KAL007事故後の遺体処置推理

KAL007事故後の遺体処置推理


捕虜収容所日本人墓地 2007年8月1日 

  1. 機内天井で溺死していた人々は、最初、ユジノサハリンスクの総合病院にヘリコプターで運ばれた。
  2. 戦時下における特殊法令の場合、機内に残っていた乗員乗客の部分遺体は、9月1日から6日以内に網に集めてモネロン島で火葬した。機内にあったバッグや手荷物、衣服内のパスポートと身分証明書などをチェックする必要があるため、それらの所持品が集められ残された。
  3. ソ連で法律的に水葬が許可されている場合、乗員乗客の遺体を機内に残した。身元がはっきりしない骨の無い肉片や内臓は、集めるだけ無駄で放置した。
  4. 機内に残された骨がわずかだった事から、発見された骨のある遺体部分は、できるだけ全部運んだ。
  5. サハリン西海岸の町ネベリスクとゴルノザ・ヴォーツクの火葬場へ運んだが、無傷な遺体と分断された部分遺体を分けた。病院や火葬場もスケジュールがあるため、遺体が多過ぎる場合は、それぞれ最も適切な方法に分けて処理した。方法としてはひとつではなく、これら5つの複合的な方法による。

ウラジミール・シデロフ提督のイズベスチア紙上での発言
 「KAL007の海面衝突の時、海上には1体の遺体も無かった。27分後にボートがその場所に到着していたという話は本当だろうと思われる」と主張した。事故現場のソビエト当局者によれば「海面には1体の遺体も発見されなかった」と主張。

 ソビエト太平洋艦隊総司令官ウラジミール・シデロフ提督は、彼の直属のダイバーと同じく民間ダイバーを同伴させて作業にあたらせていた。人命を救助するための職種と撃墜した敵機を領内で合法的に壊す職種は異なっている。シデロフ提督は、人命救助の目的で仕事に就いたわけではなかった。米国をはじめとする多国籍艦隊や潜水艦、航空機などを領内に入れないための防衛策と他国の干渉を遮るための特別な秘策を考案しなければならなかった。KAL007がレーダーから消えた水没地点付近が初日から混み始める。船や飛行機が極度に集中するのを分散させなければならない。その方法を考えていた。

  1. 「海軍ダイバーの任務は、民間ダイバーと異なり別々だった。海軍ダイバーたちは、撃墜された航空機を引いて行き、沈め、海底に沈められた航空機を爆破させ、空中爆発をしたように見せかけるため、その残骸を四方に散らしたほど奇妙だった」と民間ダイバーは語っていた。
  2. 「海軍と民間ダイバーが見つけた航空機は、基本的に欠ける所が無く完全な物体でした。構造上傷の無いものでした」

 技官と事故現場の検察官が調査書を提出する場合、どのような事に気をつけなければならないか。KAL007が着水しようとした方向、空中で飛行しながら爆発したか、着水してストップしてから爆発したかを確認するため、爆発して四散した機体部分の飛び散った方向と爆発地点からの距離が基本的資料として必要であった。KAL007を移動させて海底で爆発させたのは、一定の水圧下で爆破した機体は、飛び散り方が異なっているので、その違いをデーターとして調べる必要があった。軍事機密の内容はそのような調査のための行為に付随した期間と目撃内容と思える。その調べ方で現場の検察官、技官、軍事指揮者のレベルがある程度解るので、長年その職に就いている人であれば気をつけなければならない事であった。
 ミハイル・ミルチンク号であれば、KAL007着水時の飛行速度まである程度割り出せるレベルの設備だった。海底を写し出すサイドスキャナーの精度が高まってくれば、海底に四散した残物までプリント可能な時代になりつつある。しかしこの時は、それほど緻密ではなかったため、ひとつひとつチェックして図を描かなければならなかった。