KAL007事故後の作業(4)


 ボーイング機の機体下部の破片は流されずに海底に沈み、細かな肉片や軽い荷物は潮流に流されるため、1時間2時間すると何キロメートルも離れ、場所が別々になる事は明らかだった。
 KAL007機内に残された特定できる遺体を運んだ後、時期としては9月14日の夜、ダイバーたちが休んでいる間に原子力潜水艦の魚雷を形のある機体に数発射ち、残された遺体ごと粉砕した。1回目の破壊は、機首と胴体の2ヵ所を壊し、海底に機体半分が直立していた。数日後、直立した機体後部が粉々にされ、大きくとも2m以内の外壁までで、それ以下に壊されてあった。実際、そのようにしてKAL007の残骸が、車輪1つを残し、ある程度片付けられた。

 海軍ダイバーたちは9月10日まで遺体を片付け、その後、3人(軍人1民間2人)のダイバーに散在している遺品を回収するように任せた。何隻かの小型潜水艇は、9月10日以降も海底の残留物を回収して引き上げる作業を続けていた。「ボーイング機内に遺体はなかった」という話のために、この事件は不可解にされている。
 機体破片は、発見者が持ち帰える事ができた。「チタン製ナットは眼鏡フレーム用などに溶かされ、再加工された」。プロダイバーのコンドラバエブは、「KAL007の遺品をモスクワで展示し、売ろうしたが、一品も売れなかった」。乗員乗客の荷物や遺品は早い者勝ちで、全てが集められ、返還されたわけではなかった。海軍ダイバーであれば、この事件の作業に関して口外しないように指示されたはずと考えられる。実際、9月29日に作業が終わり、その1ヶ月後の10月29日、3人のダイバーに対しては、今回の仕事に関して多くを語らないように言われ、この仕事で各自200〜250ルーブル支給された。


 ゲンナジー・オシポビッチ空軍少佐は「航法灯は点灯していなかった」「正式な手順の警告に応答しなかった」と最初は伝え、そのように報告されていた。しかし後日、「航法灯は点灯しており、十分な警告は行われていなかった」と証言し直したため、この時点でレーガン大統領は、民間機と判っていながら、ソ連側で撃墜したと考えるしかなかった。大韓航空機撃墜事件後、チェルネンコ司会のソ連側会議で、「領空侵犯を計画的な挑発行為として非難」する事が決定されていた。
 KAL007には民間の乗客が乗っていた事は認めるが、スパイ機であったという事を意味している。ボイステープに録音されていたパイロットたちの会話からは、コース逸脱にパイロットたちは気付いていなかった、あるいはスパイ行為とされる意図的な内容を含む会話は操舵室内でなされていなかったという事が立証され得る。そのためソ連側で入手したブラックボックスのテープは、スパイ機説の反証となる可能性があるため、パイロットの会話の内容を公表しないでテープを隠していた。ソ連側でいうスパイ機は、アメリカの偵察機と同じように、ソ連側の基地の機動力や位置などを調べる目的でコースを変え、意図的にソ連領空を侵犯したという意味で、民間機の姿で実行できるか試みたという嫌疑が含まれている。しかしそれは説や嫌疑であり、証拠ではない。

 ボーイング機のコクピットに装備されているINSに不備な点がある設計者と発注者の責任が、この事件には欠けている。INSを視覚化できる肝心のビジョンを付けないで、位置を確かめる他の機器も備えられていなかった。そのために何回も逸脱する事が多かった事故と考える事もできる。ソ連の防空内規と同じで、人が意図的に作った規則や機器であるという視点が無い。
 
