KAL007機体の海底移動と残骸(25)


MONERON ISLAND MAP:KAL007 explosion spot 46"27N, 141-13E, present spot 141-20E,46"35N 

  1. KAL007の機体は、モネロン島北方約24kmの海底から引き上げられ、ほぼ完全な状態で海面に浮かばせたられた。それを韓国・米国・日本を初めとする他の国の船による干渉を避けるため、島の北側2.6km(1991年6月NSA米国国家安全保障局による着水地点再分析結果、KAL007は北から飛行し、モネロン島北2.6km地点に着水し爆発したとされている。2.6kmとタイピングされているが26kmの間違いの可能性もある)水深10m以内の浅い海域に曳航し、調査後爆破して沈めた。サハリンとモネロン島の間の国際水域(International waters)を、それ以前は航行できた。幅49kmの海域の内、モネロン島東側大潮干潮時の岩と海面の接点から22.224km(12航海マイル)、サハリン西海岸大潮干潮時の岩と海面の接点から22.224km、モネロン島中心からその島の東側岩礁まで2.5kmであれば、サハリン西海岸とモネロン島の間は約1kmの幅で国際水域のため、南北へ他国船が航行する事ができた。しかし1983年9月1日の大韓航空機追撃事件以来、ソ連側はその間を軍艦で閉鎖し、通れなくした。8月31日の最高気温は16℃、9月1日は19℃と夏にしては寒い曇り空で、この事件の日はリマン海流が南下し始め、雲と風は南東に吹いていた。爆発地点から南に遺体や遺品が流れるのを止めるためにはソ連艦艇で閉鎖するしかなかった。韓国・米国・日本・他国船は、モネロン島西側からタタール海を北上し、モネロン島北側27km〜30km付近の国際水域から遠方の様子を見るしかなかった。ソ連側では9月10日まで、その場所から水深160mの北側へKAL007の機体を移動し、1983年10月20日までKAL007の尾翼が残っている機体後部などの残骸をモネロン島北側N46°33' E141°19'に移動し、水深180mの海底に沈め、爆破した。現在、KAL007の残骸は、さらに北側46°35' E141°20'水深200〜260mの海底にある。
  2. KAL007を爆発させて沈める必要性があったか。海面に浮いていた機体を最も近いモネロン島(Остров Монерон)の北の浜へ陸揚げする方法もあった。ソ連防空軍にしてみれば、「目標は破壊された」と報告した交信内容がアメリカ側に傍受され、アメリカ時間午前11時40分(JST1983.9.1.23:40)即日、シュルツ国務長官はテレビ会見で「目標(KAL007便)は破壊されたというソ連側の交信をアメリカ合衆国側で傍受した」という事を公表した。その報道のため、その通りに破壊しないとうるさくなるという意味があった。この場合はソコル空軍基地コルヌコフ(Kornukov)極東司令官が、KAL007を跡形も無く破壊するように海軍指揮官に頼んだと考えられる。その判断を下せるのはソ連防空軍コルヌコフ極東司令官しかいない。アメリカ合衆国艦隊と救助船は、墜落現場へ向かったが、数時間後、シュルツ国務長官からの命令で救助活動を断念して帰還させられた。アメリカ合衆国艦隊と救助船は帰還命令が下された理由が解らなかった。
  3. ソ連防空軍がICAO報告書として公表したソコル空軍基地での会話によると、ゲンナジー・オシポビッチ(Gennadie Osipovich)空軍少佐が発射したミサイルの威力と「撃墜した」という交信報告にソ連防空軍コルヌコフ極東司令官は激怒していた。撃墜したはずの標的が北へ向かって移動している状態がソコル基地のレーダーに映っていたからだった。その後に追撃したMiG23とRTF(MiG31)の内、RTFが発射した長射程ミサイルR-33の追撃能力にも憤慨していた事は間違いない。ボーイング747は、2発のミサイルを避けて右旋回し、雲の中へ姿を消した。ミサイルによって爆発した標的の機体は、結果的にあまり破壊されず、ほとんど無傷のごとく海面に浮かび原形のままだった。国産ミサイルの打撃力が不信で、Su15〜MiG31に搭載されている新型空対空ミサイルは、空母や軍艦に対して威力を発揮できないとしか考えようがなかった。KAL007の機体は潜水作業ができない深さへ移動し、外部諸国で言う「撃墜」という言葉通り、海面に激突してバラバラになったように見せかけなければならなかった。

