放置されている事に問題性がある。
  10. 民間機で死亡した乗員乗客の身元と死体などの証拠が確認された場合、加害者は「業務上過失致死傷罪」となる。どちらに過失があったかは、この事件の場合どちらにもある。韓国の場合は、9人の韓国人遺体の一部が第三者国によって発見されているので、その中でも身元が確認された何人か以外、死亡確認が無理な乗員乗客の親族は不起訴となりやすい。しかしKAL007に乗り、乗客リストに名前がある場合、死亡あるいは行方不明となった乗客乗員の親族には、業務上過失致死傷などの起訴、この事件に関わるロシア政府とKGB関係者に対し、誘拐・拉致事件容疑として公訴の権利などがある。大韓航空の会社に対するアメリカ合衆国内の訴訟問題で、米国の乗客遺族に対しては既に解決済みの人たちもいる。

※最も注意しなければならないのは、彼にルーブル紙幣を渡す時、他の知人のために「移動しないことを約束する」配慮が必要です。1985年ごろ、1ヶ月の公務員給料が200-250ルーブル(800-1000円)でした。ヤクーツク郊外であれば、5-50万円で家が建ちそうですが、物によって値段が異なるようです。(宿泊は安く、ディナーやシャーマニズムのお払いなどが1万円と高い) 2008年は、200ルーブル1000円で貨幣価値は変化せず、物価が上がり、所得や給料、年金などが変化しているようです。公務員の年金が1ヶ月(又は1年)1万五千円。ロシア人への土産品はウォッカが喜ばれるなど土産物に注意すべきかも知れません。


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side, 11 March 2010.