海の底のKAL007残骸と乗客(41)


 KAL007が爆発した1983年9月1日、6隻のソ連海軍艦艇と1日平均32隻のソ連船が事故現場領海付近に出動していた。ソ連以外の国々の船からは、KAL007の事故の規模と状態が解らず、様々な未確認情報が流された。9月3日ごろまで、事故原因や生存者がいるかどうか、確かな情報としては知らされていなかった。ソビエト沿岸警備隊が一早く生存者と荷物を運んだとされているが、その証拠が無いので確かではない。9月2日、朝日新聞は、「大韓航空機 ソ連が撃墜 269人全員死亡」と報道。ソ連側の潜水グループは3組に分けられていた。

  1. ゲオリギ・コズミン ソビエトガバン海軍機動部隊 潜水艇有人2無人2(海軍)
  2. ミルチンク石油掘削船 スウェーデン製の船で破片回収に活躍(民間)
  3. ハイドロノート漁船 潜水艇2人乗り用2(民間)


キルギス機長と本人が設計した調査潜水艇/Discovery:Unsolved history KAL007
「KAL007事故現場で潜水した人々の目撃報告」ソビエト連邦新聞 Izvestia, 21 May 1991

  1. KAL007が海上で爆発してから27分以内にソ連のボート一隻が現場へ到着していた。海上の炎はその時まで消えていた。
  2. そのボーイングには何の火災も無かった。その事は確かです。
  3. すべてのものは灯油で浸され無傷でした。
  4. 9月1日よりソ連海軍ダイバーが状況調査のため潜水を開始した。
  5. 人間の身体が海面上で浮遊している所は見つけられなかった。
  6. 1020点の機体部分と遺品・遺体部分を回収。その内2/3は日本の領海内で発見されたり、流れ着いた遺品や機体、遺体部分だった。韓国人9人の遺体も海上で発見されている。しかしKAL007に積まれていた450個以上のスーツケースがひとつも見つからなかった。
  7. 最初のKAL007の機体は、無傷で構造上のその形がはっきりしていた。
  8. KAL007は、その機体に上がれるほど完全な状態だった。
  9. 海面上に浮いていたKAL007の機体をトロール船で引っ張り、モネロン島ソ連領海内の浅瀬に沈め、爆破して四散させた。何故そうしたか奇妙だった。
  10. その後の段階で民間ダイバーたちは、「海底のKAL007便は部品と破片でバラバラ状態だった」と報告。これは海面下の爆発による。(夜間に原子力潜水艦の魚雷で形が残っていた機体を遺体ごとちりじりに吹き飛ばしたのではないかと考えられる)
  11. 民間ダイバーたちは、ブラック・ボックスと電子部品(慣性航法装置)などの位置に関して指示を受けていたが、遺体に関しての指示を受けていなかった。
  12. 乗員乗客の遺体がなかった事を驚きながら報告。しかしダイバーのうちの1人は首を切られた胴体、身体の肉片と10回遭遇。いくつかのスーツケースも見たと報告した。
  13. 四散した機体の破損部分に焦げた跡が無く、油が付着している部分もあった。
  14. 潜水は水深160mまでが限界で、15分から20分の潜水時間のため日数と時間を必要とした。
  15. 9月10日、生存者の可能性無しと報告された。
  16. 9月17日から20日までの間に人間の手を発見。