脚注21:アブラハム・シフリンの調査報告書によると、モスクワのオガルコフ参謀総長は、ロマネンコ少将へ ①「浅い海域で沈んだボーイング747をさらに深い海域へ沈めるように」指示を出し、②「民間機であってもスパイ機で乗員乗客はいなかった」と主張するように命令を既に下していた。
 ところが、この指令では深い海域のどのあたりが適切で、どのくらいの深さの場所にすべきか、ロマネンコ少将にはその意図が解らなかったために、無線でオガルコフ参謀総長に指示を仰ぐしかなかった。
この時期9月6日アメリカ時間正午、「大韓航空機KAL007便が30,000フィートの上空でソ連迎撃戦闘機Su-15TMのミサイル攻撃を受け、大韓航空機が爆発するまで」のソ連防空軍地上基地と迎撃戦闘機パイロットの無線交信を録音した英訳テロップテープが合衆国カークパトリック国連大使によって国連ロビーで放送された。これによって、大韓航空機が撃墜された事が公けになった。ソ連側では当初撃墜を否定していた。KGBソ連国家保安委員会メンバーとオガルコフ参謀総長をはじめとする軍部の主要総司令官等が現場を確認するため、ユジノサハリンスクKGB本部に集まり、そこからヘリコプターでモネロン島へ移送された。

9月2日にモネロン島東側海上に停泊し、落下物の回収作業をしていたミルチンク号は、3日目に島の北側へ移動し、しばらくの間、あちこち移動しながら捜索していた。そしてやっと、海底でボーイング747が発信する遭難信号をキャッチする事ができた。ミルチンク号には有人潜水艇2つ、無人潜水艇2つが装備されており、海底に沈んでいる機体付近の位置へ移動した後、それらの潜水艇で、海底捜査をし始めた。3日と4日、ミルチンク号は水中カメラとテレビモニターを使用していたが、海中の視界が3mで、発見は困難だった。
海軍トロール船ゲオリギ・コズミンのネットにボーイング747がかかったのは9月4日で、それをモネロン島の方へ1.5km引きずり、5日から浮かばせて曳航し始めた。どこへ引っ張るか、オガルコフ参謀総長は「より深い海域へ」移動させる事を命令していたが、その場所が具体的に解らなかった。おそらくこの時にモネロン島で作戦会議を開き、「民間機であったとしてもスパイ機を撃墜し、海面に激突して粉々になった。生存者無し。乗員乗客はいなかった」という事を、ソ連政府上層部の合議の上で相談しなければならなかった。「大韓航空機がソ連機によって撃墜された」という合衆国国連大使によるニューヨーク国連本部ロビーでの放送デモンストレーションをユジノサハリンスクKGB本部で(日本のラジオ放送やTASS通信、ニューヨーク・タイムズ新聞によって)確認する事ができた。日本と合衆国では9月2日に「大韓航空機KAL-007便、乗員乗客全員死亡」「ソ連の迎撃戦闘機によって撃墜された」と報道されていた。
着水現場から、より深い海底へ曳航し、爆破してから沈め、9月8日以降、バラバラになった残骸を回収して整理し、スパイ行為の証拠となる機器を探さなければならなかった。
モネロン島でのこの会議の後、バディム・コンドラバエブをはじめとするプロダイバー16人が指定された。コンドラバエブはこの時、16人のダイバーたちとバレンツ海で救助艇とダイビングの仕事に取り組んでいたが、モスクワ経由で直ちに彼らと空軍輸送機で移送され、9月11日からこの仕事に携わる事になった。

9月5日から臨時雇用されたヘリコプターパイロットの話しによれば、「ユジノサハリンスクからモネロン島へ委員会の連中を運んだ」という事をイズべスチア新聞で知らされていた。

