アブラハム・シフリンの再調査-2(16)


アブラハム・シフリンとリサーチセンターの情報
 KAL007で生き残った乗員乗客が救出された結果、サハリンKGB基地へ連行されたとシフリンは断定している。1983年9月4日までサハリン対岸のシベリヤ本土ソビエツカヤ・ガバンKGB基地へ連れて行かれた。その場所で男女と子供はグループに分けられ、男女はバイカル・アムール鉄道ティンダへ列車で運ばれた。乗員乗客がスパイと見なされていれば、シベリアの至る所にある収容所に拘置された。その収容所にはアメリカ人戦争捕虜と外国の囚人が収容されていた。ソビエトの収容所は、まわりに何も無く隔絶された人里離れた所にあった。囚人が捕虜収容所から解放されるとその付近で流刑生活を強要されます。外国の囚人は解放される事がありません。周りには村も無いのです。
 KAL007乗客の子供たちは、ソビエツカヤ・ガバニSovetskaya Gavanの孤児院に10月末まで収容されていました。子供たちは、その後ウラジオストックノボシビルスク、オムスク、バルナウルカザフスタンの孤児院に移動させらました。そのように子供たちを移動させた理由は、その地域の人種に同化させる事が目的でした。
 マクドナルド議員は、ルビヤンカKGB収容所へ連行され隔離されました。覗き穴を通して観察される独房に入れられ、彼は何度もKGB第一総局長ウラジミール・クリュチコフに尋問されました。
<解説2>

