落下した乗員乗客KAL007(39)


UTC:1983.8.31.18:00 JST:1983.9.1.3:00 Himawari2
 1983年9月1日は、タタール海モネロン島北側上空に周りより厚い雲が約50kmの幅でシベリアから北海道北側(北東から南西)へ流れていた。モネロン島北側上空の雲は、4,000mから500m。白く細長い所が雨。紺色の所が曇り。タタール海峡宗谷海峡オホーツク海を被う薄雲は高度2,000mから500mまでモヤーと空が見えないほど薄厚いシベリア寒気団だった。KAL007は、その雲の固まりの所まで北へ進まなかった。MiG31(RTF)とMiG23の追跡で中距離空対空ミサイルR-33が発射された後、それを避け、右旋回で急降下した。

 ニューヨーク・タイムズの報道会見で、ゲンナジー・オシポビッチが語ったミサイルが命中した位置は、後ろから右側10mの所だった。
 ボーイング747型には酸素マスクが既にあった。中沢建志の席は、左側後ろから10列目47Aだった。ボーイング747型機は、最も後ろの扉から客席があり、扉付近は通路になっている。座席前後の間隔は約1.5m。全長70.6mのボーイング747の後ろから20m前後の座席位置だった。747-400型エコノミークラスのシート番号は、34-45/47/48-63で47番は非常口用座席。左側に非常口ドアがある。客席の半分は空席で、中沢の右隣りとその右隣りには誰もいなかった。後部座席のエコノミークラスには仕切りがあり、2室の場合と1室でつながっている場合がある。747-230型シート・マップでなければ、正確な座席の位置がはっきりしない。

 ゲンナジー・オシポビッチが撃墜と判断するほどの爆発と燃え方であれば、後部座席34-63は爆発の音と風圧で窓ガラスが割れ、一瞬の内に燃え上がり、その炎が両側の窓から吹き出た。酸素マスクも吹き飛び一瞬で燃え上がり、機内の酸素が抜けるまで燃え続けた。30秒以上燃えていると、後ろの乗員乗客は助かる見込みが無い。急減圧による気絶と窒息死、焼死、炎が消えた後、即死した人たちは-50℃で凍結した。燃え移った炎の中でシートベルトを外し、火を消すためもがき、その火は機内酸素がなくなるまで簡単に消えることがなかった。

 0.25気圧の上空で機体が壊れた時、椅子が頑丈に固定され、乗員乗客がシートベルトをしていれば、飛行機外へ飛ばされ落下した乗員乗客はいなかった可能性もある。しかし夜明け前の時間帯であれば、シートベルトを外し毛布をかけて眠っていた乗員乗客が多かった。機内では上昇する前には「まもなく上昇しますのでシートベルトを締めてください」とアナウンスされるが、夜明け前に放送されどうかは怪しい。ブラックボックスにはキンポ国際空港到着時間、朝食の案内が放送され、シートベルト着用に関しては録音されていない。高度10,668m(35,000フィート)の平均気温は-50℃、場所により−75℃まで下がる場合もある。 

 飛行機の外壁に穴が開き、機内気圧が急に下がると、白い霧が機内に発生する。動作はスローモーションのように動けなくなり、間違い動作が多くなる。急減圧によって耳が聞こえなくなり、15秒ほどで誰でも気絶する事が知られている。

 旅客機の非常口ドアは、緊急時でも勝手に開けないようにアナウンスで指示されるが、飛行機に初めて乗る人は、その理由が解らないため、確かに聞いていない人が多い。非常口ドアを開けると脱出用シューター(長さ7.5mの窒素で膨らむ脱出滑り台)が自動的に膨らむようになっている。爆発のショックで緊急用アナウンスが放送されなかった場合、飛行高度が解らないため、非常口を開けた可能性もある。高度10,000mで非常口を開けると瞬間的に外へ噴き出され、減圧が激しいため数十秒で気絶し、そのまま死亡する。飛行機の非常口は着陸してから、あるいは着水してから開けるという事を知らない人たちが多い。

