貨物とトランクは何処に

貨物とトランクは何処に   


Boeing 747-400F

  1. 海底に沈んだKAL007の残骸付近には、貨物室にあったコンテナとその中の多くの荷物や郵便物、450個の乗客のトランクも無く、機内座席に運ばれた荷物しか残っていなかった。
  2. 機長の判断としては、貴重品と起爆物が積まれている場合、落下させて捨てるような事は貨物便の責任上、おそらくしない。最後まで貨物は積まれていた確立の方が高い。しかし不時着水の場合、人命を優先すべきと考えた場合、できるだけ浮力を得るために捨てた可能性も全く無いわけではない。
  3. ボーイング747に269人の乗員乗客は空いている状態で、あと300人乗ることができる。1人平均50kgとすると15t軽いので、シートベルトをしめたまま、貨物も捨てずにそのまま着水するしかなかったという説が一般的に正当。
  4. モネロン島の上空で螺旋状に5回旋回しながら降下したのは、他の基地のレーダーで解りやすいようにKAL007の着水予定地を知らせるためのマーキング行動だった。着水時にランディングライトが故障していなければ、点灯したのではないか。
  5. 日本とソ連のレーダー基地に機影が映っていたのは、モネロン島上空で5回螺旋降下した時までで、その後の雲の中と海上の低空飛行の時はレーダーに映らなかったのではないか。それでモネロン島付近の浅瀬で、しばらくの間レーダーから消えなかったように見えたのではないか。
  6. モネロン島に漂着した遺体や遺品、飛行機の破片、荷物や貨物に関しては、ソ連海軍機動部隊と特殊部隊が片付け、外部に漏れないよう軍事機密として封印した。海軍ダイバーと民間ダイバーによる機体部分の証拠写真、ビデオフィルムなども、その期間の詳しい報告書と一緒にソ連側にある。


Boeing 747 貨物搬入搬出口ボストン空港の冬
確定的解明に関する問題

  1. KAL007が領空侵犯したコースは、意図されたコースか過失かという問題は、日本側の人工衛星ひまわり2号からの1983年8月31日の気象画像を調べ考えると、アンカレッジ航空で出発地点の座標軸上での位置を拾う操作が、飛行機が移動している時に行われ、エラーだった事を見過ごした事がありえる。現在では天候が不調なため、雲を避けるためにヘディングモードで飛行し、コースを戻し忘れた説が有力。
  2. 慣性航法装置で現在位置を確認するための手段、あるいは位置を視覚化するための機器が無かったため、逸脱していた事が解らなかった事故と考えられ、それらの答えが最も近い原因だったと理解される。客を乗せている場合、真面目なパイロットであれば危険なコースを選ばない。

  1. KAL007事件の顛末書と、9月1日から事故現場で行われたソ連側の三隻の船による作業報告書が公開されず、年数を置いて新たに発覚した事実が部分的に公表されている。その報告書には、この事件の現場証拠写真やビデオフィルムなども含まれている。ICAOからの質問に対して報告され公表された事実もあるが、遺族や関係者などの被災者側には事後処理の経過に関し、知らされていず公開されていない。
  2. KAL007の乗員乗客が窒息死、あるいは溺死して傷跡が無いその日の遺体であれば、冷凍保存されていると空想する事もできる。しかし現実的に死後硬直した遺体で腐敗が始まっているものであれば、火葬しかない。遺品と一緒に遺体はすべて火葬したという記事は、この事件の何年か後に読んだことがあった。
  3. 韓国新聞にはこの事故の翌日、KAL007はユジノサハリンスク緊急着陸させられたと報道された。日本でも9月1日、午前11時のTVニュースで「大韓航空機サハリンに強制着陸」と放送された。
  4. サハリン南州都ユジノサハリンスクは、人口17万4千人、内韓国人2万人、北朝鮮からの移住者2万人が住んでいる。その町では日本のテレビ放送も受信されているという事であった。

脚注18:A.シフリンの調査報告書(プレスリリース・リポート)には、機体はサハリン島西海域上空で爆発し、島の北側海面に着水し、乗員乗客はソ連沿岸警備船に救助された事について書いてあり、その情報源はサハリン西側の漁民が目撃した話による。
しかし、ソ連沿岸警備隊が乗員乗客を連行した後、①ロマネンコ少将(KGB職員)は、「コクピットブラックボックスボイスレコーダーとフライトレコーダー)を取り外して②機体を船で引っ張り、③爆破して沈めた」という事に関しては記述されていない。「機体を爆破して沈めた」という目撃談は、イズべスチア新聞社による再調査リポートの記事による。ほとんど無傷の機体をソ連領海付近まで引っ張る時間があったか、ロープを引っ掛ける場所が無いためフロントガラスを割ったか、沿岸警備船に全長70mのボーイング747を引っ張る力があったか疑問。

