KAL007事故後の作業(2)

KAL007事故後の作業(その2)



ソ連側から出動した救助隊ヘリコプターと同機種Mi-8

  1. 1991年ソ連新聞イズベスチア調査取材によるオブザーバー(観察者)の話で、「事故現場の天候はほとんど晴れ、くっきりした空、青色の緑色の水域、嵐なしの秋だった」とある。天気予報では1日目曇りで凪、2日目は晴れだった。
  2. 海上で起こっていたものを観察するのに最も良い方法は、空から見る事でした。それはまた異常に混んでいました」
  3. 海上捜索の間、飛ぶ事ができる全ての者が飛行捜索しました。空軍、海軍、およびロシア本土から送られたものは、どのような種類の航空機も」
  4. 9月1日と2日は、捜査ヘリの上をソ連イズベスチア、北海道新聞、日本・韓国・米国新聞各社、各国テレビ局のヘリコプターや小型セスナが飛び、その事故現場付近の状況を撮影しました。
  5. サハリンから宗谷海峡は深くとも60m、モネロン島北側は平らで比較的浅い海域が続いている。北側10km先まで水深20m、20kmまで水深30m、30kmまで水深100m、40kmまで水深200m。約30mの浅瀬が北海道稚内礼文島利尻島まで続いている。
  6. 「ミルチンク号のダイバーが潜水する付近は、電流と音波を流し、サメなどを寄せないようにした。そのためか、ミルチンク号のまわりで漁船やトロール船が引っ張った網の中には魚が一匹も入らず、遺体や遺品もまったく取れなかった。海底の重い泥で網が切れた事もあった」
  7. アメリカの船から1度大音響の機械が作動し、潜水の仕事ができなかった事があった。その時は対潜水艦のための巡洋艦でさえ仕事を停止させなければならなかった」
  8. 「海中音によって魚を浮かせるハイドロ音響のエコートロール船と何隻かの潜水艦も捜査エリアへ送られました。最初に捜査エリアに到着している潜水艦についてどのような公式な言及もなされていなかった」
  9. ソ連側の原子力潜水艦が初日から来ていた事は、誰もが推測し、気が付いていました」
  10. 「何箇所かで場所と仕事が継続されている他の船のため、突然、アメリカのミサイルフリゲート艦が壊れるところを見ました」


