この文章を書くまでの経緯_2

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 2005年頃、KAL007事故現場付近の中立海域で潜水し、確認したことのある日本の民間人ダイバーによるブログを読み、考えさせられたことがあった。海底に引きずった跡のある海域は国際水域(中立地帯)で、「実際に潜水して見ると、その引きずり跡は海底に確かにあり、長々と続いていた」と日本語サイトで報告していた。どのような引きずり跡かまで書かれていなかったが、海底の砂をえぐりながら移動した真っ直ぐな道のような跡ではないかと思える。1983年9月4日に大型トロール船の網にかかり、そのまま引き上げられる状態であれば、引き上げたはずで、そのようにできなかった理由を考えていた。1.5kmも引きずる必要があったのは、それを浮かばせると他国船やヘリコプターから見つけられる中立地帯で、さらに引き上げられないほど重過ぎたという理由以外にない。ロープをできるだけ長く(200m以上)伸ばし、他国に気づかれないように国際水域からソ連領内であるモネロン島の方へ引っ張る必要があった。少しでも浮上させると100フィート(約30m)の浅瀬のため、他国のヘリコプターから見つけられる。そのためにできるだけロープを伸ばし、ボーイング747の先端を上げないように移動させた。その間に、船の上から空気を送ると膨らむ救助用ゴムボートや救命筏などを付近にいた各船に連絡して集め、翌日の5日、海底に沈んでいるKAL007をどうにか海面上に浮かばせることができた。その後、モネロン島の方へボーイング747を曳航し、その様子をパイロットや民間人、海軍の作業員たちが見ていた。

大型トロール船 Kozmin

「引きずり跡」が、燃料タンクの後ろにかかった海底の砂跡であれば、両車輪の付いている主脚を上げて胴体着水したのではないか。主脚は両翼の後側に2組、胴体下に2組、合計4組横に並んでいる。2本(又は4本)の車輪跡であれば、特徴があるのでそのように伝えるはずで、引きずり跡というのはボーイング747の底で引きずった跡のようだ。両翼の4つのエンジンは、滑走路などではかなり重いため胴体下より少し下がり、飛行中や水中では両翼の浮力により上がる。その場所はスウェーデン製ミルチンク号が作業していた付近(モネロン島北方26〜24km)で、ロシア側のダイバーたちが、9月10日の夜から潜水作業をし始めた東寄りの第2地点水深174mとは異なっている。第2地点水深174mは、KAL007の残骸しか残されていず、潜水が無理な深さであった。「その場所から水深200m以上の深い方へ、さらに移動させた跡がある」ということもそのブログで報告されてあった。


 2008年にKAL007ボーイング747型機の外壁残骸部分がニューヨークタイムズに掲載されている画像を見た事もあった。その外壁部分は、左側副操縦席後150cm四方で、弾丸の跡からどのような角度から撃ったか解析できるものだった。直径25mmのくっきりした穴が1つ、45度角の斜めの穴が2つ3つ、10度角で幅25mm・深さ10mm・長さ200mmの徹甲弾によるえぐり痕が1つ2つと多数の擦り傷。それらの弾丸痕から、1.ボーイング747の燃料タンクと貨物を後方45度角下から撃ちながらボーイング747操縦室前へ抜け出、2.左後ろ下から角度を変えながら徹甲弾を連射し、右前へ抜け出、3.左真横からまばらに垂直に撃ちながらボーイング操縦室後ろ上を通過した事が解かる。合計3回から4回の徹甲弾による250発の連射と大砲3発、ミサイル2発の攻撃があった。貨物室のトランクに詰め込んだ衣類に大きな穴が開いていたのは、下から砲弾を撃ったためではないかと思える。その画像から考えると、11,000m上空でミサイルが爆発する前から徹甲弾による攻撃によって燃料漏れしていた事になる。それによって不時着水の際に機体底部の燃料タンクに引火して爆発したのではないかと言うことがはっきりし始めた。


 さらに、KAL007の事故現場を目撃していた日本側漁船員の「ドカーン」という言葉が気がかりで、激突音ではないかと類推される個所が怪しかった。ボンやボカーンでは迫力や真実性に欠ける。水中爆発の場合、水圧や海面の関係でドカーンと響くのかも知れない。しかも漁船の上をすれすれに飛行したのであれば遠くとも3km以内、近い場合は1km前後の距離の可能性もある。海面すれすれの低空飛行は距離が限られているため、その圏内__モネロン島北方22~23km領海沿いにロマネンコ将軍率いるソ連沿岸警備船(又は国境警備船)が日本漁船を監視し、ロシア人のボートも付近にいたという事が気になり始めた。



International waters and Soviet territorial waters

 日本のイカ釣り漁船は、10tから50tぐらいであれば、2隻以上で距離を置いて操業することが多い。「日本の漁船に見られていた」というソ連側の報告には、日本の漁船が事故現場付近に何隻いたかと言うところまで伝えていない。イカ漁目的であれば複数、イカ釣り漁船によるカニ漁であれば一隻の可能性もないわけではない。モネロン島沿岸から12航海マイル(22.224km)内がソ連領海であれば、その島から北西・北・北東、あるいは南側からの他国船の領海侵犯や侵入を監視する義務があるはずで、沿岸警備隊国境警備隊による海上トロールは、定期的に行われていたはずであった。そうであれば、KGBロマネンコ将軍率いる沿岸警備船(又はソ連国境警備艇)が、KAL007事故現場付近(北方22.224kmの国境)に夜通し無灯で停泊していても、まったく不思議ではない。

