ミハイル・ギルス機長_ 海の底のKAL007残骸と乗客(39)
ミハイル・ギルス機長と本人が設計した2人乗り調査潜水艇チンロ2/Unsolved history KAL007
KAL007が爆発した1983年9月1日、6隻のソ連海軍艦艇と1日平均32隻のソ連船が事故現場領海付近に出動していた。ソ連以外の国々の船からは、KAL007の事故の規模と状態が解らず、様々な未確認情報が流された。9月3日ごろまで、事故原因や生存者がいるかどうか、確かな情報としては知らされていなかった。ソビエト沿岸警備隊が一早く生存者と荷物を運んだとされているが、その証拠が無いので確かではない。9月2日、朝日新聞は、「大韓航空機 ソ連が撃墜 269人全員死亡」と報道。ソ連側の潜水グループは3組に分けられていた。
①ゲオリギ・コズミン(大型トロール船)ソビエトガバン海軍機動部隊(ソ連海軍)
潜水艇有人2無人2
②ミルチンク石油掘削船 スウェーデン製の船で破片回収に活躍(民間)
潜水艇有人2無人2
③ハイドロノート大型漁船 海底探査・潜水用(ソ連民間)
潜水艇2人乗り用2
「KAL007事故現場で潜水した人々の目撃報告」 Izvestia, 21 May 1991
- その後の段階で民間ダイバーたちは、「海底のKAL007便は部品と破片でバラバラ状態だった」と報告。これは海面下の爆発による。(夜間に原子力潜水艦の魚雷で形が残っていた機体を遺体ごとちりじりに吹き飛ばしたのではないかと考えられる)
- 民間ダイバーたちは、ブラック・ボックスと電子部品(慣性航法装置)などの位置に関して指示を受けていたが、遺体に関しての指示を受けていなかった。
- 乗員乗客の遺体がなかった事を驚きながら報告。しかしダイバーのうちの1人は首を切られた胴体、身体の肉片と10回遭遇。いくつかのスーツケースも見たと報告した。
- 四散した機体の破損部分に焦げた跡が無く、油が付着している部分もあった。
- 潜水は水深160mまでが限界で、15分から20分の潜水時間のため日数と時間を必要とした。
- 9月10日、生存者の可能性無しと報告された。
- 9月17日から20日までの間に人間の手を発見。
左:KAL007ランディングギヤ支柱水深174mの海底 右:潜水艇のギルス機長によって確認された海底に残された腕
<ミハイル・ギルス船長とダイバーの目撃談 9月10~10月31>
- ミハイル・ギルス機長の先祖はスウェーデン人で代々船乗り、彼の日記は、9月10日から初められていた。
- ギルス船長は雇用条件としてソ連海軍に従うように指示されていた。
- 9月10日、ギルス機長が最初に潜水した深さは215mの海底で、高さ2mのゴミの山があった。韓国人用眼鏡が無数に散らばり、女性用衣類は穴だらけでファスナーが閉じた状態だった。札束が散乱していた、そこにはミルチンク号の下で発見された頭皮とは異なる黒髪の頭皮が海底で揺らいでいた。
- 10月10日までにトロール船の網で移動した痕跡があった。
- 潜水艇の設計者であるギルス機長の日記には「機体後部のボイジャーの胴体を発見。底には残留物があり、岩礁の間に直立していた」「10月10日、これまでボーイング乗客の死体に10回ぐらい出くわした」と記されている。
- ギルス機長が発見した機体後部は、後日、他の者が潜水してみると、まわりに爆発して四散した部分が残っているだけで、直立した機体後部は見当たらなかった。大きなものとしてはジェット・エンジンや車輪、機体の残骸などがあった。
- 十中八九、乗客は機内減圧の時に飛行機から放り出され、別々の場所に落ちていった。広い区域一帯に広がって落ちたと結論するしかなかった。
- 潜水初日と次の日まで死体はありませんでした。
- 私はひとつの黒い手袋を発見し、その中を見ると人の手が入っていた。おそらく機長の手袋ではないかと思える。
- 民間の潜水グループは、KAL007便の残骸と破片を検査し、写真を撮影しました。
- そしてそれからいくつかの骨を見つけました。二つ。私はそれを手にしました。
- 私が最初の何人かの死体を見た時、驚きましたがぎょとはしませんでした。後で頭のような毛の生えた人間の皮膚を見ました。髪の毛は黒かった。しかし触ると全部ばらばらになりました。
- ライフジャケット(救命胴衣)を着た頭の無い胴体を見ました。そして彼らの体を回して見ると、ライフジャケットの下からいくつかの白い紐が伸びていました。明らかに内臓の残りです。
- 乗客の私物を除いて、そこには人がいた事を示す痕跡がありませんでした。しかし、人が着ていた衣服がありました。その衣服はなぜか裂けていました。乗客は破片によって切断されてしまったのです。
- 遺体回収に関しては誰からも指示されていませんでした(遺体を回収していない意味)。
- ミルチンク号からテレビカメラを海底に下げ。1日目と2日目はそのカメラでうまくいくか様子を見たが、カメラでの水面下の視界はたったの3mだった。海の底は砂と小さな貝がら。
- 飛行機残骸に加えて多くの物がありました。乗客の小荷物の中身のようです。衣類、文書、財布、女性の財布、その中のお金も発見しました。スーツとドレス、文書があり、その文書を抜き取ることが困難だった。衣類など。私は学生IDのパスポートも見つけました。これらの物品は海軍担当者からBPKセバスポリに渡されました。
- 記録テープも発見しました。ラック、キャビネット、ボックスを寄せ集めロープで縛られて海底に降ろされているカゴへ入れました。