 この事件の場合、国連はソ連への非難決議を可決する事ができず、実際に常任理事国によって「ソ連への非難決議」は否決された。アメリカ合衆国、イギリス、ロシア、フランス、中国の内、フランスと中国が、ソ連の正当性を認めたという事になる。時代によって政党が変わると、右にも左にも傾く多数決制で、アメリカ合衆国が国境付近の偵察機などに関して反省しなければならない面もあると言う事のようだが、代表者や各国の政党の見解とは異なり、この事件に関してソ連側に不利になる事件後の事実が意図的に隠されている。
 被害者と国連加盟国による非難であれば少し異なっているが、この事件の背景には社会主義国に対する民主主義国家の領空侵犯は、民間機であろうと撃墜するという姿勢が強調されている。軍部と民間の関係、犠牲となった他の国の民間人に対する責任にまで発展する問題が含まれている。

 乗客の一人であった中沢建志(Takesi Nakazawa)は、本人の意志でアメリカ旅行をした中学美術教師だった。旅行をする時は、彼はカメラを携える習慣があり、アルバム編集などもした事があったため、中沢が持っていたカメラのフイルムにはアメリカの風景やニューヨーク市街地、画廊などが撮影されていたはずと思える。
 撃墜されたKAL007便の乗客は、他の便のために同乗していたパイロットのデッドヘッド以外、軍人とは関係していない民間人であった。大韓航空パイロットは空軍上がりが多いため、韓国人デッドヘッドを含めたパイロットたちに対してスパイと言っている事で、そのような事情を知らない乗客も犠牲にすることができるか、社会主義国家の軍内部の考え方は異常と疑わざるを得ない。逆に自分が乗客だったらというモラルと考えに欠けている。主義と規則が職務に就く人をそうさせている場合、その内規を決めた人々の責任が問われる。
 

 2005年になってさえオシポビッチは「民間機を装ったスパイ機」という判断と主張を曲げず、「合衆国側の輸送機や偵察機による領空侵犯は、それ以前からあったため、航法灯を点灯していても民間機とは言えない。簡単にすり替える事ができる。ソ連防空軍や海軍の基地の位置、機動力、機種などを調べるための合衆国軍部からの指令による触発行為としてスパイ機である」という事を主張していた。「KAL007パイロットには合衆国軍部からの指示か依頼があった」という事をオシポビッチは確信していた。あるいは書類上でそのように報告しているため、それ以外に彼は言う事ができない。
「民間機を装ったスパイ機」という事であれば、遺体に関しての法律的な処置の仕方が異なる。もしスパイ機という事で知らされていたのであれば、海底に散乱した遺体は手を付けず、放置されていた事になる。特に9月10日からのプロダイーバー3人による遺品回収作業の時まで海底で発見された遺体は、スパイと判りやすいように意図的に残されていたのではないかという側面もある。「撃墜した」「破壊された」というソ連迎撃戦闘機パイロットによる報告内容と、「民間機を装った」という証言と報告のため、その証拠物件としてその後でさえKAL007の機体が爆破され、その残骸や破片が集められた。


 9月10日から潜水し始めた民間プロダイバーによれば、海底に生息している莫大な数のカニによって遺体や肉片はほとんど無くなっている状態だった。しかし、もし完全に放置されていれば、カニは人骨を残すはずで、269人の人骨も海底に残る。9月10日以前に形のある遺体はある程度回収されたとしか言いようがない。
 ホオジロザメは昼行性だが、日の出前や日没後の真っ暗な海底でさえ活動できる特殊な器官がある。ダイバーたちの作業が終わった後、毎朝毎晩ホオジロザメが集まり、残りを骨ごと食べ、夜はカニの大群によって4〜5日で無くなったと想定する事もできる。
 

 ソ連側では9月7日まで、乗客のほとんどが民間人である事を「乗客リスト」からだけではなく遺体や所持品からも確認する事ができたはずと考えられる。


 9月2日の翌日から北海道稚内付近の海岸へ飛行機の残骸や遺体部分、遺品などが次々と流れ着き、新聞で報道された。それらの証拠から日本側からは、撃墜されたのは民間機であり、ソ連は嘘を言っているという事が発覚し始めた。
 ソ連防空軍内規によれば、民間機であろうと、夜間の領空侵犯は撃墜という事で、それが国際社会や民主主義国家のモラルと合わなかった。そのために発生した事件であった。
 9月10日の時点で乗員乗客のうち十数人分しか機内に残っていなかった。9月1日から10日までの機内の状況が知らされていず省かれている。



