KAL007 大韓航空機撃墜事件-目撃録1983年9月1日朝(36)
◆1983年9月1日、「1発目赤外線ミサイルが左翼エンジンに当たり、左翼を壊した。2発目レーダー式ミサイルが尾翼に当たり、尾翼を破壊した。暗くてはっきり見えなかった。12kmから8kmまでターゲットに接近し、ミサイル2発を発射した」と初日、オシポビッチ防空軍少佐は報告した。9月1日初期の報告から、KAL007は左翼と尾翼を失い、海面へ激突した確信が生まれ、ソ連タス通信を介して、それが世界中に報道された。
1983年9月7日にKAL007を海底から引き揚げて確認し、1発目は左翼タービンをかすり、2発目が後ろから10mの客席に命中。180cmの穴が開いた事が事実として認識された。その後、オシポビッチ防空軍少佐の報告が間違っていた事を、コヌルコフ司令官から直接聞き、1996年のニューヨーク記者会見でコルヌコフ司令官と一緒に検査済みの正しい見解を公表した。
13年後の1996年11月9日ニューヨーク記者会見で、「一発目は外れて左翼エンジンに接触し、黄色いフラッシュがあった。2発目は機体後部へ命中して爆発した」と、オシポビッチ防空軍中佐は、より正しい見解に訂正し、ニューヨーク記者会見で発表した。
◆ 「爆発後、上昇し、ほとんど垂直になるまで反り返えり、炎上しながら急降下した。上昇中、機内のライトは点灯していた。降下中にライトが消えた」。オシポビッチ防空軍中佐・ニューヨーク記者会見(晩年は大佐)。
◆「エンジンは正常です!機長!」KAL007副操縦士Son(1983年9月1日JST:3時26分45秒 ボイスレコーダー録音記録)
◆「島の上空で音をたてながら降下する様子を見ていた」「頭すれすれの低空飛行で頭上を通過していった」「ドカーンという爆発音の後、水平線がパーとオレンジ色に明るくなった。少ししてから再び爆発した。二度目の爆発は最初の爆発より小さめだった」「しばらくしてから油(ケロシン)のすごい臭いがした」。第58千鳥丸乗り組員
◆「9月1日未明(JST3:32-33) 突然、ターゲットがレーダーに映った。時速800kmで移動していた。レーダー表示縮尺を40マイルに拡大してから40秒後、3つの点に分離した様子だった。私は一瞬爆発したと思った。そのとたんターゲットはレーダーから消えた」。モネロン島沿岸に停泊していた国境警備艇船長ヴァレリー・アニシモフ中尉(ソ連医科大中退)
◆「ソ連沿岸警備隊の船が最初に爆発現場に到着した。その27分以内にロシア人を乗せた一隻のボートが現場付近にいた」ソ連沿岸警備隊による報告
◆「事件当日、着水した機体から乗員乗客が救助され、トランクと一緒に運び出された」サハリン西海岸ネべリスクの漁師たちの目撃談(アブラハム・シフリンによる調査報告。
◆9月1日未明の現場状況は、サハリンの目撃者1名が招待され、米国上院議員ジェシーヘルムズと側近3名が直接面会して質疑答弁した。ジェシーヘルムズ議員と側近3名は、その時に録音されたテープを合衆国議会で公表したか隠したかまでは不明。8月31日、2人の少女を見送ったヘルムズ議員はロシア大統領エリツィンに質問事項を送り、その解答を手紙で受け取っている。質問事項に対する「エリツィン大統領の回答」は、合衆国議会で公表された。
◆「海面に激突する前に、その飛行機がおよそ10分間飛行していた事を思い出してください。この間、乗客は、全てではないにしても救命胴衣を着る事ができたはずです。そのうえ、彼らは確かにシートベルトを閉めました。海面に衝突する際の飛行機の勢いがどのくらいであったとしても、跡形もなく姿を消している269人の人々を想像するのは難しい事です。乗客の何人かは、救命胴衣によって海上へ浮かなければなりませんでした。何人かは、シートベルトを着けながら海底に残ったはずです。乗員乗客全員が、姿を消すなど無理な話です」ジェームズ・エーベリ
「1991年イズベスチヤ新聞紙上で大韓航空機事件の再調査が行われ、目撃談を公表するようになってから、ソ連海軍による口外禁止の勧告が緩み、名前を載せない日時を載せない条件で、当時の現場状況を断片的に話すようになった。その当時、記者に対しては私服姿のチェッカー(秘密警察)ではないかと誰もが用心深くしていた」。
