KAL007事故後の作業(1)
2024年5月20日KAL007乗客遺族 解決の糸口
Boeing 747の着陸 2024年6月改正版 最新記事追加(37)
1983年9月1日、サハリン西側モネロン島北方26kmの海上でKAL007が爆発した夜明け前のJST3時45分ごろ、その付近の海上にいた一隻のボートが走り出した。ボーイングの低空飛行とその海上爆発を目撃していたひとりのロシア人男性だった。爆発を確認するため、海上を走ったその民間人が目撃していた内容に関して書かれている記事がない。
◆「最初にソ連沿岸警備隊の船が爆発現場に到着した。その27分前以内に1人のロシア人を乗せた一隻のボートが現場付近にいた」という事実だけが知らされている。
そのロシア人は、ボーイングの燃料タンク爆発後、海面が炎で燃え上がり、もう一回小さな爆発を起こした後、その炎がどんどん衰え、ついには消えて行く暗闇の中の光景をボートを走らせながら観察していた。爆発してから炎が消えるまで何分もかからなかった。暗闇の中で生存者がいないか、探すため、爆発地点付近にいる必要があった。夜明け前は雨の降りそうな曇り空で気温は16℃と急に寒くなり始める季節だった。
ソ連サハリン州スミルニク基地の多目的ヘリコプターに救助命令が下されたのは日の出前JST4時25分で、9月1日の日の出時間は4時47分だった。ヘリコプターが墜落現場へ到着した時は、わずかに明るくなりはじめ、海面が見え始めていた。その日の海は、うねりや波も立たず、空はどんよりし、海上には南側から霧が発生し始めていた。
KAL007がレーダーから消えた3時38分前から連絡を受けていたソ連沿岸警備隊の船は、KAL007が海上で爆発する以前に既に走り出していた。モネロン島付近には、沿岸警備隊と国境警備隊の船が何隻か、民間の漁船も停泊していた。爆発地点から北側に日本のイカ釣り漁船の灯りが海上あった。沿岸警備隊は、KAL007の墜落地点を無線で報告しながら現場へ直行した。その1時間後に現場へ到着したスミルニク基地からの救助ヘリコプターは、海上にいるかも知れない落下した生存者たちを探した。
「ソ連沿岸警備隊の救助船が到着した時には、海面上に浮いていた人は、ひとりもいなかった」と正式に報告されている。
日本のイカ釣り船第58千鳥丸乗組員の話しによれば、「島の上空を音をたてながら降下するところを見ていた」「けたたましい音をたてながら頭をかすめるほどの低空飛行だった」「爆発が2度あり、初めは大きく、次は小さめだった」「しばらくして油(ケロシン)のすごい臭いがした」
アブラハム・シフリンの追跡調査によれば、「事故当日は、暗いうちにロマネンコ将軍率いるソ連沿岸警備隊の救助船がいち早く事故現場に駆けつけ、ブラックボックスを操舵室から取り外し、乗員乗客を運び出した」という、現地漁民によるうわさがあった。
ロシア沿岸警備船 Russian Coast Guard Vessel
気象衛星ひまわり2号の画像によれば、モネロン島付近は9月1日曇り空で、8月31日より平均気温3℃上昇、19℃までしか気温が上がっていない。晴れると25℃ぐらいまで上がる。
北海道稚内の天気は、9月1日曇り、2日は快晴で24.5℃まで気温が上がった。3日雨、4日5日晴れ、6日7日曇り、8日雨、9日10日曇り、11日12日13日雨、14日曇り。9月1日、日本時間午前4時前後のユジノサハリンスクは、北西から雨雲と南側の海(宗谷海峡)から霧が発生し、モネロン島周辺は厚い雲に覆われ、サハリン南西の海上に霧は発生していなかった。オシボビッチ防空軍少佐によれば、「夜明け前のソコルの滑走路は真っ暗でほとんど見えず、ライトの位置でやっと着陸できたほどの霧だった」。
KAL007の水没現場は、モネロン島北26km地点(米国国家安全保障局による着水地点再分析結果)46"27N,141-13Eで、水深30.4m(100フィート)。ミルチンク号は9月3日にモネロン島北側の海底で発信するELT自動遭難信号発信機の電波を捉え、機体の位置を発見。そのあたりの海底は、所々に海草のある泥砂で、その西側は150m〜200mの深い海域だった。
「スウェーデン製ミルチンク号には、海中テレビカメラが用意されていた。そのカメラを船から海底へ降ろし、船の上で海底の様子を見る事ができるものだった。しかし9月2日と3日の2日間、そのテレビカメラの使用を試みたが、カメラ視界3mとほとんど見えない状態だった」。
