KAL007事故後の作業(3)
ミハイル・ミルチンク号(The Mikhail Merchink)はモネロン島北26kmの所でKAL007の回収作業をしていたのは事実として記録されている。潜水艇2隻とダイバーたちによって19箇所で潜水作業を行っていた。スウェーデン製石油掘削船ミルチンク号は、KAL007が撃墜されてから、海上で爆発したとされている中心位置から爆発によって吹き飛んで海中で流された破片と貨物十数個を回収していた。
9月10日からミルチンク号の上級アシスタントとして働いたアンドリービッチ・アレェッシェンコは、「ミルチンクが到着した時は予定が既に組まれ、事実としては、飛行機の海底捜査と修復の仕事が海軍に割り当てられました。その時は、防空軍が中立地帯で標的を撃ち、粉々にしたという事を聞いていました」。
「ミルチンク号は、撃ち落された座標を知らされていましたが、非常に広範囲なため、しばらくの間、海底を探すしかありませんでした。その間に海軍は漁業用トロールネットを使用して、海底を探っていました。実際、航空機の部分や破片を拾い上げました。その後、トロール船ゲオリギ・コズミンで水没した飛行機を1.5kmソ連側(南側)へ引きずり、他国船の干渉を避けました」
「10〜20隻のソ連漁船とトロール船がミルチンク号の周りで、網を海中で引っ張り、櫛をすくように隙間なく丹念に流出物を集めましたが、重い砂の泥が引っかかりはしたものの、魚も何も網にかかりませんでした」
回収作業で依頼されたソ連海軍と民間人に賃金が支払われた際、「この仕事に関してあまり多くを語らないように」と指示されていました。仕事が終了した後、一人一人に実際そのように言われたという事をダイバーはインタビューで報告しました。目撃者の話が断片的なのはそのためで、残りは新聞記事、報告書やリポートなどによって知らされている。
ソ連軍隊は、退職後共済年金で暮らしているので、内部秘密は退職後も外部へ洩らさないように言われている。入隊や新任の時に文書で公務規則として契約をしている。そのため、緊急の仕事が機密といわれれば、それを守らざるを得ない。社会主義国では、それを破ると支給額が減額されたり、給付されない場合もある。この事件は、9月1日から9日、海軍機動部隊や海軍ダイバーによって仕事が行われ、機密事項として外部へ洩れなかった。イズベスチア特派員は、臨時に増員されたソ連民間人から聞いた話をもとにしている。
KAL007の着水爆発地点とミルチンク号の作業位置は、ソ連領海に近い国際水域だった。その場所は、9月1日か2日に到着した日本船・韓国船・アメリカ船・他国の救助船から見える位置だった。
第58千鳥丸船員の話では、ドカーンという音が届く距離の大爆発だった。その爆発によってボーイング機の窓ガラスと非常口が吹き飛び、乗員乗客もちりじりに吹き飛んだはずだが、その規模であれば、機体の下の壁が剥がれて飛ぶ。燃料タンクは、両翼の中心の機体下部にあり、少し浮いた状態で海面下で爆発した。そのため爆発が少し鈍く水中爆発の状態だったと考えられる。さらにボーイングのフロアと機体下の構造がブロックで仕切られ、燃料タンクの爆発に耐えられるような特殊な構造と素材を使用していた。一般的には、その規模の爆発で機体が完全に残っている事は有り得ない。しかし、燃料の飛び散り方に距離があったため、燃え方が激しく素早く消えた。その爆発で生き残れる座席は、両翼から前の席と2Fだけだった。生存者によって消火器が使用されたかも知れない。そのボーイング機は、海上での火事とともに数分で沈み、海面の油も燃え尽きてボーイングの水没後すぐに消えたと推測される。