 イズベスチアは1983年9月の末、ソビエト側が日本人に衣類を含んだ76点の異なる遺品を渡したと報じました。そして、それらは韓国に送られました。我々は、衣類が異常にきちんとしているように見えるにもかかわらず、そのように報告しませんでした。衣類には一つの汚れもありませんでした。日本当局にそれらを引き渡す前、ロシアの誰かが苦心して服を繕い、きれいにしてから彼らに棺をかぶせたという印象を私に話しました。
 
 女性である私の考え違いでなければ、布の断片が、これらの物の間にありました。それが水中にあったファブリックは完全に汚されなかったのです。それは、完全に異なるように見えなければなりませんでした。ひとつの汚れもありませんでした。
 写真のうちの1つの中に、私は、私の娘のスニーカーを見つけました。私は驚きました。「どのようにして、あなた方はこれらを見つける事ができたのでしょうか?」「私はまさに、それらの遺品を確認しました。それで全部だと。知らない人が気がつかないありとあらゆる目立たないマークがあります。これは私がその遺品を確認した方法です。娘は、その靴を履くのが好きでした」
 

 
 その当時、ソ連側では乗員乗客の遺体部分や遺品は、すべて焼却したと報道されていた事を記憶しているが、言い伝えられた知らせで証拠は示されていない。
ソビエト新聞イズベスチアのプレスオフィスに来たKAL007の乗客の親族は、航空機が空だったという考えさえ拒否しました。彼らには異なる理論があります。その中の1人によると、「体は回収されてサハリン島の土地にひそかに埋葬されました」。「彼らは、このバージョンが日本のジャーナリストが、どうにか島にたどり着き、墓地を訪問しようとして止められなかった」という事実で支えられると主張します。
 我々は、残りが見つからなかったという考えに、納得することができません。そのために死んだという感情的な準備ができていないのです。私たちは、これで納得できると感じる事ができないのです。乗員乗客のうち、10体から15体が消えたという事実は、受け入れることができます。



 ミルチンク号は、10月29日までその仕事にあたり、11月になると捜査エリアに漁船しか残っていなかった。ミルチンク号は11月10日に仕事を終了し、錨を上げ、その場所から去りました。

 日本人ダイバーによると、2000年以後のKAL007はダイビングすることができない200〜260mの深い所にあり、引きずって移動した跡もはっきりしていると報告されている。
 ライフジャケットはどうなったか。少なくとも200人分以上の救命胴衣が海面に浮く。海底で救命胴衣を付けたまま沈んでいるのが発見されている。救命胴衣を付けた胴体は174mの海底で浮くか沈むかの重さだった。靴は焦げた痕もなくほぼ完全な形を残して海上に浮き、ライフジャケットが靴と同じくらいの数で発見されていないというのはなぜ? 掃海艇が6隻来た時には、海上は船でいっぱいだった。
 

 もし飛行機の外へ流されたのであれば、水没地点から何キロも南側のソ連領内で9月1日と2日に発見されていたのではないかという考え方もある。発見された遺体は、ネベリスクの町の火葬場で焼かれ、サハリンの僻地にまとめて埋葬された説もある。2日に気温が上がったため、身元確認のためいつまでも放置することができず、冷凍にするわけにもいかなかったのではないだろうか。
 9月1日から3日まで、KAL007の水没地点で作業した海軍は、ガバン地区から派遣されていたソビエトガバン海軍機動部隊か、はっきり表現されていない。ただ海軍と伝えられている。最初に到着したのはソビエト国境警備隊沿岸警備隊のため、総括した状態で海軍と漠然と言っていたのかも知れない。海軍機動部隊が使用した船ゲオリギ・コズミンには、有人2隻、無人2隻の潜水艇が備わっていた。ミルチンク号は最初の水没地点から移動せず、爆発して四散した破片の回収作業を行った。ガバン海軍機動部隊は、ボーイング機を移動した後、モネロン島北側の浜に漂着した遺体と遺品、飛行機内の電子機器類などの回収作業を行った。モネロン島北側のその場所へKGBと委員会役員を運び、袋につめて集められた物の発見場所と品目をチェックし、選り分け、ヘリコプターでネベリスクへ運んだ。北海道沿岸と同じであれば、その時に隠された状態で遺体なども運ばれた。身元が判明するほど完全な遺体が何体あったか。その時の作業にあたったのは、公務員や海軍だったため、機密が洩れる事が少なかった。9月10日前までKAL007は北北東水深174m地点へ移動。ほとんど機体原形を残さない状態まで海底で爆破された。


