KAL007乗客の行方:中澤建志(24)

ロシアテレビ放送2003年頃 REF:Nomadic life on reindeer land



Nakazawa Takesi(50 ages) in Saha Republic(Yakutia/Oymyakon)    


Hattori Tsugio 28, Nakazawa Takesi 22 ages,1980/1982.12.28/Recent home of Nakazawa,1991-2005-
 KAL007の生存者がいるか、いないか。本当に全員死亡した事件か。はっきりしないため、仕事に就いていた時は関わりを持たず、すっかり忘れてしまいたかった。そう割り切った方が、神経を集中しやすかった。しかし、昔、友人だったTsugio Hattoriの消息が気がかりになり、インターネットで探している内に、ニューヨークに住んでいた彼は、46才で2人の息子と1人の奥さんを残して睡眠中に死んだという知らせを発見し、非常に深く悲しい思いがした。ニューヨークのギャラリーで発表した服部次夫の作品を探しているうちに、彼の絵の中にKAL007に関する印象と空想が織り込まれている事が気掛かりだった。さらにNHK特集で何度か放送された中沢建志(Nakazawa Takesi)の自画像、身近に見ていた者として誰かが、中沢について自発的に言わなければならないのではないか。大韓航空機撃墜事件とその乗員乗客はどうなったか。

オイミャコンの外気温-40~-60℃の冬、永久凍土の地下は-10~-20℃前後。
コリマ収容所時代から夏の冷凍保存倉庫と冬のねぐらに使用されていた地下道。オイミャコンの永久凍土は深さ0~200mと言われている。地下に給湯パイプが引かれている所を見ると、宿泊施設をつくる予定なのかも知れない。

氷が溶けて地面が陥没した北極圏の永久凍土。土が混ざって凍結した凍土と氷河の上に厚さ1~2mの土が被さった凍土がある。 
 2008年12月中旬、日本カモシカ蝦夷鹿・トナカイの違いを調べるため、ロシア番組英語版SahaYakutia(サハ共和国)のReindeerというビデオをYouTubeで見ているうちに、中沢建志Takesi Nakazawaらしき人を偶然見つけた。似ている。似ているだけではないか?もし中沢であれば何故こんな所で生活しているのか?彼は大韓航空機撃墜事件で死んだはずではなかったか?最初は怪しくはっきりしなかった。
 右手でバンドを固定しながらしゃがみ、左手で何かを拾うしぐさが中沢建志の動作と一致している。元々の先住民やロシア生まれの人であれば、このようなセーター姿で外を歩かない。私は、この番組画像から中沢建志に間違いないと言える特徴を探した。1.右側の頬の下に膨らみがあり、頬がわずかに白っぽい。2.眉毛の上が横一列に少し眉上隆起している。3.長髪ぎみの髪型は、韓国や中国人に少ないため、ますます中沢建志の髪型に近い。4.背丈と脚の動き、肩の張り方などが類似している。他、耳、鼻、手が凍傷に見える。
 わずかに恥ずかしい気持ちを表す素振りと自意識の程度が全く同じ。決定的な中沢建志の特徴は、右眉毛の形で、1982年に東京都新宿北京飯店で撮影した顔写真の右眉毛の形と一致している。
 自由主義圏や温帯で育った人は、着ている服や毛皮にも過去の環境条件が表われている。ニューヨーク育ちか、東京育ちか、田舎育ちか、衣服と動作からある程度解析できる。このセーターをいつでも着用しているわけでは無い。撮影日の予定が組まれた時、意思表示として選択したのであれば、ますます怪しい。KAL007の乗客としてさりげなく伝えられる方法は、これ以外ないと考えた最後の方法だったのではないか?中沢建志が着ているセーターは、27年前にニューヨークで買った韓国製品にも見える。さらによく見ると、他にも2人同じデザインのセーターを着ている。----KAL007の貨物として、戸籍と住所を持たない元乗客たちに配給された服ではないかと思えてきた。-----しかも収容所で数字番号で呼ばれ、解放されてからは名前をロシア語にしているはず。
 カメラを前にした時のわずかな反応に中沢建志の特徴が表れている。顔や姿だけだとよく似ている人だなあ。猫背ぎみだったが、背中の肩甲骨が特徴として気になる。火傷のカバーとして何かを着込んでいるようにも思える。半信半疑で見過ごしやすい彼の顔に貼ってある絆創膏や左側の厚手の湿布のようなカバーを拡大して見ると、KAL007の乗客の1人、中沢建志に間違いない。1983年から20年は経っている顔付きのようだ。少し変わったが、動作や顔形に彼の特徴が残っている。
 上の画像を拡大して見ると、右側の頬と額、耳と鼻に肌色のガムテープのような絆創膏が貼ってあり、左側の見えない頬と額にも厚い銀色の湿布で固定されてある。左側の顔の大怪我は、凍傷かトナカイの角による最近の怪我かは解らない。飛行機内の窓際で、はね返った金属破片が刺さり、重症だったのではないか。