◆「9月1日朝、モネロン島南側を3隻の国境警備艇で捜索したが、何も見つからなかった。午前中、北側を調べたら子供のおもちゃと肉片、骨の無い肉片が海上に浮いていた」。国境警備艇船長
◆「9月1日2日の夜は、投光器を付けた漁船が海面を照らし、海面は明るかった。しかし、波の隙間に女性の片足とはぎ取られた乳房が浮いていました。2日頃の肉片は黒ずんでいた」。
◆「モネロン島の島民は20人ぐらいで、テレビを2台以上持っていた。ひとつは日本の番組放送用、もうひとつはソ連TV用で、日本語も少し話せる人達だった」。
◆「遺体部分は、あとから魚の名前(ゴビウス:Гобиус)や半導体(ポルプロボニック:полупроводник)、ハゼ(ビチョク:Бычок)とコードワード(暗号読み)の呼び方が変化したため、間違える事が多かった。
◆「遺体部分が見つかると、他の漁船に渡し、誰も冷凍保存しなかった。冷凍室には食料が保存され、遺体部分を一緒に置く事ができなかった。ひどい時は海へ捨てる人もいた」
◆機体残骸は、原則として持ち帰る事は禁止されていた。初めゴルノザゴーツクに指定されていたがネべリスクでも倉庫に保管できるようになり、鍵が掛けられるようになった。しかし外壁のジュラルミンは記念に持ち帰る人が多かった。チタン製ボルトナットなどは、溶かしてカップをつくったりしていた。
◆「ジュラルミン外壁がちぎれて浮いていた。それを船から拾い上げると筋肉の筋がくっ付いていた」
◆「KAL007便乗員乗客269人の内、12才以下の子供たち23名が乗っていました」乗客の遺族
◆日本の海上保安庁が宗谷海峡の海上で発見したKAL007の外壁は、サイズが180cm×360cmで窓付、長方形型だった。その外壁がカラー写真で新聞に掲載されていた。地面に置かれたそのKAL007の外壁の側に、大きさの比較のため、しゃがんだ発見者も撮影されていた。右後のミサイルによる爆発部分は180cm前後の穴のため、ミサイルで、このような形に壊されるとは思えない。壊された外壁が南下漂流していた物か、事件当時は不明とされた。
◆日本の海上保安部の巡視船2隻は、防衛庁稚内レーダー監視基地から9月1日JST3時29分にKAL007の飛行情報を受け取り、サハリン西の海域に派遣された。稚内には飛行機2機が待機。9月1日JST6時10分から14時30分の間に海上保安庁は、8隻の巡視船をサハリン西海域へ派遣。
◆「9月1日の朝、ネべリスクの町は兵隊たちで騒然としていました。どうやら、この町に緊急に本部を設置する様子でした」8月31日にネべリスクで偶然宿泊した記者。
◆1983年9月1日JST朝5時、ソ連海軍から連絡を受けたソ連遠洋マグロ船団は、モネロン島北約25kmの海面で乳白の油が200mほど浮遊しているのを発見した。海底から鎖のように湧き出ていた。その位置と現場の状況を、JST午前8時ごろ連絡を受けた海軍に伝え、そのマグロ船団はいつもの仕事に戻った。ラジオ番組の「ボイス オブ アメリカ」を聞いて、この事件を知った。
◆ソビエト海軍が集めた遺体部分に関しては、ソ連の大型冷凍トロール船BMRTカレンガに冷凍保存し、最終的に①ホルムスクへ運んだと言われているが、たしかではない。②モネロン島北側の仮設焼却炉で燃やしたとされている。海底で見つけた遺体の一部や骨は、民間ダイバーが海軍ダイバーにその場所を知らせるだけであった。遺体処理に関しては海軍が行う事になっており、どこで焼却したか軍事秘密にされていた。
◆上空で爆発する前から連絡を受けていた稚内自衛官は、KAL機を双眼鏡で観察していたが、爆発の状態から「助かる見込みがない」と判断していた。雲の上でドッカーンと鳴り響き轟音をたてていた音が、それほど大きかったことによる。「双眼鏡で雲の切れ間から上昇する様子が見えていた」。サハリン島南端から宗谷岬先端まで43km。上空爆発地点まで約100km。
◆「暗いうちに外でドカーンとすごい音がして目が覚め、窓ガラスがガチャガチャ揺れた。9月1日の早朝、島周辺の海には、バッグや布、毛布や遺体、子供の服、ゴミなどがあちこちに浮いていた」という状況が現実だった。サハリン西海岸漁民の亡父の娘が、その日の海を確かめるために船を出した父の話を聞き伝えていた。(朝日北海道版デジタルニュース)