スウェーデン製ミルチンク号の北側真近かで日本の救助船が錨を下ろそうとした時、緊張が走り、他のソ連船(国境警備艇)がぶつかってきました。外国船は私たちソ連側の領海に入って来ました。アメリカのフリゲート艦は私たちの船に接近し、かろうじて避ける事ができました。私は「オリオン号」とほとんど衝突のような状態でした。海上でのあらゆるトラブルは、ソ連側では12マイルを主張し、他国船は11マイルを主張したため、その間で発生しました。海上で何かを見つけた時、それを隠し他国船に見えないようにカバーしました。
アメリカをはじめとする他の国の船は、ハイドロ音響のトランスミッションを放ち、プロペラのノイズ騒音のため、ソナー機器で仕事ができないようにされました。オレンジ色のブイなども海上に漂っていました。
ソ連領空であればモネロン島から26km、ミルチンク号は中立領域で作業をしていた。KAL007がソ連船に曳航されていた写真は、その時に撮影されたもので、ソ連側にしてみれば、他国に干渉されないように海面に浮いた状態のKAL007を移動しなければならなかった。ミルチンク号が作業した場所は、英国式だと海域としてはソ連領で、空域としては中立領域にあり、マイル(1.609344km)と航海マイル(1.852km)は距離が異なっているが、それを一緒にしていた事が問題となる海域だった。ソ連式地図では、緯度経度の単位が英国式と異なっているため距離単位にズレが生じる。ソ連では領空と領海を一緒にしている。しかし、英国式だと、マイルと航海マイルの単位を別々にしている煩雑さがある。
ソ連海軍とその民間ダイバーの間で、時間と場所が離れていた理由があり、ソ連海軍の場合は、領海から出た場所で作業することができなかった。この事件の時は、モネロン島とサハリン沿岸から12航海マイル22.224km以内をソ連領としていた。
最も肝心なKAL007の最初の着水地点がどこか、肝心な事が明確に公表されていずソ連側は9月1から9月10日までの作業情況を意図的に隠している。しかしミルチンク号の作業場所「46"27N,141-13E」が、着水爆発地点の位置と方角としての可能性はある。第58千鳥丸の目撃地点から約14km(or 3〜4km)南という位置が、爆発音や灯油のすごい匂いが届く距離ということで一致している。
9月10日以後、モネロン島北北東、水深178mの場所で作業していたダイバーたちは、「この海の底が墓場であることを知っていたが、遺体はほとんど無かった」「見なかった事にしている」「10回も遺体部分を見つけた」など、以外に少なかった事を告げている。
事実として言える事は、海上で燃料タンクが大爆発した後、海面に灯油(灯油から精製されたケロシン燃料)が浮き、一瞬の間に火が燃え移った。その時まで生存していた乗員乗客のうち、2Fと前席の非常口を開けた。同時に窒素ガスによる脱出用シューターが膨らんだが、それにも火が移り、消火器を使うしか手立ては無かった。炎と呼吸困難に耐え切れず火の海の中に飛び込んみ、海面に浮いていた油により窒息と同時に焼死した。救命胴衣は燃えたため浮き袋にはならず、海底に沈んだまま南へ流された。生存者がいないというのは、そのためとしか考えようがない。
KAL007の機体の中にいた人が少なく貨物が無かったのであれば、「スパイ機のためだ」と言われれば、「そうかも知れない」と誰でも思わざるを得ない。ダイバーにとって民間機かスパイ機かという事に干渉する必要もなく、残されていた遺体の収容に関して海軍ダイバー以外何も指示されていなかった。KAL007機内には遺体が少なく、貨物は無かったという状態が報告された。
しかし、モネロン島で捜査作業をしていた海軍機動隊には、流れ着いた遺品や死体などから民間機かも知れないという疑惑があった。モスクワの参謀本部とKGBへは捜査事実としての証拠写真や報告書だけが届けられ、9月9日の時点で、それらの資料からはっきりした答えを出せなかった。ソ連側では政権が不安定な時期であったため、ニコライV・オガルコフ参謀長の報道会見で、あらかじめソ連海軍や作業船に伝えていた通り、オシポビッチ空軍少佐のスパイ機説を選択し、その報道会見後、モネロン島での海軍機動部隊による捜査報告書を封印した。