「海底スキャナーを装備しているソ連側の専用船も作業していた」。音波を海底に反射させて戻る反射速度の違いを海底地形として映像化し、プリントする事ができる。この時代にそれが既に活用されていた。1m単位以上に細かく測定できるものであれば、高さ7.85m長さ70.6mもあるボーイング747の位置とその機影も画像化する事ができる。しかし、スキャニングの処理とプリントの速度が遅いため、海底マップ作りに使用されていた。事故現場付近からモネロン島周辺までスキャンしていたその船によって海底の詳細マップが作成され、爆発した機体部分の飛び散り方と移動場所までチェックされていた。
ロシア国境警備艇 Russian Maritime Border Guard Pacific region PSKR
「ミハイル・ミルチンク号は、錨やブイ無しで一定の位置を維持する事が可能な船で、動的な配置システムを持っていました。船の位置を固定するため6つの操縦機器、風のスピードと方向を使用するコンピュータと電流(電磁波)の方向から計算されるシステムがありました。ミルチンク号はテレビカメラで海底を観察していました」
「掃海艇は出動しました。その時、捜索エリアは混んでいました。その混み方は捜索を妨げました。掃海艇は私が見たところ、正しければ6隻です。次に来たのは機雷探知機とソナー機器のあるトロール漁船。その前に来ていた掃海艇も機雷探知機を装備していました」。
「ボーイング機は形を残して最初は海面に浮いていた」
大型トロール船が浮いているボーイング機を曳航しているところを撮影した写真を見た人がいた。両翼のどちらかが折れていれば、そのように伝えられたはずで、この言葉からは両翼もあった意味に解される。その写真は何枚か現存しているはずだが、公表されなかった。もし両翼がそのままの状態であれば、海上に着水して爆発しながらも何分か浮いていることができる。KAL007の後部右側にミサイルによる180cm四方の穴と、爆風で外れたり金属破片で割れた窓ガラス、無数の徹甲弾跡から海水が入り込み、機体後部から早めに沈んでいった。
ニューヨークタイムズの新聞写真によると、KAL007操縦室左下にも徹甲弾の跡があった。弾丸の傷痕は、2F操縦室左下1mの外壁に直径約3cmの円形の穴1つと、長さ20cm幅3cmの溝のような傷跡が1ヶ所、様々な角度からの浅い傷跡が大小5〜8ヶ所あり、左側の斜め後ろ下から角度を変えながら3回と真横から1回撃った痕跡がある。オシポビッチ防空軍中佐による後々の報告によれば、左下後ろ側から上に向かって撃ったことを少佐から中佐へ昇格後、インタビューで話した時もあった。
1983年9月1日、未明の事故現場にいた目撃者たちは、ボートに乗って水没地点にいたロシア民間人1人とロマネンコ少将(KGB職員)率いる沿岸警備隊(警備船2隻の説がある)、離れた場所にいた日本のイカ釣り漁船8人の乗組員たちだった。しかしその他、モネロン島に停泊していたソビエト沿岸警備隊員たちと民間漁船の乗組員たちのほか、稚内自衛官は、上昇し始めたKAL007便を双眼鏡で観察していた。
1.イカ釣り船乗組員の話しによれば、雲の上で爆発音があり、島の上空(雲の下)を2回まわり、音をたてながら降下したところを見ていた。
2.機体は不時着水し、暗いうちに沿岸警備隊がロープで機体を引っ張り、爆破して沈めたという、たれ込み情報があった。
3.ソ連防空軍迎撃戦闘機Su-15TMパイロットの話しによれば、徹甲弾250発、砲弾3発を撃ったが機体はびくともしなかった。発射したミサイル2発の内、2発目が機体の後部に命中したとインタビューで答えていた。(操縦室と燃料タンクを狙った警告射撃で、燃料タンクからケロシンが漏れ出していた)。
4.沿岸警備船の最高速度は、通常27~40ノット(50km/h~約70km/h)。モーターボートは80km~100km/h)、水没現場にいたボートは、船外機を付けた漁業用小舟かモーターボートか不明。
5.「27分前以内」にという事故現場の表現は、後から到着した国境警備艇船長の報告のためか、モネロン島北側沿岸に夜間停泊していた警備艇が時速60kmで事故現場まで27分かかった。そうすると夜間でさえ距離が解り、モネロン島から北方27km地点で不時着水し、爆発したという事が解る。警備艇船長であれば、目安としての速度と時間によって距離を出す事は一般的に行われている。
リサーチセンターA・シフリンによるリポートによるが、秘密警察が存在していた当時のソ連では、マフィア地下組織があり、「たれ込み」と言われる情報収集家(知らせ役)がいた。