脚注20:RESEARCH CENTRE FOR PRISONS, PSYCHPRISONS AND FORCED LABOR CONCENTRATION CAMPS OF THE USSR
A. Shifrin Executive Director
ソビエト連邦の刑務所、精神犯、強制労働集中キャンプの調査センター
エグゼクティブディレクター:A.シフリン
プレスリリース
 1989年、私たちの調査センターは、1983年9月1日にアラスカのアンカレッジからソウルに飛ぶKAL007大韓航空ボーイング747日本海ソ連迎撃機ミサイルによって撃墜された悲劇的な事件の調査を開始しました。攻撃は現地時間(日本時間)の午前3時26分、サハリン島南西端で発生しました。 TASS通信共同声明によると、韓国のボーイング747アメリカの偵察機と間違われ、ソ連の戦闘機に襲われ、ミサイル2機に追撃され、海に墜落して乗員乗客269人全員が死亡しました。 KAL007の乗客の中には、米国下院議員のラリーマクドナルド(D.ジョージア)がいました。

 私たちの調査により、ソビエト連邦の公式声明を嘘だと反論する次の結論に至りました。

1.ソ連防空軍パイロットであるオシポビッチ大佐(当時少佐)がSU-15戦闘機から発射した2つのミサイルによって部分的に損傷を受けた韓国のボーイング747は、パイロットの制御を失いませんでした。それどころか、彼らは高高度で突然キャビンを減圧する場合の指示によって要求される標準的な降下手順に完全に従って行動し始めました。パイロットは東京の基地と連絡を取り、「急速な減圧」を報告し、最初に16,000フィート、次に10,000フィートまで降下する許可を要求しました。その後、35,000フィートから16,000フィートまで下降し始め、4分かかりました。ここでは、降下速度を4,750 FPMから1,875 FPMに下げ、さらに8分間徐々に下降を続けました。この8分間のある時点で、攻撃の瞬間にサハリンから遠ざかっていた飛行機が180度回転し、強制的に着陸する場所を探してサハリンに向かって動き始めました。

2.ボーイング747は、ポートネベリスクからそれほど遠くない、モネロン島の北の水上に着陸しました。着陸は柔らかでした。その場所の海は浅く、飛行機は沈みませんでした。そして、人々は緊急フロートに降り始めました。この情報は、目撃者の証言と以下の客観的事実の両方によって裏付けられています。

a)攻撃後、KAL 007便はいくつかのソビエトのレーダースクリーンで見られました。特に、ソビエト防空軍V. V.リシュコフの大レーダーによって証拠を自由に使用する事ができます。彼はレーダーでKAL007の飛行を個人的に見て、ザヴェットイリイチ集落にある1845年の軍事ユニット防空席からその動きを撮影しました。彼は最初に韓国のボーイング747を急降下を見て撮影し、その後レーダーでゼロ点に達するまでそれを見て撮影し続けました。
 着陸するまで。同様に韓国ボーイングは北海道にある日本の稚内レーダー基地のレーダーによって追跡されました。彼らは、飛行機が35,000フィートから16,000フィートに急速に降下し、明らかに制御下にある降下速度を低下させ、その後、明らかに180度回転してサハリンに向かったと記録しました。日本のレーダー画面では、0点に到達するまで飛行機も見られました。

b)すべての専門家は、制御不能の急落の場合、ボーイング747はレーダー画面で2分間しか見ることができず、実際には少なくとも12分間見ることができた事に同意しています(そのような場合、高度35,000フィートからの通常の降下手順に従う飛行機の場合は約15分かかります)。

c)制御不能な落下の場合、飛行機が水面に当たると、緊急ロケーター送信機(飛行機の「ブラックボックス」の1つ)が自動的に動作し、無線で受信できる信号の送信を開始します。つまり、水上着陸の衝撃が柔らかい場合、「ブラックボックス」からの信号はありません。
KAL 007事件の場合、信号はありませんでした。

d)KAL 007のパイロットは、攻撃後しばらく日本と無線接続していたため、「メーデー」緊急メッセージを送信しませんでした。彼らは「減圧と特定の高度に到達する彼らの意図」を報告しましたが、それは飛行機が制御不能になり、上空から急降下する意味では絶対にありません。

