アブラハム・シフリンの再調査(15)

 1993年まで、KAL007の乗員乗客は全員死亡とロシア共和国大統領ボリス・エリツィンによって宣告されていたが、アブラハム・シフリンはKAL007便の生存者がいる事を告発した。シフリンの話によれば、乗客はKGBによって捕らえられ、荷物と一緒に矯正収容所へ連れ去られた。民間機を装ったスパイ機と知らされていれば、KGBは、KAL007の生存者たちを、いつ、どこへ連れて行き、何をさせていたか。シフリンはそれに関して詳しい情報を得ており、ソビエト社会の暗部の仕組みをまじえて告発した。その話の中には、非常に正確な情報もあるため、彼の話の全てを否定する事はできない。

Jesse Alexander Helms

  1. アメリカ合衆国上院議員ジェシー・ヘルムズは、アブラハム・シフリンからKAL007に関する情報と報告書を受け取っている。
  2. ジェシー・ヘルムズ上院議員は、アンカレッジでKAL007に乗ったグレンフェル家の娘たち、3才のステーシーと5才のノエルを直接見送った。「例え1千年生きようとも、私はあの少女たちの事を忘れない。私の膝の上で遊び、笑い、頬に口付けしたあの娘たち。愛らしい2人の少女。忘れようにも忘れられるものではない。なぜ、あの少女たちが犠牲にならなければならないのだ」
  3. 1991年12月10日、ジェシー・ヘルムズ上院議員は、ロシア大統領ボリス・エリツィンにKAL007便に関する具体的な情報を求める書簡を送った。
  4. CIAに提出されたアメリカ合衆国共和党局員論文」は、イズベスチア、CIA、NSAアブラハム・シフリンの調査データに沿ったリポートの草稿で、ヘルムズ上院議員は、その報告書に同意し信頼を置いていた。ボリス・エリツィンへの要求と質問は下記内容だった。

ジェシー・ヘルムズJesse Alexander Helms上院議員からエリツィン大統領への質問内容

  1. KAL007着水の正確な位置
  2. 着水時の目撃録 
  3. KAL007に関連した軍の無線内容の転写物 
  4. 生存している乗員乗客名リスト 
  5. KAL007から取り去った貨物と荷物のリスト 
  6. ソビエト側の捜査救助報告書コピー 
  7. ラリー・マクドナルド氏Lawrence Larry Patton McDonaldの運命に関する詳細情報 
  8. KAL007の乗員乗客が連れ去られた収容所情報

CIAに提出された「共和党局員論文」に対しての返答

  1. エリツィン大統領は、1992年6月17日、KAL007便に関する文書の存在を報告。
  2. KGBによるKAL007覚え書きが存在する事を明らかにした。
  3. エリツィン大統領はその3ヵ月後、ブラックボックスの存在を認めた。
  4. 1992年10月28日、エリツィン大統領は、「生存者はいない」と返答。
  5. 「我々にはロシア政府の声明を疑う理由はない」と述べた。

