アブラハム・シフリンの再調査-1(15)
1993年まで、KAL007の乗員乗客は全員死亡とロシア共和国大統領ボリス・エリツィンによって宣告されていたが、アブラハム・シフリンはKAL007便の生存者がいる事を告発した。シフリンの話によれば、乗客はKGBによって捕らえられ、荷物と一緒に矯正収容所へ連れ去られた。民間機を装ったスパイ機と知らされていれば、KGBは、KAL007の生存者たちを、いつ、どこへ連れて行き、何をさせていたか。シフリンはそれに関して詳しい情報を得ており、ソビエト社会の暗部の仕組みをまじえて告発した。その話の中には、非常に正確な情報もあるため、彼の話の全てを否定する事はできない。
Jesse Alexander Helms
アメリカ合衆国上院議員ジェシー・ヘルムズは、アブラハム・シフリンからKAL007に関する情報と報告書を受け取っている。
ジェシー・ヘルムズ上院議員は、アンカレッジでKAL007に乗ったグレンフェル家の娘たち、3才のステーシーと5才のノエルを直接見送った。「例え1千年生きようとも、私はあの少女たちの事を忘れない。私の膝の上で遊び、笑い、頬に口付けしたあの娘たち。愛らしい2人の少女。忘れようにも忘れられるものではない。なぜ、あの少女たちが犠牲にならなければならないのだ」
1991年12月10日、ジェシー・ヘルムズ上院議員は、ロシア大統領ボリス・エリツィンにKAL007便に関する具体的な情報を求める書簡を送った。
CIAに提出されたアメリカ合衆国「共和党局員論文」は、イズベスチア、CIA、NSA、アブラハム・シフリンの調査データに沿ったリポートの草稿で、ヘルムズ上院議員は、その報告書に同意し信頼を置いていた。ボリス・エリツィンへの要求と質問は下記内容だった。
ジェシー・ヘルムズJesse Alexander Helms上院議員からエリツィン大統領への質問内容
- KAL007着水の正確な位置
- 着水時の目撃録
- KAL007に関連した軍の無線内容の転写物
- 生存している乗員乗客名リスト
- KAL007から取り去った貨物と荷物のリスト
- ソビエト側の捜査救助報告書コピー
- ラリー・マクドナルド氏Lawrence Larry Patton McDonaldの運命に関する詳細情報
- KAL007の乗員乗客が連れ去られた収容所情報
CIAに提出された「共和党局員論文」に対しての返答
- エリツィン大統領は、1992年6月17日、KAL007便に関する文書の存在を報告。
- KGBによるKAL007覚え書きが存在する事を明らかにした。
- エリツィン大統領はその3ヵ月後、ブラックボックスの存在を認めた。
- 1992年10月28日、エリツィン大統領は、「生存者はいない」と返答。
- 「我々にはロシア政府の声明を疑う理由はない」と述べた。
アブラハム・シフリンによる諜報活動と執筆、告発がなければ大韓航空機追撃事件は伏せられたままで、この事件は1990年にぶり返さず揉み消されていた。アブラハム・シフリンは、この時期のソビエト強制労働収容所の実態をアメリカ人に明らかにし、ソビエト政府が隠し持っているKAL007の証拠品、ブラックボックス、報告書の所在、乗員乗客の行方を告発した人であった。
イスラエル国エルサレム市生まれのアブラハム・シフリンは、ソビエトからアメリカへ移住した強制収容所に詳しい情報収集家であり、KAL007に乗っていたラリー・マクドナルド下院議員の友人であった。シフリンのKAL007生存者説は、ソビエト強制労働収容所と精神矯正収容所のリサーチセンターから受け取った情報による。そのリサーチセンターの1989年〜1991年にかけての調査によれば、KAL007の乗員乗客はサハリンKGB基地へ連行されたと断定している。
アブラハム・シフリンは、赤軍少佐とクリミア北東のクラスノダール地方検察官として責任ある地位に就いた後、エルサレムにリサーチセンターを設立し、理事となった。しかしアブラハム・シフリン自身、アメリカとイスラエルのためスパイ行為をした理由で裁判にかけられ、その判決の結果、10年間監獄生活。さらにその後の7年間、カザフスタンに流刑にされた。
