米国ジョージ・シュルツ国務長官「生存者はいない」公表の根拠

「生存者はいない」の根拠 →ENGLISH


 KAL-007が撃墜された翌日、アメリカ・ニューヨーク時間(UTC-4)9月1日午前11時45分、米国ジョージ・シュルツ(George Pratt Shultz)国務長官が、記者会見とテレビニュースで正式に発表した「生存者はいない」という根拠がどこにあったか、もう一度確認しなければならない。

ソビエト極東軍レーダー基地

  1. 「生存者はいない」という米国側の発表は、ソ連極東防空軍基地と迎撃戦闘機の交信会話、「目標を撃墜した」という連絡からの判断で、「高度11,000mでミサイルが命中し、爆発した状況を考えた合衆国政府による結果」であれば、「生存者はいない」と公表できる状態か、判断を急がなければならない理由が他にあったのではないかなどの疑惑がある。ニューヨーク発であれば、解らない状況は許されないことで、正確で理論的な即断が望まれていた。
  2. 「目標を撃墜した」というソ連パイロットによる無線連絡は、稚内自衛隊基地から内調と言われている内閣情報調査室で録音傍聴されていたもので、日本政府は雑音を排除し、爆発音を強調した訳語付きテロップテープを合衆国へ送った。しかし、もうひとつの情報ルーツとして、1982年から実験的に活動し始めた稚内基地局NSAプロジェクト・クレフ(CREF)から三沢米軍基地経由でその時の交信内容が合衆国NSAに直接送信されていた。
  3. 日本時間9月1日午前3時26分頃、合衆国NSA特別電子情報部隊プロジェクト・クレフ稚内基地局では30人中5人が夜間宿直し、その中の1人がロシア語で「ミサイルを発射した」という無線交信会話を傍受していた。CIA長官はその情報を受け取り、ジョージ・シュルツ国務長官がその情報を確認。


防衛庁長官_Masaharu Gotoda

  1. 日本では(JST)9月1日午後4時、後藤田正春防衛庁長官は「撃墜した可能性が大きい」とTV記者会見で発表。午後8時20分、安倍晋太郎外相は「ソ連機によって撃墜された可能性が高い」とTV記者会見で公表。ニューヨーク時間(UTC-4)9月1日午前11時45分(JST_9月1日午後10時45分)、ジョージ・シュルツ米国国務長官によるテレビ放送があった。
  2. ソ連側では事件当日から9月6日まで、大韓航空機007便の撃墜を認めていなかった。
  3. その当時、後藤田正春(Masaharu Gotoda)国防長官がカークパトリック(Jeane Jordan Kirkpatrick)国連大使を通し、日本から合衆国へ送ったテープは、「大韓航空機撃墜の事実をソ連に認めさせる事」が当初の目的だった。しかし日本駐在NSAプロジェクト・クレフについては知らされていなかった。後藤田正春は「傍受テープを公開する事はマイナスだが、ソ連側が否定していた撃墜という事実を証明する事ができる必要最小限の発表をした」と語り、その録音テープの公表については合衆国政府に依頼(一任)という方法で対処した。
  4. アメリカ・ニューヨーク時間9月6日正午、合衆国カークパトリック国連大使は、Mig23型1機、Sukhoi-15TM3機の交信を傍受した英訳文字入りビデオを国連で発表。
  5. 9月9日ソ連参謀総長オガルコフは、モスクワにおける各国共同記者会見で「領空侵犯機を撃墜した」と正式に表明。その時の解説状況が全国のTVで放送された。


1983年11月ユーリ・アンドロポブKGB書記長
Yurii Vladimirovich AndropovはNATO核ミサイルをアメリカへ向けて配備した。

  1. 撃墜後、「なんて事をしてくれたんだ。あれは民間機だったんだぞ!」という交信内容は、実際の会話内容を聞き正すためのカモフラージュ的な要素がある。その会話は、事故後のモスクワからの交信で、モスクワから撃墜指令が出たと伝えられた時もあった。しかし、ソ連側のモスクワ参謀本部は、その話を否定している。その事故の初めに民間機の確認が可能だったのはKGBロマネンコ将軍以外いない。国境警備隊KGBロマネンコ将軍(当時少将)からの聞き伝えの場合、本人が確認していないので怒鳴ることは無理ではないかと思える。ソコル防空軍基地極東司令官コルヌコフ(当時大佐)の場合、自ら完全に撃墜することを願っていたので、その言葉はふさわしくない。
  2. もし、「生存者がいるかもしれない」という発表であれば、KAL007の機体を探すはずで、ユジノサハリンスク空港にもその機体が着陸していないならば、「海上に激突して粉々になった」と誰かからの連絡が入ったのではないか、という事も推測できる。
  3. ミルチンク号の乗組員には、9月1日にカムチャッカ沖で海底油田開発の作業中、急いでモネロン島東側へ来てくれるようにその会社から緊急の仕事の依頼が入り、その理由が伝えられた可能性も出てくる。ソビエト太平洋軍団バシリエヴィッチ・シドロブ(Vasilyevich Sidorov)提督は、JST9月1日に他国の干渉を遮るための作戦会議を開き、将校以上の司令官を集めた。その会議の前に、午前9時頃、油田開発(石油掘削船)会社に緊急の仕事として回収作業用の船を手配してくれるように電報と電話で依頼した。その油田開発会社は、カムチャッカ沖で海底掘削をしていたスエーデン製ミハイル・ミルチンク号を指定し、現在の仕事を中止し、急いでモネロン島東側へ来るように手配。その時の連絡が無線であれば、稚内基地局NSAプロジェクト・クレフから合衆国まで届く状態であった。ミルチンク号の乗組員には、「防空軍が中立領域で標的を撃墜し、粉々にした」という状況が伝えられていた。それがNSA経由で合衆国政府へ伝えられ、米国ジョージ・シュルツ国務長官が公のテレビ記者会見を開くに至った。ソ連側ではイズベスチア新聞の記者会見で、シドロブ提督が話した9月1日の内容は、回収作業のできる石油掘削船会社への緊急手配と作戦会議に関してであったが、時間的にはその日の夜、アメリカ時間9月1日午前11時40分(日本時間9月1日午後10時45分)、米国ジョージ・シュルツ国務長官によるTV放送での発表があった。