◆「日本のニュースでは大韓航空機消息不明の速報ニュースと、ソ連側放送番組ではスパイ機を撃墜したニュースが放送されていた。あれは、スパイ機ではなく民間機だったという事を誰もが知っていました。しかし当時のソ連政府(秘密警察)が怖くて話す人がいませんでした」。サハリン南側では日本のラジオ・TV放送が受信できる。
1983年9月1日JST3時32分、KAL007便はモネロン島上空北東部の雲の上で追撃機Mig-23の後方から追尾していたMig-31(RTF)が発射した2発のミサイルを右旋回で回避し、追撃機の視界とレーダーから逃れた。島周辺の雲の中で3回、雲の下で2回、合計5回螺旋状に旋回しながら降下しているとCIA報告書に記述されている。
この時、ソコル防空軍基地レーダーと稚内自衛隊基地レーダーからも姿を消した。雲の下では、海からの霧と海面すれすれの飛行のため、レーダーで機影を捉える事ができなかった。イカ釣り船以北までの低空飛行は高度50~30m程で、イカ釣り船上空で約20m~10mの高度であれば、そこからモネロン島方向1km~2kmで不時着水している事になる。海底から引き揚げた当初は、機体の破損が後ろだけで、「機内に焦げ跡が無く、油でビシャビシャだった」という報告がある。燃料が漏れていたために着水時の衝撃によって機体底部に配線されていた油圧系ケーブルの切断個所から引火し、燃料タンクが爆発したという事になる。徹甲弾がケーブルの太い束を突き抜けると、ハの字型に切断され、ビニールカバーが熱で溶け、コードが剥き出し状態になる。それが上下左右にズレると+と-が接触し火花が散り、引火する。
燃料タンクの前後はコンテナーが積まれているため、爆発によって破片が飛び散る方向と範囲が限られていた。但し燃料は、少ないとはいえ、残っていたので海面に浮いた油が一瞬激しく燃え上がり、数秒間周りと海面をパーッと明るく照らし出した。
KAL-007便が北へ低空飛行をして、イカ釣り船以北からユーターンしたのは、燃料不足の警報が鳴り続けていたためで、ユジノサハリンスク空港までの燃料がないため、やむなくモネロン島北側の浜へ難着水する事を考え、引き返した。イカ釣り船上空を低空飛行で通過後、夜間離着陸用ランディングライトを点灯し、海面を照らしたはずだが、油圧系機器が故障して点かなかった可能性もある。ランディングライトが付けば、エンジン4基が正常だったために不時着水できた可能性が高い。「ソフトランディングで着水に成功した」という出所不明の噂話が残されていた。
乗り物の燃料計は、空(エンプティー)で0であったとしても、自動車などでは数十キロ(40km前後)走行できるようにされてある。この場合、空の状態で5%~10%残っていた燃料が爆発したと考えられる。
「KAL機長は着水間際まで、東京管制塔を呼び出していたが応答がなかった」という、これも出所不明の話しが伝えられていた。
着水して間もなく東京管制塔から応答があり、「無事に着水した」事を連絡したという話もあるが、出所不明で本当かどうかはハッキリしていない。朝鮮日報の記事にあったこれらの話しが本当であれば、ブラックボックスが回り続け、録音されていた事になるが、他のKAL機パイロットによる着水した場合の推測の可能性もあるので、ソフトランディングしたかどうかは不明(「構造上問題のないものであった」「無傷だった」「機内に燃え跡がなかった」などのKAL007初期断片報告に基づく)。
但し、着水間際の機体の飛行状態を目撃していた人たちが何人もいた事は事実で、ロマネンコ将軍率いる沿岸警備隊員たちと一隻のボートに乗っていたロシア人が民間人であれば、サハリン西海岸で噂になって伝えられた事にも真実性があり、明らかな嘘は自然消滅するか伝達されづらいはずと思える。
① 9月1日JST朝4時頃、ロマネンコ少将は無線でユジノサハリンスクKGB本部へ連絡し、集めた兵隊たちを直ちにネべリスクへ移動させ、本拠地を仮設設置するように手配した。早朝JST5時過ぎ、海上の事故現場から東のネべリスク港に沿岸警備隊2隻が到着する予定で、ユジノサハリンスクで集められた新兵(年齢不問)たちをホロ付トラック十数台でネべリスクへ移動した。そのホロ付トラックにKAL007乗員乗客約230名を乗せ、ユジノサハリンスクへ直行した。ホロ付トラックは、ユジノサハリンスクでテント・折りたたみ椅子・テーブル、軍隊キャンプ用具、毛布、携帯食料飲料水、無線機・送信受信アンテナ、仮設トイレ等をネべリスクまで運ばなければならなかった。ネべリスク本部の本部長は、ウラジミロフ・アポロノフ少将がその任務に就いた。
