この文章を書くまでの経緯_Ⅰ (31)

 1983年9月1日、大韓航空機が撃墜された日、私はテレビも無く新聞も取っていない暮らし方だった。その夜、大学の友人である橋詰から電話がかかり、中沢がその便に乗っていたという知らせを受けた。驚きというより信じることが難しかった。夏季休暇の間、中沢がアメリカ旅行をしてニューヨークに住んでいた服部さんのスタジオに宿泊した帰りの便だった。翌朝、雨の降りしきるなか、出勤前に駅前の売店で朝刊を買い求め、傘をさしながら確認。「撃墜!大韓航空機の乗員乗客全員死亡」という一面記事で顔写真まで掲載されていたことを記憶している。
 翌年、1984年5月に橋詰と横浜で展覧会を開催した後、「大韓航空機はモネロン島付近の比較的浅い海上に難着水し、乗員乗客の何人かは助かったらしい」という知らせを橋詰から聞いた。「中沢は助かったのかな。何メートルぐらいの浅瀬かなー」。浅瀬と言われても何メートルか、はっきりしなかった。その情報は、週刊誌などで知る事ができたその事件から8ヶ月後の経過だった。しかしその災難の1年後、大学の同窓生の石井から中沢建志の葬儀案内状が届いた。その時わたしは、まだ死亡確認がされていない状態で葬儀をしなければならない理由が腑に落ちなかった。事情や説明を聞くべきだったかもしれないが、何か芝居じみている。間違い報道の多かったこの事件に関わりたくなかったことが本心だった。




1978年F15油彩「20才の自画像」中沢建志



それから5年以上が過ぎた1990年ごろ、中沢が暮らしていた部屋と自画像などがNHK特集で放送され、その番組が放送される度に郷里の部屋で2回見る事となった。あいつが住んでいた所にも美大在学中、友人たちと訪れたことがあった。彼のアパートにはヨーロッパ旅行から帰った後に画いたF15号程度の自画像が飾ってあり、光が反射しないように鴨居の上に額無しでそのまま架けてあった。

 それまで、生まれ故郷で私が高校美術の授業をするなど思ってもいなかった。それも臨免と言われる期限付きの助教諭免許による。美術非常勤講師として2つの高校へ通勤する時もあった。年末に手紙を整理していると、1982年と1983年正月付けの中沢建志からの年賀状がある。それをどうすべきか、私には大韓航空機撃墜事件についてどうする事もできなかった。それが彼の葬儀を回避する理由で、それ以外の言い訳はない。彼からの葉書を捨てれば、忘れる。あるいは気にしないでいられる。しかし、ゴミ箱に捨てるには心理的な負担がある。どちらでもあまり違いはなかったが、レターケースに空きがあったので捨てないで保管していた。

 死亡届けには「死亡診断書」が必要で、死亡した原因が変死・事故死の時は、監察医が死因を確認する。監察医によって作成された「死体検案書」を「死亡届」に添付し、遺族が役所へ提出する。外国で死亡した場合、3ヶ月以内に現地の大使館や領事館へ提出されなければならない。国内の届出先は、死亡者住所地の市町村役所の戸籍課へ提出。KAL007の場合、ソ連現地の各国大使館・領事館に「死体検案書」が3ヶ月以内に提出され、大使館経由で乗員乗客全員の親族に送付された事になる。

「危難失踪」とは、地震・洪水による災害・飛行機の墜落・船の沈没などによる失踪のことで、失踪して1年以上経過した場合には家庭裁判所に「失踪宣言の審判申立書」を提出し、それ以後2ヶ月経っても消息不明の場合、「失踪宣言の確定」が認められる。裁判所によって失踪宣言が確定した後、10日以内に「失踪届」を市町村へ提出して受理されると、消息不明者は、法律上死亡したとみなされる。失踪届が役所で受理された時点で、消息不明者は除籍され、その名前が戸籍から削除される。危難失踪から死亡届による除籍まで約1年7ヶ月かかる事になる。

 中沢建志の葬儀の場合は、事件から1年経過していなかった。「失踪届」は役所に提出されていず、在ソ日本大使館か在日ソ連大使館から「死体検案書」が3ヶ月以内に親族へ送付され、それによって死亡届けを役所へ提出した事による。中沢が通勤していた神奈川県中学校職員室の彼が使っていた机の上に、事件後は花瓶と花が置かれていたはずで、何ヶ月も放置しておくわけにはいかなかった。その後は、学校長によって臨時に美術教師が新しく委任され、その授業が継続されたことは誰でも予想する事ができる。