- 私は、航空機がゴミによって満たされ、実際誰もいなかった明瞭な感じを抱きます。そこにはスーツケースやバックがあるはずですが、ゴミの堆積物、積み上げられたような、衣類は断片で穴だらけでした。
- プラスチックの化粧ケースは完全でしたが、中の鏡は粉々でした。傘も発見しましたがもみくちゃで使用できない状態でした。ナイフとフォークは何故か曲がっていました。どのような力が作用したか解りません。
- 水深200m付近は、ほとんど光が届かず、青味がかってはいるものの暗闇の世界です。
- ギルス潜水艇船長は、ダイバーが潜水できない深さ水深200m~270mの海底でブラック・ボックスを探していた。そこにはボーイング機体の破片の間に、頭蓋からはぎ取られたような頭皮と黒い髪の毛を見たと日記に綴っている。
- ギルス船長は、2か月間で1.5キロ平方メートルの海底を探索し、電子機器やボーイングの残骸などを揚げたが、重要な物として救難ボートの赤い無線機しか発見できなかった。2ヵ月経っても賃金は出ず、他の例を挙げてしつこく支払うべき金額を請求し、やっと定額の賃金が支払われるような当時のソ連海軍の経済状態だった。そして、この仕事に関しては、口外しないように注意を受け、それが何年まで有効かについてまでは話さなかった。ギルス機長はその妻の話しでは、剛毅な性格で感情をあまり表さない人として知らされている。
- ギルス設計のチンロ2の製造年は、はっきりしていないが下の方が錆び付いている。しかもスクリューが弱めのため、潮流より少し速い程度で完全な静止はできない。ヘッドライトも少し暗い。ただし270mまで潜れる性能があり、チンロ2で撮影された海底は、海上のラジオブイを経由し、モネロン島のテレビで見る事ができた。それをビデオに録画し、モスクワへ送る事になっていた。
- 水深1000m以上の深い海域には無人潜水艇が使用された。主に撮影が目的だった。モネロン島西側の深い海域は、アメリカ潜水艦が水深650mの所で遭難信号をキャッチし、無人潜水艇で拾い上げた。そのブラックボックスは、ソ連が落として置いたおとり作戦の代物だった。しかしアメリカ海軍は、それとは知らずにブラックボックスの発見をうわさで広め、ソ連海軍にまで広まった。
- ギルス潜水艇機長によって当時の日記に書き止められていた。第2地点で海底の岩場にボーイング747の後部が直立していた時期9月14日ごろまで、その救難信号が作動していた。
- ギルス機長の日記には、KAL007のブラックボックスの色・形状・機能の図解詳細とKAL007機内の最後部洗面台の上に設置されていたと記述され、知らされていた。さらにブラック・ボックス内にバッテリーが装着されており、そのバッテリーの耐久日数は30日という事であった。
- 9月15日、ギルス機長は民間ダイバーのバディム・コンドラバエブに「終わりだ」と甲板上で告げられ、9月末頃、「ダイバーがブラックボックスを発見した」と、他のダイバーたちのうわさ話で聞き知った。ブラックボックスが発見された事については、誰も聞かされていず、うわさで仕事仲間たちに伝えられ広まった。
- ハイドロノート大型漁船の上でギルス機長は、中将カメンスキーに直接ブラックボックスについて尋ねた所、彼は固く口を閉ざし何故か何も言わなかった。
- 9月14日の夜、海底の岩の間に直立していたボイジャー747後部は、15日に見当たらず、粉々に砕かれていた。それは、夜間に潜水艦で爆破したとしか考えられない。それを潜水艇内のELF通信でソ連の戦略ミサイル原子力潜水艦と交信し、ボーイング後部を爆破するように命じたのは中将カメンスキーと思える。ソ連の潜水艦が勝手に魚雷を発射して壊す必要は無かったが、中将カメンスキーはキルギス機長と同じように、ボイスレコーダーが置かれていた位置を図面で知っており、海底の後部機内に入るには外壁が邪魔だった。ボーイング747の後部を壊す事によって、潜水艇でもブラックボックスを拾い上げる事ができる。しかし、民間ダイバーのコンドラバエブの方が、それを見つけるのが早かったという海底のブラック・ブラックボックス発見の状況だった。
水深50m以内であれば、海底をライト無しである程度見る事ができる。水深100m以上は光量が少なくなるため、光合成で成長する海藻類などが少なくなる。200m以上は真っ暗で海草は生息していない。
潰れた片腕、しかも手袋をしていた様子から見ると、上空で気温が急激に下がり寒さに耐えるため、手袋を着用した人で、ビジネスクラスの空席へ移動して海上爆発した時に運悪く床が金属片で吹き飛び、片腕を失い死亡した。この説には無理があり、機内に焦げ跡が無かった。従って機内火災は発生していず、床も突き抜けていなかった。ケロシン燃料の油はドアや窓、被爆外壁から機内へ海水と一緒に侵入し、機体が海底に沈んだ後、燃料タンクの上の床から染み出て天井まで浮き上がったと推定される。
上空での爆発前にエコノミークラスで手袋をしながら眠っていた乗員の腕と考えられる。腕は爆風と金属片で吹き飛んだものだが、腕の肉は、カニに食われ潰れたように見えている。アラスカの乗客か、作業用軍手か、後から捨てられた遺体部分か不明。
ガバニ地区海軍機動隊が網にかかったボーイング747の中から遺体を運び出す際に、シートから海底に落ちた遺体部分を潜水艇で移動し、置いた可能性があり、エコノミークラスで爆発前に手袋をしていた乗客がいた事になる。それが乗客のものか帰省パイロットの手袋か、なぜ手袋をしていたか不可解な問題性がある。
(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, 2009-2024.8.2-