左:KAL007ランディングギヤ支柱水深174mの海底  右:潜水艇キルギス機長によって確認された海底に残された腕

  1. 10月10日までにトロール船によって移動した痕跡がある。
  2. 潜水艇の設計者であるキルギス機長の日記には「機体後部のボイジャーの胴体を発見。底には残留物があり、岩礁の間に直立していた」「10月10日、これまでボーイング乗客の死体に10回ぐらい出くわした」と記されている。
  3. キルギス機長が発見した機体後部は、後日、他の者が潜水してみると、まわりに爆発して四散した部分が残っているだけで、直立した機体後部は見当たらなかった。大きなものとしてはジェット・エンジンや車輪、機体の残骸などがあった。
  4. 十中八九、乗客は機内減圧の時に飛行機から放り出され、別々の場所に落ちていった。広い区域一帯に広がって落ちたと結論するしかなかった。
  5. 潜水初日と次の日まで死体はありませんでした。
  6. 私はひとつの黒い手袋を発見し、その中を見ると人の手が入っていた。おそらく機長の手袋ではないかと思える。
  7. 民間の潜水グループは、KAL007便の残骸と破片を検査し、写真を撮影しました。
  8. そしてそれからいくつかの骨を見つけました。二つ。私はそれを手にしました。
  9. 私が最初の何人かの死体を見た時、驚きましたがぎょとはしませんでした。後で頭のような毛の生えた人間の皮膚を見ました。髪の毛は黒かった。しかし触ると全部ばらばらになりました。
  10. ライフジャケット(救命胴衣)を着た頭の無い胴体を見ました。そして彼らの体を回して見ると、ライフジャケットの下からいくつかの白い紐が伸びていました。明らかに内臓の残りです。
  11. 乗客の私物を除いて、そこには人がいた事を示す痕跡がありませんでした。しかし、人が着ていた衣服がありました。その衣服はなぜか裂けていました。乗客は破片によって切断されてしまったのです。
  12. 遺体回収に関しては誰からも指示されていませんでした(遺体を回収していない意味)。
  13. ミルチンク号からテレビカメラを海底に下げ。1日目と2日目はそのカメラでうまくいくか様子を見たが、深さ174mのところでそのカメラでの水面下の視界はたったの3mだった。海の底は砂と小さな貝がら。
  14. 飛行機残骸に加えて多くの物がありました。乗客の小荷物の中身のようです。衣類、文書、財布、女性の財布、その中のお金も発見しました。スーツとドレス、文書があり、その文書を抜き取ることが困難だった。衣類など。私は学生IDのパスポートも見つけました。これらの物品は海軍担当者からBPKセバスポリに渡されました。
  15. 記録テープも発見しました。ラック、キャビネット、ボックスを寄せ集めロープで縛られて海底に降ろされているカゴへ入れました。
  16. 私は、航空機がゴミによって満たされ、実際誰もいなかった明瞭な感じを抱きます。そこにはスーツケースやバックがあるはずですが、ゴミの堆積物、積み上げられたような、衣類は断片で穴だらけでした。
  17. プラスチックの化粧ケースは完全でしたが、中の鏡は粉々でした。傘も発見しましたがもみくちゃで使用できない状態でした。ナイフとフォークは何故か曲がっていました。どのような力が作用したか解りません。
  18. 水深200m付近は、ほとんど光が届かず、青味がかってはいるものの暗闇の世界です。


水深50m以内であれば、海底をライト無しである程度見る事ができる。水深100m以上は光量が少なくなるため、光合成で成長する海藻類などが少なくなる。200m以上の深さの所に海草は生息していない。

 潰れた片腕、しかも手袋をしていた様子から見ると、上空で気温が急激に下がり寒さに耐えるため、手袋を着用した人で、ビジネスクラスの空席へ移動して海上爆発した時に運悪く床が金属片で吹き飛び、片腕を失い死亡した。この説には無理があり、機内に焦げ跡が無かった。従って機内火災は発生していず、床も突き抜けていなかった。ケロシン燃料の油はドアや窓、被爆外壁から機内へ海水と一緒に侵入し、機体が海底に沈んだ後、燃料タンクの上の床から染み出て天井まで浮き上がったと推定される。
 上空での爆発前にエコノミークラスで手袋をしながら眠っていた乗客の腕と考えられる。腕は爆風と金属片で吹き飛んだものだが、腕の肉は、カニに食われ潰れたように見えている。アラスカの乗客か、作業用軍手か、後から捨てられた遺体部分か不明。
 ガバニ地区海軍機動隊が網にかかったボーイング747の中から遺体を運び出す際に、シートから海底に落ちた遺体部分を潜水艇で移動し、置いた可能性があり、エコノミークラスで爆発前に手袋をしていた乗客がいた事になる。それが乗客のものか帰省パイロットの手袋か、なぜ手袋をしていたか不可解な問題性がある。