e)攻撃の50分後、日本の成田飛行場の勤務中の士官は、「安全な緊急着陸を報告したKAL007船長チョン・ブイン・インの声」を無線電話で聞きました。米国では、この無線送信は調査官ジョン・カッペルによって報告されましたが、ソ連では、日本の「朝日」テレビの記者によってこの無線送信のテープを見せられたソビエト特派員(記者)セルゲイ・アガフォノフによって確認されました(モスクワ)。

f)KAL007の安全な着陸の事実は、他の2つの電話会話で確認されています。
:CK Suh氏、ロサンゼルスの大韓航空アメリカ地域事務所のマネージャー、Tom。Toles氏、マクドナルド下院議員の報道官。攻撃後、彼はソウルの大韓航空から返事を受け取ったばかりであり、「私が彼らから得た情報は、韓国の米国大使館が韓国政府、外務大臣に...サハリンに上陸しました。」
 また、トミー・トールズ氏は、ワシントンの連邦航空局本部からオービル・ブロックマン氏から次のような情報を受け取りました。
「次のように、FAAの代表である東京のデニス・ウィルヘルム氏から情報を受け取ったところです。彼は、日本の民間航空局の航空交通部門の高野氏(日本航空の担当者)から助言を受けました。次のとおりです。「日本の自衛隊である北海道稚内レーダーは サハリン島ソ連領上空を通過する韓国航空の飛行を追跡した所を確認しています...そして、マクドナルド下院議員がその便に乗っている事をマニフェストによって確認されました」。

3. KGBロマネンコ将軍の指揮下にあるソビエト沿岸警備隊は、飛行機が撃墜されたという情報を受信するとすぐに、海岸線に沿ったすべての船舶に警告を発しました。そのため、ソ連巡視船は水上に着くとすぐに飛行機に近づき、すべての乗員乗客を船に乗せました。ロマネンコ将軍の命令により、すべての乗員乗客は沿岸警備隊の基地に運ばれました。彼の命令で、乗員乗客の荷物は降ろされ、沿岸警備隊の基地に運ばれました。

4.ロマネンコ将軍は、事件とその結果としての行動を極東地区陸軍司令官のトレチャク将軍に報告し、トレチャク将軍はそれをさらにKAL007便が墜落しなかったことをアンドロポフKGB書記長に転送しました。その結果、ロマネンコ将軍は、オガルコフ元帥から命令を受けました。
 浅瀬からより深い海へ飛行機を沈没。また、乗員乗客を本土のKGB保留キャンプ(ソビエトガヴァン地区)に移送するよう命じられましたが、マクドナルド下院議員は厳重に監視され、秘密裏にモスクワに送られました。 KAL007便のパイロットたちもモスクワに送るように命じられました。ロマネンコ将軍は、「飛行機とその乗員乗客の運命に関係なく、秘密を厳守し、飛行機が海に墜落して機内のすべての人たちが死んだ」と主張するように命じられました。同時に、ソビエト連邦は、「飛行機の墜落と搭乗した全員の死亡」を主張する公式のTASS通信声明を発表しました。
 ロマネンコ将軍は、すべての展開を個人的に追ったアンドロポフ書記長からの命令を完全に果たしました。乗客、乗員、および下院議員マクドナルドはKGBの隠れ場所で姿を消しました。
 上記を考慮すると、しばらくしてロマネンコ将軍も姿を消した事に注意することは非常に興味深いです。彼の名前はKGBコンピューターから消去されており、そのような男はまったく存在しなかったようです。

5.私たちの調査(まだ不完全)は、誘拐された人々の足跡をたどりました。たとえば、マクドナルド下院議員がモスクワの多くの刑務所を通過した事を知っています。その中には、モスクワ郊外のKGBの「特別なダーチャ」であるレフォルトヴォの中央ルビャンカがあります。彼の現在の所在に関する限り、調査は進行中であり、現時点で入手可能な情報は公開できません。私たちは、乗客がいたキャンプを部分的に知っており、高い確率で現在保持されています。飛行機からの子供たちに関しては、彼らは両親から引き離され、ソビエト中アジア共和国の孤児院に安全に隠されていました。

