ロマネンコ将軍と乗員乗客の靴

ロマネンコ将軍と乗員乗客の靴

Floating on water after the crashing of aircraft
「CIA報告」米国共和党局員によるCIAへの報告書草稿

  1. スミルニク空軍基地戦闘機師団長代理ノボセレツキー中佐は、日の出時刻30分前に救助ヘリコプターMi8を墜落地点付近へ送るように指示し、極東軍管区司令官代理ストロゴフ将軍は、モネロン島周辺にいた沿岸警備隊と民間艦艇を送るように指令を出し、2つの場所から別々に救助隊が出動された。モネロン島付近に停泊していた警備隊の船は、KAL007がレーダーから消えた直後、救助指令の連絡を受け、着水して爆発する前に海上を走り探し始めた。
  2. 伝えられている話によれば、不時着水した飛行機は大半が無傷な状態で、KGBロマネンコ将軍指揮下の国境警備隊の船に回収され、乗客と荷物が飛行機の外に運び出された。
  3. KAL007回収作業に携わったソビエト側民間人ヘリコプターのパイロットは、9月5日ごろKAL007が海面に浮いている状態を空から見ていた。その飛行機は、ソビエト領海のモネロン島付近まで引かれて行き、故意にソビエト領海内の浅瀬に沈められた。その様子を船から目撃していたソビエト民間人が他にも多くいた。


KAL007事故現場の証拠と証言、目撃談からの推理

1983年9月9日モスクワ記者会見で解説のために背景に張られたソ連側のマップ
 CIAはソ連側と日本の自衛隊がとらえていたKAL007のレーダー記録を持っている。それによれば、KAL007は35,000フィート(11,000m)から12分間降下して高度0ポイントまでその位置も記録されている。レーダーからKAL007の機影が消えたと同時に、ソビエト沿岸警備隊の救助船(6隻以上)が現場へ直行した。
 目撃談の中には、最初に到着した国境警備隊の船に乗船していたKGBが、ブラックボックスを回収したという話があり、9月15日にプロダイバーのコンドラバエブが発見したブラックボックスの箱と1本のテープ(4本の内の1本)と異なっている。その2つの事実から、最初に3本のテープ(ボイステープとフライトデータテープ)が、抜き取られていたと推定された。オガルコフ(Nikolai V. Ogarkov)参謀総長がまずいと考えたのは、KGBロマネンコ将軍に命じていたブラックボックスの回収が完全になされていず、民間ダイバーにテープと残りの箱の存在が、ばれたためだった。このふたつの事実のため、ブラックボックスとそのテープ4本をソ連政府が所有して隠しているという事が発覚し、その証拠品の提出が国連とICAOから要求された。ソ連側では、事件当初からブラックボックスとその中にあるテープは所有していないと主張し続けていた。
 1983年9月26日月曜日の朝、日本人とアメリカ人の代表者が日本の警備艇「つがる」に乗ってサハリン西海岸のネベルスク港に到着した。サハリン地区とカムチャッカ南に連なるクリール諸島の国境警備隊KGB少将A・I・ロマネンコは、6人のソ連側代表団を率いて213人分の靴を返上した。KGBロマネンコ将軍は、ソ連と日本、アメリカの国境付近の実情、この事件の初期事実に関して多くを知り過ぎていた。しかしKGB委員会と参謀総長の許可無しに、彼の部下と代表者たちによってKAL007乗員乗客213人分の靴をアメリカ・韓国・日本の遺族へ返還した。その返還によって靴の所有者が明らかになり、ソ連参謀総長オガルコフによって懲戒処分され、矯正労働収容所(強制労働収容所と精神矯正収容所)へ送られた。ロマネンコ将軍は、乗員乗客の遺体処置(残留者)と荷物をどのように処理したらよいか判断が付かず、ブラックボックスを完全に回収する任務を忘れていたため懲戒処分にされたと言われている。ソ連大使館職員からアメリカのKAL007遺族代表者へは、ロマネンコ将軍は、その後自殺したと伝えられた。彼は、矯正労働収容所へ送られ、KGBのデーターからその名前が消された。KAL007事件の9月1日からの現場と、それ以前のソ連アメリカ・日本・韓国の沿岸警備に詳しかったため、この事件の大部分とKAL007乗員乗客の行方、初日からの現場を知っている人だった。1992年9月、ソ連新聞コムソモルスカヤ・プラウダ紙上で「ロマネンコ将軍は、東ベルリンのソビエト駐在武官(陸軍外交官)に栄転した後、同地で自殺した」と掲載されていた紙面を確認したとKAL007の生存者情報を追求していたアブラハム・シフリンは伝えている。


