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水没したボーイング747(KAL007)と乗員乗客の遺体 2016/04/14>ENGLISH


 スウェーデン製ミハイル・ミルチンク号が1983年9月3日から回収作業をしていた場所は、46"27N,141-13Eで、モネロン島北26km地点付近だった。ミルチンク号の外見はスウェーデン製石油掘削船だが、その仕事の依頼主はソビエト太平洋艦隊ウラジミール・シデロフ提督で、彼はその船に乗船していた。そのために日本船第3海幸丸がミルチンク号の傍で停泊し、錨を降ろそうとした時、ソ連船が突っ込んできて危うく衝突しそうになったこともあった。場所としては国際水域であり、モネロン島北22.224kmまでがソビエト領海だった。

 KAL007の回収作業をするために潜水した人たちの目撃録は、イズベスチア特派員たちが1990年に収録し、同新聞紙上で1991年6月まで公表されたもので、その英訳の一部の日本語訳を読んでから、5年以上疑問に思い続けたことがあった。KAL007が第2地点N46°33' E141°19'の東寄り海域に曳航されてから海上で爆破され、沈んだ後も爆破され、それでも何人かの乗員乗客の遺体部分が残されていた事が不可解であった。
 浮上したKAL007の機内は、火事跡も無く、ほとんど完全な状態で、すべてがケロシンでびしゃびしゃだったことが報告されている。ソ連の民間ダイバーたちは、海底の機体残骸や荷物などを拾い集め、ダイビングベルと言われる鉄檻の中に入れ、船の上にあげる事が主な仕事内容で、第2地点で海底の残骸の中に残されていた遺体は、その位置を知らせるだけであった。遺体収容の作業は、海軍ダイバーたちに限られていた。機内後部座席の遺体は、ボーイング747を海面に浮上させてからシートで包んで船の上に網やロープで引きあげたか、他国船から発見されないように海底で遺体収容の作業をし、船の上にあげられたかは伝えられていない。ただし、この時のガバン地区海軍の働きは、ソビエト海軍の功績として表彰され、この辺りの作業に関して口外されていない事を考えると、かなり大変な仕事内容だった事が推測される。

 船に上げられたKAL007後部座席の乗員乗客の遺体は、モネロン島北側へ運んだか、ネベリスクやゴルノザゴーツクの火葬場へ運ばれたかも不明にされている。モネロン島の海岸沿いに漂着した所持品やゴミなどは、その島の北側に集められていた。9月4日に緊急雇用され5日から働き始めた民間ヘリコプターのパイロットは、「海上に離着陸できる水上飛行機の資格免許を持っていないか」と聞かれた時があった。そのヘリコプターパイロットの話では、島の北側の浜にテントを張り、KGB職員が番をしてゴミや荷物、遺品などをチェックしていた。9月5日頃から、KGB職員や役員たちをユジノサハリンスクからモネロン島へ運んだり、要所に集められ袋に詰めた残骸・所持品・ゴミなどをヘリコプターに積み、ネベリスクやユジノサハリンスクまでそれらを運んでいた。ボーイング機内から取り出された精密機器の内、電子機器はネベリスク、他の精密機器はゴルノザゴーツクの指定会場に集められ、テーブルの上にひとつひとつ並べ、スパイ行為として使用されていた機器がないか、特殊な専門家たちによって細かく検査された。


 9月6日から8日頃、KAL007を海上に浮かべて水深174mの東寄り第2地点まで曳航していた時、完全に片付けたはずの遺体部分は、ボーイング747の機体の中に見えない状態で残されていた。ボーイング747を第2地点の深い場所にわざわざ移動させる必要があったか。必然性がないため、その意図がまだはっきりしない。もしかしたら、KAL007をネベリスクまで曳航するつもりで、その途中で参謀本部の指令が入り、爆破して細かく砕いてから回収作業にあたらせたか。機体を解体して全てを回収する方法であれば、モネロン島北側の浅瀬の方が作業しやすかったはずではないか。これには何か理由があると疑問に思い続けていた。

 第2地点は第1地点の東側で、ミルチンク号と同じように船から距離を置いてブイを並べ、網で囲いをつくり、約1カ月間、他国船や潜水艇・潜水艦の侵入を監視するため、国際水域であるにもかかわらずソビエト側の要所として確保しなければならなかった。それに加え第2地点は、11,000m上空から落ちてきたミサイルによる破片や遺体を海底で探すため、第1地点は海上に難着水した時の燃料タンクの爆発破片や海底に散らばった貨物などを回収するための基点として、ソ連側では必要だったという客観的な意味が含まれていた。

