KAL007事故後の作業(3)

KAL007事故後の作業(その3)
   

  1. ミハイル・ミルチンク号(The Mikhail Merchink)はモネロン島北26kmの所でKAL007の回収作業をしていたのは事実として記録されている。潜水艇2隻とダイバーたちによって19箇所で潜水作業を行っていた。スウェーデン製石油掘削船ミルチンク号は、KAL007が撃墜されてから、海上で爆発したとされている中心位置から爆発によって吹き飛んで海中で流された破片を回収していた。
  2. 9月10日からミルチンク号の上級アシスタントとして働いたアンドリービッチ・アレェッシェンコは、「ミルチンクが到着した時は予定が既に組まれ、事実としては、飛行機の海底捜査と修復の仕事が海軍に割り当てられました。その時は、防空軍が中立地帯で標的を撃ち、粉々にしたという事を聞いていました」。
  3. 「ミルチンク号は、撃ち落された座標を知らされていましたが、非常に広範囲なため、しばらくの間、海底を探すしかありませんでした。その間に海軍は漁業用トロールネットを使用して、海底を探っていました。実際、航空機の部分や破片を拾い上げました。その後、水没した飛行機を1.5kmソ連側(南側)へ引きずり、それらの功績のために軍隊からメダルと記念品が贈られました」
  4. 「10〜20隻のソ連漁船とトロール船がミルチンク号の周りで、網を海中で引っ張り、櫛をすくように隙間なく丹念に流出物を集めましたが、重い砂の泥が引っかかりはしたものの、魚も何も網にかかりませんでした」
  5. 回収作業で依頼されたソ連海軍と民間人に賃金が支払われた際、「この仕事に関してあまり多くを語らないように」と指示されていた。仕事が終了した後、一人一人に実際そのように言われたという事をダイバーはインタビューで報告している。目撃者の話が断片的なのはそのためで、残りは新聞記事、報告書やリポートなどによって知らされている。
  6. ソ連軍隊は、退職後共済年金で暮らしているので、内部秘密は退職後も外部へ洩らさないように言われている。入隊や新任の時に文書で公務規則として契約をしている。そのため、緊急の仕事が機密といわれれば、それを守らざるを得ない。社会主義国では、それを破ると支給額が減額されたり、給付されない場合もある。この事件は、9月1日から9日、海軍機動部隊や海軍ダイバーによって仕事が行われ、機密事項として外部へ洩れなかった。イズベスチア特派員は、臨時に増員されたソ連民間人から聞いた話をもとにしている。
  7. KAL007の着水爆発地点とミルチンク号の作業位置は、ソ連領海に近い国際水域だった。その場所は、9月1日か2日に到着した日本船・韓国船・アメリカ船・他国の救助船から見える位置だった。
  8. 第58千鳥丸船員の話では、ドカーンという音が届く距離の大爆発だった。その爆発によってボーイング機の窓ガラスと非常口が吹き飛び、乗員乗客もちりじりに吹き飛んだはずだが、その規模であれば、機体の下の壁が剥がれて飛ぶ。燃料タンクは、両翼の中心の機体下部にあり、少し浮いた状態で海面下で爆発した。そのため爆発が少し鈍く水中爆発の状態だったと考えられる。さらにボーイングのフロアと機体下の構造がブロックで仕切られ、燃料タンクの爆発に耐えられるような特殊な構造と素材を使用していた。一般的には、その規模の爆発で機体が完全に残っている事は有り得ない。しかし、燃料の飛び散り方に距離があったため、燃え方が激しく素早く消えた。その爆発で生き残れる座席は、両翼から前の席と2Fだけだった。生存者によって消火器が使用されたかも知れない。そのボーイング機は、海上での火事とともに数分で沈み、海面の油も燃え尽きてボーイングの水没後すぐに消えたと推測される。
  9. スウェーデン製ミルチンク号の北側真近かで日本の救助船が錨を下ろそうとした時、緊張が走り、他のソ連船(国境警備艇)がぶつかってきました。
  10. 外国船は私たちソ連側の領海に入って来ました。アメリカのフリゲート艦は私たちの船に接近し、かろうじて避ける事ができました。私は「オリオン号」とほとんど衝突のような状態でした。
  11. 海上でのあらゆるトラブルは、ソ連側では12マイルを主張し、他国船は11マイルを主張したため、その間で発生しました。海上で何かを見つけた時、それを隠し他国船に見えないようにカバーしました。