操舵室内に設置されてあった発信機付きブラックボックスは、コクピット・ボイス・レコーダー(CVR)と通過地点のフライト・データ・レコーダー(FDR)があり、KAL007のパイロットによる12分間の機内会話と通過地点でデータが記録されていた。そのふたつはソ連側で回収して解析し、スパイ機ではない反証となる理由で飛行データ記録と会話内容を隠していた。他のボイステープはバディム・コンドラバエブ(プロダイバー)により9月15日海底で発見された。さらにブラックボックスの指示書なども、サハリンの地元人によって後から海底で見つけられた。ソ連側が持っていたフライトデータとボイステープで十分立証できるものであった。
ブラックボックスの発信機は、9月1日から30日間、機体が壊された後も海の底で鳴り続けていたと言われているが、おとりとして他の場所の海底にいくつかのブラックボックスが沈められていた。
日本領の海面からは韓国人9人の遺体、ソ連領海面からは1体も発見されず、乗員乗客269人中213人分の靴や履物が、ソ連領の海上とサハリン西海岸、及びモネロン島沿岸で発見され返還された。トランクにしまった予備の靴も含まれている213人分の靴は、確かにKAL007便の乗員乗客のものであるという事が確認されている。残り56人分の靴はどこへ行ったか。後部座席で乗員乗客と一緒に吹き飛んだか、海底に沈んだという事などが推測される。日本側の新聞によれば、韓国人9遺体と遺品、海面に浮いて流れ着いた飛行機の部分は、すべて韓国へ引き渡された。
9月1日の朝は「なんてことをしてくれるんだ。あれは民間機だったんだぞ」という無線会話もアメリカ側日本側で傍受録音されていた。それはロマネンコ少将(KGB職員)からソコル防空軍コルヌコフ司令官(当時大佐)への通達で、ロマネンコ少将は9月2日翌日からモネロン島北側の浜にテントを張り、島付近の海上から収集された遺体、物品やゴミなどを調べ始めていた。その後、モスクワ本部へ状況報告書を提出するが、9月4日と5日にソ連海軍大型トロール船ゲオリギ・コズミン(サハリン島西側対岸ソビエツカヤ・ガバニ地区の海軍が主に乗船していた全長はジャンボジェット機約70mの2倍)の網にかかり、浮上させ、第2地点へ曳航して爆破するまでの間、残りのブラックボックスを取り出すのを忘れていたためにオガルコフ総参謀長(元帥)から散々叱責された。事故現場状況と乗員乗客が民間人であった事を十分知っていたロマネンコ少将は、韓国の民間機ボーイング747だった事実を「報告書」で主張したため、その後「精神矯正収容所」に収容される事となった。ソ連政府としては、「領空侵犯機を撃墜し、スパイ機であった」と即日国内放送済みで、6日にモスクワの国際記者会見席で正式に発表し、世界全国に放送された内容を訂正する事は出来ず、収集された物品が民間機の物であっても「民間機を装ったスパイ機で、機内には誰もいなかった」と主張し、自由主義・資本主義国に対抗するしかなかった。
朝日新聞特派員の取材によれば、サハリン西海岸の小さな漁村に住む女性は、「南サハリン西海岸の住民たちは、撃墜されたのは民間機で、スパイ機ではないという事を誰もが知っていた。しかし、当時のソ連政府秘密警察が怖くて、あの事件について誰も話す人がいなかった」と、伝えていた。
ソ連の秘密警察(チェッカー)は、KGB国家保安委員会とともに1991年ボリス・エリツィンの時代に解体され、FSB(連邦保安庁)とSVR(対外諜報庁)に2分された。1983年9月1日の事件当時、私服姿の秘密警察と密告制度が現存し、この事件について告白する者がいれば、精神矯正収容所か強制労働収容所へ連行された。また、年金額を減らされたり、給付されなくなる等の処罰があった。
(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, 2009-2024.7.16-