脚注26:高度11,000mで爆発後、コントロールが効かず上昇し続けている間は、白い霧が発生し、激しい勢いで機内の空気が抜け、毛布や新聞雑誌、お菓子、カーテンなどに放射熱と炎で火が付き、吸い込まれるように外へ飛び出した。爆発で吹き飛んだ金属破片でずたずたになり、あるいは大人も子供も手足や頭がちぎれた状態で開いた穴から外へ噴き飛ばされた。その数は二十数人。上昇の頂点から下降し始めの時は、急激に-50℃~-70℃まで機内温度が下がり、気圧も急速に下がり始めた。エコノミースラスの乗員乗客は意識がもうろうとなりながらも前から順にビジネスクラスの空席へ移動した。座席に座りながら気を失っている女性や子供、老人も後ろ側に二十数人いたと推測される。ここでの正確性はリクライニングシートを倒してシートベルトをしていなかった乗員乗客が急上昇中にシートから滑り落ちるように外へ噴き飛ばされたと考えるべきで、夜間は通常リクライニイングシートを倒し、シートベルトを締めていない。但し朝食が運ばれる前で空席が多かったこの便のエコノミークラスは、倒していない椅子のおかげで、怪我を免れた人たちが半分以上いたはず。
 ファーストクラス約5人、ビジネスクラス約120人、エコノミークラス約140人として総座席数500とした場合、エコノミークラスの半分約70人以上が、急降下中に、前列からビジネスクラスへ移動し、ビジネスクラスが満席になってから2階のファーストクラスへ移動した。これについてはコクピットボイスレコーダーの呼び鈴から現実的に考えられる。
 さらに高度5,000mの水平飛行中に、KAL機乗員たちは、酸素マスクを外し、エコノミークラスで意識を失っている人たちを確認し、後部座席の死亡者の状態、爆発で開いた外壁の穴の大きさなどを目視で調べなければならなかった。そうする事が航空機非常事態の訓練を受けている乗員たちの使命であった。

 エコノミークラスで被爆して上昇降下後、機内空気がすっかり抜け出、急に-50~-70℃まで機内温度と気圧が下がったため、手袋をして死んだ人が機内に残されていた。海底に沈んだ機体をさらに粉々に砕くため、魚雷などで爆破した際に、遺体の片腕が吹き飛んだのではないか等様々な説として考えられる。
 日本の新聞記者が最近取材したサハリン南端の住民によれば、「9月1日の早朝、モネロン島周辺の海面には遺体の一部が無数にあった」という父親の話しを聞き伝えている。無数とは、思った以上に多かったという意味であれば、「海に浮かんでいた遺体は一体も無かった」というソ連側の報告に反し、どちらも本当でそれぞれ場所と時間帯が違っていた。遺体部分が小さければ、静かな夜明け前の海面で、ほとんどが回遊魚に食べられたり、沈みながら北海道の方へ流されたという事になる。
 9月1日は、カムチャッカ沖で核実験が行われる予定だったが、この事件によって中止となった。