 アブラハム・シフリンによる諜報活動と執筆、告発がなければ大韓航空機追撃事件は伏せられたままで、この事件は1990年にぶり返さず揉み消されていた。アブラハム・シフリンは、この時期のソビエト強制労働収容所の実態をアメリカ人に明らかにし、ソビエト政府が隠し持っているKAL007の証拠品、ブラックボックス、報告書の所在、乗員乗客の行方を告発した人であった。
 イスラエル国エルサレム市生まれのアブラハム・シフリンは、ソビエトからアメリカへ移住した強制収容所に詳しい情報収集家であり、KAL007に乗っていたラリー・マクドナルド下院議員の友人であった。シフリンのKAL007生存者説は、ソビエト強制労働収容所と精神矯正収容所のリサーチセンターから受け取った情報による。そのリサーチセンターの1989年〜1991年にかけての調査によれば、KAL007の乗員乗客はサハリンKGB基地へ連行されたと断定している。
 アブラハム・シフリンは、赤軍少佐とクリミア北東のクラスノダール地方検察官として責任ある地位に就いた後、エルサレムにリサーチセンターを設立し、理事となった。しかしアブラハム・シフリン自身、アメリカとイスラエルのためスパイ行為をした理由で裁判にかけられ、その判決の結果、10年間監獄生活。さらにその後の7年間、カザフスタンに流刑にされた。
アブラハム・シフリンは、サハリン西海岸ネべリスクの漁師と日本人漁師から、事件当日「着水した機体から乗客が救助された」目撃談を直接入手した。<解説1>その話が事件当日の何時ごろか、漁師から直接聞いたか、噂話を聞いたものか。イズベスチア新聞に彼が集めた目撃談と同じ内容の話があったり、CIA報告書の随所にシフリンの情報が付け加えられている。しかしこの目撃談も、曖昧な表現の仕方で、もし、シフリン本人がネベリスクで直接聞いた話であれば、この事件の重要な鍵となる目撃談取材に関して長々と正確に書くはず。

KAL007事故後の遺体処置推理(14)


捕虜収容所日本人墓地 2007年8月1日 

  1. 機内天井で溺死していた人々は、最初、ユジノサハリンスクの総合病院にヘリコプターで運ばれた。
  2. 戦時下における特殊法令の場合、機内に残っていた乗員乗客の部分遺体は、9月1日から6日以内に網に集めてモネロン島で火葬した。機内にあったバッグや手荷物、衣服内のパスポートと身分証明書などをチェックする必要があるため、それらの所持品が集められ残された。
  3. ソ連で法律的に水葬が許可されている場合、乗員乗客の遺体を機内に残した。身元がはっきりしない骨の無い肉片や内臓は、集めるだけ無駄で放置した。
  4. 機内に残された骨がわずかだった事から、発見された骨のある遺体部分は、できるだけ全部運んだ。
  5. サハリン西海岸の町ネベリスクとゴルノザ・ヴォーツクの火葬場へ運んだが、無傷な遺体と分断された部分遺体を分けた。病院や火葬場もスケジュールがあるため、遺体が多過ぎる場合は、それぞれ最も適切な方法に分けて処理した。方法としてはひとつではなく、これら5つの複合的な方法による。

ウラジミール・シデロフ提督のイズベスチア紙上での発言
 「KAL007の海面衝突の時、海上には1体の遺体も無かった。27分後にボートがその場所に到着していたという話は本当だろうと思われる」と主張した。事故現場のソビエト当局者によれば「海面には1体の遺体も発見されなかった」と主張。

 ソビエト太平洋艦隊総司令官ウラジミール・シデロフ提督は、彼の直属のダイバーと同じく民間ダイバーを同伴させて作業にあたらせていた。人命を救助するための職種と撃墜した敵機を領内で合法的に壊す職種は異なっている。シデロフ提督は、人命救助の目的で仕事に就いたわけではなかった。米国をはじめとする多国籍艦隊や潜水艦、航空機などを領内に入れないための防衛策と他国の干渉を遮るための特別な秘策を考案しなければならなかった。KAL007がレーダーから消えた水没地点付近が初日から混み始める。船や飛行機が極度に集中するのを分散させなければならない。その方法を考えていた。

  1. 「海軍ダイバーの任務は、民間ダイバーと異なり別々だった。海軍ダイバーたちは、撃墜された航空機を引いて行き、沈め、海底に沈められた航空機を爆破させ、空中爆発をしたように見せかけるため、その残骸を四方に散らしたほど奇妙だった」と民間ダイバーは語っていた。
  2. 「海軍と民間ダイバーが見つけた航空機は、基本的に欠ける所が無く完全な物体でした。構造上傷の無いものでした」