米国ジョージ・シュルツ国務長官発言の重要性

米国国務長官 George Pratt Shultz
 ジョージ・シュルツ国務長官は、アメリカ時間(UTC-4)9月1日午前11時45分、「生存者はいない」とテレビや記者会見で公に発表した情報源は、合衆国NSAによってその情報を確認したCIA、シュルツ国務長官レーガン大統領による判断か、これもはっきりしない。ICAOに提出されたソ連側の爆発後の事実によれば、その後の状況と明らかに違っている。KAL007は、上空と海上で2度爆発して海底に沈んだが、ほとんど完全な状態で、粉々になった訳ではなかった。それらはイズベスチア紙上で公表された事実報告とロシア民間人による目撃談を注意して読むと洞察することができる。
 ボーイング747型機による夜間の不時着水の場合、過去に成功例が無い。事件の究明には、事実的な確認が欠けているために解決しない事があり、この事件で最も重要なことは、"18:26 hours the Soviet pilot reported that he fired missiles and the target was destroyed... and breaking away." "18:34 hours, Korean airplane disappeared from the radar screen.”と公表した米国国務長官の言葉が重要な鍵を握っている。And breaking awayは「破壊したが逃げている」という意味。客観的には"and breaking away"と発音しているので後から追撃したMig-23の交信内容から"and breaking away"と表現した事が理解できる。しかし"no survivors"捜索にも関わらず「生存者はいません」とWashington ABC NewsのTVアナウンサーが解説し、新聞などでも報道されたため、日本にその内容が知らされた。KAL007は、上空で爆発した後、43秒間上昇し、2分後降下しながら北へ向かった。3分間の水平飛行の後、左へ曲がり、右へ曲がり、モネロン島上空で螺旋状に5回まわりながら降下し、レーダーから姿を消した。レーダーから消えた位置は、モネロン島北東5km以内だった。そのレーダーの軌跡は、ソ連極東軍、日本の稚内自衛隊基地で確認されている。客観的にはそれらのデーターに基づいた合議による判断と思われる。日本とアメリカ西海岸の時差は17時間、ニューヨークと13時間。日本時間の方が速いので日本からの報道で伝えられた可能性がある。9月2日の日本の朝刊には「撃墜!大韓航空機の乗員乗客269人全員死亡」、9月2日朝日新聞「韓国機ソ連が撃墜。米国務長官が発表、8機迎撃、ミサイル、乗客ら269人は絶望(夕刊)」と報道された。「乗員乗客269人全員死亡」の記事は、日本からの報道であった。

  

 1983年(JST)9月2日のサンケイ新聞には「付近海上に油、捜索機が発見」と地図入りで掲載されている(海上に浮遊する油はモネロン島北20km付近の西寄りで表示)他、「ソ連 墜落だけ認める」「撃墜には触れず、海馬島海域に事故らしい形跡。ソビエトのパブロフ駐日大使、外務省に通告」「燃料タンクにミサイル命中?」「高空で突然消えたのは・・・専門家の分析」「レーガン大統領休暇打ち切る」「サハリン上空で大爆発音」「閃光も見えた」「付近で操業のイカ釣り船_確認急ぐ」など。TV放送による「生存者はいない」という発表は、これらの事々に基づき、これ以上の確かな根拠がなかった。もし、これ以上の確かな根拠があれば、それを公表し、納得させるはずと言っても過言ではない。


 2013年9月2日(月)朝日新聞<北海道版>「現場からの報告(下)」特集記事より  ---サハリン在住の人が語った話---大韓航空機撃墜「事件直後に漁船でモネロン島に渡った父が話すのを聞いた」「モネロン島周辺の海に無数の遺体の一部が浮かび、子どもの服もあるのを見た」「その日はちょうど学校の始業式の日でした」。---サハリン西海岸の住民の話---「夜明け前、突然爆発音が響き、窓ガラスが揺れました」「ソ連ではスパイ機と新聞やラジオで報じられていましたが、日本語ニュースで旅客機と伝えられていました。しかし当時のソ連では怖くて旅客機であるという事を言うことはできませんでした」。


