KAL007 大韓航空機撃墜事件に関する目撃録1

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 目撃や証言は、部分的な事実として信憑性があり、KAL 007についての報告・目撃は、場所の違い、時間的なズレ、訳語としての多少の違いがあるとしても全て事実と考えられる。目撃談以外は、国際水域や日本領海に流れ着いたKAL 007航空機の破片、所持品、貨物の一部、乗員乗客の靴、インタービューによる証言、報道記録、写真・ビデオ録画、著作などが基本的な証拠や資料となりえる。

  1. 「一発目は外れて左翼エンジン(左翼ジェット・エンジン2基の内どちらか)にあたり、黄色いフラッシュ(接触)があった。2発目は機体後部へ命中して爆発した」Gennadiy Nikolayevich Osipovich防空軍少佐 
  2. 「爆発後、上昇し、ほとんど垂直になるまで反り返えり、炎上しながら急降下した」 Gennadiy Nikolayevich Osipovich防空軍少佐
  3. 「エンジンは正常です!機長!」KAL007副操縦士Son(1983年9月1日JST:3時26分45秒 ブラック・ボックス録音記録)
  4. 「島の上空で音をたてながら降下する様子を見ていた」「頭すれすれの低空飛行だった」「ドカーンという爆発音の後、水平線がパーとオレンジ色に明るくなった。少ししてから再び爆発した。二度目の爆発は最初の爆発より小さめだった」「しばらくしてから油(ケロシン)のすごい臭いがした」。第58千鳥丸乗り組員
  5. ソ連沿岸警備隊の船が最初に爆発現場に到着した。その27分以内にロシア人を乗せた一隻のボートが現場付近にいた」ソ連沿岸警備隊による報告
  6. 「事件当日、着水した機体から乗員乗客が救助され、トランクと一緒に運び出された」サハリン西海岸ネべリスクの漁師たちと日本人漁師の目撃談(アブラハム・シフリンによる調査報告)
  7. 「海面に激突する前に、その飛行機がおよそ10分間飛行していた事を思い出してください。この間、乗客は、全てではないにしても救命胴衣を着る事ができたはずです。そのうえ、彼らは確かにシートベルトを閉めました。海面に衝突する際の飛行機の勢いがどのくらいあったとしても、跡形もなく姿を消している269人の人々を想像するのは難しい事です。乗客の何人かは、救命胴衣によって海上へ浮かなければなりませんでした。何人かは、シートベルトを着けながら海底に残ったはずです。乗員乗客全員が、姿を消すなど無理な話です」ジェームズ・エーベリ
  8. 「KAL007便乗員乗客269人の内、12才以下の子供たち23名が乗っていました」乗客の遺族
  9. 「海底に沈んでいた機内には、誰もいなく、シートベルトがすべて外されていました」ダイバー
  10. 「事故現場の海上には一体の遺体も無かった。27分以内に一隻のボートがその場所に到着していたという話は本当だろうと思える」ソビエト太平洋艦隊総司令官ウラジミール・シデロフ提督(イズベスチア新聞)
  11. 「無傷だった」「下から上へ上がれる状態だった」ソコル防空軍基地将校と技官(イズベスチア新聞)
  12. 「不時着水した飛行機は大半が無傷な状態で、KGBロマネンコ将軍指揮下の国境警備隊の船に回収され、乗客と荷物が飛行機の外に運び出された」サハリン西海岸ロシア漁民たちの話
  13. 「海軍と民間ダイバーが見つけた航空機は、基本的に欠ける所が無く完全な物体でした。構造上傷の無いものでした」
  14. 「9月4日と5日、事故現場付近の上空は、ヘリコプターや飛行機が何十機も飛び交い、空からも捜索が行われていました。上空から下を見ると、モネロン島北側の岸沿いに警備隊がぞろぞろ歩き、流れ着いた物を何でも拾い集めていました」「私は繰り返し毎日飛びました。その時の私の仕事は、ユジノサハリンスクからネベリスクへ保安委員会の連中と人を運び、発見されたあらゆる物を巡回してヘリコプターに積み、ネベリスクへ戻る仕事でした」
  15. 「日本からのパトロールボートは、ヘリコプターが離着陸できるように装備されていました。そして見たところ均一な英国船。信じられませんが多い時は100隻以上ありました」