 技官と事故現場の検察官が調査書を提出する場合、どのような事に気をつけなければならないか。KAL007が着水しようとした方向、空中で飛行しながら爆発したか、着水してストップしてから爆発したかを確認するため、爆発して四散した機体部分の飛び散った方向と爆発地点からの距離が基本的資料として必要であった。KAL007を移動させて海底で爆発させたのは、一定の水圧下で爆破した機体は、飛び散り方が異なっているので、その違いをデーターとして調べる必要があった。軍事機密の内容はそのような調査のための行為に付随した期間と目撃内容と思える。その調べ方で現場の検察官、技官、軍事指揮者のレベルがある程度解るので、長年その職に就いている人であれば気をつけなければならない事であった。
 ミハイル・ミルチンク号であれば、KAL007着水時の飛行速度まである程度割り出せるレベルの設備だった。海底を写し出すサイドスキャナーの精度が高まってくれば、海底に四散した残物までプリント可能な時代になりつつある。しかしこの時は、それほど緻密ではなかったため、ひとつひとつチェックして図を描かなければならなかった。

ロマネンコ将軍と乗員乗客の靴(13)


Floating on water after the crashing of aircraft
「CIA報告」米国共和党局員によるCIAへの報告書草稿

  1. スミルニク空軍基地戦闘機師団長代理ノボセレツキー中佐は、日の出時刻30分前に救助ヘリコプターMi8を墜落地点付近へ送るように指示し、極東軍管区司令官代理ストロゴフ将軍は、モネロン島周辺にいた沿岸警備隊と民間艦艇を送るように指令を出し、2つの場所から別々に救助隊が出動された。モネロン島付近に停泊していた警備隊の船は、KAL007がレーダーから消えた直後、救助指令の連絡を受け、着水して爆発する前に海上を走り探し始めた。
  2. 伝えられている話によれば、不時着水した飛行機は大半が無傷な状態で、KGBロマネンコ将軍指揮下の国境警備隊の船に回収され、乗客と荷物が飛行機の外に運び出された。
  3. KAL007回収作業に携わったソビエト側民間人ヘリコプターのパイロットは、9月5日ごろKAL007が海面に浮いている状態を空から見ていた。その飛行機は、ソビエト領海のモネロン島付近まで引かれて行き、故意にソビエト領海内の浅瀬に沈められた。その様子を船から目撃していたソビエト民間人が他にも多くいた。


KAL007事故現場の証拠と証言、目撃談からの推理

1983年9月9日モスクワ記者会見で解説のために背景に張られたソ連側のマップ
 CIAはソ連側と日本の自衛隊がとらえていたKAL007のレーダー記録を持っている。それによれば、KAL007は35,000フィート(11,000m)から12分間降下して高度0ポイントまでその位置も記録されている。レーダーからKAL007の機影が消えたと同時に、ソビエト沿岸警備隊の救助船(6隻以上)が現場へ直行した。
 目撃談の中には、最初に到着した国境警備隊の船に乗船していたKGBが、ブラックボックスを回収したという話があり、9月15日にプロダイバーのコンドラバエブが発見したブラックボックスの箱と1本のテープ(4本の内の1本)と異なっている。その2つの事実から、最初に3本のテープ(ボイステープとフライトデータテープ)が、抜き取られていたと推定された。オガルコフ(Nikolai V. Ogarkov)参謀総長がまずいと考えたのは、KGBロマネンコ将軍に命じていたブラックボックスの回収が完全になされていず、民間ダイバーにテープと残りの箱の存在が、ばれたためだった。このふたつの事実のため、ブラックボックスとそのテープ4本をソ連政府が所有して隠しているという事が発覚し、その証拠品の提出が国連とICAOから要求された。ソ連側では、事件当初からブラックボックスとその中にあるテープは所有していないと主張し続けていた。
 1983年9月26日月曜日の朝、日本人とアメリカ人の代表者が日本の警備艇「つがる」に乗ってサハリン西海岸のネベルスク港に到着した。サハリン地区とカムチャッカ南に連なるクリール諸島の国境警備隊KGB少将A・I・ロマネンコは、6人のソ連側代表団を率いて213人分の靴を返上した。KGBロマネンコ将軍は、ソ連と日本、アメリカの国境付近の実情、この事件の初期事実に関して多くを知り過ぎていた。しかしKGB委員会と参謀総長の許可無しに、彼の部下と代表者たちによってKAL007乗員乗客213人分の靴をアメリカ・韓国・日本の遺族へ返還した。その返還によって靴の所有者が明らかになり、ソ連参謀総長オガルコフによって懲戒処分され、矯正労働収容所(強制労働収容所と精神矯正収容所)へ送られた。ロマネンコ将軍は、乗員乗客の遺体処置(残留者)と荷物をどのように処理したらよいか判断が付かず、ブラックボックスを完全に回収する任務を忘れていたため懲戒処分にされたと言われている。ソ連大使館職員からアメリカのKAL007遺族代表者へは、ロマネンコ将軍は、その後自殺したと伝えられた。彼は、矯正労働収容所へ送られ、KGBのデーターからその名前が消された。KAL007事件の9月1日からの現場と、それ以前のソ連アメリカ・日本・韓国の沿岸警備に詳しかったため、この事件の大部分とKAL007乗員乗客の行方、初日からの現場を知っている人だった。1992年9月、ソ連新聞コムソモルスカヤ・プラウダ紙上で「ロマネンコ将軍は、東ベルリンのソビエト駐在武官(陸軍外交官)に栄転した後、同地で自殺した」と掲載されていた紙面を確認したとKAL007の生存者情報を追求していたアブラハム・シフリンは伝えている。