 ズダ袋数個とトナカイの毛皮があれば、冬場をどうにか越す事ができる。斧などで木を切り倒し、薪割りをする仕事は、体が熱くなるので熱中しやすい。中沢の両肩は、その作業によって鍛えられた感じがする。上半身が20才前後の時より逆三角形型に引き締まり、肩が張り、背中に筋肉が付いている。気温と自然環境に慣れるため、1985年までアムール川沿いの森林伐採、その後何年かモンゴル国境付近の東洋人居住区、バイカル湖付近の強制収容所からオイミャコン郊外で遊牧生活をし始めたようだ。


Oymyakonとヴィノクロフ家のヤクート馬。Yuchyugeiはトナカイ牧畜民の集落 2020年。
 RT番組編集者たちは、「Yakutian indigenous population, who are mainly reindeer herders.ヤクート原住民、彼らは主にトナカイ遊牧民です」と、一般向けにその生活状況を解説している。「地元の原住民(ヤクート人)としているのであれば、ラーゲリから既に開放されて、その周辺で条件付で生活している」。正確には強制収容所外で、内では無い。もし強制収容所内であれば、遊牧民としてのテント生活ではなく、寮や宿舎になる。ロシアでヤクート人というのは、サハ・ヤクティア共和国の原住民、おもに黄色人種系の瞳や髪の毛の色が異なっている混血の人々を漠然と言っている。元中国・韓国・日本人の場合、瞳と髪の毛が黒い。原住民に同化するため、移民ということを隠し、黒髪を染めている人もいる。そのため白人系の人々から見ると、髪の毛や瞳が黒くても黄色人種系原住民は全てヤクート人として白人系ロシア人と識別している。エスニック・グループとは多民族団体、多人種共同体の意味。この村には昔、コリマ収容所があったと言われている。戦後の捕虜収容所へ古くは元日本赤軍が加わり、軍人捕虜と民間人捕虜、大韓航空機事件の生き残りがまざったヤクート人居住区で、モンゴル系移住者も多く居る。
 中沢が住んでいる場所が、ヤクーツク郊外かオイミャコンか、解説ではその2つの居住地域が合成されている。共同生活であれば、周囲の山の形から場所がオイミャコンのようにも思える。ヤクーツクとオイミャコンの間は、車で3日かかると解説されている。直線で500km、道程1,000kmの場合、1日300km。氷道のため時速30kmで1日10時間走ると運がよければ3日目で到着する。冬季期間は、-50℃前後でエンストを起こしやすいので1台では危険な感じがする。
 最も肝心な事は、ヤクート人には、ロシア政府が発行する身分証明書(国民健康保険者証や運転免許証)が無い。そのために土地を登記する時に必要な身分証明書を提出できず、ロシア政府から原住民、遊牧民扱いにされ、放置されている。
 何がしかの身分証明書を発行してもらうには、戸籍抄本が必要となる。パスポートがなければ出身国を証明することができないので不法入国者と同じになるが、ロシアでは近代化を進めるための労働力が必要なため、それを黙認し、ラーゲリから開放された後は、古来からシベリアで生活していた遊牧民の部類に加えられている。旧制ロシア帝国の組織を考えると、旧社会システムの主要な枠組みが残されている。