  16. 日本の海上保安部の巡視船2隻は、防衛庁稚内レーダー監視基地から9月1日JST3時29分にKAL007の飛行情報を受け取り、サハリン西の海域に派遣された。稚内には飛行機2機が待機。9月1日JST6時10分から14時30分の間に海上保安庁は、8隻の巡視船をサハリン西海域へ派遣。
  17. 「海軍ダイバーの任務は、民間ダイバーと異なり別々だった。海軍ダイバーたちは、撃墜された航空機を引いて行き、沈め、海底に沈められた航空機を爆破させ、空中爆発をしたように見せかけるため、その残骸を四方に散らしたほど奇妙だった」民間ダイバー
  18. 「KAL007が海面に浮いている状態を空から見ていました。その飛行機は、ソビエト領海のモネロン島付近まで引かれて行き、故意にソビエト領海内の浅瀬に沈められた」ソ連側ヘリコプター民間パイロット
  19. 「9月5日から委員会の役員を運んだり、モネロン島に集められた袋や機体部分をネベリスクへ運び始めました。モネロン島北側の浜にKGB職員が番をしていて、運ばれた物の整理をしていました。私は、ヘリコプターにそれらの荷物を積んでいる時、その人とよく話をしました」「軍事機密という事を知らされていなかったため、何を運んだか知っています」ソ連側ヘリコプター民間パイロット
  20. ボーイングには何の火災も無かった。その事は確かです。すべてのものは油で浸され無傷でした」民間ダイバー
  21. 「1020点の機体部分と遺品・遺体部分を回収。その内2/3は日本の領海内で発見されたり、流れ着いた遺品や機体、遺体部分だった。韓国人9人の遺体も海上で発見されている。しかしKAL007に積まれていた450個以上のスーツケースがひとつも見つからなかった」報道
  22. 「乗員乗客の遺体がなかった」とダイバーたちは驚きながら報告。しかしダイバーのうちの1人は、「首を切られた胴体、身体の肉片と10回遭遇。いくつかのスーツケースも見ました」と報告した。
  23. 「私はひとつの黒い手袋を発見し、その中を見ると人の手が入っていました」
  24. 「最初の何人かの死体を見た時、驚きましたがぎょとはしませんでした。後で頭のような毛の生えた人間の皮膚を見ました。髪の毛は黒かった。しかし触ると全部ばらばらになりました」
  25. 「ライフジャケット(救命胴衣)を着た頭の無い胴体を見ました。そして彼らの体を回して見ると、ライフジャケットの下からいくつかの白い紐が伸びていました。明らかに内臓の残りです」
  26. 「飛行機残骸に加えて多くの物がありました。乗客の手荷物の中身のようです。衣類、文書、財布、女性の財布、その中のお金も発見しました。スーツとドレス、文書があり、その文書を抜き取ることが困難だった。衣類など。私は学生IDのパスポートも見つけました。これらの物品は海軍担当者からBPKセバスポリに渡されました」
  27. この事件の翌日、1983年アメリカ時間9月1日午前11時40分(11時30分からの報道)、米国国務長官ジョージ・シュルツは、「大韓航空機は破壊され、逃げた」とテレビや記者会見で発表。
  28. 1991年12月10日、米国上院議員ジェシー・ヘルムズは、ロシア大統領ボリス・エリツイン宛にKAL007便に関する具体的な情報を求める書簡を送った。
  29. 1992年6月17日、ロシア大統領ボリス・エリツィンは、KAL007便に関する文書の存在を報告。「KGBによるKAL007覚え書き」が存在する事を明らかにした。その3ヵ月後、「ブラックボックス」の存在を認め、1992年10月28日、「生存者はいない」と返答。
  30. 1989年8月2日、アメリカ人遺族によるワシントン地方裁判所での訴訟で、大韓航空に対し5000万ドルの損害賠償請求がなされた。その判決によってアメリカ人遺族の中には解決済みの人たちもいるが、未解決で終わっている遺族もいる。その時期のワシントン地裁では「KAL007によるソ連領空侵犯が、操作ミスではなく、意図的に行われた」という判決であった(米国空軍戦略司令部と米国国務長官による可否)。


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,2010-2012-2013/10/30.