 9月1日から仕事をしていた海軍への指令は、「救助と修復」だった。ミハイル・ミルチンク号は「回収」のみであった。この場合の救助とは遺体の回収も含まれ、この時点で、スパイ機か民間機か判断が難しいため、証拠となる調査用の電子機器やブラック・ボックスのテープが解読されるまで「軍事機密」としてふせられた。9月2日3日に北海道北側へ漂流してきた遺体の一部が発見されているため、モネロン島北側へ漂着した遺体の数は北海道北側で発見された韓国人9遺体よりはるかに多いのではないかと推測される。遺体収集の仕事が指示されていたのはガバン海軍機動部隊と他のソビエト海軍だけであった。
 

 9月14日の朝日新聞によれば、ロンドンの保険会社スチュワート・ライトソン社は、9月13日、大韓航空機にかけられていた戦時保険金約65億円を大韓航空に払ったと発表。それに比較すると大韓航空から被害者遺族に対して最初に支払われた額が、旅費代として30万円だった事が誰でも不思議に思える。戦時保険金は、飛行機に対してかけられた保険か、生命保険とは違っているためか。乗員乗客に対する万一の事故による生命保険までかけられていなかったことになる。この場合の遺族による被災者生命補償の賠償請求権はあると考えられる。会社は法人のため請求しなければ支払わない。スチュアート・ライトソン社は、保険金額を払う前に事故現場の検証と事前調査をしたはずで、その報告の結果支払いが早かった。操縦室に設置されていたブラックボックスが、その事件の原因究明の鍵を握っていたため、その解析が急がれていた。ブラックボックスの解析より保険金が早目に支払われたのは、その保険会社の調査と報告書による結果だった。


ロシア海軍バチスカーフ

 「海面に浮いた状態の機体(KAL007便)を船で引っ張り、爆破して沈めた」という話は、イズべスチア新聞が取材した情報で、目撃者は「なぜそうする必要があるのか、不思議だった」と付け加えている。その目撃談は、9月1日未明の事故現場状況か、数日後にトロール船で第2地点(上空で爆撃された位置)へ曳航した後の話しか、日時が不明だった。これが9月1日未明の話しであれば、たれ込み情報と一致している。後々、ロマネンコ将軍は陸軍将校として東ドイツへ栄転し、首を吊って自殺。心理的に追い詰められていた理由が、9月1日未明の処置、KAL機を爆破して沈めた事に対して、そうすべき事だったのか、追い詰められる理由が他にあったのか、疑問が残る。

 9月1日未明の処置には、KAL機内後方で急激な減圧と寒さで気絶、あるいは重症の状態で残されていた数十人の乗員乗客は、機内に海水が浸水し、さらに沈みつつあるため確認する事は無理であった。人命救助とは全く無関係に「操舵室から取り外すのを忘れていた残りのブラックボックス2個」の方をオガルコフ参謀総長は重要視していた。

 ソ連政府側は、9月9日になってからモスクワで正式に共同TV記者会見を開き、「領空侵犯機を撃墜した」と公表。その時の共同記者会見は世界全国でTV放送された。その後、新聞紙上、TVニュースなどで「機内には誰もいなかった」事をどこまでも主張したために、国際論争が激化し、特にアメリカ合衆国レーガン大統領から「嘘つき!悪の帝国!」と罵られるに至った。




(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, 2009-2024.7.16-