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ソビエト連邦参謀総長オガルコフ元帥 
KGBロマネンコ将軍は、KAL007事故現場を初日から見てきた唯一の指揮者だったが、非常事態に際しての経験が少なく、諜報活動や工作員が必要とする作戦には不向きだった。モスクワの参謀本部オガルコフ参謀総長にKAL007事故現場の緊急事態が報告された。しかしオガルコフ参謀総長は職務上モスクワを離れる事ができないため、この事件後の処理の総指揮者としてソビエト太平洋艦隊総司令官ウラジミール・バシリエビッチ・シデロフ提督が一任された。他に2人の少将ウィリアム・コッケルとウォルター・ビオッティー海軍司令官、ソ連防空軍ソコル基地極東司令官コルヌコフ(後総司令官)が、おもな指揮者として現場付近の対策にあたった。

 ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフKGB書記長への極秘報告書には、「ブラックボックスは、10月20日から30日にかけて日本海の180mの海底で発見された」と記されてある。この報告書は、誰から聞いた話を書いたかはっきりしていない。発見者のコンドラバエブのレポートによれば、9月15日にブラックボックスとテープ1本を回収し、その発見日が異なって報告されている。さらに発見場所が、日本海と実際に発見された場所と異なって説明されているのは何がしかの作為か調整があるということになる。その後、ブラックボックスは、フライトデータの暗号解読とボイステープ翻訳のためモスクワへ移送された。
 1991年、新生ロシア共和国大統領エリツィンは、恐怖政治の元であったKGBの秘密警察組織を解体し、ブラックボックスを国連ICAOへ提出した人だった。ボリス・エリツィン大統領は、「生存者はいない」と公表した。
 イズベスチア新聞で特集されたその事件調査の目撃談の中で、「KAL007は海上へ着水し、乗員乗客と荷物は国境警備隊の船に収容された」と、地元漁民が主張している話がある。目撃談の多くが何日の目撃かはっきりしていない。KAL007乗員乗客の内、何人かが生存していた話がなぜか存在し、生存者がいる可能性はあったとされている。飛行機は、実際にはサハリンとモネロン島の間に着水し、その機体は沈まず浮いていたという話をシフリンは書いている。 
 この事件で犠牲となった乗員乗客の遺族と関係者にとって最も重要な事は、「生存の可能性を伝えている地元漁民の目撃の内容とその詳細についてで、KAL007着水地点に最初に到着した国境警備隊沿岸警備隊十数人の話を聞きたい」と断言しても過言ではない。その最初の状態が空白で、はっきりしていないため、話が進まずこの問題が解決されていない。この事件で生存者はいないという公表と、生存者が何人かいたという2つの説があり、この状況は、大戦後の南洋の島々に根強く存在する日本兵と同じ現象ではないか、と考える事もある。つまり総括して公表される情報は、地元管理者の報告によるもので、その管理者にとって都合よく調整されている。報告書は表記表現方法の一種で、どのように要約し事実が伝えられるか、実際の確認と異なり、不利になる事は略され、例外まで伝えられていない事が頻繁にある。