オイミャコン・ロード(コリマ高速道路)の長い夜(真冬)2020年頃。 
春夏秋の最高気温が零度以上の日は危険。

 太陽が隠れる真冬は、零下50℃~70℃まで下がる。春か秋の零度以下の日であれば通れる氷結した車道。
 ヘリコプターの機種にミールとあるのは、旧ロシア帝国農奴制と農村共同体ミールをロシア国内の人であれば誰でも思い起こさせる。そのヘリコプターの機種は、ソフォーズ(国営農場)やコルフォーズ(公営農場)のような大規模農場の農薬撒き用と作物や荷物、人運び用に量産されたものかも知れない。レナ川の氾濫の時に軍隊が活躍し、爆弾の投下でレナ川の大氾濫を食い止めた時もあった。ロシアの場合、ヘリコプターは、氷結した湖や川、ツンドラ地帯であればどこにでも離着陸できる便利さがある。
 この当時のソ連は、宇宙ステーション・ミールが活躍中で、1986年2月19日から2001年3月26日まで続けられた。ロシア語のミールとは、平和な世界の意味。7つの宇宙船モジュールをドッキングすることにより、宇宙ステーションを組み立てていたが、1997年、船内火災やその後のスペクトル・モジュールのドッキングの失敗で空気漏れなどの事故が多発し、スクラップとなって地球上の海へ廃棄させられた。現在進展中の太陽電池をはじめとする電子機器に比較すると、コンピュータの性能や画像送信速度でさえ初期の時代で、フロンティアとしての可能性はあるが時代的に無理な所があった。宇宙船から送信される画像も年々改良されてきているので、他の重要な機器の性能が発展するまで待つ必要性があるように思える。その宇宙ステーションは、何のためにあったか。月や火星に宇宙船を送るための中継施設であった。他の国にはその成果が知らされていないが、ソ連では火星にマルス無人探査機を何回も送っている。
 元都会育ちであれば、家賃・ガス・水道・電気・電話・市民税・県民税・国民健康保険などの支払いに追われなければならない現代文明の批判的な生き方に、次の世紀の人間社会を基本から考える上で哲学や社会学上で一理あると考えられる。
 
 現在のパソコンは0℃から30℃までしか使用できず、-5℃の室内でCPUの動きが鈍くなり少し音をたてる。温帯用パソコンは、-30℃以下の所に放置すると20分以内に霜が着き壊れる。-37℃だと30分で眉毛と睫に霜が着き白く凍り、角膜上の水分も凍り始める。周辺機器を含む電子機器類は現在も発展中で、寿命が短く丈夫で長持ちしない欠点も今の所ある。

オイミャコンの電線。家屋の暖房は薪で、最近は各家々に給湯管が設置され、お湯が使用されている。
 ロシアでは土地が共有地で、職種により分け与えられることになっていたが、ロシア国内の土地の私的所有に関して、1985年頃からミハイル・ゴルバチョフによって提唱された「ペレストロイカ(再構築)」「グラスノスチ(情報公開)」、1991年ソ連崩壊後、ボリス・エリツィンによるロシア連邦共和国に変わったころから土地改革が行われつつある。2001年10月25日、ロシア連邦第136FZ号5条2項、土地基本法第15条第3項、「外国人・企業は、国境地帯の土地を購入・所有できない」。2002年7月24日、連邦法第101FZ号農地取引法第3条「又、外国人は農地を購入・所有できない。但し、賃借は可能」など、土地基本法の改革が行われている。土地を既に所有している国や他者から個人的に土地を購入した後は、土地売買に関する記録がロシア連邦国家土地台帳に記載されなければならない。各地域にある不動産業者や不動産登記院に登記法に基づく必要書類を提出し、(不動産)登記証明書を発行してもらうことによって購入した土地所有権を証明することができる。登記カテゴリーとしては、農地、畜産用地、工業用地、林業用地、企業用地、団地、宅地などがあり、登記後、後々登録したカテゴリーを変更することもできる。
 外国人による土地の購入、登記方法は、民主主義国家の土地基本法と大体同じように国際化されつつある。日本の場合は、現在の所10万円未満の土地に地税はつかない事になっている。低価格不動産の場合は、ロシアの場合も区画面積が狭い場合、地税がつかない限界があると考えられる。外国人による土地の私有化が可能になると、大企業が進出し、大土地所有者と土地を持たない農奴(ミール=農村共同体/自治体)の貧富の差が激しくなるという旧制ロシア帝国の復活と弊害も生じてくる。現代史的には格差社会に歯止めをすべき具体的な処置がなされるべきに思える。
 シベリア・タイガ地帯の自然林は、ほとんどが国有林と言うことになるが、原住民のヤクート人という事でトナカイと同じように自然林として曖昧にしているところもある。遊牧民に何かを言える管理者は、オゾン層破壊の対策に関係している連邦自然林管理局に権限があり、ヤクート先住民の筋の通った主張がなければ、政策により、トナカイや森林伐採、漁獲が制限されたり、移動させられたりする場合も生じてくる。そのために原住民による自治体やコミュニティーが必要とされ、アメリカン・インディアンによる自治自治区と同じように変革されつつある。国際捕鯨問題もそうだが、特定された狩猟先住民以外は、トナカイも乱獲されないようにある程度規制され始めている。
 髭が生えていないということは石鹸と剃刀がある。食器類、石鹸、剃刀、テント、斧、鉈、鋸、釘、ハンマーなどは配給物か。テント生活の場合は定住者ではない。猟銃は拾い物かなどの疑問がある。トイレ風呂洗濯小屋が共同であれば、テント生活で、ある程度の期間定住していることになる。
 -30℃まで下がった朝、凍死していたシベリア抑留者も多かったという戦中戦後の事実があり、睡眠中は交替で焚火番をするなどの工夫も考えられるが、-70℃の場合どうやって耐えているか想像がつかない。-50℃以下だと火は見えるだけで手をかざしても熱くなくなる。抑留者はドラム缶風呂で、お湯ではなく水だったという話など、現在もそうか疑問が多い。
 この番組の中で無線交信用手動発電機の機械音を何故付け足したか、理由など無かったかも知れない。通過時のジェット音は、そのように聞こえるという意味か、その表現意図が疑問に思える。