6.飛行機が水没した後、ソ連の参謀長オガルコフ元帥がサハリンに到着しました。彼と一緒に彼のスタッフ役員、KGB役員、および彼が調査委員会の仕事を監督するのを助けた他の人々が到着しました(事実、私たちは少なくとも情報の一部を受け取ることができました)。
 General Varennikov、General Staff Intelligenceのチーフ、事件を調査するために秘密国家委員会を率いるためにモスクワで任命されました。委員会に所属しているダイバーは、すべての飛行時間中に高度、速度、飛行方向、速度などの飛行に関するすべての技術情報を記録するフライトレコーダー(一般に「ブラックボックス」と呼ばれる)を取り外しました。
降下、上昇、時間のほか、パイロット同士や陸上とのパイロットの会話。フライトレコーダーとボイスレコーダーによって記録されたデータは、復旧された場合、安全に着陸した証拠を提供する可能性があります。飛行機が海に墜落したと発表されたため、飛行機から客観的制御システムを取り外すことが不可欠でした。この目的のために、海底から周囲の海水と一緒に「ブラックボックス」を輸送できるゴム製容器の特別なシステムが発明され、修復が解決されました。これは、モスクワ地区のリュベルツィの町にある防空軍のERAT科学研究所で行われました。現時点では、研究所司令官は少将でした。軍空軍のサブボティン、技術科学候補。ヴァレンニコフ将軍の委員会のメンバーの中で、客観的制御システムに関するソビエトの主要な専門家がサハリンに派遣され、飛行機からの「ブラックボックス」の撤去とリュベルツイへの輸送を監督しました。
 
ブラックボックス」は、Lyubertsy ERAT Instituteのユ空軍大佐が指揮するユニットに持ち込まれました。レコーダーのデータの解読に関連するすべてを個人的に指導したタラセンコ。一般的な監督はA.サブボティン少将によって行われました。すべての作業は、最も厳しい秘密の条件下で行われました。当然、飛行機が墜落したというアナウンスをサポートするデータはレコーダーから受信されなかったため、記録されたデータも、フライトレコーダーが見つかって取得されたという事実も公表されたことはありません。

7.上記の情報と同時に、1990年5月まで、私たちの情報提供者の1人が、リュベルツィに持ち込まれたフライトレコーダーの商標「ハミルトンエイズ」を送ってきました。この情報が有効かどうかを確認するために、私たちはすぐにそれをアメリカの航空専門家でパイロットのジョー・ファーガソンに送りました。このタイプのレコーダーが韓国のボーイング747で使用されていたという確認を米国から受け取った直後に、プロデューサーによると、商標はレコーダーの開封時にしか見ることができませんでした。そして、それが封印されていなかったのはソ連が所持しており、そこから情報を得ていた。
 これは、情報の信頼性の客観的証拠としてあり、KAL007から「ブラックボックス」は発見されていませんというソ連当局の恥ずべき権威をくつがえす事ができる。

8.「ブラックボックス」と一緒に、ダイバーはコリアンボーイング747からコックピットおよびすべての電子機器からキーボードを取り外しました。飛行機の機器のすべての部分は、モスクワの最初の楽器製造工場であるレニングラードの科学生産協会「スフェラ」、クルスク市の生産協会「プライバー」、および他の一部に引き渡されました。

9.ヴァレンニコフ将軍の省庁間委員会技術メンバーは、飛行機から「ブラックボックス」を回収するために送られたダイバーが死体を探すよう求められなかったことに驚いた。しかし、ダイバーが戻って来て、飛行機に死体も荷物もなかったと報告したとき、彼らはさらに驚いた。これはダイバーによって署名された特別なプロトコルに登録され、後に国家委員会が作成したアンドロポフ宛の秘密報告書に添付されました。
 ヴァレンニコフ大将はソ連の指導者に、「KAL007がスパイ任務に参加し、すでにアンカレッジを去ったと主張する反米プロパガンダ運動」を組織する目的で、飛行機に死体と荷物がないことを利用するというアイデアを提供しました。上空で、平行コースを飛行している別の飛行機から無線で案内されています。このアイデアはヴァレンニコフ将軍によって委員会メンバーの間で回覧されましたが、このバージョンをサポートできる特別な装備が飛行機に見つからなかったため、受け入れられませんでした。

10.犯罪をよりよく隠すために、ソビエトの指導者は、まずさまざまなレベルで作成され、メンバーが事件を調査していると心から信じている多数の調査委員会を対象とする意図的に計画された誤報キャンペーンを行いました。したがって、この誤報キャンペーンの一環として、すでに「ブラックボックス」およびその他の電子機器が取り外された後、飛行機は水面下で爆破されたため、結果としての「調査」委員会のダイバーは「飛行機が墜落した」と述べました。バラバラになりました。しかし、爆発の前に、飛行機全体が空から撮影され、撮影されていたダイバーによる映画はKGBによって没収されました。