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ソビエト連邦参謀総長オガルコフ元帥 
KGBロマネンコ将軍は、KAL007事故現場を初日から見てきた唯一の指揮者だったが、非常事態に際しての経験が少なく、諜報活動や工作員が必要とする作戦には不向きだった。モスクワの参謀本部オガルコフ参謀総長にKAL007事故現場の緊急事態が報告された。しかしオガルコフ参謀総長は職務上モスクワを離れる事ができないため、この事件後の処理の総指揮者としてソビエト太平洋艦隊総司令官ウラジミール・バシリエビッチ・シデロフ提督が一任された。他に2人の少将ウィリアム・コッケルとウォルター・ビオッティー海軍司令官、ソ連防空軍ソコル基地極東司令官コルヌコフ(後総司令官)が、おもな指揮者として現場付近の対策にあたった。

 ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフKGB書記長への極秘報告書には、「ブラックボックスは、10月20日から30日にかけて日本海の180mの海底で発見された」と記されてある。この報告書は、誰から聞いた話を書いたかはっきりしていない。発見者のコンドラバエブのレポートによれば、9月15日にブラックボックスとテープ1本を回収し、その発見日が異なって報告されている。さらに発見場所が、日本海と実際に発見された場所と異なって説明されているのは何がしかの作為か調整があるということになる。その後、ブラックボックスは、フライトデータの暗号解読とボイステープ翻訳のためモスクワへ移送された。
 1991年、新生ロシア共和国大統領エリツィンは、恐怖政治の元であったKGBの秘密警察組織を解体し、ブラックボックスを国連ICAOへ提出した人だった。ボリス・エリツィン大統領は、「生存者はいない」と公表した。
 イズベスチア新聞で特集されたその事件調査の目撃談の中で、「KAL007は海上へ着水し、乗員乗客と荷物は国境警備隊の船に収容された」と、地元漁民が主張している話がある。目撃談の多くが何日の目撃かはっきりしていない。KAL007乗員乗客の内、何人かが生存していた話がなぜか存在し、生存者がいる可能性はあったとされている。飛行機は、実際にはサハリンとモネロン島の間に着水し、その機体は沈まず浮いていたという話をシフリンは書いている。 
 この事件で犠牲となった乗員乗客の遺族と関係者にとって最も重要な事は、「生存の可能性を伝えている地元漁民の目撃の内容とその詳細についてで、KAL007着水地点に最初に到着した国境警備隊沿岸警備隊十数人の話を聞きたい」と断言しても過言ではない。その最初の状態が空白で、はっきりしていないため、話が進まずこの問題が解決されていない。この事件で生存者はいないという公表と、生存者が何人かいたという2つの説があり、この状況は、大戦後の南洋の島々に根強く存在する日本兵と同じ現象ではないか、と考える事もある。つまり総括して公表される情報は、地元管理者の報告によるもので、その管理者にとって都合よく調整されている。報告書は表記表現方法の一種で、どのように要約し事実が伝えられるか、実際の確認と異なり、不利になる事は略され、例外まで伝えられていない事が頻繁にある。