 第2地点で潜水作業をしたダイバーたちの話によれば、アメリカ合衆国のハイドロノート船が大音響を発したり、ラジオブイによる音波によって海底での会話が盗聴・妨害され、夜間に潜水しなければならないこともあった。さらに第2地点で自家製の潜水艇で作業をしていたキルギス船長の他、多くのダイバーたちによれば、最初の内は海底の岩の間に機体半分が直立していた。しかし、いつの間にか直立した機体半分が無くなり、主脚支柱と車輪なども一緒に残骸として海底に残されていた様子を伝えている。第2地点でさえ、ダイバーたちによって遺体部分や人骨が発見され、それがソビエト海軍の指令によって意図的に放置されたものか、偶然残されたものかがはっきりせず、長い間不可解であった。海底からKAL007を引き上げた当初は、焼け跡の無い、すべてがケロシンで浸された、誰もいないほとんど完全な状態の機内だった話、そのKAL007を浮上させた時、機体後部が海面より沈んでいたのではないかと現場状況をできるだけ正確に想像しようと努力していた。

 しかし最近になって思い浮かんだことだが、高度11,000m上空でミサイルの爆発によって吹き飛んだ乗員乗客の遺体部分は、KAL007が急上昇したり急降下した時に後部座席の下に挟まり、第2地点の海上や海底で爆破された時に機内座席下に挟まっていた遺体部分と残留物が散らばったのではないかという想いが閃いた。水深174mの第2地点でKAL007の回収作業をしていた時に、まだ遺体部分が海底に残されていたというのは、「KAL007機内の遺体は、ソビエト海軍によって全て片付けられたはずであったが、座席の下に手荷物と一緒に頭部や胴体、腕などの遺体部分が挟まって見えなかった。または座席の下を点検し忘れていたかのどちらかであるに違いない」という解釈が最も事実の核心を突いていると思えるようになってきた。ソ連側の民間ダイバーたちが遺体部分を発見する度に、監視していた海軍ダイバーは、「それはどのあたりにあったか」と位置を尋ね、ひとつひとつ片付けていったため、海底で遺体部分を発見できなかったダイバーもいた。しかし、中身の入っている黒い手袋だけが、機体残骸のある海底に最後まで残されていたとソ連側民間ダイバーによって報告されている。




 9月3日、ミルチンク号はモネロン島東側から北側26km付近へ移動し、最新の機器を使用しながらあっちへ行ったりこっちへ行ったり、何度も移動して広範囲に探したが簡単には見つからなかった事が伝えられています。ボーイングELT遭難信号音の位置を発見してから、その日の夕方から夜にかけて生存者が機内にいないか、救助命令が出ていたため海軍には即刻確認する義務がありました。ボーイング水没地点9月4日、海軍ダイバーたちが機内の遺体をシートに包みロープで縛り、海底から船の上に引き上げた後、翌日の9月5日、ボーイングの機体を浮上させてから空の機内を検査したKGB役員たちと英国の航空機保険会社調査員たちが、「ボーイング機の中には誰もいなかった」と伝えたのかも知れません。そして、この時の仕事内容に関しては原因と状況がはっきりするまで、少なくとも残りのブラックボックスが発見され解読されるまで軍事機密として外部へ漏れないように口止めしたと考えられます。この事件の9月3日から9日までの作業に関しては不明で、民間人による断片的な目撃談がわずかにある程度です。海底から引き上げた遺体をどこへ運んだか、モネロン島北側の浜か、ネベリスクの火葬場まで船で運んだかも隠され、いまだに不明にされています。この時期の作業に関して何も伝えられていないということは、意図的な方法によって揉み消したとしか考えようがありません。



【解説】
 最初は、この事件を、今さら調べ始めても時間の無駄に終わるのではないかという先が見えない心配がありました。日本国内のサイトに残されていた大韓航空機撃墜事件に関する記事は、数が限られ、部分的に散在するだけで、この事件は完全に終わっているのか、不明なままでずるずる延長されている事件か、生存者がいる可能性はあるか、最も重要な個所がつかめませんでした。
 しかしバート・シュロスバーグ氏の"Rescue 007"に生存者がいた話があり、それが本当に根拠のある事実か、調べなければ信じられないことでした。KAL007がどのような事件であったかを確認するためには、米国共和党局員による草稿CodewordとThe mystery of the KAL-007を読まなければなりません。これら3つの資料を基本にしなければ、この事件の真実から脱線した作り話、事実に対する歪曲ではないかと疑われる恐れがありました。他の仕事を持つ人たちにとって、この事件に深入りする事は、人生を脱線し始める何も得られない危険な道に思えた時期もありました。この事件に関して調査した作家でさえ、事件の部分的側面だけに終わっています。もし大韓航空機撃墜事件を最初から最後まで正確に書き綴るとしたら、少なくともイズベスチア新聞記事の1990年12月から1991年6月までの再調査を日本語に訳し、Codewordとアブラハム・シフリンによる調査リポートを読み、基本的な知識にする必要があります。その他、サハリン地元新聞・北海道新聞朝鮮日報・韓国新聞・NewYorkTimes・各国のTV放送による特集・雑誌スクープ等々。