ヘリコプター発着所付きアメリ巡洋艦

  1. アメリカをはじめとする他の国の船は、ハイドロ音響のトランスミッションを放ち、プロペラのノイズ騒音のため、ソナー機器で仕事ができないようにされました。
  2. オレンジ色のブイなども海上に漂っていました。
  3. ソ連領空であればモネロン島から26km、ミルチンク号は中立領域で作業をしていた。KAL007がソ連船に曳航されていた写真は、その時に撮影されたもので、ソ連側にしてみれば、他国に干渉されないように海面に浮いた状態のKAL007を移動しなければならなかった。ミルチンク号が作業した場所は、英国式だと海域としてはソ連領で、空域としては中立領域にあり、マイル(1.609344km)と航海マイル(1.852km)は距離が異なっているが、それを一緒にしていた事が問題となる海域だった。ソ連式地図では、緯度経度の単位が英国式と異なっているため距離単位にズレが生じる。ソ連では領空と領海を一緒にしている。しかし、英国式だと、マイルと航海マイルの単位を別々にしている煩雑さがある。
  4. ソ連海軍とその民間ダイバーの間で、時間と場所が離れていた理由があり、ソ連海軍の場合は、領海から出た場所で作業することができなかった。この事件の時は、モネロン島とサハリン沿岸から12航海マイル22.224km以内をソ連領としていた。
  5. 最も肝心なKAL007の最初の着水地点がどこか、肝心な事が明確に公表されていずソ連側は9月1から9月10日までの作業情況を意図的に隠している。しかしミルチンク号の作業場所「46"27N,141-13E」が、着水爆発地点の位置と方角としての可能性はある。第58千鳥丸の目撃地点から約14km(or 3〜4km)南という位置が、爆発音や灯油のすごい匂いが届く距離ということで一致している。最初のKAL007着水爆発地点であれば、この辺りの海の底に沈んでいた乗員乗客の遺体が最も多かったに違いない。
  6. 9月10日以後、モネロン島北北東、水深178mの場所で作業していたダイバーたちは、「この海の底が墓場であることを知っていたが、遺体はほとんど無かった」「見なかった事にしている」「10回も遺体部分を見つけた」など、以外に少なかった事を告げている。
  7. 事実として言える事は、海上で燃料タンクが大爆発した後、海面に灯油(灯油から精製されたケロシン燃料)が浮き、一瞬の間に火が燃え移った。その時まで生存していた乗員乗客のうち、2Fと前席の非常口を開けた。同時に窒素ガスによる脱出用シューターが膨らんだが、それにも火が移り、消火器を使うしか手立ては無かった。炎と呼吸困難に耐え切れず火の海の中に飛び込んみ、海面に浮いていた油により窒息と同時に焼死した。救命胴衣は燃えたため浮き袋にはならず、海底に沈んだまま南へ流された。生存者がいないというのは、そのためとしか考えようがない。
  8. KAL007の機体の中にいた人が少なく貨物が無かったのであれば、「スパイ機のためだ」と言われれば、「そうかも知れない」と誰でも思わざるを得ない。ダイバーにとって民間機かスパイ機かという事に干渉する必要もなく、残されていた遺体の収容に関して海軍ダイバー以外何も指示されていなかった。KAL007機内には遺体が少なく、貨物は無かったという状態が報告された。
  9. しかし、モネロン島で捜査作業をしていた海軍機動隊には、流れ着いた遺品や死体などから民間機かも知れないという疑惑があった。モスクワの参謀本部KGBへは捜査事実としての証拠写真や報告書だけが届けられ、9月9日の時点で、それらの資料からはっきりした答えを出せなかった。ソ連側では政権が不安定な時期であったため、ニコライV・オガルコフ参謀長の報道会見で、あらかじめソ連海軍や作業船に伝えていた通り、オシポビッチ空軍少佐のスパイ機説を選択し、その報道会見後、モネロン島での海軍機動部隊による捜査報告書を封印した。
  10. 操舵室内に設置されてあった発信機付きブラックボックスは、コクピット・ボイス・レコーダー(CVR)と通過地点のフライト・データ・レコーダー(FDR)があり、KAL007のパイロットによる12分間の機内会話と通過地点でデータが記録されていた。そのふたつはソ連側で回収して解析し、スパイ機ではない反証となる理由で飛行データ記録と会話内容を隠していた。他のボイステープはバディム・コンドラバエブ(プロダイバー)により9月15日海底で発見された。さらにブラックボックスの指示書なども、サハリンの地元人によって後から海底で見つけられた。ソ連側が持っていたフライトデータとボイステープで十分立証できるものであった。
  11. ブラックボックスの発信機は、9月1日から30日間、機体が壊された後も海の底で鳴り続けていたと言われているが、おとりとして他の場所の海底にいくつかのブラックボックスが沈められていた。
  12. 日本領の海面からは韓国人9人の遺体、ソ連領海面からは1体も発見されず、乗員乗客269人中213人分の靴(片方だけを含む)や履物が、ソ連領の海上とサハリン西海岸、及びモネロン島沿岸で発見され返還された。トランクにしまった予備の靴も含まれている213人分の靴は、確かにKAL007便の乗員乗客のものであるという事が確認されている。残り56人分の靴はどこへ行ったか。後部座席で乗員乗客と一緒に吹き飛んだか、海底に沈んだという事などが推測される。日本側の新聞によれば、韓国人9遺体と遺品、海面に浮いて流れ着いた飛行機の部分は、すべて韓国へ引き渡された。