アブラハム・シフリンは、サハリン西海岸ネべリスクの漁師と日本人漁師から、事件当日「着水した機体から乗客が救助された」目撃談を直接入手した。<解説1>その話が事件当日の何時ごろか、漁師から直接聞いたか、噂話を聞いたものか。イズベスチア新聞に彼が集めた目撃談と同じ内容の話があったり、CIA報告書の随所にシフリンの情報が付け加えられている。しかしこの目撃談も、曖昧な表現の仕方で、もし、シフリン本人がネベリスクで直接聞いた話であれば、この事件の重要な鍵となる目撃談取材に関して長々と正確に書くはず。
アブラハム・シフリンとリサーチセンターの情報
KAL007で生き残った乗員乗客が救出された結果、サハリンKGB基地へ連行されたとシフリンは断定している。1983年9月4日までサハリン対岸のシベリヤ本土ソビエツカヤ・ガバンKGB基地へ連れて行かれた。その場所で男女と子供はグループに分けられ、男女はバイカル・アムール鉄道ティンダへ列車で運ばれた。乗員乗客がスパイと見なされていれば、シベリアの至る所にある収容所に拘置された。その収容所にはアメリカ人戦争捕虜と外国の囚人が収容されていた。ソビエトの収容所は、まわりに何も無く隔絶された人里離れた所にあった。囚人が捕虜収容所から解放されるとその付近で流刑生活を強要されます。外国の囚人は解放される事がありません。周りには村も無いのです。
KAL007乗客の子供たちは、ソビエツカヤ・ガバニSovetskaya Gavanの孤児院に10月末まで収容されていました。子供たちは、その後ウラジオストック、ノボシビルスク、オムスク、バルナウル、カザフスタンの孤児院に移動させらました。そのように子供たちを移動させた理由は、その地域の人種に同化させる事が目的でした。
マクドナルド議員は、ルビヤンカKGB収容所へ連行され隔離されました。覗き穴を通して観察される独房に入れられ、彼は何度もKGB第一総局長ウラジミール・クリュチコフに尋問されました。
<解説2>
ロシア収容所には約1000万人の人々が抑留されていると言われている。森林伐採、開墾、鉄道や鉄橋、建設物工事、石炭採掘、貨物荷物運びなどの重労働があり、労働時間数がロシア国民より多く、粗食のため栄養失調で死ぬ人も出ると言われている。
1997年、アブラハム・シフリンがソビエトの社会組織に関して多くの事を知った後、KAL007便の子供たちのほとんどは、中国とソ連の国境沿い「東洋人共和国」(モンゴル国北端ソビエト国境沿い居住区)に送られたでしょう。様々な人種地域に分散させる事によって外見的に目立つ事はなかった。1990年代後半まで、ソビエトには閉鎖された都市や村が存在していました。「軍の制限地域」と「民間人の居住区」は別々にあり、民間人の居住区は軍のように制限されていないため、ソ連には子供たちの拉致がありました。KAL007の子供たちは、他の乗員乗客や両親と別々に離されて生かされた可能性がありますとバート・シュロスバーグに語った。そのアブラハム・シフリンは、1998年に亡くなった。
1953年にスターリン暗殺未遂事件の嫌疑で投獄されたアブラハム・シフリンは、ルビヤンカ監獄で25日間、昼も夜も立ちっぱなしで尋問され続けた。尋問官は24時間6人交替、直立不動の姿勢で休憩時間も睡眠時間も無い。気を失い倒れると頭から水をかけられた。レフォルド監獄からブトイルギー監獄へ移され、罪状はアメリカとイスラエルのスパイとされていた。軍法会議の結果は、死刑判決だった。死刑執行時刻は毎日夜11時。死刑日が知らされず、毎晩、その時間に通る死刑執行官の靴音に耳を傾け、脅かされ続けた。しかし、25年間の強制労働に軽減された後、さらになぜか5年間の流刑と5年間の市民権剥奪へと減刑された。レフォルトボ監獄へ入監させられた時は、独房の床が深さ12cmの泥水で覆われ、その中で28日間しゃがんで眠った。ベット無しの独房だった。
※ 遺族の方や関係者の方は、左下の[コメントを書く]をクリックして、感想や相談等を入力してお知らせください。入力ミスの場合、ご自分で消去・修正ができます。
(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, 30 August 2009-2024.7.18-