 この事件について個人的に察した事は、1983年にトロール船ゲオリギ・コズミンの海軍ダイバーだった人であれば、1983年9月4日と5日の作業内容を詳しくを記憶しているはずで、ロマネンコ将軍もこの事件の経過を知り過ぎていたということです。残念な事に公務員を定年退職して年金暮らしをしている人は、職務上で知りえた情報を退職後も外部へ漏らしてはならない制約があるため、裁判などで必要な証言や報道によるインタビューなどの質問に対してしか答えられません。実際にKAL007の事故現場を目撃している人が、自分の判断で細かく正確に告白し直さなければ、遺族・知人友人・関係者に心理的・経済的負担を負わせながら時代の中で不明な事件として忘れ去られる可能性があります。肝心なことは、KAL007の生存者が現在もロシアにいる可能性があり、それを確認する事はきわめて難しい状況にあるという事です。


■ロシアの不凍河1 2 3 4 5 ■永久凍土の夏


■ユンガスロード(死の道でバス転落)

 2007年ごろ、私は断崖絶壁の綾里崎の砂利道(綾里崎林道)を車でゆっくり走ったことが2度ありました。ガードレールのない海抜150mの断崖沿いにある凸凹道は、まったく知られていず、1度目は前方のまったく予想がつかず、ぞっとするほど危険な場所が幾つもありました。その記憶の後味も悪く、印象が強かったため、崖から転落する夢を何度も見ました。このような類の事件や確認に関しても、それ以上の場所があり、楽観的に考え、方法を間違えると命取りになる事もあります。録画などについては、KAL007乗員乗客側からの視点、潜水艇を使用した海底での作業、海軍ダイバーによる遺体収容の視点からであれば、かなり異なるかも知れません。できるだけ客観的に正確に想像する時もあります。 


 結果としては「1992年にロシア大統領ボリス・エリツィンは、亡くなられた遺族に対して韓国国会で哀悼の意を表した」ということになりますが、アメリカ・日本・中国に対しては謝罪までに至らず、事件に関するソ連海軍による救助捜索報告・作業日誌(1983年9月1日〜9月10日)を公表せず、当時のソ連軍事機密保護法とソ連国家保安委員会(KGB)により事実が放置、あるいは意図的に隠され続けた事件でした。(解説:日本側の海上で発見され、韓国へ送られた韓国人乗員乗客9人分の遺体遺族に対しての謝罪か、乗員の他、各国の乗客に対しての謝罪か不明。明らかな証拠がなければ、この事件に関係していなかったロシア大統領ボリス・エリツインは、韓国国会で公に謝罪しなかったはずです)。


 1983年9月8日以前にモスクワ参謀本部へ提出されたソ連極東防空軍ソコル基地司令官によるこの事件の報告書・顛末書の表題はどのように記入されているか。<夜間領空侵犯偵察機_撃墜の経緯>など偵察機による領空侵犯という防空上の問題が主軸で、回収・検証作業が終了した約30日後以内に提出されたロマネンコ少将あるいは極東軍総司令官による『領空侵犯機の回収・検証・作業報告書』と比較し、参謀本部側で協議・検討したはずと考えることもあります。