脚注9:9月1日の朝は「なんてことをしてくれるんだ。あれは民間機だったんだぞ」という無線会話もアメリカ側日本側で傍受録音されていた。それはロマネンコ少将(KGB職員)からソコル防空軍コルヌコフ司令官(当時大佐)への通達で、ロマネンコ少将は9月2日翌日からモネロン島北側の浜にテントを張り、島付近の海上から収集された遺体、物品やゴミなどを調べ始めていた。その後、モスクワ本部へ状況報告書を提出するが、9月4日と5日にソ連海軍大型トロール船ゲオリギ・コズミン(サハリン島西側対岸Sovetskaya Gananソビエツカヤ・ガバニ地区の海軍が主に乗船していた全長はジャンボジェット機約70mの2倍)の網にかかり、浮上させ、第2地点へ曳航して爆破するまでの間、残りのブラックボックスを取り出すのを忘れていたためにオガルコフ総参謀長(元帥)から散々叱責された。事故現場状況と乗員乗客が民間人であった事を十分知っていたロマネンコ少将は、韓国の民間機ボーイング747だった事実を「報告書」で主張したため、その後「精神矯正収容所」に収容される事となった。ソ連政府としては、「領空侵犯機を撃墜し、スパイ機であった」と即日国内放送済みで、6日にモスクワの国際記者会見席で正式に発表し、世界全国に放送された内容を訂正する事は出来ず、収集された物品が民間機の物であっても「民間機を装ったスパイ機で、機内には誰もいなかった」と主張し、自由主義・資本主義国に対抗するしかなかった。

