KAL007の爆発と千鳥丸船(43)


 夜明け前にモネロン島北27km〜30km、サハリン西沿岸から約50km沖で操業していたイカ釣船第58千鳥丸(Chidori-maru)は、けたたましい音をたてながら頭をかすめるほど低空飛行だったボーイング機が、モネロン島(海馬島)北側沖(北緯46度35分、東経141度20分付近)で爆発した所を目撃していた。
 第58千鳥丸乗り組員は、飛行機が燃えながらと伝えてはいない。後部座席の生存者で、消火器がすぐ傍にあった場合や、パラシュートなど空中訓練の経験のある他の便のパイロットたちが、機内の火事を消火器で消したのではないか。乗員乗客に燃え移ったため、低空飛行をしてからではまったく間に合わない状態だった。あるいは緊急火災の時に一気に消すための装置があり、それによって消す事ができたか。現実的に推測すると、海上で爆発した後、海面は火の海で、燃料タンクの爆発であれば、同時に海水が機内に入り込む。
 第58千鳥丸乗り組員の話によれば、
「ドカーンという爆発音の後、水平線がパーと明るくなった」
KAL007機体真中の下にある燃料タンクが爆発。その爆発で飛び散り、海面に浮いた燃料に火が燃え移った。
「少ししてから再び爆発した。二度目の爆発は最初の爆発よりも小さめだった」
残りの片翼にある燃料タンクの爆発。
「何だあれは?事故ではないか?」と、察したようだ。
「まもなく石油の匂いが漂って来た」
9月1日サハリン南西の海上は凪、無風、曇り空で場所により霧が発生していた。
千鳥丸船員たちは、事故であれば、ソ連側の消防艇やモーターボート、調査船が来るはずと考え、早めに操業を切り上げ、日本側の漁港へ戻った。
 その日の日中から夕方にかけて、テレビやラジオの緊急速報で、KAL007便ボーイング機は宗谷海峡ソ連側の領空を脱し、サハリン南側の日本領空内で撃墜された事や、事故現場が沿岸近くで比較的浅い海域だったと報道された。ミサイルを発射した位置は、スホーイSu-15TMパイロットしか知らない。あるいは真っ暗闇で攻撃前のためパイロットも位置を大体しか確認していなかった。KAL007便へ接近した時、二つの機影が日本側レーダーに映っていず、接近していたため機影ひとつだけだったのではないだろうか。日本側で捉えていたボーイングの機影がサハリン西側か本当のところが怪しい。KAL007便がソ連領のサハリンへ引き返そうとしていたのは、誘導と攻撃で逃げる事は性能上無理と判断し、油圧系計器が故障して飛行の維持が難しく、最も沿岸に近い場所へ不時着水するしか方法がなかったためのようだ。

 ボーイング747(KAL007)の燃料タンクが爆発しても、助かりそうな座席位置が全く無い訳ではなく、操縦席後ろの2F客席であれば、大爆発が起きたとしても、何分間か海上に浮き続ける事ができる。しかし、撃墜されて12分後、稚内自衛隊レーダーから姿を消した事から考えると、壊れた機体は燃えながら海底へ沈んだと解されている。その間、海上に飛び降りることができた乗員乗客がわずかにいたとしても、爆発で飛散した燃料が海面上で燃え広がり、呼吸する事ができない状態だったに違いない。やけどや怪我、さらに呼吸困難で乗員乗客の半分以上が機体と一緒に沈んだと考えざるを得ない。 
 
 モネロン島北側へ漂着した遺品・遺体・飛行機の残骸部分と発見場所などの記録が現在まで公表されていない。ソ連側ではKAL007の遺品や遺体は、全て焼却したと告げていたが、焼却前のその写真は、報告書と一緒に残されているか。潜水艇で調べた時のフィルムもあるはずで、それらの事に関してはまだ公開されていない。事故や事件があった場合、どこの国でも顛末書の記録として事故現場と証拠物件などが写真で撮影され、報告書が作成される。管理責任者にはそういう義務がある。しかし、海底に水没した残骸の中の乗員乗客の遺骨も片付けたかなど、被害者遺族とその関係者にまだ知らされていない。海底に沈んだKAL007の残骸は、潜水艇でなければ調べられない。
 ソ連の作業船に装備されていた2隻の潜水艇で調査した事は既に知られている。その後、KAL007の残骸は、モネロン島北側西寄り、「水深60m以内の事故現場(一時は水深7〜8mと言われた事もあった)から水深261m(水深174mの時期もあった)の深い海域に移動したとしか思えない痕跡らしき跡が海底にある」と、日本側の潜水夫によって報告されている。(現在KAL007がある場所は、北緯46度35分、東経141度20分付近)