 このような事件の場合は、遺体を確認できなくとも、「死体検案書」があれば死亡したことになり、葬儀がなされ、お墓が建てられる。KAL007乗員乗客全員の親族へ「死体検案書」が送付されたことにより、法律的に全員死亡した事件として処理されている。現実的には実際に死亡しているか、被害者各国から確認できない状態であった。


 これが最も重要な個所で、9月1日未明、11,000mの上空と着水時の2度にわたる爆発の事実から、KAL007に乗っていた乗員乗客の半数(仮に約130名)が死亡し、飛行機内に残された状態で、10分以内で海底に沈んだ。9月2日、カムチャッカ半島沖からモネロン島東側にミルチンク号が到着。11,000m上空から落下して海底に沈んだボーイング747の残骸や遺体を探すため、投錨する。9月3日、ミルチンク号モネロン島北26km付近へ移動。水没したKAL007の場所を発見。この時KAL007は、海底で自動的にELT遭難信号音を電波発信し、位置を知らせていた。しかしながら、上空ではありとあらゆる飛行機やヘリコプターが飛び交い、各国の捜査船によるソナーやエンジン音などでかき消されたため、3日まで海底に沈んだボーイング747を発見できなかった。9月4日、海軍トロール船ゲオリギ・コズミンの網にかかり、モネロン島の方へ1.5km引きずる。9月5日、ボーイング機体を海面に浮上させ、ソ連側の大型船で周囲を隠しながらモネロン島北側の浅瀬まで曳航した。機内の遺体や手荷物などを片付けた後、大韓航空代表取締役と重役、戦時下民間機保険会社社長と調査員、ソ連軍総参謀長と提督、特殊技官と通訳などによって保険が降りる状態かどうか、確認のため機体内部を調査した。ソ連軍側には、臨時労賃・報酬料・総燃料費等の請求権があるので、KGB書記長アンドロポフが、後から大韓航空へ全額請求したものと思える。それでKAL007乗員乗客の遺族には、当初30万円程の旅費代しか支払われなかった。9月4日と5日、モネロン島付近の天候は快晴であった。

  1. 海底にあった約1.5kmの引きずり跡は、ロシア人、日本人によって確認されている。
  2. 海面に浮いた飛行機をトロール船で曳航していたようすは、9月5日、ソ連側民間ヘリコプターのパイロット他、多くの人たちに目撃されている。

 モネロン島の浅瀬へKAL007を曳航したのは、海底では作業が困難だった事による。そして4日間海底に沈んでいた機内から運び出された遺体と遺品などは、モネロン島北側の浜に設置された仮設テントの中に運ばれ、シートに包まれた状態で並べられた(その中には赤子や子供の遺体もある)。この状況によって、乗員乗客の身元が判明しないまま、浜に近い仮設火葬場で燃やされ、「死体検案書」が作成された。エリツィン大統領によるアメリカへの返答を信じれば、この事件に関するソ連参謀本部への報告書(顛末書)には「生存者はいない」もしくは「生存者無し」と記されてある。9月1日から9月10日までの空白の10日間は、民間の目撃者以外公表されていない。モネロン島北側の砂浜付近に建てられた仮設焼却炉で遺体と共に遺品なども隠滅しなければならなかった。

 隠蔽・隠滅という言葉は、適切ではないかも知れないが、当時のソ連社会主義国では、秘密警察が存在し、アメリカのCIAやFBIに対抗してKGBの組織権力が強く、政治にも深くかかわっていた。しかし、ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフによる情報公開とボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンによる秘密警察の解体によって、現在はオープンになりつつある。KAL007の事故処理で臨時雇用されたロシア民間人たちには、「この事に関しては、あまり多くを語らないように」という忠告付けで、労賃が支払われた。交通規則として考えると、部分的に少なめであれば違反にはならないと言う意味。告白した者は、老後の年金が減額されたり、重要度に応じて支払われないなどの罰則が、この当時以前まで実際にあり、サハリンの地元新聞で取りざたにされたことがあった。この事件に協力したが、緊急雇用されていないロシア民間人には賃金が支払われていない。サハリン西海岸の地元漁民による目撃談やうわさが残されていたため、アブラハム・シフリンは1990年前から再調査し始め、イズベスチア記者も同じ時期に再調査し直し、1990年12月から1991年6月までイズベスチア新聞で公表された時期があった。