KAL007乗員乗客の靴

  1. やはり、乗員乗客のほとんどは機内に残っていたと考えざるを得ない。269人中、返還された213人分の靴や履物があれば、機内に213人無傷で残っていた(飛行機が沈む前に、沈み行く機内で、泳ぐために靴を脱ぎ捨てた)はずで、残り56人分は、靴が無くなるほど燃えたか、爆発で吹き飛び海底に沈んだ。最初に国境警備隊や海軍機動部隊などの救助隊が事故現場へ到着した時は、海面上に何も浮いていなかった。民間のロシア人が最初に現場へ到着し、日本漁船が国際水域で目撃していたので、この最初の状況を隠す事はできない。救命具を着けて機外へ出たのであれば、焼死あるいは溺死したとしても海面に浮くはずです。
  2. 乗員乗客が機外へ出ていなければ、機内にほとんど残り、そのまま沈んだという事になる。213人分の靴は機内で発見されたものか、海面に浮いていたものか。機内の天井裏にあったもので、他のライフジャケットや浮く遺品は、全て飛行機の天井に溜まる。それが海上で発見されたということは、ほぼ完全な状態の機体の中に脱ぎ捨てられていたものとしか考えられない。213人分の靴に焼け焦げたり、爆発の破片で破けた痕跡がほとんど無かったのはなぜか。
  3. ヘリコプター操縦士は、9月5日からユジノ・サハリンスクから委員会の役員を運んだり、モネロン島に集められた袋や機体部分をネベリスクへ運び始めた。モネロン島北側の浜にKGB職員が番をしていて、運ばれた物を整理していた。ヘリコプターにそれらの荷物を積んでいる時、その人とよく話をしたとヘリコプター操縦士は語っていた。彼は、軍事機密という事を知らされていなかったため、何を運んだか知っているとイズベスチア特派員に話した。
  4. 213人分の靴を提出したロマネンコ将軍をはじめとするソビエト代表団は、「これらの拾い集めた物は、海上に浮かんでいた物と、サハリン、モネロン島の浜辺に打ち上げられていた物を見つけて回収しました」と伝えた。それらの靴の内の55足は、「ライフマガジン」に写真で掲載され、乗員乗客の靴であるという事が確認されている。発見された靴には日本の領海で見つけられた物も加えられているので、かならずしもKAL007機内だけにあったものではなく、海上や砂浜で発見された靴もある。それらは日本の千歳航空自衛隊基地で公開された。アメリカ犠牲者家族協会代表者は、ソ連大使館職員から、ロマネンコ将軍はその後退職し、自殺したと聞かされた。民間機か諜報機か、「残された証拠が民間人の物」であった事がこれによって明らかにされた。靴の返還は、ソビエト政府によるか、ロマネンコ将軍の判断か、政府や保安委員会からの指示や依頼であれば自殺はしない。
  5. もし213人分の靴の提出が、民間人被害者遺族に対するロマネンコ将軍の理性的独断であれば、自ら犠牲となる事をある程度覚悟しての告発行為だった。本人はそれによって受ける処置をおそらく知っていた。その後のロマネンコ将軍の名前と経歴は、KGBソビエト国家保安委員会)の書類からすべて消され、彼の存在の痕跡すら現在は残されていない。
  6. 国際民事の場合、検証とは裁判官による証拠調べの事で、「KAL007乗員乗客の213人分の靴」の公表は、検証と同じ直接的な物的証拠として重要である事は、司令官以上のポストに長い管理者であれば知っている。検証は証言や目撃談より重要視される。事故現場の作業報告書は、本部が遠い場合、写真なども添えて提出され参謀本部などに送られている。この事件の顛末書は参謀本部ソ連政府に確かに提出されてあるはずで、事故後の作業報告書と写真や映像テープなどが存在していれば、裁判官の「文書提示命令」によって提出を要請する事ができる。ボイステープが原本でなく、万一コピーや訂正物であれば、「文書偽造罪」になることも上層部ではある程度知っている。


