ラリー・マクドナルド議員の運命

ラリー・マクドナルド議員の運命 JAPANESE→ENGLISH


 シフリンのリサーチ情報によれば、米国民主党下院議員マクドナルは、1983年9月8日、ソブガバン基地から飛行機でハバロスク経由でモスクワへ輸送された。モスクワ市内のKGB監獄ルボヤンカで尋問を受けた後、レフォルトボ収容所へ入れられた。この収容所では数ヶ月間尋問を受け、モスクワ近郊スハノーファーKGB夏季保養所へ移され、その後カザフ共和国カラガンダ監獄へ移された。この頃からマクドナルド議員は、薬物によって自分が誰なのか忘れるほどの状態にされた。その後、カラガンダ監獄から隣町のテミールタウに移された。週一回の散歩と週一回の尋問、他の囚人との会話は厳しく禁じられていた。1987年にはカラガンダ監獄からカザフの小さな収容所へ護送された。ソビエトの監獄当局で言う「治療」とは、低カロリーの食事で長時間の重労働をさせられる。さらに精神病監獄院があり、どのような事をしても答えさせる。口を割らせる吐かせる意味で、薬物や前頭葉切開手術が行われ、記憶喪失か狂人に仕立てる方法を言っている。1999年以後のマクドナルド議員の消息は不明とされている。


ローレンス・ラリー・パットン・マクドナルド議員の消息



Lawrence Larry Patton McDonald 1983/His face-photo on News paper 1983/From the video scene of "Chukotka EALAT Info,March 2008"
 右上の画像は、2008年2月末から3月頃に撮影された、Chukotka Anadyrで生活しているトナカイ遊牧民のビデオで、その中に精神状態が不安定な人がいた。眉間のY字型、鼻と鼻の下の長さがLawrence Larry Patton McDonaldと一致している。25年前に比較すると顔が面長に変化している。しかし、特に上唇と下唇の形、鼻から口端にかけて皺の溝の形が左右完全に一致している。1983年の彼の顎の骨の形は二股型。この画像一枚からだと一瘤型のようだが、場面を少しずらすと顎の下の先がふたつに分かれ、顎先の真ん中にわずかな窪みがある。眉毛と目の大きさが変化している。しかし、歯が小さめで弱いため、下顎の歯の大きさを見る事ができれば、それで確認する事ができる。
 Lawrence Larry Patton McDonaldは、目が時々ギョロリと大きくなる人で、視線などにも彼の特徴が表れている。右側の画像の人がラリー・マクドナルドと確信したのは、彼の左側の頬の肉付きと頬から鼻の根元までの面積比や角度が全く同じで、左側の顔に対する右側の顔の面の角度と形、頬骨による。左側の頬骨は逆三角形型、右側の頬骨が平ら。左右非対象で似ているだけでは済まされない同一性がある。1983年の事故当時48才。2010年、現在も生存していれば75才ということになる。

 右側の老人の性格が猜疑的で何かに脅されている被害妄想感は、長い間の獄中生活による。アブラハム・シフリンは、毎晩11時過ぎに死刑が執行される監視の靴音が近づく時の恐怖感について書いている。その時間に監獄の前で靴音が止まった時、死刑が執行される。談話中の人たちの内、その心配をとくため、"Do you see, to change us, related to the warming?"と、「あなたは、我々が温暖化に関係していると思いますか?我々の境遇を変えられますか?」という要望の意味を含め、はっきりしない英語で介入した事から、その人も獄中で尋問を受けた経験があるKAL007の乗客の一人ということになる。撮影グループのロシア語の話し方に、KGBや管理者の口調と共通している所があるので、この場面を見る限り、地元の情報局から来たのであれば偵察を兼ねているはずと、初回の来訪者に敵意を持ってにらみつけている。この後の場面が無いのは、撮影拒否によるものと考えられる。彼らは、電気の無い生活で、あの事件から何年の歳月が経ち、どのようにロシア社会が変わったか、知る事もできない状況の中にいる。