 この事件の重要な個所は、1983年9月1日から10日までの空白の10日間で、その間の事実と記事に関しては非常に希にしか見つける事ができず、特に9月1日からの乗員乗客の遺体と処置、生存者に関する最も肝心な事実が究明されずに組織的に回避・隠滅させられている。これは、この事件にかかわった政治家や公務員、海軍の口封じ工作を規約文書で具体的に行ったからに他ならない。事件当時のモスクワとサハリンのソ連側の無線交信で、「なんて事をしてくれるんだ!あれは民間機だったんだぞ!」と言う[脚注1]"ロシア語による交信会話が、日本の稚内自衛隊基地局調査第二課二部別室の通称"調別"から内閣情報調査室"内調"と稚内基地局NSAプロジェクト・クレフ(CLEF)から三沢米軍基地経由で米国NSAへ自動送信される無線受信システムによって録音傍受されていた。事故現場のソ連側の調査としては、"あれは民間機だった"という結果が一部の指揮官に知らされていたことになる。その交信が、ソ連外務省長官(外務大臣)とソコル防空軍基地コルヌコフ司令官(当時大佐)か、撃墜判断に迷っていたハバロフスク極東軍管区空軍中将カメンスキー(Vladimir Kamenski)か、KGB少将ロマネンコか、KGB書記長アンドロポフの声かは、はっきりしていない。しかし民間機かスパイ機か、事件当初、確認できる場所にいたのはKGB少将ロマネンコであり、彼の他に事実を確認し断定できる人はいなかった。
 9月6日、大韓航空機撃墜前後の英訳文字付きビデオが合衆国カークパトリック国連大使によって国連で公表された。9月9日、モスクワにおける各国共同記者会見でソ連参謀総長オガルコフ元帥(Nikolai V. Ogarkov)は、「偵察機による領空侵犯」とソ連極東各基地からの報告書・資料を基に事件の経緯(いきさつ)を語り、各国テレビ局によってその解説状況が全国で放送された。


 その後の様々なエアークラッシュの事故例を調べ、比較すると、飛行機の不時着水の場合、両翼が残っていれば生存者はかなり多い。不時着水で片翼が折れた場合、死傷者がでるほどの事故だが生存者も少なからずいる。両翼が折れていない場合は、着水に成功し、数分間は海上に浮かんでいたことになる。そうであれば、着水時のショックが少なかったため、KAL007の生存者がいたことになる。9月4日と5日に海軍トロール船ゲオリギ・コズミンによってボーイング747が曳航されていた写真やその状況の目撃は、9月1日未明に生存者がいたかどうかを決定づける証拠となりえる。燃料タンクと右側後部に穴が開き、海水に機体の全てが4日間浸かったため、修理しても直らない部類で処理された。大韓航空は、イギリスの保険会社スチュアート・ライトソン社と契約し、戦時下保険に加入していた。生き残った乗員乗客も戦時下民間人捕虜扱いにされ、連行された後は取り調べられたことは充分に考えられる。その後、KAL007は海面上に現れた状況が撮影されると国際問題になるため、そのボーイング747を爆破させて沈め、プロダイバーたちを臨時で雇用し、海底で見えないように残骸の回収作業にあたらせた。2000年10月にロシア雑誌Itogiのインタビューに答えたプロダイバーのバディム・コンドラバエブによれば、「初めから映画を作るつもりで撮影していた録画が船の上で盗難にあい、私服姿の厳粛な男性のために、撮影された写真やビデオが全て破棄された」。記録物を全て破棄する権利がその人にあるかどうかはっきりしないが、「盗難にあったその後の晩、この事件にかかわった重要人物ひとりひとりに電話で連絡し、記録物を即刻破棄するように要請されたことがあった」。それによって、この事件の真相の手がかりとなるソビエト側の記録物が、秘密警察によって隠蔽されていた重要機密物以外、ほとんど無くなることとなった。

<Reference Videos>
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豚の海中腐敗とエビ・魚・鮫による蚕食 泥砂地の海底では夜間にエビやカニ、アナゴやサメなどが活動している。 

<参考文献> 

  1. 怪文書保存館「大韓航空機撃墜事件について」(日本語)
  2. 大韓航空機撃墜事件について(日本語)
  3. 大韓航空機007便の撃墜と乗客のその後(日本語)



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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, January 14, 2014-2024-.