 しかし、ロシア人を乗せた一隻のボートが夜明け前に単独でKAL007の海上爆発付近(モネロン島北26km)、サハリン西海岸から約50kmにいた事実は、往復の燃料費を考えると誰が考えても疑問に思わざるを得ない。国境付近の国際水域で亡命・拉致・密漁・密輸・密売・物々交換などをできるだけ接近して確認するための民間人視察偵察役で、Spyplane(偵察機)と伝えられていた大型旅客機の水没地点を知らせるため、この事故現場の状況を軍事機密ということで口止めされて残された人ではないか。KAL007不時着水付近にソ連国境警備艇が監視していたことは、偶然ではないという状況認識が、さらに正確に深まりつつある。「ロシア人を乗せた一隻のボート」は、警備艇の救命ボートか、釣などに使用されている民間のモーターボートか、大き目の沿岸警備船(警備船をボートと言うこともある)かは、現在もはっきりしていない。

 もうひとつ疑惑があるのは、269人中、返還された213人分の靴や履物で、正確に考える必要がある。213人分の靴が、焦げ跡や傷のないきれいな履物であれば、ロマネンコ将軍によって海へ脱ぎ捨てる事を命じられた可能性もある。ソコル防空軍基地からSpyplaneと連絡されていれば、KGB職員はそれを信じるしかない。民間人の服装をしていても誰々がスパイか、調べ終わるまではっきりしない。それで助かった乗員乗客全員の逃走時の用心のため、沿岸警備船の上で靴を脱がせ、海へ投げ捨てたのではないか。あるいは、沈み行くボーイング747の外で、泳ぐために自ら脱ぎ捨てたか。これらの事々に関しては、何等かの手がかりがなければ、はっきりさせる事が難しく、両方ではないかと思える。

 アブラハム・シフリンによる1990年の再調査によれば、「この時KGB職員だったロマネンコ将軍は、KAL007の操縦室の中に入り、2本のブラックボックスを引き抜き、生存者たちをさっさと連れ去った」という話をサハリンの地元住民から聞き取っていた。充分に信頼できる話かどうかは別として、その可能性も無いわけではない。「ロマネンコ将軍は、残り2本のブラック・ボックス(フライトレコーダーかボイスレコーダー)を取り忘れてその場を去ったため、参謀本部から後々散々罵られた」という話があり、参謀本部との会話は部分的に広域無線などで傍聴されていた事が知らされている。事故現場のこれらの状況を考えると、200人近くの生存者たちは、ボーイング747-230Bの中央非常口を開け、ライフジャケット姿で手荷物を持ちながら両翼に直接降りる事ができたはずで、その両翼も沈んで行ったため、そこから炎の消えた機体背後へ泳いで移動し、背面から操縦室の上の方へよじ登っていたのではないか、という事が近年の他の航空機事故例からも薄々推測することができる。ただしKAL007の場合は、右後ろと窓、燃料タンクのある床に大きな穴が開いたため、機体後方から早めに沈み始め、海上爆発から10分以内、KGBロマネンコ将軍率いる沿岸警備隊(又はソ連国境警備艇)が事故現場へ到着してから4〜5分で水没したと想定される。これらの話が事実であれば、この事件は、闇に閉ざされたまったく不可解な話ではないと言うことが解かり始めてきている。

 残りのブラックボックス2本の内の1本と箱は、水深174mの海底でプロダイバーのバディム・コンドラバエブが発見し、残り1本は不明だったため、後々までサハリン西海岸の地元漁民たちの中には探し続けていた人もいた。ブラックボックスを発見した者は、(警察署・海上保安庁派出所へ)必ず届け出る事を内容とした政府からの公報ビラがサハリン西海岸の各世帯に配られ、その後はブラックボックスの箱と使用説明書だけ、KAL007の残骸が残された付近の海底から地元漁民によって発見されたという事実が伝えられている。



<参考文献>

  1. Secret of the Empty Airplane(英語)
  2. The untold story of KAL007 and its survivors(韓国語)
  3. 13.The untold story of KAL 007 and its survivors(韓国語)
  4. KAL007-CVR transcript of the August 31.1983(英語)
  5. アラスカにおけるロシア軍キャンプ/FEMAキャンプ(日本語)
  6. シベリア抑留体験図解画像
  7. シベリア強制収容所ラーゲリ
  8. シベリア抑留鎮魂歌 早田貫一画伯
  9. 「しべりやの捕虜記」鈴木幸一著
  10. 「私のシベリア抑留体験記」高橋秀雄著
  11. 「シベリア抑留記」近藤昌三著
  12. 「忘れ難き歳月」楠正徳著
  13. 「シベリア抑留記」故岡本輝雄著
  14. 「固く閉ざされたパンドラの箱」2012年

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,5 September 2013.