KAL007海底からの引き上げと目撃談の日付け(11)


那覇空港チャイナ便の燃料タンクから出火。乗員乗客の避難に1分かからなかった(20秒程度)。


◆「しかし、ボーイングに火事はありませんでした。それは確かです。 全てがケロシンでびしょびしょに浸されていましたが、機体はそのままの完全な状態でした」


        KAL007海底からの引き上げと目撃談

 KAL007事故現場の初期の目撃者によれば、このような不思議な話があり、長い間何故?と気がかりだった。ロンドンの保険会社スチュワート・ライトソン社による「戦時下民間航空機保険」に関わる話にしては、動機や背景に不思議さがある。海上に浮かばせた状態で機内の海水を外に抜き出し、ボーイング機内に入り、確認のため調べた様子を思わせている。
 この目撃談は機体内部のシートや備品、機体部分で、この場合はボーイング機が壊されていない時の海底から引き上げた当初の状態を言っている事になる。持ち出された機体部分に焦げた跡が無く、「焼けた痕跡がある」という報告や話が少ししかない。燃料タンクに近いランディングギヤ付近の機体破片と右後ろのミサイル爆発付近以外、焦げ跡がない。機体を海面に浮かせた状態の時、後部座席は海面下に浸っていたため、1F前方と2Fまでしか見れなかったようだ。


 ソ連大型トロール船ゲオルギコズミンによって9月6日ごろKAL007を海上に浮かばせ、海水を抜いた後であれば、事故現場の軍事機密立会い人として司令官と特殊技官及び報告書書記、保険会社調査員たちと社長、KGB重役、調査員と検察官たちしか中へ入れない。さらに飛行機内の海水を機内1Fの下まで抜くのは、海上ではクレーンで引き上げても両翼が邪魔なため、モネロン島北側の浜の浅瀬まで網をかけた状態で引っ張り、網を外した。機体の調査・検証をするには、砂浜の浅瀬(水深4m、KAL007の1F床下)まで陸揚げするしか方法は無い。9月5日、6日、7日の現場状況だった。
 実際、燃料タンクのケロシンが水中花火のように周りに飛び散り、機内は不燃塗料や不燃材を使用していたため、焦げ跡が無く、燃えなかった。両翼の真中の下にある燃料タンクの上の床は、燃料の爆発で壊れたかどうか不明。機内右後ろ後部のミサイルによる1.8m四方の穴から海水と一緒に機内に侵入したケロシンかは、はっきり解らない。ボーイング機は窓ガラスや非常口が壊れても完全であれば、浮くはずで、燃料タンクの上から海水が1F全体に吹き出たため、爆発後、ほとんど同時に機体が沈み始め、機内の火は消えていたと解釈する事ができる。後ろにはミサイルによる穴があいていたので全体が海没するのに5分から10分。後ろから沈む勢いで2Fまで沈んだ。外は火の海だったが、燃料タンク上の床から湧き出た海水で、シートベルトを締めた死傷者以外の乗員乗客は、非常口から小型ボートで沿岸警備船へ運ばれ、2Fと1Fの乗客は、シュウーターで次々と沿岸警備船へ滑り降りた。230人前後の乗員乗客が、機内から脱出するのに、1分かからなかった。しかも、機体が沈まない内に、乗客のトランクまで運び出す事ができた。
 KAL007の乗員乗客たちが沿岸警備船に移動し、トランクを運び出すと、ロマネンコ少将は機内のブラックボックス2個を外し、コクピット天井にプラスチック爆弾を詰め込み、沿岸警備船に戻り爆破して沈めた。太陽が昇り始めると民間機である事が各国に発覚し、大騒ぎになるのを避けるためであった。ブラックボックスの取り外しとKAL007の水没を無線で指示したのは、オガルコフ参謀総長であった。


 私は、この不思議な目撃談の可能性をある程度信じる事によって、「海底に沈んだKAL007機内に、誰も居なかった謎」をこのように解釈するに至った。たったひとつの目撃談が消えた乗員乗客の謎を解く鍵になるとは、非常に長い間、思いもしなかった。

Boeing747-230 の内部座席と床下の構造
 さらに気を付けて考えると、ひとつの状況で片付けられない。乗員乗客の場所によって、幾つかのケースに分けられる。後部座席のドアのところまで、ミサイルの爆発の後の急な減圧のためアナウンスが聞こえず、シートベルトを締めたまま血管が破裂して即死したり気絶し、焼死したあと凍結した乗客がいたはずです。エコノミークラスの後部座席で死傷、気絶した乗客は、座席にすわりながらシートベルトを締めたまま海底に沈んだ。


 しかも、ミサイルによって上空で爆発した時は、気圧が低いほかに機内の空気が抜け出、炎は右後ろの穴から吹き出、機内は外壁とミサイルの金属破片が一瞬で飛び散り、爆発付近の乗員乗客とスチュワーデスがずたずたに引き裂かれた。その様子は、海底で発見されたスチュワーデスの衣類から想像がつく。その時、エコノミークラス100人以上のハンドバックやリュック、カバン、毛布なども吹き飛ばされ、右後ろの穴から外に、火炎で燃えながら落下した。機体は機内の空気が抜け出る勢いで上昇し、それが約1分間続いた。
 

 KAL007水没数日後、流された場所で海面に浮いていたものであれば、ライフジャケットを着たまま遺体が浮くはずで、海上で発見された遺体に関してソ連側では依然「1人の遺体も人間も見つからなかった」と主張している。
 アクアラング・ダイバーと有人潜水艇の乗組員の話を合計すると、水没したKAL007の残骸のある海底に約10人分の遺体部分が発見されている。1人の遺体も見つからなかったというのは、初日早朝の水没現場付近の海上報告をそのまま伝え残しているのではないか。
 KAL007が水没する時、生存者が多かれ少なかれ居たとしても、機外に出ずに飛行機と一緒に沈んだのであれば、機体の後ろから沈む最中にシートベルトを外し、海面の炎の薄明かりを頼りに機内で前方へ浮かび泳ぎ、2Fへ上がれた人も何十人かいた。
 9月1日の朝、放置状態であればサメに食われた可能性も考えられる。事故現場への到着時間までは記されているが、海底で最初に発見された時間と機内状態に関しては、要領よく空白にされている。CIAの報告書も9月1日から10日までの箇所が抜けており、イズべスチア新聞で公表された民間の目撃者談しか残っていない。


 高度10,000mでミサイル爆発後、KAL007が11,000mまで42秒間上昇し続け、急降下の時に酸素マスクが自動で一斉に落ち、空いていれば隣のマスクも使用する事ができる。機内の気圧が抜ける強風と壊れた窓からの-50℃の強風で後部座席の死亡した乗員たちと、おびただしい流血や血痕は、10秒程で全て凍った。
 KAL007エコノミークラスの右後ろに乗っていたのは、主に韓国人のデッド・ヘッドたちで乗客は少なかった。
 事故現場の検証の時に外国の民間人の遺体が機内に残されていると、それを目撃したショックで重大な国際問題となるので、9月1日から5日、この作業に携ったソビエト海軍救助隊、海軍機動部隊、海軍ダイバーには軍事機密として口止めし、メダルや記念品、感謝状と賞与金を給付して意図的に隠した。


 実際には9月11日以降しか知らされていず、9月1日から10日までは、現場の作業に携わったソ連民間人による目撃談の断片からしか当時の状況が知らされていない。




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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/2009-2024.7.17-