貨物とトランク・乗員乗客は何処に(6)


 KAL007が領空侵犯したコースは、意図されたコースか過失かという問題は、日本側の人工衛星ひまわり2号からの1983年8月31日の気象画像を調べ考えると、アンカレッジ航空で出発地点の座標軸上での位置を拾う操作が、飛行機が移動している時に行われ、エラーだった事を見過ごした事がありえる。現在では天候が不調なため、雲を避けるためにヘディングモードで飛行し、コースを戻し忘れた説が有力。
 慣性航法装置で現在位置を確認するための手段、あるいは位置を視覚化するための機器が無かったため、逸脱していた事が解らなかった事故と考えられ、それらの答えが最も近い原因だったと理解される。客を乗せている場合、真面目なパイロットであれば危険なコースを選ばない。

 KAL007事件の顛末書と、9月1日から事故現場で行われたソ連側の大型船三隻による作業報告書が公開されず、年数を置いて新たに発覚した事実が部分的に公表されている。その報告書には、この事件の現場証拠写真やビデオフィルムなども含まれている。ICAOからの質問に対して報告され公表された事実もあるが、遺族や関係者などの被災者側には事後処理の経過に関し、知らされていず公開されていない。
 KAL007の乗員乗客が窒息死、あるいは溺死して傷跡が無いその日の遺体であれば、冷凍保存されていると空想する事もできる。しかし現実的に死後硬直した遺体で腐敗が始まっているものであれば、火葬しかない。「遺品と一緒に遺体はすべて火葬した」という記事は、この事件の何年か後に読んだことがあった。
 火葬した場所は、サハリンの町であれば地元民による目撃者がでる。ソ連海軍兵で占められているモネロン島北側の浜であれば、浜から少し上がった草木林の中に簡易焼却炉を造り、まとめて燃やした方が人目に付かない。
 韓国新聞にはこの事故の翌日、KAL007はユジノサハリンスク緊急着陸させられたと報道された。日本でも9月1日、午前11時のTVニュースで「大韓航空機サハリンに強制着陸」と放送された。
 サハリン南州都ユジノサハリンスクは、人口17万4千人、内韓国人2万人、北朝鮮からの移住者2万人が住んでいる。その町では日本のテレビ放送も受信されているという事であった。



 A.シフリンの調査報告書(プレスリリース・リポート)には、機体はサハリン島西海域上空で爆発し、島の北側海面に着水し、乗員乗客はソ連沿岸警備船に救助された事について書いてあり、その情報源はサハリン西側の漁民が目撃した話による。
 しかし、ソ連沿岸警備隊が乗員乗客を連行した後、①ロマネンコ少将(KGB職員)は、「コクピットブラックボックスボイスレコーダーとフライトレコーダー)を取り外して②機体を船で引っ張り、③爆破して沈めた」という事に関しては記述されていない。「機体を爆破して沈めた」という目撃談は、イズべスチア新聞社による再調査リポートの記事による。ほとんど無傷の機体をソ連領海付近まで引っ張る時間があったか、ロープを引っ掛ける場所が無いためロープを両翼に付けたか、沿岸警備船に全長70mのボーイング747を引っ張る力があったか疑問。これが事実であれば、ロマネンコ将軍率いる沿岸警備船の大きさは100m以上で、200人以上の乗客たちを収容できる大きさであったと考える事ができる。
 イズべスチア記事の目撃談から、後部外壁の撃破された穴以外、「機体は、構造上問題のないものであった」ならば、不時着水に成功し、後部座席以外の乗員乗客は救助された事になる。
"ボーイング747コクピット天井外壁を爆破して沈めた"という話も、事実そうしなければ、いつまでも機体の天井が浮いた状態で、「爆破して沈める」必要があった事は真実と考えられる。沈めるための爆破規模は、ジャンボジェット機1階が燃料タンクの爆発により後ろから海面下に沈み、コクピットと2階が海面上に浮いた状態であれば、天井外壁1ヵ所では無理で、コクピット上と2階客室上の2ヵ所(直径30cm前後)同時に爆破した事も考えられる。
 又、稚内自衛隊基地レーダーによれば、最後は「動かない状態の機影がレーダーにしばらくの間(5~10分間)映っていたが、やがて消滅した」のであれば、不時着水から10分以内に爆破して水没させたことによる。ここで、重要なのは目撃談として嘘の部分が混ざっているかも知れないという事で、ロマネンコ少将は、乗員乗客を沿岸警備船に乗せたあと、「ブラックボックスを取り出し、その機体を船で引っ張り、爆破した」。ブラックボックスは、通常、ボイスレコーダーとフライトレコーダーの2台で、場合によりその他腹数台設置されている事もあるが、KAL007には合計4台設置されていた事になる。但し、発着前のボイスレコーダー2台と、離陸・着陸時のためにフライトレコーダー各2台、合計4台設置していた可能性がある。合計何台設置していたかは、大韓航空側では公表していない。
 シドロフ提督は、KAL007に搭載していたブラックボックスと同じ型のブラックボックスを、おとりとして深い海域と国際水域(公海)の数ヵ所に沈めた。彼は同じ型番が緊急に必要なため、その元となるブラックボックスを見たか、品番を控えたはずで、その事から、ロマネンコ少将は既に2台取り外していた事が解る。KAL007のブラックボックスについて公表されているのは、「減圧のため、--フィートまで降下する」までで、その後も、テープは回り続け、不時着水前に「ランディングギヤを下げよ」というコクピット会話があったと朝鮮日報デジタル記事で報道されていた時期もあった。ただし、この件に関しては出所が不明という注釈もあったので、通常であればそうするはずという他のパイロットの推測の可能性もある(ソフトランディングで燃料タンクに引火したのは、車輪を下げたため)。
 1983年9月1日未明、「機体を引っ張る時間があったか」部分的に信用できない。9月5日から9月9日の第2地点で爆破して沈めた状況が混ざっている可能性のある目撃談。イズべスチア新聞特派員たちの再調査による目撃談は、日時が省かれているのが特徴で、文脈の中で目撃談を引用している。その方法のために、何日の目撃談か、前後ばらばらで日時を特定できないように連載されていた。
 当時のソ連社会システムでは、「この事件に関しては、あまり多くを語らないように」の注意付きで、日時や名前まで掲載すると、秘密警察の密告制度によって脅迫(強制労働収容所・精神矯正収容所行き又は年金の減額処置等)を宣告される恐れがあった。当時の社会体制下では、密告者には若干の報酬が与えられていました。