1983年9月3日KAL007事故現場付近のソ連艦隊 9月1日は曇りで凪、海上は霧が発生していた。2日晴れ、3日雨。波の形から風が強い雨の日

  1. 「9月1日から6日まで、ソ連艦艇6隻が墜落地点付近の警備と他国船の干渉や侵入を防ぐため配置された。多い時は32隻の船が集まった日もあり、さらに他の船舶が48隻も集中した日もあった。そしてアメリカ艦隊や他国船がその外側を取り巻く状況だった。アメリカとソ連の海軍艦隊は核ミサイルを装備しており、敵対した状態で核ミサイルの照準を合わす事もお互いになされるほど緊迫した状態だった」
  2. ソ連側の空母に着陸しようとしていたヘリコプターが、海上に墜落して1機爆発しました」
  3. リマン海流の潮流速度は、海面付近より深いところの方が速かった。9月1日の正午まで日本海の方に流れたとしか考えようがない。遺体がなぜ海上に浮かなかったか。引火しやすい素材のため服と一緒に燃えてしまい救命具として役立たなかった。爆発規模と海面に浮いた油が10分前後燃えていた事実を考えると、救命胴衣を着けたまま衣服や髪の毛にも火がつき、耐えられずに火だるまの状態で次々と火の海に飛び込んだという推測が最も近い。燃えなかった場所は2Fと前列だけで爆発後の海面に浮いた油に火が付いた範囲が広かったため消え方が早かった。
  4. 爆発で飛散した遺体部分の肉や骨は海水より重いため、脂肪部分が浮く程度でほとんどが海中に沈みリマン海流によって南へ流される。海上に浮いていた遺体がひとつも無かったというのは、本当の話か、片付けた後の話が混ざっているのではないか。海面に靴や救命胴衣、軽い荷物など様々な物が浮いていたはずで、掃海艇があれば、浮いていたものは即日片付ける事ができる。その事故現場の初日の情況が詳しく知らされていない。
  5. 「事故現場から約40kmのサハリン西海岸ネベリスク(Nevelsk)の町には空軍本部担当者、航空産業送信省からの専門家がスタッフの中にいました。海底のボーイングから様々な機器が運ばれ、正式にスパイ機であったかどうかの検証が行われました」
  6. 「ペテロパブロフスクにも専門職員と秘密職員がいました。海軍少将はウラジミロフとアポロノブの2人でした」
  7. 「モネロン島北側のビーチはロシア沿岸警備隊により、きれいに掃除され、海水中で発見されたすべての物が集められ、地上で記録され、袋に詰めてボートやヘリコプターで運ばれました。ヘリコプターを操縦していた私は見つけられたものが何であるかを知っています」。
  8. 9月4日と5日、捜査エリア付近でヘリコプターを操縦したパイロットは、口止めに関して何も言われていなかった。事故現場付近の上空は、ヘリコプターや飛行機が何十機も飛び交い、空からも捜索が行われていた。「上空から下を見ると、モネロン島北側の岸ぞいに国境警備隊がぞろぞろ歩き、流れ着いた物を何でも拾い集めていました」
  9. 「私は繰り返し毎日飛びました。その時の私の仕事は、ユジノサハリンスクからネベリスクへ保安委員会の連中と人を運び、発見されたあらゆる物を巡回してヘリコプターに積み、ネベリスクへ戻る仕事でした」
  10. 「日本からのパトロールボートは、ヘリコプターが離着陸できるように装備されていました。そして見たところ均一な英国船。信じられませんが多い時は100隻以上でした」
  11. 日本の海上保安部の巡視船2隻は、防衛庁稚内レーダー監視基地から9月1日JST3時29分にKAL007の飛行情報を受け取り、サハリン西の海域に派遣された。稚内には飛行機2機を待機させられた。9月1日JST6時10分から14時30分の間に海上保安庁は8隻の巡視船をサハリン西海域に派遣した。
  12. 「おびただしい数の浮き球を積んだ2隻の日本船もいました」
  13. 「ある日私は、何隻かの韓国の船が、たくさんの花で被われるのを見ました。それらは、ある種の水上の葬式のようでした」
  14. 「捜査エリアで網を引き協力したソ連漁船15〜20隻の乗組員たちには何も支払われず、機密事態かどうかも知らされていなかった。港から派遣された救助隊や沿岸警備隊には労賃が全額支払われました」
  15. 「100ドル札が海上に散乱していました。その場所へ行き、それを見ましたが、つかむ事ができませんでした。その騒ぎが治まるまで長い時間かかりました」
  16. 9月1日の夕方、太平洋軍団司令官に呼びかけられ、会合がありました。その時、その司令官は「とにかく朝まで、海底ボーリングをしている船を直ぐに送ってください」という電報が入り、私はミハイル・ミルチンク号を捜査領域に送りました。ミルチンク号がその時の捜査海域に最も近い場所にいました。ミルチンク号が9月2日の朝に現場へ到着し、ボーイングの場所を発見したのは3日目、5日目と6日目にトロール船の網で潜水作業がしやすいようにさらに浅い方へ移動したという話があります。


After Action Report Map, 1983 / Moneon Island and West Sakhalin Area


 目撃談を組み合わせると、9月1日から3日、3日から6日、7日から9日、10日から29日でボーイング747の位置が変わった。この内、9月1日から3日、9月7日から9日の位置と作業が、語られていずはっきりしていない。作業効率と時間を考えた場合、潜水作業がしやすいように海面に浮かばせてから船で曳航し、最も浅い場所へ移動させたことが考えられる。9月1日から3日まではモネロン島北約26kmの海底、3日にミルチンク号がボーイング747の位置を発見する前は、海軍がトロール用ネットを使用し、櫛をすくように探していた。9月4日5日モネロン島北24km付近で機体を浮かばせ、モネロン島北側の浅瀬にトロール船で曳航。9月10日から29日まで北北東水深174m地点。9月4日と5日にトロール網でボーイングの機体を引っ張った海軍は、その功績でメダルや記念品など贈られたためか、その時の詳しい状況を伝えた人がいない。いわゆる軍事機密として海軍公務員には口止めで洩れないようにしていた。ソビエトは、国連海洋法条約により、その領海限界を海岸の最低潮位から12マイル22.224kmと宣言している。しかし、ソビエト海軍の方では海岸から12.6海里(航海マイル)23.3352kmの説もあり、はっきりしていない。