【解説1】
 「ボーイング機の中には初めから遺体が無かった」という目撃談を、私は長い間、"嘘のようでもあり、本当のようでもある"と距離を置いて疑問に思い続けていました。この事件の乗員乗客の遺体に関して様々な説があるのは、その報告によります。9月10日から潜水し始めたコンドラバエブも機内は空だったと雑誌記者のインタビューで答えています。「初めから遺体は無かった」という報告は、水深174mの第2地点で仕事を始める前に、民間ダイバーの彼に海軍ダイバーが状況説明をした話の一部であれば、本当にそうだったのかも知れないということです。しかし、さらに現実的に想像力を絞ると、9月3日にミルチンク号が海底に沈んだKAL007の位置を発見した後、ただちに有人潜水艇が潜り、海底のボーイング機内を調べたはずです。事故当初、実際に海軍ダイバーたちに割り当てられた指令は「救出と修理(水中溶接)」でした。その時の状況が少しも伝えられていない事が不思議でした。ゲオリギ・コズミンとミルチンク号には有人潜水艇無人潜水艇が備えられていました。海軍ダイバーたちもミサイルで開いた穴や非常扉から中へ入り、海底に沈んでいたボーイング機内を確認したはずです。有人潜水艇から水中ライトを照らしながら、窓越しに機内の座席を見たはずです。その時に既に遺体がなかったのであれば、南へ流れ始めた寒流で血の匂いを察した鮫の群れと小エビ・アナゴ・カニによって、9月1日と2日3日の夜明け前から朝方、骨ごと食われたとしか答えようがありません。少なくとも私はそれが事実だったと思っています。ホホジロ鮫は、アザラシやオットセイが生息する周辺海域に集まるので、トドが繁殖しているモネロン島(海馬島)付近に、夏場、既に集まっていたことは現実的に考えられる事です。
 そして、もうひとつのケースとして推理できる事は、9月3日にミルチンク号が海底のボーイング機の位置を発見してから、4日頃海軍ダイバーたちが潜水し、エコノミークラスで死んだ20〜50人の遺体を船の上に引き上げたという事です。その中には急減圧と酸素欠乏のために無傷で死亡した乗員乗客もいたはずで、残りは見るも無残な状態なため、軍事機密として隠したのではないかということです。血を流していれば鮫の群れが来るはずで、数十人分の遺体が鮫に食べられていたのではないかと、それは充分に考えられることです。

 9月3日、ミルチンク号はモネロン島東側から北側26km付近へ移動し、最新の機器を使用しながらあっちへ行ったりこっちへ行ったり、何度も移動して広範囲に探したが簡単には見つからなかった事が伝えられています。ボーイングELT遭難信号音の位置を発見してから、その日の夕方から夜にかけて生存者が機内にいないか、救助命令が出ていたため海軍には即刻確認する義務がありました。ボーイング水没地点9月4日、海軍ダイバーたちが機内の遺体をシートに包みロープで縛り、海底から船の上に引き上げた後、翌日の9月5日、ボーイングの機体を浮上させてから空の機内を検査したKGB役員たちと英国の航空機保険会社調査員たちが、「ボーイング機の中には誰もいなかった」と伝えたのかも知れません。そして、この時の仕事内容に関しては原因と状況がはっきりするまで、少なくとも残りのブラックボックスが発見され解読されるまで軍事機密として外部へ漏れないように口止めしたと考えられます。この事件の9月3日から9日までの作業に関しては不明で、民間人による断片的な目撃談がわずかにある程度です。海底から引き上げた遺体をどこへ運んだか、モネロン島北側の浜か、ネベリスクの火葬場まで船で運んだかも隠され、いまだに不明にされています。この時期の作業に関して何も伝えられていないということは、意図的な方法によって揉み消したとしか考えようがありません。

【解説3】
 2015年12月24日付の朝日デジタルニュースによれば、元外務審議官福田博氏の極秘メモ(1983/11/14)には、「2発目が(KAL007)左翼に命中し、11分間キリモミ状態の後、同機は墜落した」と記入されてあります。・・・その情報がアメリカと同じ内容であれば、ソ連側の作業報告書や顛末書と一致するはずです。一致させる必要があったのは、航空会社の戦時下保険26,824,000ドル(1983年為替レート1米ドル226〜247円)のためで、ずれや相違があるとイギリスのスチュアート・ライトソン社から戦時下保険金がいつまでも降りず、領空侵犯による撃墜機の回収・撤去・検査作業費用とソ連側軍事経費が損害賠償として大韓航空に対して請求されていても、その支払いが遅れるからです。1983年9月13日にライトソン社から大韓航空へ戦時下保険65億円の支払いがあり、これについては翌日14日付けの朝日新聞で報道されていますので確認する事ができます。
ソ連政府が大韓航空に損害賠償請求をする事ができる内容は、大韓航空機を使用した偵察目的の場合のみで、ソ連側では各国からの損害賠償と慰謝料請求を拒絶するために乗客のいないパイロットたちだけのスパイ機として報告した痕跡があります。オシポビッチ防空軍中佐も、そのために証拠なしでスパイ機説を晩年まで押し通していたのです。ソ連側ではそのために乗員乗客の遺体証拠を隠滅し、この事件の生存者はいなかった事にしたのです。