 この日のデッドヘッドを含めた帰省KAL乗員たちは20名で、エコノミークラスの被爆付近の座席に座り、まとまって乗っていた。それについてはKAL007乗員乗客名簿と座席番号から確認する事ができる。そうであれば、KALの帰省パイロット(手袋をしているので機長)の腕ではないかという絞られた憶測が発生する。
 ソ連側で民間機を利用したスパイ機と最後まで主張していたのは、亡くなったKAL機長が何故手袋をしていたか、ソ連側の電波チャンネルを拾うために後部座席の窓際に座り、KAL007パイロット_チュン・ビュ・インまたは副操縦士が連絡するコクピット高度情報を受信しながら、ソ連防空軍基地の無線電波チャンネルを拾い、ソ連側の交信会話をテープ録音する事は可能だった。アメリカ軍部からの買収(ジョブ)であれば、2人の機長(あるいは副操縦士)にスーツケースに詰めた100万アメリカドル(100ドル1万枚)当時の相場で約1臆8千万円で買収した疑いもこの手袋によって浮上する。
 しかし、ソ連側特に防空軍無線と核実験基地の電波チャンネルを調べるだけであれば、危険をおかしてまで民間機を使用するはずがない。この問題については確定的な証拠が無いため嫌疑の領域内で、アメリカ軍部と大韓航空の癒着については、今のところ不明として置いておくしかない。
 もし、ソ連防空軍各基地の交信会話が録音されていたテープが破壊されたKAL007機内から発見されれば、ソ連側でそれを公表し、濡れ衣を晴らす事ができたはずで、ネべリスクの特設会場へ集められた電子機器類やカセット等の録音テープには、決定的な証拠となる物が無かったはずである。ソ連側では、この検査結果をイズべスチア記者にも伝えていず公表できなかった。
 ただし、コクピット会話にある朝9時に開業するドメスティックビルディング内のチョハン銀行で両替する予定だったアメリカドルは誰の物であったか、事件当時の海上に捨てられていたアメリカドル紙幣は誰のものであったか、かなり疑わしい問題が浮上する。
 案外パイロットや添乗員たちの給料だったのかも知れないが、キンポ国際空港に両替所があり、チョハン銀行でも両替できるという事に関しては機長は知らない様子で、初めて知った事だった。
F/Dはフライトデッキという意味で、コクピット内で広い場所。その下のミッドデッキに降りる鉄パイプ梯子段があり、仮眠用のベッドとパイロットたちの荷物置き場がある。ドルを入れたスーツケースは1つとは限らず、着替え用スーツを入れたスーツケースもミッドデッキに置いていた。
KAL007日本時間3時11分27秒からの会話。誰の会話か曖昧にされている所は意図された表示か問題性があるため、会話内容からコクピット内の誰が話しているかを予想して判断するしかない個所。
03:11:27F/D 「航空内に両替所があるということを私は聞いた事があった」
03:11:30F/D 「航空内で両替?どんなお金?」
03:11:33F/D 「ドルを韓国のお金に」
18:11:36F/D
03:11:39F/D 「ドメスティク・ビルでもまた両替できる」
03:11:40F/D 「どこの国のだ?」
03:11:41F/D 「それはドメスティック・ビル内のチョ・ハン銀行です」
03:11:43F/D 「チョ・ハン銀行で替えられる?」
0311:44F/D 「ええ、そのドメスティック・ビル内以外には場所がありません」
03:11:49F/D 「もし、あなたがドメスティク・ビル内のチョ・ハンバンクに行きたいなら、何のお金を両替したい?ドルを韓国のお金にであればいいが」
03:11:55F/D 「そうです」
03:11:57F/D 「それもまたドメスティク・ビルの中にある」
03:11:59F/D 「朝9時に開き、10時に両替できる」
03:12:01F/D 「9時30分かも知れない」
03:13:28F/D 解読不可
 この会話内容の問題性は、機長以外の誰かがアメリカドル紙幣を詰めたスーツケースを一つか二つ受け取り、キンポ国際空港付近で両替できる場所を探して記憶していた。これが給料やボーナス等、大韓航空から依頼されたものであれば、機長も知っているはずで、機長が両替所を知らなかったのは、現金輸送について依頼された経験がないという事になる。
 アメリカ空軍からこの仕事を依頼されて行うにはお金が多額過ぎで、アメリカ空軍のスパイ機を飛ばし、給油のために日本か韓国へ着陸させた方が安上がりと思える。アメリカ軍部による民間パイロットの買収の場合は危険度が高く悪質で、発覚した場合、国際問題としてかなり騒がれ、裁判沙汰になるのは明らかである。

 1976年ロッキード事件によって、世界各国の大規模な政治汚職、賄賂事件が発覚した。アメリロッキード社による政界への大金のばら撒きで、ロッキード製旅客機トライスターを売り込むためにコンサルタント料700万ドル(21億円)をロッキード販売代理人児玉へ渡され、ロッキード販売代理店丸紅へ配られた。その時、日本では田中角栄首相(5億円収賄)とその閣僚、丸紅社長と役員たちが「受託収賄外国為替、外国貿易管理法」違反容疑で逮捕された。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side/Free Document Lisence, 17 August 2009