(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,1 October 2009-2012-

バディム・コンドラバエブの報告(12)


海底の航空機フレームとフロアー 
1983年9月10日の夜、私は他のダイバーたちとバレンツ海で救助艇とダイビングの仕事に取り組んでいました。そうしたら航空母艦が接近してきて、16人のダイバーたちと一緒に、直ちにタタール海の事故現場まで行くように指定されました。私たちは空軍輸送機に乗り、モスクワで燃料を入れ、ユジノサハリンスクで着陸しました。そこからバスに乗りホルムスクへ行き、ダイビング現場まで案内されました。     
 1983年9月11日の夜から9月29日まで、タタール海のその事故現場で調査したアクアラング・ダイバー3人(民間人2名Grigorij Matvejenkoと海軍1名V.K-ov)の内の1人バディム・コンドラバエブ(Vadim Kondrabaev)によれば、海の底は、特に夜の海の底はカニの大群でおおわれている事を既に予想していた。水深174mの海底にダイビングする事になったコンドラバエブは、海底にあった不完全な衣類、化粧品、壊れた鏡、大きな古代エジプト十字、カセットテープレコーダー、レインコートのポケットの中にあった小さな英語版聖書、ゴルフボール、フォーク、スプーン、KALシンボル、ライフジャケット(救命具)、新品のパウダーボックス、機器などであったが、スーツケースはひとつも見つからなかった。リュックサックやトランクがひとつありましたが、遺体の部分でさえひとつも見つからなかった。何隻かの小型潜水艇は、彼らの前でボーイング機まで下がり、すべてを収集していた。子供のオモチャ、たくさんの女性の下着、衣服、ドレスなどもあった。「ガラクタの堆積物を掘れば掘るほどより多くの物が現われてくるというような所でした。カメラやテープレコーダーなどの貴重な物はダイビング・ベルに入れ、かごには置きませんでした。それらを海上まで引きあげた時、その途中に流れの速い波のような所があり、落下して失われるかも知れなかったためです。2m×1.5mの機体壁部分などは大きい籠に集めました。4冊の本やベトナムバルサム、様々な生皮の貨物を見つけ、ダイビングベルに縛りましたが、それを海面から上げた時、全体の束が別々に引き裂かれ、砕けてしまった事もありました。
 日本人とアメリカ人は、このボーイング機を捜していました。アメリカは特殊なラジオブイによって、水中の私たちの交信会話を盗聴していました。ラジオブイによる彼らの海底での音響妨害は、鼓膜が破れるほどキーキーした音でした。その音が激しすぎる日は、仕事にならないため休まなければなりませんでした。こちらのラジオブイは、ミルチンク号とダイバーのワークエリアの周りに置かれ、その外側をトロール船が巡回していました。