脚注10:朝日新聞特派員の取材によれば、サハリン西海岸の小さな漁村に住む女性は、「南サハリン西海岸の住民たちは、撃墜されたのは民間機で、スパイ機ではないという事を誰もが知っていた。しかし、当時のソ連政府(秘密警察)が怖くて、あの事件について誰も話す人がいなかった」と、伝えていた。
ソ連の秘密警察(チェッカー)は、KGB(国家保安委員会)とともに1991年ボリス・エリツィンの時代に解体され、FSB(連邦保安庁)とSVR(対外諜報庁)に2分された。1983年9月1日の事件当時、私服姿の秘密警察と密告制度が現存し、この事件について告白する者がいれば、精神矯正収容所か強制労働収容所へ連行された。また、年金額を減らされたり、給付されなくなる等の処罰があった。

 「ソコル防空軍基地コルヌコフ司令官の上司カメンスキー中将インタビュー2001年」
 1983年春、アメリカ海軍USSミッドウェイは千島列島に近づき、その航空機はソビエト国境を越えてソビエト領空に深く入り込んだことがありました。その時、ソビエト防空戦闘機は濃霧のために飛行場からスクランブルできませんでした。その結果、この事件を調査するためにモスクワからソ連国家保安委員会が2回来ました。この騒ぎによって、かなりの数の海軍と防空軍高官が懲戒処分されました。私の共産党登録カードの記録「スクランブル時の不十分な行動」によって、私の過ちを指摘するという罰を受けました。

 1983年9月1日、アメリカ合衆国の RC-135偵察機オホーツク海のサハリンに向かい、カムチャッカ半島を通過してソ連国境を越えたと報告しました。 「それで終わりです。終わりが何であろうと、今は逃げられない」。

 午前4時を少し過ぎ、車に入る準備をしているときに、誰かが私の名前を呼んでいるのを聞きました。私と一緒に行くことを決めたのは防空軍司令官でした。車に乗ると、背の高い韓国人男性がドアの前に現れました。朝早くまだ暗い時間に彼はどこから来たのだろうか。その男は、自分の車で、「新しく募集した兵隊たちを運動場に運ぶドライバーです」と説明した。彼は道に迷い、助けてくれないかと尋ねました。これを、まだ起こっていないことの奇妙な前兆として、しばしば思い出します。
 業務担当の役員は、状況報告書を作成し、私たちは1時間以上の意思決定に時間をかけ、高い警戒態勢を取りました。その時、RC-135がレーダーに現れました。距離450km。 SU-15 TMとMIG-23の戦闘機が緊急発進しました。 SU-15戦闘機がリーダーでした。ソ連防空軍側の誰もが、その侵入機が米国の偵察機であることを確信していました。実際、RC-135とボーイング747はまったく同じに見えます。唯一の違いは、747の胴体の「こぶ」です。この違いはレーダー画面では観察できず、視覚的に識別するのが困難です。これらのイベントの参加者として、地元防空部隊の司令官が状況を明らかにするために、あらゆる努力をしたことを強調したいと思います。 SU-15TMのパイロットであるオシポビッチ少佐は、地上管制官に次のように報告しました。「エンジンからの白い排気ガスで巨大な飛行機のシルエットが見えます」。地上管制官は、「客室の窓が見えますか?」と尋ねました。彼の答えは「いいや見えない」でした。夜間だったため、乗客は眠っていたはずで、窓の日よけは閉じられました。あとでボーイングの航行灯が点灯していなかったことが報告されました。ある新聞記事のタイトルは「航行灯無しで飛行したボーイング」でした。これは真実ではありませんでした。ボーイングのライトは点灯していましたが、ほとんど違いはありませんでした。 RC-135は、民間機の偽装で点灯している場合があります。迎撃機のパイロットは、警告射撃をするように命じられました。オシポビッチが警告射撃を開始すると、飛行機は急上昇しました。 「標的は回避行動を開始しました」と迎撃機のパイロットは報告しました。地上管制官は標的を破壊する命令を出しました。もしオシポビッチが熟練したパイロットでなければ、RC-135は逃げていたはずです。しかし、彼は戦闘機を操縦し、ミサイルを発射することができました。ミサイルの1つは侵入機の左エンジンに当たり翼を破壊し、もう1つは後ろの尾の近くで爆​​発しました。 ボーイングはスパイラル降下しました。巨大な航空機は「14分以内に11000メートルの高度から落ちました」。飛行機が水面に当たった時、固い爆発が起こり、飛行機はバラバラに吹き飛ばされました。旅客機の残骸はソ連の海軍トロール船によって散乱させられました。