11.最近数ヶ月以内に、ソビエト中央新聞「イズベスチヤ」は、新聞による事件の「独立した」調査から生じたとされる2つのシリーズの記事を発表しましたが、実際、KAL007の運命と乗員乗客記事には、「韓国の飛行機は超音速で落下し、水面への衝撃で爆破した」というような根拠のない声明がたくさんあります。
「殺されたボーイングの謎を明らかにすることは明らかに不可能だ。」
「KAL 007便の乗客がまったくいなかった可能性があります。」
「当時、サハリン地域で2機のボーイング747が飛行していましたが、KAL 007はまったく撃墜されていないという仮定があります...」
 新聞は、オガルコフ元帥(参謀総長)が、飛行機からの「ブラックボックス」が見つからなかったと言っていると引用しています。しかし、ソビエトの報告書でさえ「嘘と半分の真実の層」と定義されているという、これと同様の誤った情報とともに、ソビエトの新聞は我々の調査のデータを確認する多くの事実を公表した。
 例えば、「イズベスティア」はモネロン島とサハリン島間の緊急着陸の場所を確認しました。イズべスチア特派員たちは、安全に着陸した目撃者がいる事を確認しました。侵入機が2発のミサイルによって撃破された後、パイロットの制御下にあり、その方向を変え、少なくとも10分間空中にいる事ができたという事実を彼らは確認しました。不時着水直後に沿岸警備船が飛行機に接近したことを彼らは確認しました。着水後に飛行機の胴体が完全であった事を確認しました。ダイバーは、沈没した飛行機内の死体だけでなく、パスポート、財布、または乗客の他の個人文書さえも発見していないことを彼らは確認しました。最後にイズべスチア特派員たちは、攻撃の50分後にボーイングパイロットと日本の基地の間で無線会話が行われた事を確認しました。
 ソビエト側の論文では、救命ベストの飛行機に搭乗していないという事実と、シートベルトが緩んでいるという事実に言及しており、乗客が水上着陸後に安全に飛行機を離れたことを明確に確認していることに注意することが重要です。

KAL007の運命に関するこれらの基本的な瞬間の確認は、ソ連当局が無意識に提供したものであり、ソ連の情報源を通じて受け取った証人の客観的事実と証言から、それらをまとめた調査報告書を完成させています。
 「ブラックボックス」で作業した特定の人々の名前と飛行機から持ち出された電子機器の名前、および飛行機から人々を連れ去った責任者の名前、他の多くの名前を具体的に列記すべきです。悲劇的な出来事の詳細については、明確に定義された目的を提示する必要があると主張します。ソ連から誘拐された人々、KAL007の乗員乗客を救うためです。

 ソビエト中央新聞「Isvestia」は次のように書いています。「ソビエトの社会システムの基礎は恐怖です。韓国旅客機の捜索に携わる人々は、今まで、数年後、その事件を思い出すことを恐れている。それは恐怖であると脅迫されています」。それでも、ソ連の一部の勇敢な人々を通して、ソビエトの公式の嘘に反論し、KAL007の乗客が死亡しなかったことを証明するデータを取得することができました。
 KAL 007の人々の運命に関するこの情報を提出し、私たちは市民がソ連で拘束されている米国、日本、韓国、カナダの政府、および米国上院と議会、世界中に知らせたいです。そのメンバーであるラリーマクドナルドはソビエト当局によって誘拐されましたが、誘拐された人々を救うために行動する事を望みません。調査結果を米国上院に転送しました。データはそこで確認され、信頼できる決定的なものであることがわかりました。米国上院に、この問題について追加の調査と特別聴聞会を組織すべきであると提案しました。この提案は上院で受け入れられました。
 しかし、最初の情報が合衆国上院に送られてから8か月以上が経過し(1991年7月11日現在)、これまでのところ、人々を救うことを目的とした実際の行動は見られていません。そのため、KAL007便の行方不明者のワールドメディアと委員会、または親族には、「飛行機が墜落したのではないので、ソ連に直ちに人々を釈放するよう要求する必要がある」ということを知らせる方法にしました。この事件で犠牲になった乗員乗客の国々は、誘拐された人々を家に戻すようソビエト政府に要求することを期待しています。
(署名)1991年7月11日、ソビエト連邦エルサレムの刑務所、精神刑務所、強制労働収容所の調査研究センター長アブラハムシフリン