KAL007乗員乗客の靴

  1. やはり、乗員乗客のほとんどは機内に残っていたと考えざるを得ない。269人中、返還された213人分の靴や履物があれば、機内に213人無傷で残っていた(飛行機が沈む前に、沈み行く機内で、泳ぐために靴を脱ぎ捨てた)はずで、残り56人分は、靴が無くなるほど燃えたか、爆発で吹き飛び海底に沈んだ。最初に国境警備隊や海軍機動部隊などの救助隊が事故現場へ到着した時は、海面上に何も浮いていなかった。民間のロシア人が最初に現場へ到着し、日本漁船が国際水域で目撃していたので、この最初の状況を隠す事はできない。救命具を着けて機外へ出たのであれば、焼死あるいは溺死したとしても海面に浮くはずです。
  2. 乗員乗客が機外へ出ていなければ、機内にほとんど残り、そのまま沈んだという事になる。213人分の靴は機内で発見されたものか、海面に浮いていたものか。機内の天井裏にあったもので、他のライフジャケットや浮く遺品は、全て飛行機の天井に溜まる。それが海上で発見されたということは、ほぼ完全な状態の機体の中に脱ぎ捨てられていたものとしか考えられない。213人分の靴に焼け焦げたり、爆発の破片で破けた痕跡がほとんど無かったのはなぜか。
  3. ヘリコプター操縦士は、9月5日からユジノ・サハリンスクから委員会の役員を運んだり、モネロン島に集められた袋や機体部分をネベリスクへ運び始めた。モネロン島北側の浜にKGB職員が番をしていて、運ばれた物を整理していた。ヘリコプターにそれらの荷物を積んでいる時、その人とよく話をしたとヘリコプター操縦士は語っていた。彼は、軍事機密という事を知らされていなかったため、何を運んだか知っているとイズベスチア特派員に話した。
  4. 213人分の靴を提出したロマネンコ将軍をはじめとするソビエト代表団は、「これらの拾い集めた物は、海上に浮かんでいた物と、サハリン、モネロン島の浜辺に打ち上げられていた物を見つけて回収しました」と伝えた。それらの靴の内の55足は、「ライフマガジン」に写真で掲載され、乗員乗客の靴であるという事が確認されている。発見された靴には日本の領海で見つけられた物も加えられているので、かならずしもKAL007機内だけにあったものではなく、海上や砂浜で発見された靴もある。それらは日本の千歳航空自衛隊基地で公開された。アメリカ犠牲者家族協会代表者は、ソ連大使館職員から、ロマネンコ将軍はその後退職し、自殺したと聞かされた。民間機か諜報機か、「残された証拠が民間人の物」であった事がこれによって明らかにされた。靴の返還は、ソビエト政府によるか、ロマネンコ将軍の判断か、政府や保安委員会からの指示や依頼であれば自殺はしない。
  5. もし213人分の靴の提出が、民間人被害者遺族に対するロマネンコ将軍の理性的独断であれば、自ら犠牲となる事をある程度覚悟しての告発行為だった。本人はそれによって受ける処置をおそらく知っていた。その後のロマネンコ将軍の名前と経歴は、KGBソビエト国家保安委員会)の書類からすべて消され、彼の存在の痕跡すら現在は残されていない。
  6. 国際民事の場合、検証とは裁判官による証拠調べの事で、「KAL007乗員乗客の213人分の靴」の公表は、検証と同じ直接的な物的証拠として重要である事は、司令官以上のポストに長い管理者であれば知っている。検証は証言や目撃談より重要視される。事故現場の作業報告書は、本部が遠い場合、写真なども添えて提出され参謀本部などに送られている。この事件の顛末書は参謀本部ソ連政府に確かに提出されてあるはずで、事故後の作業報告書と写真や映像テープなどが存在していれば、裁判官の「文書提示命令」によって提出を要請する事ができる。ボイステープが原本でなく、万一コピーや訂正物であれば、「文書偽造罪」になることも上層部ではある程度知っている。


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,1 October 2009-2012-