【解説4】
 その後の航空機事故例からも解るように、最も重要に思えるのは、第58千鳥丸船員による目撃内容で、「頭をかすめるほどの低空飛行で、最初は大きく爆発し、2回目は小さな爆発だった」という信憑性のある目撃談です。これは1回目は胴体下のメイン燃料タンク、2回目は左ウィング燃料タンクの爆発を意味しています。着水失敗であれば爆発は1回だけなはずです。1回目と2回目に十数秒の間があれば、着水は成功し、徹甲弾によって燃料漏れしていた燃料タンクの爆発という事になり、その間とその後の数十秒間、KAL007は海面上に浮いていたはずです。
 海上で大型機が爆発した後、日本の漁船であろうと通常は救助へ向かうか、生存者がいるか様子を確認に行くはずで、それをしなかったのは操業中のため、すぐには行くことができず、なおかつソ連側の国境警備艇(大型ボート)がサーチライトを照らしながら接近していたためではないかと思えるふしもあります。「日本の漁船に見られていた」というソ連側の報告があり、どこまで見ていたかが疑問に思えます。
 ・・・これらの事実内容に間違いがなければ、私にはこの目撃談がこの事件の最も身近なカギに思えて仕方がありません。「ドカーンと爆発音がしてから水平線がオレンジ色にパーッと明るくなった」。第58千鳥丸船員は、爆発地点の方角と距離まで正確に言えなかったようですが、方角と距離が最も重要な問題で、それが欠けています。聞き方と聞く方法、数年後の目撃内容を確認する方法に問題があり、KAL007の通過高度が頭をかすめるほどであれば、イカ釣り船からの着水地点は案外近く、500m〜1kmだったのではないかという事です。

 KAL007の乗員乗客は、戦時下民間人捕虜の扱いから移民としてロシア国籍を取得する方に同意させられ、ロシア名に改名させられているのではないか。ロシア名に改名すれば、国外からの干渉を受ける事がない。自由主義国の生存者がいれば、そのような手続きを経るのは当然なことで、強制収容所で取り調べを受けた後、当時の収容所内規通りのコースを辿り、この事件からの時効25年後(2008年)からは収容所外の近辺で移民として生活する事を余儀なくさせられているようにも思えます。


[cf:民事訴訟の時効とは事件発生日からの権利有効年数の期限を言う。日本の民事訴訟時効年数は、損害賠償請求権3年(又は20年)、殺人死体遺棄15年、過失運転致死10年、業務上過失致死10年_懲役又は禁固刑。死亡事故の慰謝料請求についての時効は3年又は20年。その他、精神的苦痛を含め様々な事例判例、特例等がある。例:ひき逃げなどによって結局加害者が分からなかったというような特別な場合➝<参考文献15>公訴時効の見直しについてISSUE BRIEF-No.679を参照]



 このドキュメントの題名に関しては、1.「真実の表裏」2.「空白の10日間」3.「目撃」4.「インディギルカ」5.「最後の生存者」などを考えましたが、さらに発想が異質で適切な閃きがないか、思案しています。
 この事件に関して、助言・感想・質問・相談などがございましたら、左下のコメントを書くをクリックし、匿名と内容を入力して投稿ボタンをクリックして下さい。外国語サイトからの投稿はできませんので、日本語サイトからお願い致します。




<参考文献>

  1. 2012年9月1日KAL007アメリカ遺族会の生存者捜索・著名運動について(英語)
  2. KAL007 Families and Friens コミュニティー(英語)
  3. KAL007:大韓航空007の行方不明の乗客と乗組員のためのロシア語解説→(日本語自動翻訳)
  4. KAL007に関するアメリカ合衆国側からの見解(英語)
  5. アメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンによるスピーチKAL007(英語)
  6. アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ 「KAL007 and MH17」 Presidential response by Dr.Paul Kenger 2014.07.22(英語)
  7. 「MH17対KAL007」アメリカ合衆国大統領オバマ対レーガン(英語)
  8. ロシア新聞イズベスチア調査リポートとKAL007に関するインタビュー(英語)
  9. ロシア新聞イズベスチア調査リポートとKAL007に関するインタビュー(日本語)
  10. VVS Commander in Chief Army General Anatoly Kornukov ロシアVVS陸軍総司令官アナトリ・コルヌコフ
  11. The Moscow Times:ロシア司令官アナトリ・コルヌコフ,74才
  12. The NewYork Times:ゲンナジーオシポビッチ防空軍中佐 1996年(英語)
  13. 共同通信社:現在のゲンナジーオシポビッチ元防空軍大佐 2013年12月25日(日本語)
  14. KAL007に関する朝日新聞デジタルニュース_元外務審議官福田博氏による事件当時の極秘メモ 2015年12月24日22時04分
  15. 公訴時効の見直しについてISSUE BRIEF-No.679_行政法務課調査と情報 第679号


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side, April 14, 2016.