脚注19:イズべスチア記事の目撃談から、後部外壁の撃破された穴以外、「機体は、構造上問題のないものであった」ならば、不時着水に成功し、後部座席以外の乗員乗客は救助された事になる。
"ボーイング747コクピット天井外壁を爆破して沈めた"という話も、事実そうしなければ、いつまでも機体の天井が浮いた状態で、「爆破して沈める」必要があった事は真実と考えられる。沈めるための爆破規模は、ジャンボジェット機1階が燃料タンクの爆発により後ろから海面下に沈み、コクピットと2階が海面上に浮いた状態であれば、天井外壁1ヵ所では無理で、コクピット上と2階客室上の2ヵ所(直径1m前後)同時に爆破した事も考えられる。
イカ釣り船乗組員が遠くから目撃した2回目の小さな爆発は、浮いていたボーイング747を沈めるために爆破した事による。
又、稚内自衛隊基地レーダーによれば、最後は「動かない状態の機影がレーダーにしばらくの間(5~10分間)映っていたが、やがて消滅した」のであれば、不時着水から10分以内に爆破して水没させたことによる。
ここで、重要なのは目撃談として嘘の部分が混ざっているかも知れないという事で、注意:ロマネンコ少将は、乗員乗客を沿岸警備船に乗せたあと、「ブラックボックスを取り出し、その機体を船で引っ張り」、爆破した」。
ブラックボックスは、通常、ボイスレコーダーとフライトレコーダーの2台で、場合によりその他腹数台設置されている事もあるが、KAL007には合計4台設置されていた事になる。2台設置の場合は、この時ブラックボックスを取りはずさなかったはず。但し、発着前のボイスレコーダー2台と、離陸・着陸時のためにフライトレコーダー各2台、合計4台設置していた可能性がある。合計何台設置していたかは、大韓航空側では公表していない。
シドロフ提督は、KAL007に搭載していたブラックボックスと同じ型のブラックボックスを、おとりとして深い海域と国際水域(公海)の数ヵ所に沈めた。彼は同じ型番が緊急に必要なため、その元となるブラックボックスを見たか、品番を控えたはずで、その事から、ロマネンコ少将は既に2台取り外していた事が解る。
KAL007のブラックボックスについて公表されているのは、「減圧のため、--フィートまで降下する」までで、その後も、テープは回り続け、不時着水前に「ランディングギヤを下げよ」というコクピット会話があったと朝鮮日報デジタル記事で報道されていた時期もあった。ただし、この件に関しては出所が不明という注釈もあったので、通常であればそうするはずという他のパイロットの推測の可能性もある(ソフトランディングで燃料タンクに引火したのは、車輪を下げたため)。

最も重要な事は、「KAL007のブラックボックスは着水以降もしばらくの間、ブラックボックスのテープが回っていたはずで、爆発などで破損する例が少ない」という事です。
特にKAL007の場合、コクピットは爆発していません。その事実に注目すべきです。ブラックボックスを調べたソ連当局は、「着水前後の会話やコクピット内外の物音を公表すると、生存者がいた証拠になるため、テープの最後の部分をカットして隠し、提供した」という事になります。その検証方法は、KAL007ブラックボックスのテープ最後の個所が、何かで(ハサミ)等でカットされている事を拡大鏡(又は拡大画像)で
調べるか、同じ製品のテープの長さを比較してみればはっきりする事です。今日までその検証方法に誰も気付かなかったのは、この事件のかなりの落ち度でした。

1983年9月1日未明、「機体を引っ張る時間があったか」部分的に信用できない。9月5日から9月9日の第2地点で爆破して沈めた状況が混ざっている可能性のある目撃談。
イズべスチア新聞特派員たちの再調査による目撃談は、日時が省かれているのが特徴で、文脈の中で目撃談を引用している。その方法のために、何日の目撃談か、前後ばらばらで日時を特定できないように連載されていた。
当時のソ連社会システムでは、「この事件に関しては、あまり多くを語らないように」の注意付きで、日時や名前まで掲載すると、秘密警察の密告制度によって脅迫(強制労働収容所・精神矯正収容所行き又は年金の減額処置等)を宣告される恐れがあった。当時の社会体制下では、密告者には若干の報酬が与えられていました。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,5 September 2009/22 January 2011.