ソ連軍部としては、実情がハッキリするまで、口外しないように関係者に誓約させるしか方法が無かった。
「機体は不時着水し、暗いうちに沿岸警備船のロープで機体を引っ張り、爆破して沈めた」という情報---この事件を初めから目撃していたソ連側民間漁船の船員たち---には信憑性があり、未明の海上で浮遊していたジャンボ機をどうすれば良いか、ロマネンコ将軍は、モスクワのオガルコフ参謀総長に無線で尋ね、処置方法を確認した。夜が明けて韓国の民間機であった事が発覚すると大騒ぎになり、大変まずい事になる。それで「領空侵犯したスパイ機を撃墜した」という正当な筋を通さなければならなかった。
イズべスチア新聞記者による事故当初のソコル基地インタビューで、将校は「無傷だった」、技官は「下から上に上がれた」と伝えている。
「無傷だった」とは、上空で爆破した後、2機のソ連迎撃戦闘機がボーイング747をモネロン島上空で見失うまで追撃し、2発のミサイルを右旋回で避けられ、見失った。ソコル防空軍基地へ戻ってから防空軍司令官に報告した内容は、ミサイル2発を発射したRTF(Mig-31)パイロットによれば「無傷だった」。Mig-23パイロットは、機体の逃避行状態から「爆発したのは部分だけだった」「ボーイングだった」と司令官に報告した。これはオシポビッチ談話で、ソコル基地に戻った時に、後から追撃したMig-23とRTFパイロットから聞いた話であった。
技官による「下から上にあがれた」という意味は、「ボーイング」で「二列の窓」があったという報告から747型ジャンボジェット機であれば、1階から2階へ上がる事ができたという意味。
ソ連沿岸警備船は、日本の漁船とロシア人を乗せたボートを監視する職務上の義務があった。当然の事ながら、沿岸警備船は無灯で、日本のイカ釣り船とボートを双眼鏡などで監視する事ができる位置---ソ連国境の領海沿いモネロン島から約22km---にいた。ソ連沿岸警備船にはサーチライトが複数搭載されている。
KAL007が不時着水する間際、ソ連沿岸警備船のサーチライトによって海面が照らされたかどうかまで解っていない。しかし、ジャンボ機が海面すれすれで接近して来たのであれば、数十秒遅れたとしても、衝突を避けるために機首や海面など全てを照らし出したはずと思える。「水平線がぴかーと光り、ドカーンと爆発した」というイカ釣り船員の目撃通りであれば、爆発前に沿岸警備隊やソ連側漁船の投光器や大型サーチライトで海面が照らされたと考えた方がより真実性に近い。「ソフトランディングで着水に成功した」という、韓国と日本側の出所不明の情報が掲載されていた事もあった。
それは『KAL007の機体が、右後ろに約2mの穴が開いた他、ほぼ完全な状態で海底から引き揚げられた事実』、「当初、機内はケロシンでびしょびしょで、空の状態でした」(イズべスチア新聞記事)と言う事実に基づいている。さらに機内269人分の手荷物と毛布は、急上昇中の1分間で白い霧が発生し、同時に機内空気が後方に流出し、全て吹き飛び、爆発の火で燃えながら機外へ噴き出し落下した。高度12,000~9,000mまで急降下後、水平飛行した4分間の機内室温は-50℃まで下がり、その後の10分間は-30~-10℃だった事が予測される。
黒手袋の片手と白手袋の片腕は、急激な寒さと急減圧で朦朧としながら、自力で寒さをしのごうとした乗員たちが何人もいた事を物語っている。しかし、手袋をはめた後に気を失い、その場で死亡した乗員たちか、最初から手袋をしながら就寝していたか不明。手袋を身近に持っていた乗客はほとんどいないので、右後の座席に座っていたKAL機長か航空機関士の手袋ではないかと想定される。航空機の乗員たちは、この当時白手袋のため、黒手袋は疑問が残り、はっきりしていない。遺体収容はソ連海軍の仕事であったが、ソ連側で主張するスパイ機の証として、意図的に最後まで残された遺物と考えられる。
参考画像:この航空機画像は、2009年1月15日に撮影されたUSエアウェイズ1549便で、同じような状態でKAL007が不時着水に成功し両翼がある場合、機体が海面上に浮いている間、230人以上の乗員乗客たちは生存していた事になる。
※ 遺族の方や関係者の方は、左下の[コメントを書く]をクリックして、感想や相談等を入力してお知らせください。入力ミスの場合、ご自分で消去・修正ができます。
(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, 2009-2024.9.6-