  1. 「ダイバーたちは160mより深い場所で仕事をする事ができませんでした。軍隊から与えられた潜水用具で15分〜20分が限界で、この仕事は長時間のダイビングが必要とされるという事が解っていました。モネロン島の北11マイル地点で国際水域12マイルに近い場所のため、非常に混み合いました」
  2. 「霧が発生していました。アメリカの護衛艦が霧の中から現われ、私はかろうじてその接近を避けることができました」
  3. 「大型飛行機のIL-18も飛んでいました」
  4. ソビエト太平洋軍団総司令官バシリエヴィッチ・シドロフ(Vasilyevich Sidorov)は、とにかくアメリカ人をだます事を考えていました。発信器付きの別のブラックボックスを注文し、それを深い所へ沈めていました。ほんのわずかな人々が彼のアイディアを知っていました。アメリカ人対策として偽造捜索エリアをつくり、撹乱する方法でいました。その偽装は、誰でも偽装だと解るような類のものであれば、司令本部の作戦や考え方が直ぐに発覚するので、半端ではありません。1箇所に限られていました。アメリカ軍潜水艦は、ソ連潜水艦に比較すると静かで、ソナーにかからないため、そうして分散させる必要性がありました。この司令官は、ソ連は電子機器とその産業が決定的に劣っているという事を気にしていました」
  5. 「特殊技官が大型潜水艦の艦艇にいました。イズベスチアの情報によると、2人の少将がリーダーの間にいました。しかし、私はその期間、加えられた異なる秘密職員がいた点に注意します。重要なもうひとつは空軍本部代表に加え、他の工学専門家がTDY(町名)へ送った航空省職員までネベリスクの町にいました。撃墜されたボーイングから様々な機器をそこへ持って来た事実により、これに関して最終的に判断する事は簡単です。彼らは集められた調査装置が正式に偵察機のものであったかを決定するため、それらの機器を選り分けなければなりませんでした」
  6. 9月1日、事故当日に開かれた作戦会議は、提督シドロフ(海軍大将)がボードに円と線を引き、作戦を手短に説明。2〜3人の質問に答えただけで、ただちに解散させられました。作戦会議場は、ざわめいていました。
  7. ソビエト太平洋軍団司令官シドロフは、9月1日初日からの作戦として、ソ連領内にアメリカと他の国の救助船、艦艇と潜水艦を入れないようにするため、モネロン島中心から半径約25kmの円、サハリン沿岸から25km沖までを確保しなければならなかった。ソ連領内とその付近で作業をしたり、接近して突入する他国船を排除する必要があり、モネロン島とサハリン西海岸の間を通れないように閉鎖し、ネベリスクへの航路輸送路として確保しました。しかし、海底は無防備なため、極東に配置されてある潜水艦のおそらく全て、20隻前後をその国境警備として配置しなければなりませんでした。
  8. ソ連の太平洋艦隊本部はウラジオストックにあり、その中には1959年ごろ進水した原子力潜水艦も多かった。事故現場まで最も早く到達できるアメリカ潜水艦に比較すると、ソ連潜水艦はスクリュー音に差があるため、ソ連のソナーにかからない距離を維持して魚雷を発射するのではないかという心配があった。そのためブラックボックスを取り寄せ、深い場所へ沈め、おとりにする作戦を考えていた。アメリカの新型潜水艦が、KAL007が沈んでいる位置と現場を発見する前に、用意しなければなりませんでした。
  9. ソビエト軍にとって最も弱点となっていたのは、潜水艦防衛網だった。アメリカ潜水艦1隻でその中をすり抜ける事ができる違いがある。それが非常に心配だった。つまり、アメリカ潜水艦1隻で、距離を保ちながらソ連潜水艦を1隻1隻、海底で撃沈する事ができるという懸念と現実がありました。
  10. 「その偽装地帯がどこかという事に関しては、他の司令官さえ知らず、太平洋軍司令官シドロフは、ほとんど誰にも伝えなかった。ミルチンク号が、モネロン島北側で作業をする前、モネロン島東側に停泊し、その場所から移動した事が伝えられていました。サハリン西海岸とモネロン島の間、49kmの海上を閉鎖して通れなくするため、モネロン島東側に設定したのではないかと思えます。イズベスチア特派員には、620mの深い所と言っていましたが、モネロン島西側の近くが急に深くなっているため、そこに偽装ブラック・ボックスをおとりとして捨て、モネロン島東側に艦隊を集めたのではないかと思えます。とにかく、アメリカ人も他の国の救助隊もどの辺りに墜落したか全く見当がつかず、スエーデン製ミルチンク号がソ連の船であることすら知られていませんでした。アメリカと他の国々の救助船は、モネロン島北、西、南側を捜索して漂流物を探すしかありませんでした」
  11. アメリカ人は飛行機の墜落地点をすでに発見していましたが、場所が別々に分かれていました」
  12. 「外国産のスーパーハイテク船に驚かされました。私たちはそのような船を夢で見た事さえ一度もありませんでした。しかしそれにも関わらず、その船は、ボーイングを見つける事ができませんでした」
  13. 稚内の港から来ていた船は、いくつかの物を拾いました。イズベスチア特派員はその話を確認するように命じられました」