 サハリン上で旅客機が墜落したことは、日本テレビ局の報道によってソビエト軍に知らされました。 269人の乗客と乗組員を乗せたアンカレッジ経由でニューヨークからソウルに向かう途中のボーイング航空機が到着時に行方不明になり、多くの日本人観光客が飛行機に乗っていたことが報告されました。また、新聞には、飛行機がソビエト軍の飛行場に緊急着陸したことが記載されていました。
 これらのことを聞いた時、カメンスキーは、事故の朝に韓国人に見えるドライバーに会う事は、実際には悪い前兆だと思いました。当時、ジョージ・シュルツ国務長官は、ボーイングソビエト防空によって撃墜されたという報道について、米国のインテリジェンス報道機関に声明を発表しました。それから、ロナルド・レーガン米国大統領は、世界中の人々がこの事件にショックを受けたと言っていました。日本では、プロテスタントによって赤い旗が大通りで焼かれました。ソビエトの公式新聞パルブダは、ソビエト防空軍戦闘機が日本海の方に向かった未確認の飛行機を追跡したという結果を報告しました。 TASS(ソビエト公式報道機関)の声明によると、迎撃戦闘機は侵入機に警告射撃をした。ソ連戦闘機のパイロットと防空軍基地の無線は日本の自営隊に録音され、国連セッションで公開されました。この観点から見ると、韓国の飛行機は冷酷に撃墜されたように見えました。モスクワの政府当局は、その飛行が「前例のない軍拡競争」を目的とした「巧妙な挑発」であると述べ、9月6日までに銃撃の事実を確認しました。モスクワのソ連当局は、米国と韓国がスパイ任務で民間航空機を使用していると非難しました。
 その時点では、飛行機からブラックボックスが見つかった後に、最終的な判断ができることは明白でした。ソビエトアメリカ軍艦は、墜落した可能性のある地域付近に集中し始めます。事故の夜にSU-15戦闘機がスクランブルしたソコル防空軍飛行場の近くで、韓国人のような男性が、オシポビッチに質問していたところを見ました。それから彼は急に転送されました。本土へ彼を輸送するには、Ilyshin Il-76航空機が使用されました。事故の夜のMIG-23パイロットもすぐに転送されました。
 事故直後に墜落現場で女性の手が見つかりました。韓国旅客機のスチュワーデスが落下中にシートハンドルをつかまえていたかもしれないと仮定されました。浮かんでいた遺体は見つかりませんでした。約30足の男性と女性の靴、子供用の靴が見つかりました。
 1983年9月、潜水艇を装備したソビエトの魚類探知船がウラジオストックの港に待機し、燃料補給が遅れたために待っていました。 9月8日、船の近くの停泊地に数台の黒い車が現れました。軍服を着て黒い車に乗った人たちは船長と話をし、翌日、船は港を出てタタール海峡に向かいました。
 
