バディム・コンドラバエブの報告(12)


海底の航空機ウィング 
 1983年9月10日の夜、私は他のダイバーたちとバレンツ海で救助艇とダイビングの仕事に取り組んでいました。そうしたら航空母艦が接近してきて、16人のダイバーたちと一緒に、直ちにタタール海の事故現場まで行くように命令されました。私たちは空軍輸送機に乗り、モスクワで燃料を入れ、ユジノサハリンスクで着陸しました。そこからバスに乗りホルムスクへ行き、ダイビング現場まで案内されました。     
 1983年9月11日の夜から9月29日まで、タタール海のその事故現場で調査したアクアラング・ダイバー3人(民間人2名Grigorij Matvejenkoと海軍1名V.K-ov)の内の1人バディム・コンドラバエブ(Vadim Kondrabaev)によれば、海の底は、特に夜の海の底はカニの大群でおおわれている事を既に予想していました。水深174mの海底にダイビングする事になったコンドラバエブは、海底にあった不完全な衣類、化粧品、壊れた鏡、大きな古代エジプト十字、カセットテープレコーダー、レインコートのポケットの中にあった小さな英語版聖書、ゴルフボール、フォーク、スプーン、KALシンボル、ライフジャケット(救命具)、新品のパウダーボックス、機器などであったが、スーツケースはひとつも見つかりませんでした。リュックサックやトランクがひとつありましたが、遺体の部分でさえひとつも見つかりませんでした。何隻かの小型潜水艇は、彼らの前でボーイング機まで下がり、すべてを収集していました。子供のオモチャ、たくさんの女性の下着、衣服、ドレスなどもありました。「ガラクタの堆積物を掘れば掘るほどより多くの物が現われてくるというような所でした。カメラやテープレコーダーなどの貴重な物はダイビング・ベルに入れ、かごには置きませんでした。それらを海上まで引きあげた時、その途中に流れの速い波のような所があり、落下して失われるかも知れなかったためです。2m×1.5mの機体壁部分などは大きい籠に集めました。4冊の本やベトナムバルサム、様々な生皮の貨物を見つけ、ダイビングベルに縛りましたが、それを海面から上げた時、全体の束が別々に引き裂かれ、砕けてしまった事もありました。
 日本人とアメリカ人は、このボーイング機を捜していました。アメリカは特殊なラジオブイによって、水中の私たちの交信会話を盗聴していました。ラジオブイによる彼らの海底での音響妨害は、鼓膜が破れるほどキーキーした音でした。その音が激しすぎる日は、仕事にならないため休まなければなりませんでした。こちらのラジオブイは、ミルチンク号とダイバーのワークエリアの周りに置かれ、その外側をトロール船が巡回していました。

 We didn't find one body, with the exception only of one hand in a black glove that had been torn off from the arm. The only fact testifying to the fact that there was a destroyed airplane laying on the bottom was the a landing gear strut.
 私たちは、ひとつの遺体も発見しませんでした。例外として、腕から引きはがされていた黒い手袋の中の1つの手だけを見ました。唯一の事は、その底には破壊された飛行機が横たわり、着陸時のギヤ支柱があった事実を証言することでした。
 I have also thought about this question. You know, even if fishing trawlers were used to collect the remains from the Boeing, then after a month would be simply impossible to collect the bodies of all the dead. True, at the end of the expedition one of the military personnel on the "Mirchinko," having noted that I am very curious and want nonetheless to find the answer to the question, just where are the corpses, said: "The crabs ate them." Perhaps it was this way - even before the first dive we noticed a huge number of crabs on the bottom.
 私は、この問題(乗客の遺体)についてもまた考えました。あなたが知っているように、ボーイングの残留物を回収するため、トロール船があり、使用されたとしても、それから1ヵ月後、死亡者すべての遺体を集めることは、単純に不可能でした。事実として、その調査の終わりに、ミルシェンコに乗船していた軍人のひとりは、「その死体はちょうどどこにあるか」、という質問に対して、私が非常に不思議に思い答えたくなかったにも関わらず、その事を記録しました。多分それはこの方法でした。最初の潜水からでさえ、私たちは、海の底には莫大な数のカニがいた事を知っていました。そしてカニがそれらを食べたのです。