脚注5:ソコル防空軍基地のコルヌコフ防空軍司令官は、モスクワ参謀本部への報告書(顛末書)の下準備をする必要があり、モネロン島上空で侵犯機を見失うまでの経過を図面を添付して書かなければならなかった。領空侵犯機が雲から下へ螺旋状に2回降下してから、モネロン島北方で水没するまでの報告書はロマネンコ少将が同じくモスクワ参謀本部へ書いて提出する義務があった。しかし、ロマネンコ少将は、生存者たちの取り調べで忙しかったはずで、モスクワ本部への報告書の提出が数日遅れた。ソコル防空軍基地では、領空侵犯機がモネロン島上空で右旋回して雲の中へ(レーダーから)消える時までMig-23とMig-31(RTF)の2機が追撃し、逃亡飛行状態から判断して「無傷あるいは部分だけの爆発だった」事が、ソコル防空軍基地でMig-23パイロットから知らされていた。上空で爆発した状況は、Su-15TMオシポビッチ少佐の報告で、その無線連絡が、アメリカと日本で傍聴テープ録音されていた。それが「撃墜した」という結果報告になり、海面に激突して粉々になったという推測が飛び交った。
上空で爆発する前から連絡を受けていた稚内自衛官は、KAL機を双眼鏡で観察していたが、爆発の状態から「助かる見込みがない」と判断していた事が数年前のデジタル新聞で報道されていた。雲の上でドッカーンと鳴り響き轟音をたてていた音が、それほど大きかったことによる。サハリン島南端から宗谷岬先端まで43km。上空爆発地点まで100km。70mのジャンボ機でさえ、夜であれば肉眼では見えない。「双眼鏡で雲の切れ間から上昇する様子が見えていた」という話が掲載されていた。

脚注6:「海面に激突して粉々になった」という噂は、9月1日の朝、サハリン西海岸とモネロン島に停泊していた漁師たちの中で、確かめるために船を出して海面を確認した人たちの話しと思われる。数年前の朝日新聞北海道版に掲載されていたデジタル新聞によれば、サハリン西海岸漁民の亡父の娘が、その日の海を確かめるために船を出した父の話を聞き伝えていた。「暗いうちに外でドカーンとすごい音がして目が覚め、窓ガラスがガチャガチャ揺れた」「9月1日の早朝、島周辺の海には、バッグや布、毛布や遺体、子供の服、ゴミなどがあちこちに浮いていた」という状況が現実だった。
サハリン南側では日本のラジオ放送が受信でき、日本のニュースでは「大韓航空機消息不明の速報ニュースと、ソ連側放送番組ではスパイ機を撃墜したニュースが放送されていた」「あれは、スパイ機ではなく民間機だったという事を誰もが知っていました。しかし当時のソ連政府(秘密警察)が怖くて話す人がいませんでした」と、目撃者の子孫によるインタビューによって朝日新聞北海道版デジタルニュースで報道されていた。

脚注7:KAL007便はモネロン島上空北東部の雲の上で追撃機Mig-23の後方から追尾していたMig-31(RTF)が発射した2発のミサイルを右旋回で回避し、追撃機の視界とレーダーから逃れた。島周辺の雲の中で3回、雲の下で2回、合計5回螺旋状に旋回しながら降下しているとCIA報告書に記述されている。
 この時、ソコル防空軍基地レーダーと稚内自衛隊基地レーダーからも姿を消した。雲の下では、海からの霧と海面すれすれの飛行のため、レーダーで機影を捉える事ができなかった。イカ釣り船以北までの低空飛行は高度500m~50m程で、イカ釣り船上空で約20m~10mの高度であれば、そこからモネロン島方向1km~2kmで不時着水している事になる。海底から引き揚げた当初は、機体の破損が後ろだけで、「機内に焦げ跡が無く、油でビシャビシャだった」という報告がある。燃料が漏れていたために着水時の衝撃によって機体底部に配線されていた油圧系ケーブルの切断個所から引火し、燃料タンクが爆発したという事になる。注意:徹甲弾がケーブルの太い束を突き抜けると、ハの字型に切断され、ビニールカバーが熱で溶け、コードが剥き出し状態になる。それが上下左右にズレると+と-が接触し火花が散り、引火する。