 委員会とはソ連国家保安委員会KGBソ連政府の重役たちで、9月6日、オガルコフ参謀総長と軍部総司令官たちもモネロン島へ移送された。そこで現地視察をしてから作戦会議を開き、ソ連政府(又はソ連当局)として、どのように対処するかを合議の上で相談しなければならなかった。
 この時の議題として考えられる事は、
1.自由主義・資本主義など外部諸国の報道とソ連国内の報道、及びモネロン島での事実が異なっており、それらを調整する必要がある。外部諸国の報道は事件の一側面で、ソ連国内放送の内容も否定したり訂正する事はできない。従ってソ連政府の方針を決定し、事実のつじつまを合わせなければならない。
2.現在曳航中のボーイング747を、どこへ廃棄すべきか。条件として、アクアラングダイバーが作業できる限界の深さ180mである事。さらに事故当時、モネロン島北海岸に停泊していたサハリン西海岸の一部の住民たちと日本のイカ釣り船乗組員8人は、大型飛行機の海上爆発を目撃していたので、海上爆発の現場付近でサハリン西海岸領海外の国際水域である事が条件として加えられた。オガルコフ参謀総長は、それらを充たす必然的な位置は、この場所ですと言いながら、モネロン島北北東の第2地点を地図上でマーキングして解説した。
 ボーイング747をそこへ曳航し、爆破して沈めた後、海底からバラバラになった機体部品を回収し、スパイ機の証としての電子機器を見つけ出さなければならなかった。
 侵入機の残骸は、電子機器類をノベリスク(公民館など)の指定会場、衣類・靴・バッグ及び残骸破片などはゴルノザゴーツク指定会場へ運び、テーブルの上に並べ、検査する予定。
3.遺体処理方法と隠蔽について。
ボーイング747に残されていた遺体は、海軍機動部隊によって青いポリエステルシートに包まれ、モネロン島北海岸の浜へボートで運ばれた。急減圧・酸欠・凍死のため死体が無傷であったとしても、爆発による二度の機内火災で焼死したという事にされ、モネロン島スタリツキー山北側の浜に面した裾野で跡形も無くなるまで火葬し、「生存者はいなかった」事にした。乗員乗客の遺体収集と処理に関しては、「ガバニ地区海軍機動部隊」だけに作業の権限が割り当てられていた。シドロフ提督はこの作業の2ヵ月後、ガバニ地区海軍機動部隊の活躍を表彰し、記念品と贈呈品を贈り、軍事機密事項として厳重に隠蔽する必要があった。
(乗員乗客の遺体処置に関しては、地元漁民のうわさや情報がないため、はっきりしていない。考えられる事は、モネロン島北側の裾野に穴を掘り、まとめて埋葬したか、火葬して証拠を完全に隠蔽した。その作業に携わった人たちは、海軍機動部隊に限られ、その様子をソ連民間人や漁師たちに見えないように隠しながら行った。火葬によって煙を立ち昇らせると、目撃者がでるので、埋葬の可能性もある。遺体は十数体で、片付けた後も見えない状態で機内に十人分の遺体部分が残されていた)。
4.大韓航空機はイギリスの戦時下航空機保険に加入していたために、間もなく保険会社の調査員が事故現場と状況を調べに来るはずで、その時、機内に遺体があれば、外部諸国で大騒ぎになるため、機内を完全に片付け、遺体処置については完全に秘密にしなければならなかった。それらの合議による会議内容は、ソビエト連邦による「防衛秘密の保護」の観点から、「国家機密法、スパイ防止法」にもとづき、合法的に処置された。
5.スパイ容疑者と民間人捕虜の措置。合衆国下院議員マクドナルは、重要スパイ参考人として、パイロットたちもスパイ行為容疑でモスクワへ護送。乗客たちは、戦時下民間人捕虜としてユジノサハリンスクKGB本部へ連行され、取り調べをうけた後、子供たちと成人に分けられ、通常のルートを辿り強制収容所へ送られた。

脚注22:機体内に残された遺体処理方法については不明であるが、オガルコフ参謀総長が詳しく熟知している「国家安全保障と軍法の特例法事例等から防衛秘密保護法」が適用されたと推測される。




※ 遺族の方や関係者の方は、左下の[コメントを書く]をクリックして、感想や相談等を入力してお知らせください。入力ミスの場合、ご自分で消去・修正ができます。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, 27 August 2009-2024-