9月1日、ソ連海軍の掃海艇合計8隻が海面で回収した物は、ネべリスク本部へ集められ、念入りに選別された。その時の遺体部分は、即時焼却する前にまとめて冷凍保存し、ソ連大型冷凍トロール船BMRTカレンガへ引き渡された。ボイジャー747のジュラルミン外壁部分はゴルノザゴーツクへ移動し、電子機器と精密機器類はネべリスク会場に集められた。子供のおもちゃ・毛布・バッグ・衣類の内、壊れて使えない物は埋めたり、焼却処分にした。
② カメンスキー中将とソコル防空軍司令官コルヌコフ大佐が未明の早朝JST4時過ぎ、車に乗ろうとした時に道を聞かれた韓国人トラック運転手は、その軍隊を移動中、濃霧のため隊列からはぐれ、南側のソコル基地付近まで南下し、道に迷った。韓国運転手の言う「運動場(訓練場)」はネベリスクの聞き違えかも知れない。あるいはネべリスクの墓地がある小高い丘の上、それらはロマネンコ少将が沿岸警備船の無線で連絡した下準備だった。カメンスキー中将は霧が深く未明の時間に、どこへ行くつもりだったか。ネべリスクからモネロン島へ船で渡り、事故現場を確認する必要があった。コルヌコフ司令官は、それを察して同行し、意見を聞きたかった。カメンスキー中将は、民間機かも知れないため「撃墜命令」を下せなかった。オガルコフ総参謀長の気質であれば、「夜間の領空侵犯機は撃墜」。結果は参謀総長の意見に従うしかないと考えていた。コルヌコフ司令官は、侵入機はボーイングで左翼と尾翼を撃破した事を知っており、しかも正常に飛行できる状態で、後部にミサイルが当たった事も報告を受けていた。
カメンスキー中将はネべリスクで国境警備艇に乗船し、その侵入機が海上に墜落したか、不時着水したか、実際にどうなったか、その位置を確認する必要があった。軍専用通信無線機を搭載している国境警備艇を捕まえる事ができれば、極東軍管区総司令官トレチャク(大将)に連絡できる。約2時間後のJST6時過ぎ、新兵たちで騒然としていたネべリスクへ到着した。
③ 元イズベスチア編集長アンドレ・イ―レッシュは、大韓航空機撃墜事件を1991年に再調査・編集して紙上で発表したソ連人だが、当初KAL007はきりもみ状態で墜落し、海面に激突して粉々になったと信じられていた。世界の各新聞で、1983年9月2日に報じられた「大韓機乗員乗客全員死亡」のニュースは、9月1日のタス通信情報とモネロン島北側の朝の現場目撃情報による。サハリンの漁民たち以外は、高度1万メートルで韓国機が撃墜され、海面に衝突し粉々になったと誰もが信じ疑わなかった。
しかし、イスラエルのアブラハム・シフリンからイズベスチア編集長宛ての手紙をイ―レッシュが受け取り、KAL007はモネロン島北側に不時着水し、残りの乗員乗客は強制収容所と子供たちは孤児院へ送られた事を知り、どちらが正しいか曖昧になった。シフリン説がほぼ正しく、それに加え日本のイカ釣り船員たちが実際に目撃した当時の事実(NHK取材)が含まれ、更に事故現場の状況が正しく認識されるようになった。
④ 2003年まで機長チュンビュイン、米上院撃墜マクドナルド、その他の乗員乗客たちは半数以上が東シベリアで生きていた事実を録画で発見し、シフリン説がより現実に近いと考えるに至った。ただし、事件から8年後のイズベスチア再調査によって、嘘の塊から本当の事実が解るようになった。事件の全容を把握できた功績は、イズベスチア新聞の目撃談にあると言える。
⑤ ソ連国境警備艇の船長の話しが本当であれば、KAL007の着水後に2隻の沿岸警備船がいた可能性が高くなる、しかしその後レーダーから消えたという話が不可解。濃霧が発生し始めていたので、霧でレーダーから消えたと解釈する事もできる。JST3時34分に、KAL007はRTFによる2発のミサイル攻撃を右旋回で除け、雲の中に突入した。レーダーが捉えた3つの点は、Mig23とRTF、KAL007であり、時間的に国境警備艇のレーダー時刻JST3時32-33分が正確であれば、高度5,000mの3機の機影であった。その後の海上のイカ釣り船と海上低空飛行していたKAL007を、JST3時45分頃レーダーで観測できなかった。ソコル防空軍基地のレーダー観察者ゲラシメンコ中佐は、JST3時34分高度5,000mでKAL007がレーダーから姿を消したのを観察している。その時、2機の追撃機が後を追っていたので、国境警備艇船長が見た3つの点は、その時のレーダー反応の話しと言う事になる。重要な事は、稚内レーダーでさえイカ釣り船とKAL007の海上低空飛行を捉える事ができなかった。