KAL007の残骸付近にいるタラバガニの群 水深174m/Discovery: Unsolved history KAL007
 KAL007の飛行機の残骸は1平方メートル以内で、それより大きい部分は見当たらず、飛行機のリムやフレームのような残骸部分もありませんでした。しかし、事故現場の海底調査5日目(9月16日)にブラック・ボックスのひとつを発見。それが4つの内のひとつである事が後で判明しました。5日目からビデオテープで海底のその状態を記録し始めました。ダイバーたちは、ダイビング調査する前から海の底のカニの莫大な数に気付いていたが、カニが遺体をすべて食べたと言わざる得なかった。カニの群れの規模がどのくらか、その時に撮影されたフィルムを見るか、その時に潜水したダイバーたちしか知りません。
 私たちに一任された映画は、今まで何本かありました。初めから私たちは、ビデオカメラですべてを録画していました。そのフィルムは、自家製の密封箱の中に隠していました。しかし、私たちの上にいた婦人がある時悲鳴をあげました。ダイビング・ベルと言われる鉄製の檻の中に、残骸と一緒に目玉のような物がぶら下がっていたため、それが何であるかを見て気づいたようでした。そしてある晩、彼らは録画撮影のため船に乗っているすべてのカメラマンや技師たちに電話をしました。その時に私服姿の厳粛な男性が、録画や写真などを即刻破棄し、どのような写真も撮らないように要求しました。
(脚注:その厳粛な男性は総司令官以上の権力者で一般人は乗船不可。ユーリ・アンドロポフKGB書記長であれば、その権利がある程度あり、事件後の処置方法に神経質にならざるを得ない)

 コンドラバエブが撮影したフィルムやビデオテープは、船の上にいた少年に盗まれてしまったため、本人は持っていない。その少年は、誰かに使われて行ったようだ。彼は、これらの事々に関して、17年間沈黙を守り続けていたが、この時の仕事内容と状況をインタビューで報告する事となった。カニの他、ザリガニ、クルマエビ、タコなども海底にいたという事を伝えている。
 9月10日からの潜水調査で、発見できた重要な物は、ブラックボックスのケースとコクピットボイスレコーダー、フライトデーター・レコーダー、テープ4本の内の1本、INS電子機器などだった。それらは盗難に遭っていない。ブラックボックスと電子機器の発見位置、作業場所の地図上での位置に関しては、機密事項のため公表していない。

 1日5時間労働で、海底での作業時間は14分。174mの海底で5時間から8時間、1日平均5時間、1回の潜水時間は18分が限界だった。ソ連国内では史上初めてだった。ダイバーの記録更新に加え提督から個人的に感謝はあったものの、何度も圧縮室に入り、耐えた割には良くない仕事だった。その期間の記録更新のメダルと金星が増え、軍隊ジャケットとユニフォームに添付されて感謝状と一緒に贈呈された。10月29日、この仕事のため、各ダイバーに支払われた賃金は200-250ルーブル(800〜1,000円)の基本給に加え200ルーブルが支払われた。そのお金によって飛行機でモスクワへ戻り、KAL007残留物遺品の展示即売会を開催したが、ひとつも売れなかった。
Ref:Secret of the Empty Airplane by Vadim Kondrabaev, Russian magazine Itogi,October 1,2000)


北海道稚内とサハリン付近の水深マップ

  1. KAL007の水没地点の深さが100フィート(30.4m)と174mの2説があり、海底マップによると、モネロン島真北11マイル地点は水深100フィート。この深さであれば、救助隊や海軍ダイバーでも潜水する事ができる。少し位置がずれたとしても60m〜90mで100m以上深くはない。1日目の曇り日は海底の視界3m。2日目の晴れの状況下で海底の視界8m以内。9月1日と2日に救助隊や海軍ダイバーが直ぐに潜水できる深さだった。宗谷海峡は深くとも60mという浅い海域である事が知られている。
  2. コンドラバエブが潜水した場所が174mであれば、場所が異なり、9月10日以前に北北東の国際水域に移動した。潜水作業をしていた際に、海底での会話交信をアメリカ海軍に傍聴され、ダイバーがロシア語で話していたためサメ避けと作業妨害を兼ねた音波妨害を受けた。その場所で174mあれば、最初に水没した地点は、深くとも70〜100mの海域という事になる。西側の傾斜している海盆は約620mの深い海域。浅い海域と深い海域とで識別している。