 ラリー・マクドナルド元議員は、多くの監獄を変転させられた経験があり、移転する時の呼び出しを何度も体験している。KGB関係の者でなければ、樹木の無い所まで来れない。民間でこの場所を知っている人は、いないはずで、ここまで連れて来た者だけが彼らの居場所を知っている。この撮影の企画者は、なぜ多人種グループか、怪しいと思いながら確認する方法を知らないため、地理的な紹介としてこのビデオを編集している。Workshopとは仕事場という意味で、国外へ向けてのEALAT情報局による公開ビデオと考えられる。ここで撮影されている人たちが、KAL007の生き残りであることは、直接監視を担当したことのあるKGBや監獄務めのわずかな人たちしか知らない。その監視者たちも年上が多ければ、既に逝去してほとんど居なくなっている。アブラハム・シフリンの情報が比較的正確であれば、ラリー・マクドナルド元議員は、様々な尋問の末、自由主義国の社会思想犯として精神病監獄院で投獄され、薬物によって自分の過去と名前を忘れさせられている。廃人となってからChukotkaへ配置されたため、この場所の他の人たち(エスニック・グループと言われている多人種共同体)にも、彼が米国の元下院議員だったということや名前すら知らされていない。この老人の鼻の歪みと左目は、拷問あるいは凍傷や老齢による。このビデオによれば記憶喪失か、唖にさせられてからChukotka Anadyrに配置させられた様子に見える。
 丸メガネをかけたChukotka副知事のVladimir Etylinは、他のビデオで、ロシアの地理的背景とチュコツカに関する紹介、この辺りでは1年365日の内、200日から250日、地域により300日は寒さや暴風で仕事ができず、実質60日ぐらいしか野外で働くことができないと解説している。夏の間のその60日間は農業の期間で、Reindeer Husbandry(トナカイ農業)という栽培方法を行っていると語っている。チュコツカのこの多人種共同体がKAL007の生存者たちとその子孫であることに関しては一言も触れていない。



左腕の無い女性
 KAL007の生存者の1人と言われている片腕の無い女性が、シベリア北西の先住民ネネツ族の居住地域に住んでいるという知らせがアブラハム・シフリンに入り、1990年に1名のロシア人と2名のイスラエル人が調査した事があった。その女性は、1983年から1985年までの2年間、アムール川に近いシベリア鉄道のティンダ駅付近、モンゴル北東部の国境に近いソ連強制収容所で、伐採作業をさせられていた。しかし1985年、彼女はその仕事の最中、左腕の肘から腕を切断してしまった。
 その後、その女性は、シベリア北西部タゾフスカヤ・クーバ湾に隣接するナホトカ村に移された。ナホトカ村は、モスクワから北東2000km離れているヤーマロ・ネネツ自治管区の北部にあり、北極に近いツンドラ地帯の漁村で、20〜30世帯の家屋がある村だった。一年の半分は太陽が地平線から上がらない。南はタイガの原生林に覆われているため、他の場所と隔絶され、夏の8月にしか汽船が来ない。道も無く交通手段はヘリコプターしか無い永久凍土地帯だった。この村はKGBが監視していた。確認のために派遣された3人は、その村へ行くにも通行許可証が無ければ射殺される。その警備が少し緩んだぺレストロイカ(再編成・改革)時代の1990年に、3人の調査員たちは、無理を通してその女性に面会した。その女性は、魚の一部とウォッカを交換し、暮らしている。村人たちは、ウォッカは無いかという言葉が第一声だった。村人は、付近を通る蒸気船で魚とウォッカを物々交換する。長く寒いシベリア西北端で生き抜くため、体が温まるウォッカ以外の土産物には彼女も村人も全く関心を示さなかった。
 その女性は、自分が誰なのか知らなかった。記憶喪失者だった。自分の名前すら、過去に関して全く記憶が無い人だった。腕を切断した時の激痛と強制収容所の治療によって記憶を喪失したか。KGBが言う治療という処置が、それ以前になされていた女性か。村人たちは多少のロシア語も話すが、口が重く多くを語らなかった。おしゃべりは禁止されているようすだった。結局、その片腕の女性がKAL007の乗員乗客の1人だった証拠に関しては何も得られず、3人の調査員たちは帰らざるを得なかった。自分の名前すら知らない、記憶を喪失している女性という事が判った。他の村人は、彼女に関して何も知らせる事がなかった。


アムール川沿いの外国人捕虜収容所
 アムール川奥地のタイガにおおわれた原生林地帯に外国人捕虜収容所が距離を置いてまばらにあり、大韓航空機に乗っていた成年男性たちは、その場所へ収容されているという話を現地の友人から聞いた事があるという知らせが入り、シフリンの依頼を受けた2人のロシア人が、1993年の夏、奥地へ潜入した。
 その場所にある外国人捕虜収容所には、ルーマニア国籍のドイツ陸軍将校が捕虜として監禁されていた収容所だったが、1976年から77年にアムール川で大洪水があり、その大洪水によって収容所から脱出し、中国からインド、スイス経由でルーマニアに生還した人がいた。その逃亡の途中でアムール川沿いのタイガには厳重な秘密収容所がある事をその将校は脱走する事によって知る事ができた。
 アムール川沿いの追跡調査の仕事を依頼された2人のロシア人は、鉄道路線を使用してイルクーツクハバロフスク、バイカル・アムール鉄道に乗った。しかし、エロフェイ・パブロビッチ駅で降りると検問所があり、KGBと軍が管理している区域のため通行許可証の提示を要求された。この2人は、他の道を探るため、アムール川上流にあるブラゴベシチェンスク駅で降りたが、ここにも検問所があり、入域許可証を提示しなければ通行できない状態だった。アムール川沿いに住んでいるロシア人でさえ入域許可証が必要で、その手続きが難しい地域だった。しかし、2人のロシア人は、この区域に間違いなく収容所があるという事を確認する事ができた。