 全員がシートベルトをしていたとしても、機内のシェルター(座席の上の荷物入れボックス)や窓際に掛けてあった荷物は、KAL007が爆発の反動で高度38,250フィート11,000mまで炎上しながら反り上がった時、機内の後ろへ全て落下しながら、カーテンとシート、毛布やジュータンに燃え移った炎を通り抜け、暗闇の外へ飛ばされていった。機内のナイロン、テトロン、アクリル製品は、燃え上がった後、ゲル状に溶け、酸素不足と気温の急低下で凍る。1分以内で機内の炎は消えた。しかし、酸素マスクが吹き飛んでしまった客は、20秒以内で間違いなく気絶する。上昇中に徹甲弾で機内に穴が開き、気圧が下がり始めた時、酸素マスクが上から降りたはずだが、その酸素マスクが降りず、あるいはまだその用意が無く急減圧した場合、数十秒間で気を失う事になる。機内0.8気圧から0.25気圧へ1秒2秒で急減圧した場合、耳の鼓膜が破れ、爆発場所に近い席の乗客は、目や舌が飛び出し、爆発の金属片で血まみれになる。消火器は最も後ろの右側に用意されていた。しかし急降下中に消火器を使用できたどうか判らない。エコノミークラスの機内温度は轟音とともにあっという間に-50℃まで下がった。-50℃前後で死亡していなければ、10分ぐらいまで凍らないが、-75℃の場合、瞬間冷凍と同じ状態になる。その時のKAL007便は、高度5,000まで降下するのに8分かかった。

 2009年7月13日の午後、米国南部上空10,000mを飛行中、サウスウエスト航空2294便(B737-300型旅客機)の機体中央上部に、30cmの穴が開いた。機内の気圧が急激に低下し、客室内の酸素マスクが自動降下。ウェストバージニア州空港に緊急着陸した時は、乗客乗員131人全員が無事だった。


 モネロン島上空高度5,000mで旋回しながら螺旋状に降下していた時、貨物を落下させたかも知れない。後から貨物とその中の荷物(14個のLDIコンテナと5個のパレット 航空機用パレットは荷物の台か籠状の軽量簡易コンテナ)が発見されなかったのは事実だった。緊急用パラシュートが何人分用意されていたか。「ボーイングの旅客機にはパラシュートがない。あったとしてもパラシュートで降下経験のあるデッドへッドやパイロット用に10個以内」。降下する場所が悪ければ尾翼に当たりやすいため旅客機にはパラシュートが用意されていない。高度10,000mは0.25気圧。0.5気圧の上空でさえ飛行機のドアを開けると、中にある物が吸い込まれるように外へ吹き飛ぶ。シートベルトを締めていなかった乗客は、高度10,000mの上空からKAL007が垂直に反り立った時、暗黒の空へ吸い込まれた。その時に落下した乗員乗客が何人かいると推測される。
高度7,000m〜5,000mのモネロン島上空で螺旋降下した時は、空気がまだ薄いため貨物だけ振り落とし、高度4,000mで右旋回して急降下した時から、空気が吸える状態になり、気を取り戻した人が何人かいたかも知れない。あるいはイカ釣り船付近から低空飛行中、海面に飛び降りたい人がいたかもしれないが、たいていの場合、不時着水の激突に備えるしかなかった。
 この日の衛星画像を見ると、モネロン島北側40kmは、朝方3時30分から4時30分ごろ局地的に雨が降っていた。モネロン島北側34km地点にいた第58千鳥丸上空は曇り空だった。なぜレーダーから消えたかを考えると、ボーイング747に塗装されているチタンの厚さも少し関係している。チタンはレーダーに反応しない。航空機や宇宙船など比較的軽く熱に強い物質として使用されている他、ペイントの不透明な白の顔料としても使用されている。飛行機用の塗料にチタンが多く含まれていれば、レーダーに反応しづらくなるという事もある程度理由としてある。KAL007(ボーイング747)の機体破片に燃えた痕跡がないのは、ケロシン燃料(精製された灯油)で燃えたとしても、機体外壁の銅が多く含まれるジュラルミンA2024合金とその塗料には影響がない温度だったと考えられる。ただし爆発で穴が開いた周りは、機内空気が抜ける通り道として温度が上がりやすいため、少し焦げ目が残っていたらしい。