 ソ連民間プロダイバーのバディム・コンドラバエブのリポート談話には、「海底に沈んでいた機体部分には焦げ跡が無く、車輪の根元が少し焦げていた」という、報告がある。
 燃料タンクの前後はコンテナーが積まれているため、爆発によって破片が飛び散る方向と範囲が限られていた。但し燃料は、少ないとはいえ、残っていたので海面に浮いた油が一瞬激しく燃え上がり、数秒間周りと海面をパーッと明るく照らし出した。
KAL-007便が北へ低空飛行をして、イカ釣り船以北からユーターンしたのは、燃料不足の警報が鳴り続けていたためで、ユジノサハリンスク空港までの燃料がないため、やむなくモネロン島北側の浜へ難着水する事を考え、引き返した。イカ釣り船上空を低空飛行で通過後、夜間離着陸用ランディングライトを点灯し、海面を照らしたはずだが、油圧系機器が故障して点かなかった可能性もある。ランディングライトが付けば、エンジン4基が正常だったために不時着水できた可能性が高い。「ソフトランディングで着水に成功した」という出所不明の噂話が残されていた。
 乗り物の燃料計は、空(エンプティー)で0であったとしても、自動車などでは数十キロ(40km前後)走行できるようにされてある。この場合、空の状態で5%~10%残っていた燃料が爆発したと考えられる。
「KAL機長は着水間際まで、東京管制塔を呼び出していたが応答がなかった」という、これも出所不明の話しが伝えられていた。
 着水して間もなく東京管制塔から応答があり、「無事に着水した」事を連絡したという話もあるが、出所不明で本当かどうかはハッキリしていない。朝鮮日報の記事にあったこれらの話しが本当であれば、ブラックボックスが回り続け、録音されていた事になるが、他のKAL機パイロットによる着水した場合の推測の可能性もあるので、ソフトランディングしたかどうかは不明(「構造上問題のないものであった」「無傷だった」「機内に燃え跡がなかった」などのKAL007初期断片報告に基づく)。
 但し、着水間際の機体の飛行状態を目撃していた人たちが何人もいた事は事実で、ロマネンコ将軍率いる沿岸警備隊員たちと一隻のボートに乗っていたロシア人が民間人であれば、サハリン西海岸で噂になって伝えられた事にも真実性があり、明らかな嘘は自然消滅するか伝達されづらいはずと思える。

 2年前の話しだが、顎髭をはやしたロマネンコ少将の顔を撮影したビデオやモネロン島の海に面した岩場でKAL007機長とパイロットたちが尋問されていた様子がYouTubeで公開されていた時期があった。
そのビデオ録画によれば、9月1日午前中、KAL機パイロットたちは海水に浸かったため、そして目立たないようにするためソ連の軍服を着用していた。その中でも機長チュン・ビュイ・インは目立つほど背が低かった。その時、極東軍総司令官或いはソコル基地司令官は、海水で濡れた札束を破いていた。それはKAL007パイロットたちがコクピットで談話していたキンポ国際空港で交換するはずのスーツケースに詰めたアメリカドル紙幣だった。機長はロシア語が話せず、英語でスーツケースに入っているアメリカドル紙幣の説明を試みたが、人権意識が希薄な社会主義国家ではアメリカをはじめとする外部諸国のような為替相場や保険制度が全く無いため理解されなかった。ソ連側ではアメリカドル紙幣を破く行為によって無視する意思表示をした意味のある断片映像だった。

 これが当時の現場録画であれば、KAL機長とパイロットたち、乗員乗客たちは9月1日早朝、モネロン島北海岸へボートで移送され、目だたないようにソ連軍服に着替えさせられた後、尋問を受けてからユジノサハリンスクKGB本部へ連行された事になる。
 9月2日か3日頃、海上に札束が散らばっていて大騒ぎになったのは、そのアメリカドルだった。これは先取り特権で、海上で拾った物は持ち帰る事が許可されていた。
 他に、潜水艇のある大型船のクレーンで海中から吊り上げられた人体サイズの青いポリエステル袋の中身はKAL機に残された遺体だったか、そのような証拠映像も含まれていた。それらはソ連防空軍側(退役した元極東総司令官)が許可した当時のビデオ録画で、KAL007の動画として3年ほど見る事ができた。しかし、アナトリ・コルヌコフ総司令官(晩年にロシア空軍総司令官)が退役し、死去したデジタルニュースが報道されてから削除されたためか、見当たらなくなった。(大韓航空機撃墜事件に関する記事やブログは2~5年経つと検索できなくなるため、記録しておく必要がある)。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side/Free Document Lisence, 31 August 2009-2012-