⑥ 9月1日未明の4時ごろ、オシポビッチ少佐が濃霧のソコルの滑走路に着陸して間もなく、韓国人記者が詰め寄り、最初に撃墜の状況を詳しく尋ねた。ユジノサハリンスクに居たサハリン新聞(イズベスチア)のその記者は、ロマネンコ少将から無線で取材するようにたのまれ、写真やビデオでオシポビッチ少佐本人を撮影した様子だった。ソコル基地へ戻って司令官に報告した後は、Suhoi-15TM、Mig23パイロットたちは、すぐにモスクワ本部へ転送させられた。KGB書記長のアンドロポフは、KAL007がモネロン島北の海上に不時着水し、乗員乗客をユジノサハリンスクKGB本部へ連行した事をロマネンコ少将の上司、極東軍管区総司令官トレチャク(大将)から無線で直接話を聞いていた。ソ連時代は、軍用無線中継網とTV・ラジオ中継局、東と西を瞬時でつなぐ中継局が整備され、初期携帯電話はまだ無かった。
⑦ モスクワのオガルコフ参謀総長(元帥)は、ロマネンコ少将に無線で「TACC通信(ソ連国営報道機関/新聞・ラジオ・TVなど64ヵ国)へ乗員乗客は全員死亡した」と報告し、その時に「海に沈んだボーイングをより深い海域に移動する事」をロマネンコ少将へ命じた。
私はKAL007乗員乗客には重軽傷者が数十人いたはずなので、ユジノサハリン病院へ重軽傷者を運ぶため、9月1日早朝、最も近いネべリスクへ直行した説を取る。そして9月10日以降、ユジノサハリンスクKGB本部からソビエツカヤ・ガバニKGB収容所へ移送され、子供たちはサハリンの孤児院へ収容された。
1990年頃の話しだが、顎髭をはやしたロマネンコ少将の顔を撮影したビデオやモネロン島の海に面した岩場でKAL007機長と十数人のパイロットたちが尋問されていた様子がYouTubeで公開されていた時期があった。
そのビデオ録画によれば、9月1日午前中、KAL機パイロットたち十数名は海水に浸かったため、そして目立たないようにするためソ連の軍服を着用していた。その中でも機長チュン・ビュイ・インは目立つほど背が低かった。その時、ソコル基地司令官コルヌコフは、海水で濡れた札束を破いていた。それはKAL007パイロットたちがコクピットで談話していたキンポ国際空港で交換するはずのスーツケースに詰めたアメリカドル紙幣だった。機長はロシア語が話せず、英語でスーツケースに入っているアメリカドル紙幣の説明を試みたが、人権意識が希薄な社会主義国家ではアメリカをはじめとする外部諸国のような為替相場や保険制度が全く無いため理解されなかった。ソ連側ではアメリカドル紙幣を破く行為によって無視する意思表示をした意味のある断片映像だった。
これが当時の現場録画であれば、KAL機長と十数人のデッドヘッド(帰還パイロット)たちは、9月1日早朝、モネロン島北海岸へボートで移送され、目だたないようにソ連軍服に着替えさせられた後、尋問を受けてからユジノサハリンスクKGB本部へ連行された事になる。
9月2日か3日頃、海上に札束が散らばっていて大騒ぎになったのは、そのアメリカドル紙幣だった。
他に、潜水艇のある大型船のクレーンで海中から吊り上げられた人体サイズの青いポリエステル袋の中身はKAL機に残された遺体だったか、そのような証拠映像も含まれていた。それらはソ連防空軍側(退役した元極東総司令官)が許可した当時のビデオ録画で、KAL007の動画として3年ほど見る事ができた。しかし、アナトリ・コルヌコフ総司令官(晩年にロシア空軍総司令官)が退役し、死去したデジタルニュースが報道されてから削除されたためか見当たらなくなった。大韓航空機撃墜事件に関する記事やブログは2~5年経つと検索できなくなるため、記録しておく必要がある。
(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007,2010-2024.8.25.