秋春の零度以上の日が続く季節は、氷が割れて車体が埋没し、夏の道路はぬかるみで車も危険。
 ミハイル・ゴルバチョフは1987年頃からソ連国内の強制収容所の制限をゆるめ、未成年者・高齢者と反体制派を開放し、収容人数を半数まで減らしたという記事を読んだ事があった。ラーゲリの外で生活する多民族グループの遊牧民が増えたのは、その政策によるものではないか。この番組に登場する人たちは、他の国で育った文化的な背景の違いが感じられる。1986年4月チェルノブイリ原発事故が発生。その時期からグラスノスチ情報公開が提唱され始めた。
 トナカイ遊牧民とは戸籍や国籍が無い状態に置かれている人々を総括的に漠然と言っているということになる。


Takesi Nakazawa 22 ages,1980 中沢建志
 大戦後のシベリア抑留者は、1年間に何度も移動させられ、極寒と栄養失調で全員死亡した強制収容所もあるそうです。現在も方法が同じであれば、発見できる可能性は、ほとんど無くなります。
 乗員乗客の内、既に死亡している人々と生存者がはっきりしていず、事故後の生存者名簿はあったとしても、現在存命中の名簿は無いはずです。監獄、強制労働、抑留経験のあるアブラハム・シフリンの体験によれば、外国人捕虜は軍人も民間人も一緒で分散させて解らなくしているという事です。米国マクドナルド議員は、囚人番号3でした。
 第二次世界大戦後の日本人捕虜は107万人と言われ、過酷な環境の強制労働のため戦後4年間で35万人が死亡したと推定されています。
 この事件の曖昧性は、第二次世界大戦後、帰国できなかった何十万人もの日本人捕虜と同じにされているということで、何十年も歳月を経るほど、本人の識別や身元がはっきりしなくなります。


 Youtubeでオイミャコンを見る限り、真冬に40℃~70℃まで下がるので、暖炉のある家で生活するしかないようです。テント生活を始めたのは収容所から解放されて間もない2003年9月頃(事件から20年後)で、冬期のテント生活は耐えられないはずです。
 彼が住んでいる所は、オイミヤコン郊外の小高い丘か、場所がハッキリしません。配給されている川氷がある所であれば、オイミヤコンの村に近い所と思います。
 永久凍土の氷や溶けた水は、250万~1万年前の氷河期に氷結した古代ウィルスや線虫が復活するので、氷は煮沸する必要があります。また、復活した新種の古代ウイルスが感染してトナカイ数千頭が死滅し、少年が死んだ事もあったそうです。夏に永久凍土が溶け、大量のメタンガスが発生する地域もあるそうです。
 南極や北極、南グリーンランドの氷が溶けだし、平均気温が100年前より5℃上がっているようです。その原因は廃棄ガスや山林火災で発生した二酸化炭素によって、大気が温室効果の状態になっているためと言われています。

 アブラハム・シフリンの調査レポートには「過去の自分の名前を覚えていない。部分的に記憶を消されている。ロシア名で呼ばれている」ということもあり、その時にどうするかまで、少なくとも考えておく必要があります。



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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side, 25 March 2010-2024-