 モネロン島の上空で螺旋状に5回旋回しながら降下したのは、他の基地のレーダーで解りやすいようにKAL007の着水予定地を知らせるためのマーキング行動だった。着水時にランディングライトが故障していなければ、点灯したのではないか。油圧器4基の内、3基故障していたのでライトが点灯せず、ランディングギヤのみ作動した確率の方が高い。KAL007両翼の傾きが解るジャイロが故障していなかったため、着水の際に両翼を水平に保つ事ができたはずであった。
 モネロン島に漂着した遺体や遺品、飛行機の破片、荷物や貨物に関しては、ソ連海軍機動隊が片付け、外部に漏れないよう軍事機密として封印した。海軍ダイバーと民間ダイバーによる機体部分の証拠写真、ビデオフィルムなども、その期間の詳しい報告書と一緒にソ連側にある。


 中将カメンスキーは、「KGBが全ての報告書と写真、フィルム等も廃棄した」という事を2001年のインタビューで話した。KAL007について残された物は、「KGBによる覚書き」と「ソコル防空軍基地とSu-hoi15TMの交信テープ」だけと報告されている。現在は、2018年「機密解除」によってKGBの秘密書類は、モスクワ・クレムリン地下に保存され、冷戦博物館として一般公開されている。



 十数個の貨物は、ミルチンク号によって海底から引き揚げられ、北方ガバン地区ソヴィエツカヤ・ガヴァニ海軍用の港へ運ばれた。ガヴァニ港は主に丸太木材の運搬等に使用されている。
 海底から引き揚げた貨物の中身は、洗って乾かし、20年後の2003年9月に、強制収容所出所祝いに生活必需品等が配給された。チュコツカ・アナディーやオイミャコンのデジタル録画をYouTubeで見る限り、アルミ蒸着シート、アラスカ産カモシカの毛皮製品、アクリル製セーター、初期パソコン(ベイシックの前で、ほとんど使い物にならない電子機器)など新しい製品に見え、旧ソ連の地味な囚人用ジャンバーやキャンプ用テントと明らかに異なっている。
 モネロン島近海の海上で、見つけたドル紙幣は、トランクかボストンバックに詰められていたもので、誰かがバックを開けてばら撒いたと考えられる。ソ連のアナトリ・コルヌコフ極東司令官が、モネロン島北側の岩場に集められたKAL機乗員たちの前で、アメリカ紙幣の札束を破いていたデジタル録画を見た時期もあった。合衆国を憎んでいたその人が、アメリカドル紙幣を海上にばら撒いて捨てたと思える。アナトリ・コルヌコフ極東司令官であれば、若干の英語力はあるが、札束を破いた時は言葉を発しなかった。KAL機乗員たちは、ロシア語を知らなかったため何を言っているか理解しがたかった。その場には通訳が必要だった。しかし、コミュニケーションがとれないために、アメリカドルを破く行為で合衆国側の価値観を全面否定したようであった。そのビデオ動画の撮影者は、コルヌコフ司令官専属の特殊技官しかいない。


 大型の船(ミルチンク号)のクレーンで引き上げていた青いビニールシートに包まれた物体は、KAL007の残骸では無く、遺体ではないか。170cmほどの、かなり怪しいビデオであった。また、顎髭をはやし、半袖姿のロマネンコ将軍の顔も、4秒ほど撮影されていた。1983年9月1日から5日までの珍しい録画だった。
 生き残った約20名ほどのKAL機乗員たちは、モネロン島北の磯で尋問を受けた後、ユジノサハリン経由でモスクワへ移送された。子供を含めた乗客たちは、ユジノサハリンスクKGB支部へ連行され、負傷軽症者は応急手当てを受け、重傷者はユジノサハリンスク病院、子供たちはサハリンの孤児院、大人の男女は黒龍江アムール川付近の外国人捕虜強制収容所へ連行された。これらは、アブラハム・シフリンによる体験から間違いないとされている。



(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007  2009-2024.7.17-