解説:不時着水時の燃料タンクの爆発だけであればボンという音で、50km離れているサハリン西岸までそれほど響かない。サハリン西ゴルノザゴーツク25km沖、上空11kmのミサイル炸裂音ではないか。海上に浮かぶ無数の遺体部分は、11,000m上空の爆発で飛び散った乗員乗客の遺体と手荷物、朝食用食物などが考えられる。事件直後にモネロン島へ実際に漁船で渡った人の話であれば、事実と思えるが、モネロン島北側と限定せず、---"島周辺の海に"---と伝えられている所に特殊で最も重要な真偽の問題性がある。島の上空で螺旋状に5回まわりながら降下した時も含め、モネロン島に直接落下した手荷物や遺体もあった事が現実的可能性として出てくる。高度11,000mから9,000mまでの急降下中、後部火災と煙のため、エコノミークラスの乗員乗客は耐え切れずにビジネスクラス・ファーストクラスへ自発的になだれ込み、滑り落ちて避難。KAL007の最も後ろの座席に便乗していたデッド・ヘッドと言われる客室乗務員(交代パイロット・スチュワーデス・スチュワード合計27名)たちは、後部座席で気絶した負傷者や同僚がいるか、高度9,000mの水平飛行中(3分間)に調べたはずであった。もしDHの何人かが生き残っていれば、そうする義務と時間は10分ほどあった。爆発による機内火災は、機内空気が急激に抜けると同時に炎の先も爆発で開いた穴から外へ抜け出る。リクライニングシートで爆発による金属破片と放射熱を防げた場合は、最も後ろの座席でさえ生き残れる可能性はあった。
"島周辺の海に"という話は初めて聞く目撃で、もしそれが本当なら、モネロン島上空の螺旋降下の時に誰かがエコノミークラスを調べていたか、人為的な第3者の手が加わったことも考えられる。緊急事態の訓練を何度も行った経験のあるKAL_DHの何人かが、ミサイルか窓際の自爆テロの可能性もあると判断した場合、わずか10分ほどでは無理と思えるが、エコノミークラスを調べ、生存者がいるか探す必要があった。
日本側の海上で発見されたボーイング747の窓付き外壁は約1.8m×1.8m(1.78m)。だいたい四角形であまり歪んでいなかった。爆発によって吹き飛んだと思われる部分として当時の北海道新聞に写真入りで報道されていた。破壊された個所は、約1.8mと推定されていたが、「モネロン島周辺の海に無数の遺体の一部が浮かんでいた」という言い伝えが本当であれば、シートベルトを外していたエコノミークラスの乗員乗客は、急上昇中に体が逆さまになり、吹き飛ぶ勢いで手荷物や毛布と一緒に機外へ放り出されたり、水平垂直尾翼で切断されたという事になる。その規模であれは、破壊された外壁は1.8mではなく、3m近いという可能性もでてくる。口径25mmの徹甲弾ボーイング機の外壁を貫通する威力があり、乗客は緊急事態で反射的にシートベルトを外したはずであった。ミサイル爆発時のKAL007の飛行速度は時速900km前後だった事が確認されている。
「機内は空だった」という報告は、ソビエト海軍の場合は機密で、事件10日後の民間ダイバーによれば遅過ぎの報告のため、機内後部に遺体や手荷物は残されていたと見当をつけるのが正当に思える。
着水時の海上爆発は、イカ釣り船の乗組員による話(NHK特集)では、「ドカーンと音がしてから水平線がピカーと光り、ぱーっと明るくなった」。その状況では危険貨物として爆発物、ミサイルや爆薬と限らずバッテリー・ガソリン・自動車などを積んでいた事も充分に考えられる。乗客数が少ない割合に上昇速度が遅かったかったというのは重い貨物を積んでいた事による。さらにダイナスティーとの交信で"Thank you out"(連絡終了)という返答。キンポ国際空港のコールサインダイナスティー(DYNASTY 312-HF)でない場合、後部座席のDHか稚内プロジェクト・クレフとの交信だったという嫌疑がかけられる意味に解されやすいということも、納得できそうな話であった。

KAL007(KE-007)と東京管制塔(TOKYO-HF)の無線交信は、三陸上空を通常飛行していたKAL015(KE-015)を中継しての感度で、稚内基地局の電波受信もKAL007のアンテナを中継していた事になるが、サリュート7号他、最も近い人工衛星経由で高度差による電波送受信の感度を調べるため意図的に危険なコースを取ったかどうかは、ソ連と日本のレーダーにも映っているので、民間機パイロットの責任上無理なこじ付けでしかない。稚内基地局からは、KAL007を経由せずに送受信できる距離であった。


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,11 October 2010-2014/04/20.