 数日後、遺体の一部と飛行機の残骸や破片、遺品などが北海道稚内に次々と流れ着いた事が新聞で報道された。事故現場から100km離れている北海道沿岸へ、そんなに早く流れ着くか、不思議だった。ジェット気流(風速30m/s以上)でかなりの距離を飛んだとしても、9月1日の季節に南へ飛ぶか。その方角が納得できない。後々さらに考え直すと、重い物と軽い物は気流上での飛び方、落下速度と角度が違っている。白いナプキンのような布きれは、空の上をひらひら舞い、気流と同じ速さで飛び続ける。座席やリムなどの金属類でさえ、上空の暴風である程度流される。ボーイング機が時速800〜900kmで飛んでいた場合、爆発後、その破片は進行方向へ斜めに落下すると考えられる。ボーイング機が上昇したのは気流に乗るためではなかったか。高度10kmの気流の向きが不可解だった。南西へ流れていれば、上空で爆発した残骸は稚内に流れ着かない。

 宗谷海流が時速10kmで南下すると、10時間で稚内に漂着する距離にある。その日のうちに流れ着く速さであった。服部次夫は、その事件の報道や情報が、はっきりしていないため、稚内まで一人で行った事があると思えて仕方がない。北海道北側の岸にたどり着いた漂流物は、ミサイルで爆発した時の後部座席にいた人たちと爆発で吹き飛んだ残骸ではないか。時速600km以上のスピードの場合、10分で100km以上の距離を飛ぶ事ができる。

宗谷海流(暖流)
 9月1日の気温と気圧配置に基づく海流の速度を知るには、推測や想定ではどうにもならない。暖流と寒流が季節によりせめぎ合う海域の速度は、海面と水深1m、水深10mのところが全く異なり、気温の高い日で日中あれば、海面付近は暖流の宗谷海流が南下している。海流研究などで既に実測していると思えるが、9月1日にモネロン島北側から海面に浮く漂流物が、どの程度の距離を何時間でどこまで流れるかという事によらなければ、9月1日モネロン島北側から稚内までの宗谷海流の平均海面速度がどのくらか見当も付かない。千島海流の場合は、8月下旬から9月中旬にかけて寒い日は南下したり、暑い日は北上したりを繰り返しながら南下し始める。日中と夜、干潮と満潮の時間帯、小潮大潮の違いで速度がはなはだ異なる場合もある。寒流の南下の季節に一時的に暖流が巻き返し、北上する場合も毎年何度もあった。その暖流の巻き返しは、気圧配置と気温に関係している。
 宗谷岬稚内、北海道北側に漂着したKAL007の漂流物が、どの辺りから流れて来た物か、ミサイルによる破損物と後部座席付近の遺体か、モネロン島北側から流れ着いた物か、識別が付かない。場合によっては、おおよそのミサイル発射位置が、リマン海流の速度の実測によって割り出せる事もある。宗谷海峡の中間点を過ぎ、日本領空内で撃墜されたか、サハリン上空で撃墜されたかの証となる。その実測無しでは、モネロン島事故現場から北海道北側へ、1日で漂着した遺物とは必ずしも言えない。

その後の航空機事故例を見ると、燃料タンクが爆発する時は、「最初にドカーンというタンク爆発音がしてから火炎が大きくなる」ので、千鳥丸乗組員たちによる目撃情報は正確で信憑性がある。さらに、燃料漏れで燃料が少なくなっている時の爆発音は、ボンではなくドッカーンと響くと言われている。

イカ釣り船上空を頭すれすれに低空飛行して行ったならば、着水地点はその船からそれほど遠くなく1~2km。「構造上問題のない状態だった」という目撃談があるので、両翼が折れない状態で不時着水したと考えられる。燃料タンクの爆発で機体は半分沈んだ状態であった事が予想される。


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007,14 August 2009-2024-