  1. デッドヘッド(他の便の待機パイロットと交替職員)や添乗員たちが不時着水時の訓練を受け、ボーイング747の2Fが比較的安全という事を知っていれば、シートベルトを閉めて生存していた乗員乗客を着水前の水平飛行中、燃料タンクの爆発を避けるため、1F前列と2Fへ全員誘導させたのではないか。
  2. ボーイング機のフロアーの下のフレーム構造は特殊で、機体が折れても爆発して吹き飛んでも残るように軽く頑丈につくられているという事をパイロットと航空機関士たちは知っている。
  3. 2Fの天井に弾丸の穴が開いていたかが問題で、もし開いていなければ、ゲンナジー・オシポビッチが2Fの上を撃たなかったら、ボーイング機はしばらくの間、海面に浮いていた事になる。
  4. 海面上の炎の状態によるが、生存者が比較的多かった可能性もある。海水に浮いた油に火がついた場合、最初は勢いがあったとしても油の層が薄くならざるを得ないため、長くは燃え続けない。厳密には火が消える速度と水没の速度、海面の流れの速さなどの条件によって異なっている。
  5. KAL007乗員乗客の生存者がいるかどうかが、遺族とその関係者にとって最も重要な事で、ロシア漁民の目撃談だとKAL007の乗員乗客は無事救出され、トランクや荷物も運び出されたと繰り返し話している。不時着水時間の3時38分は暗い。爆発しなければ真っ暗闇であった。高度0メートル地点でレーダーから消えたソ連と日本の2つの基地の記録があるので、それをどのように解釈するか。1.着水するとレーダーから消えるか。2.ボーイングの2Fが海上に少し浮かんでいる状態は、レーダーに反応しないか。3.日本のイカ釣り船第58千鳥丸船員たちが見た爆発は、不時着水後のしばらく時間がたってからか。これらが生存に関わる重要な論点となる。目撃談には、時間まで細かく言われていなかった事がKAL007の生存者がいるかいないかの問題をこじれさせている。国境警備隊が到着した27分後の4時過ぎは、まだ真っ暗で見えなかったのではないか。その日は曇り空で霧が海上で発生していた。救出されたのは明るくなってからか、まだ暗いうちか。日本のイカ釣り船が目撃した爆発は、真っ暗な時刻だった。どちらの状況を信じるかと言われれば、イカ釣り船乗組員の話の方に信憑性があると思っている。そうであれば、爆発してもボーイング機は数十秒間沈まなかった事が可能性として考えられる。
  6. KAL007の生き残りがいるとすれば、1983年から1985年までアムール川沿いの強制収容所森林伐採の仕事をし、ペレストロイカが提唱された1985年以後、シベリア北西から北東の管理区域内の開拓地で、1人1人分配されるように別々に配置された。2人以上集まると事故当時の強い記憶が残され、他の軽い刑の民間の囚人に漏れる場合がある。1人の場合、孤独の中で事故当時の記憶とそれ以前の記憶が繰り返えされ、強い記憶となって残される。それ以前の記憶と事故当時の記憶は、ロシア政府にとって不都合なため、さらにロシアに同化させるため、可能な限り細かな事まで聞き取った後は、催眠術で甦生されないように薬と脳手術で物理的に抹消されている。その考え方と方法はブラックボックスのボイステープと全く類似している。乗客の国籍が中小国であれば、移民団か移住扱いにされ、外科的に記憶が消されていない人も職種や待遇の違いによってある。その場合は、帰国せず以前の事に関して口外しない事を条件としている。
  7. アブラハム・シフリンの乗員乗客生存説が主張された後、ゲンナジー・オシポビッチがミサイルを発射する前に「2連射を撃った」という報告から「徹甲弾243発を撃った」とさらに細かく言い直した。彼の判断によれば、「民間機を装ったスパイ機乗員」としてシフリンと同じように扱われた可能性もあり、書面上の事務的な分類とその事後処置を考えると、ロシアの捕虜収容所へ送られた話を否定することはできない。強制労働収容所と精神矯正収容所には、イスラエル人やアメリカ人、他の国々からの戦争捕虜、軍人や民間人が多く、成人以上であれば同じように扱われる。しかし、パスポートと所持品があればスパイ行為の証拠がないので、処置が軽減され、活動範囲が制限されているか、あるいは最初の処置内容を訂正できない場合、戦時下民間人捕虜と同じにされていることも考えられる。
  8. ロシア収容所には約1000万人の人々が抑留されていると言われている。森林伐採、開墾、鉄道や鉄橋、建設物工事、石炭採掘、貨物荷物運びなどの重労働があり、労働時間数がロシア国民より多く、粗食のため栄養失調で死ぬ人も出ると言われている。
  9. 1997年、アブラハム・シフリンがソビエトの社会組織に関して多くの事を知った後、KAL007便の子供たちのほとんどは、中国とソ連の国境沿い「東洋人共和国」(モンゴル国北端ソビエト国境沿い居住区)に送られたでしょう。様々な人種地域に分散させる事によって外見的に目立つ事はなかった。1990年代後半まで、ソビエトには閉鎖された都市や村が存在していました。「軍の制限地域」と「民間人の居住区」は別々にあり、民間人の居住区は軍のように制限されていないため、ソ連には子供たちの拉致がありました。KAL007の子供たちは、他の乗員乗客や両親と別々に離されて生かされた可能性がありますとバート・シュロスバーグに語った。そのアブラハム・シフリンは、1998年に亡くなった。

 1953年にスターリン暗殺未遂事件の嫌疑で投獄されたアブラハム・シフリンは、ルビヤンカ監獄で25日間、昼も夜も立ちっぱなしで尋問され続けた。尋問官は24時間6人交替、直立不動の姿勢で休憩時間も睡眠時間も無い。気を失い倒れると頭から水をかけられた。レフォルド監獄からブトイルギー監獄へ移され、罪状はアメリカとイスラエルのスパイとされていた。軍法会議の結果は、死刑判決だった。死刑執行時刻は毎日夜11時。死刑日が知らされず、毎晩、その時間に通る死刑執行官の靴音に耳を傾け、脅かされ続けた。しかし、25年間の強制労働に軽減された後、さらになぜか5年間の流刑と5年間の市民権剥奪へと減刑された。レフォルトボ監獄へ入監させられた時は、独房の床が深さ12cmの泥水で覆われ、その中で28日間しゃがんで眠った。ベット無しの独房だった。