脚注24:9月4日、海底に沈んだボーンイング747は、ゲオリギ・コズミン大型トロール船の網にかかり、1.5km南側モネロン島の方へ引きずった。国際水域でネットを巻き上げると、大韓航空機のボーイング747である事がはっきりするため、しかもセスナ機やヘリコプターなどで撮影される恐れがあるため、その海域で機体を海面上に引き上げる事は無理だった。それでソ連領海内までモネロン島の方へ1.5km移動させ、網を引き上げる際には、大型トロール船の後方周りをソ連国境警備艇や沿岸警備船、大型軍用艦で隠す必要があった。
 この時考えられる事は、網が中途半端にかかっていると、尾翼や主翼にひっかかり破ける。そのため海軍機動部隊のダイバーたちと有人無人潜水艇でネットを機体全体にかけなおす必要性があった。その前に機内に残された遺体が何体か、海軍ダイバーが調べたはずで、海底でボーイング747から遺体を取り出すには、曇り空のため海底が暗過ぎ、水中ライトを点けても視界3m以内、さらに網のため作業しづらかった。
この時の作業は、海底で行うより、トロール船の後ろから網をぎりぎりまで巻き上げ、両翼をトロール船の後部へ付けて固定し、網を外した方が溶接作業がしやすい。その穴ふさぎには、モネロン島東側で回収された海面に浮かんでいた外壁の一部が使用された。
 9月5日この日、海軍機動部隊に指示されていた任務は「救助と修復」であった事が、イズべスチア新聞特派員による再調査で1990年から1991年の間に断片的な目撃談をまじえて連載報道された。
 機体を「修復」しなければならないのは、浮上させるためで、コクピット天井外壁と2階天井外壁の穴、徹甲弾による外壁の穴を塞ぎ、空気を入れた後、浮玉やエアーボートなども使用し、ボーイング747全体を海面上に浮かばせ、機内の1階2階フロアを人が歩いて調べられるようにしなければならなかった。後部座席のミサイルによる1.8m四方の穴は、ミサイルで爆破した証拠として、そのままの状態にしておく必要性があった。
 大韓航空代表取締役の保険契約者と重役2人以上が立ち合い、航空機保険会社の社長と調査員たちが調べやすいように、深さ10mの浅い海域まで機体を太いロープで移動させた。
この時の機内の様子は「構造上問題のない状態で、ケロシンでびしゃびしゃだった」事が報告されている。
 9月6日この頃、イギリスの航空機保険会社と大韓航空代表責任者から事故現場の最高責任者(ユジノサハリンスクKGB本部宛て)に国際電話とFAXで連絡があったはずで、その時に撃墜理由と機体外部内部の状況を英語で説明し、調査日の予定日時を相談の上、決めておかなければならなかった。
この時でさえ、ソ連側の責任者たちは「中は空で乗員乗客はいなかった」「生存者はいない」事にされた。
 ゲンナジー・オシポビッチ防空軍少佐の話しでは、ボーナスが300ルーブルソ連公務員の給料は、1ヵ月約150ルーブル程だった。大韓航空機側では日本円で最高金額88億円の戦時下航空機保険だった。


9月4日にトロール船の網に何かがかかった時、「救助と修復」の指令を受けていた海軍機動部隊のダイバーたちは、直ちに潜水し、何がどのようにかかっているか、確かめなければならなかった。KALボーイング747であれば、機内に乗員乗客が残されているはずで、生存者がいるか、生存者がいないか、遺体は何人分であったか、海底に沈んでいる機内の1階と2階の状況を確かめなければならなかった。
 その位置がモネロン島から北方26km地点の国際水域であれば、アメリカや日本等の他国船が機内に残された遺体を収容する権利が発生する。ソ連海軍機動部隊によってモネロン島からの距離(緯度経度・方位深度等)を正確に測り、1.5km南へ引きずり、さらに網を引っ張り機体を海底から少し浮かせながら3km南へ移動させ、モネロン島から北方21.5km地点のソ連領海内で、他の大型ソ連船、ソ連軍用艦と沿岸警備船で隠しながら他国船から見えないように、海軍トロール船のクレーンで遺体の引き上げをする必要があった。

ボーイング747の機内は空で、誰もいなかった。それから考えられる事はモネロン島の周りを降下していた間、乗員乗客が広範囲に落下した」というソ連側の説は、まったくの当て推量。上空で爆発してから数十人分のばらばらになった遺体部分は、海面上へ落下したので、完全な嘘ではないが、乗員乗客全員が落下するはずはなかった。ボーイング747の1階は、キッチンとトイレの2ヵ所で仕切られており、エコノミークラスの後部が爆発しても、ビジネスクラスの人たちに怪我はなく、酸素マスクが自動的に降りたはずであった。しかも半分が空席で座席シートが起きた状態であれば、エコノミークラスの前半分は、破片や放射熱を座席で避ける事ができたと想定する事ができる。


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side/Free Document Lisence, 21 August 2009