<イズベスチア特派員セルゲイ・アガフォノブ Agafonov>
イズベスチア特派員「私は何人かのアメリカの専門家と話をしました。死者の身体がなぜ見つからなかったか。彼らから直接聞こうとしました。カニか数種類の微生物によって食べられた。他の可能性は何でしたか?」
ウィリアム・ニューマン(カリフォルニア大学海洋生物学教授)の意見は、「たとえば、カニ、サメまたは何か他のものが肉を平らげたことを認めるとしても、骨格は残らなければなりません。海上で見つかっている骨格、数十年間、そこで卵を産んだ海底の多くの例があります。その上、カニは骨まで食べませんでした」
「強い流れが体をまきちらしたと思うかもしれません。海上に体が浮かばなかったわけは、そのためですか?」
 ニューマン教授は言った。「それらは多くの要因に依存します。腹腔が負傷しないならば、腹部に発生するガスによって海面まで体が浮くはずです。怪我をし、爆発の衝撃で体がバラバラにされているならば、それらの遺体部分は海面へ現われないで、航空機水没地点から流されたと考えられます」
 ジェームズ・エーベリは、「海面に激突する前に、その飛行機がおよそ10分間飛行していた事を思い出してください。この間、乗客は、全てではないにしても救命胴衣を着る事ができたはずです。そのうえ、彼らは確かにシートベルトを閉めました。海面に衝突する際の飛行機の勢いがどのくらいあったとしても、跡形もなく姿を消している269人の人々を想像するのは難しい事です。乗客の何人かは、救命胴衣によって海上へ浮かなければなりませんでした。何人かは、シートベルトを着けながら海底に残ったはずです。乗員乗客全員が、姿を消すなど無理な話です」と言っている。

さらにイズベスチア特派員は東大法医学部の解剖学専門家に聞きました。
「死体は、およそ200mの海の底で停止している事ができません。海水の比重で必然的に表面に浮き、潮流によって運び去られる。極めて希ですが海上の墓近くで漂います。時間が経つにつれ死体は分解されます。海中の環境の方が強く進行します。しかし、様々な条件を推測すると極度に複雑なようです」

日本海保安庁裁判医学専門部門
「深さ200mでの死体の条件は、以下の要因に影響されます。死亡した時の状態、海水温度、潮流、沈泥の深さの構造などの組み合わせに依存します。具体的な条件や情報、知識無しでは最終的な答えは全然でません」「従ってこれらの判断は生物学者海洋学者によってなされるべきです」

 オホーツク海に生息するカニとして大きいものは、タラバガニ(学名:Paralitodes camtschaticus)が、1m以上に成長する。タラバガニは肉食性で殻がゴツゴツしている。ズワイガニ(Chionoecetes opilio)も70cmまで成長する。ズワイガニは、雑食肉食性で、脚が細長く甲羅が比較的小さい。どちらもオホーツク海に生息している。タラバガニやズワイガニは、海の底に沈んだ鯨などの肉を食べたり、メタンガスが発生している海底でバクテリアが繁殖するため集まる場合もある。

 プロダイバーのコンドラバエブは、9月11日から第2地点のハイドロノート漁船で他の2人のダイバーたちとダイビング作業を始め、9月末に第1地点の掘削船ミハイル・ミルチング号に連れて行かれた。その後1ヶ月間ミルチンク号に宿泊する事となった。その船の圧力室とダイビングベルを使用して、4人等間隔に並び、作業していた。彼は、「およそ飛行機の残骸とは思えないものが散らばっていた。一本の車輪支柱だけが目印で、機体残骸は細かく、最大でも1m以内だった」「遺体は手袋をした潰れた片腕だけが残されていた」と1990年頃Itogi雑誌インタビューで述べていた。

9月末に第2地点から第1地点へ移動させられたコンドラバエブとダイバーたちが作業にあたる前、第1地点でミルチンク号は9月中どのような作業をしていたか、作業内容が空白で目撃談が無い。
 ミルチンク号での作業も海軍機動部隊が行い、厳重に隠蔽した。この時期に考えられる事は、コンテナー二十数台を全て海底に落とし、それをクレーンで吊り上げ、ガバン海軍基地へ他の船で運ぶ作業を20日間していた事が十分に考えられる。この事件から30年以上が過ぎ、時効になったためか、2005年頃からデジタルビデオで動画サイトに投稿され始めていた。レインディアーのキャンプ生活ビデオ、どこかの監獄の管理者が初期パソコンのバイオスを使用して勉強していた様子等を見る限り、初期パソコン機器やアルミ蒸着シートロールなどが使用され始めていた。その他、セーター等の衣類、食品など外部諸国の製品で、アメリカから韓国への輸出品などが主だっていた。それらを戦利品としてガバン(ガバニ)海軍基地まで船で搬送し、隠蔽したと考えられる。

 ミルチンク号が停泊していた第1地点には燃料タンクの爆発で機体底の外壁が粉々に壊れ、機体底部にある油圧系配線ケーブルが引きちぎられ、積まれていたコンテナー以外の荷物が散乱していた。1本の車輪支柱は海上で爆発した時に車輪が一基、根元から脱落した事により、海上爆発地点の位置の目印として最後まで残されていた。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007