ソビエト強制労働収容所の実態
 戦時下捕虜収容所は、東南アジアに日本の捕虜強制労働収容所が無数にあったように、アメリカやドイツにも強制労働収容所があり、国や地域によって異なっている。強制収容所の作業ノルマは、1日最低12時間労働で、16時間まで残業させられる時もある。ソ連の場合も、場所によって異なっている。フリーマントル著「KGB」を参考。

  1. ノルマを達成した囚人には1日800gのパンが支給され、ノルマに満たない者は500gだった。懲罰の一方法として食料が更に減らされる。300gは死を意味していた。
  2. 1977年になってさえ管理の厳しい収容所は、1日2,600カロリー、懲罰で2,100カロリー、厳罰は1,300カロリー。一般人の標準カロリーは、3,100〜3,900。
  3. コルイマ収容所では、ビタミン不足による壊血病を防ぐため、松葉や潅木類の葉を漬けた水を飲まされた。
  4. 看守による囚人への暴力は禁止されていたが、脱走用金属の体内所持を調べるための強姦が許可されていた。
  5. 古い建造物の収容所は、シラミや害虫の繁殖も激しく、発疹チフスが続発した。
  6. 収容所内の他の囚人と会話する事が禁止されている。
  7. 毎年33%の餓死、病死などの死者が出ると言われている。
  8. 1993年ごろのカザフスタンの収容所は、市内のレストランから運び込まれる食事で、白パンが食べ放題。マットレス付きのベットだった。しかし他の囚人との会話が禁止されていた。
  9. 1983年は米ソの冷戦時代で、ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカが提唱され始める前だった。仮にKAL007の生存者がいたとしても、自由主義国の民間人は、捕虜あるいは拉致と同じ状態で、成人の男女であれば強制労働収容所へ連行された。少なくとも1985年まで強制労働収容所での処置方法は変わらなかったと考えられる。ソ連は近代化を行うために多くの労働力を必要とした。
  10. 1945年ごろシベリア捕虜収容所に入監させられていた日本兵の場合、とにかく栄養失調で死ぬ者が続出するため、伐採労働の者は、クワガタの幼虫を蛋白源として食べて生き長らえた事があったと地元の新聞で経験談などを公表していた。
  11. スプーンや番線、釘、ハリガネ、カミソリの歯などの金属が泥団子の中や素焼き団子、殻になるものの中へ詰めて隠している場合もあり、身体検査は抜き打ちと定期で行われた。発見されると食事の量が減らされ餓死する。囚人間の会話は無し。
  12. 脱走者が出ると、警戒や取締りがさらに厳しくなった。
  13. レスリング、ボクシング、空手、合気道、柔道などの格闘技の必殺技などを知っている者は、看守に目をつけられる。脱走で殺られる場合があるので、どの程度だか調べられる。他に特殊な技能や経験など。
  14. 顔写真と囚人番号が添付され、書類と一緒に他の監獄へ護送。監獄の環境や尋問官の性格、方法によって異なるため、様々な監獄へ移動され、尋問の内容と話した内容は調査書に書きたされる。
  15. 米ソ冷戦時代の1985年まで、アメリカのロシア人捕虜リストや捕虜収容所の場所、軍事施設のコード番号やパスワード、核兵器の所在位置、新兵器の開発計画や内容などがソ連政府にとって必要な事で、それらの事に関して知っている者に対して、厳重な取調べと尋問がおこなわれた。
  16. ソビエト北方の寒冷地帯は、何ヶ月も日が沈まないため、時間の概念が温帯の人々と異なっている。日は昇らず横に移動する。さらに夜が何ヶ月も続く。気温は1日中変化が少なく、季節によりゆっくり寒くなり、ゆっくり暖かくなる。シベリアの北方内陸は寒暖の差が激しく夏は30℃、冬は-70℃まで下がる時がある。ツンドラが草原地帯になる8月には、5℃前後の昼が1ヶ月続き、長い夜の季節は最も寒い所で-70℃まで下がる。何年も人里離れた寒冷地に適応できなければ凍死して死ぬ。
  17. 現在のウラジオストックは、秋田市、新潟、函館、釜山、大連、サンディエゴ市などと姉妹都市関係にある。しかし、現在でも軍事施設や捕虜収容所付近の管理区域には通行許可証がなければ入れない。民間人が管理区に入って走ると射殺される。
  18. 中国や韓国国籍であれば、アメリカやロシアの大国の方が有利と考えざるを得ない。
  19. 2009年の共産圏は、携帯電話やパソコンによる電子通信機器が急速に普及し、ソ連の隅々までネットを張り始めてきている。PCのOSは共産圏の役所でさえWindowsマルチメディアが一般的に普及している。
  20. ミハイル・ゴルバチョフの提唱による1985年からのペレストロイカで、ロシア国籍の一般市民は外国への渡航が自由になっている。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,14 January 2014