 私たちの任務はボーイングの残骸の位置を突き止めることだということを最初から知っていました。ブラックボックスは実際にはオレンジ色に塗られた箱だと彼らは言いました。下部に表示されているシールについては、無線で報告していました。作業は150から400メートルの深さで行われていました。ソビエト軍の専門家は、このあたりの米国と日本の捜索をだますために、特別な無線コードを考案しました。飛行機のすべての部分およびその他の関連する物には、魚種のコード名を付けました。 「ゴビウス」は「人間の遺体」に使用されました。実際、コードワードが原因で愚かな状況が複数回発生しました。
 ある時、私は海底に人間の手を見ました。ある時、数ドルのお金が海底に散らばっていました。また、荷物、おもちゃ、いくつかの救命胴衣も見ました。海底にたくさんの毛皮の皮がありました。 17回潜水しましたが、ブラックボックスは見つかりませんでした。それらはあとでムルマンスクからから来たダイバーによって見つけられました。私たちが現場に来る前に、陸軍の専門家が、漁師の船に墜落現場を捜索する事を頼んだ事は正しくなかったと思います。漁師たちのトロール網は、海底の残骸を広範囲に撒き散らしました。
 その後、韓国のジャンボジェットの事故について、いくつかの異なる解釈が与えられました。
 オシポビッチは赤い旗の勲章で飾られ、事故の夜、作戦に当たっていた役員は赤い星の勲章で飾られました。他の参加者たちは、給料とボーナスを受け取りました。  KGBは、事故に関連するすべての文書と資料を廃棄し捨てました。残ったのは、地上管制官と迎撃パイロットの間の通信のテープだけでした。
 飛行機の乗員乗客の身に何が起こったのかはまだ謎です。ロケットが爆発した直後の理論によると、ジャンボの機首と尾部が落ち、胴体の中央が風洞のようなものになったため、人々はそこから吹き飛んで海面に落ちた。一部の遺体は、その地の海域で捜索作業中に発見されました。爆発後に機内の人々に実際に何が起こったのかという質問には、明確な答えはありません。

 1992年、ロシアのボリス・エリツィン大統領は韓国訪問の準備をしていました。韓国ボーイング747との事故を再調査するために、大統領の命令の下に特別委員会が結成されました。
 私は調査チームのメンバーでした。ヴァレリ・カメンスキーはブラックボックス・レコーダーからのデータを含め、利用可能なすべての証拠を徹底的に調査した後、一連の悲劇的な出来事は、カムチャッカ半島の近くを周回する米国RC-135から始まりました。それはソビエトのレーダー基地によって追跡され、その後見失いました。航空機が実際に偵察任務であったという事実は、地上管制官との無線通信によって確認されました。 RC135がレーダー画面から消えると、韓国輸送機の跡が現れました。偶然か、誰かの意図なのか判りませんでした。それに加え、離陸後すぐに韓国の飛行機が地上管制局との無線接続を失い、さらに飛行中にその位置報告が航空会社の他の飛行機のパイロットによって転送されたことが明らかになりました。オシポビッチの攻撃の数秒前、韓国パイロットは日本の地上管制と無線で連絡を取り、その時点で飛行高度を変更する許可を希望しました。許可されてからのジャンボジェットの上昇は戦闘機パイロットによって回避行動として理解されました。ソウルへの到着時間のキャビンアナウンスは、ミサイルの衝突の数秒前にフライトレコーダーのテープで聞かれ、その後、ミサイルが飛行機に衝突した後、パイロットが気づいたキャビンの圧力低下に関する叫び声と「減圧」。テープの終わり近くでノイズが聞こえました。
 ボーイングは、自動操縦装置が可能なコンパスに接続されていたために迷ったことも報告されています。 また、国際線からソビエト国境方向への韓国飛行機による逸脱は、ソビエト軍の重要施設の上空を飛行するため意図的に行われたものとして調査官によって理解されました。
 1993年にロシア、米国、韓国、フランスの専門家が参加したICAOによる事故調査について、いくつかの言葉を述べるべきです。ICAOの結論は、「韓国パイロットが適切な航海手順に従わなかった」ということでした。 」および「飛行中の5時間以内に事前に計画されたルートからの航空機の逸脱」を認識していなかった。「フライトデッキでの活動の低レベルの認識と調整」 。
 
 ウクライナは現在独立国家であるため、主権空域への進路をそれた旅客機が撃墜される可能性はありますか? –ウクライナ防空部長への私の最後の質問でした。発生する可能性のある状況をリアルタイムでクリアするために、近隣の州と24時間連絡を取り続けます。隣人は誰も、ウクライナに対する偵察任務や空軍準備に関与していません。私たちの任務は、国境を隣国と協力して保護することです。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side/Free Document Lisence, 1 September 2009-2012-