 We didn't find one body, with the exception only of one hand in a black glove that had been torn off from the arm. The only fact testifying to the fact that there was a destroyed airplane laying on the bottom was the a landing gear strut.
 私たちは、ひとつの遺体も発見しなかった。例外として、腕から引きはがされていた黒い手袋の中の1つの手だけを見た。唯一の事は、その底には破壊された飛行機が横たわり、着陸時のギヤ支柱があった事実を証言することだった。
 I have also thought about this question. You know, even if fishing trawlers were used to collect the remains from the Boeing, then after a month would be simply impossible to collect the bodies of all the dead. True, at the end of the expedition one of the military personnel on the "Mirchinko," having noted that I am very curious and want nonetheless to find the answer to the question, just where are the corpses, said: "The crabs ate them." Perhaps it was this way - even before the first dive we noticed a huge number of crabs on the bottom.
 私は、この問題(乗客の遺体)についてもまた考えました。あなたが知っているように、ボーイングの残留物を回収するため、トロール船があり、使用されたとしても、それから1ヵ月後、死亡者すべての遺体を集めることは、単純に不可能だった。事実として、その調査の終わりに、ミルシェンコに乗船していた軍人のひとりは、その死体はちょうどどこにあるかという質問に対して、私が非常に不思議に思い答えたくなかったにも関わらず、その事を記録した。多分それはこの方法だった。最初の潜水からでさえ、私たちは海の底には莫大な数のカニがいた事を知っていた。そしてカニがそれらを食べたのです。

配線コード・シールリテーナ KAL007の残骸付近にいるタラバガニの群 水深174m/Discovery: Unsolved history KAL007
 KAL007の飛行機の残骸は1平方メートル以内で、それより大きい部分は見当たらず、飛行機のリムやフレームのような残骸部分もありませんでした。しかし、事故現場の海底調査5日目(9月15日)にブラック・ボックスのひとつを発見。それが4つの内のひとつである事が後で判明しました。5日目からビデオテープで海底のその状態を記録し始めました。ダイバーたちは、ダイビング調査する前から海の底のカニの莫大な数に気付いていたが、カニが遺体をすべて食べたと言わざる得なかった。カニの群れの規模がどのくらか、その時に撮影されたフィルムを見るかその時に潜水したダイバーたちしか知らない。
 私たちに一任された映画は、今まで何本かありました。初めから私たちはビデオカメラですべてを録画していました。そのフィルムは自家製の密封箱の中に隠していました。しかし私たちの上にいた婦人がある時悲鳴をあげました。ダイビング・ベルと言われる鉄製の檻の中に、残骸と一緒に目玉のような物がぶら下がっていたため、それが何であるかを見て気づいたようでした。そしてある晩、彼らは録画撮影のため船に乗っているすべてのカメラマンや技師たちに電話をしました。その時に私服姿の厳粛な男性が、録画や写真などを即刻破棄し、どのような写真も撮らないように要求しました。
(脚注:その厳粛な男性は総司令官以上の権力者で一般人は乗船不可。ユーリ・アンドロポフKGB書記長であれば、その権利がある程度あり、事件後の処置方法に神経質にならざるを得ない)

 コンドラバエブが撮影したフィルムやビデオテープは、船の上にいた少年に盗まれてしまったため、本人は持っていない。その少年は、誰かに使われて行ったようだ。彼は、これらの事々に関して17年間沈黙を守り続けていたが、この時の仕事内容と状況をインタビューで報告する事となった。カニの他、ザリガニ、クルマエビ、タコなども海底にいたという事を伝えている。
 9月10日からの潜水調査で、発見できた重要な物は、ブラックボックスのケースとコクピットボイスレコーダー、フライトデーター・レコーダー、テープ4本の内の1本、INS電子機器などだった。それらは盗難に遭っていない。ブラックボックスと電子機器の発見位置、作業場所の地図上での位置に関しては機密事項のため、公表していない。

 1日5時間労働で、海底での作業時間は14分。174mの海底で5時間から8時間、1日平均5時間、1回の潜水時間は18分が限界だった。ソ連国内では史上初めてだった。ダイバーの記録更新に加え提督から個人的に感謝はあったものの、何度も圧縮室に入り、耐えた割には良くない仕事だった。その期間の記録更新のメダルと金星が増え、軍隊ジャケットとユニフォームに添付されて感謝状と一緒に贈呈された。10月29日、この仕事のため、各ダイバーに支払われた賃金は200-250ルーブル(800〜1,000円)の基本給に加え200ルーブルが支払われた。そのお金によって飛行機でモスクワへ戻り、KAL007残留物遺品の展示即売会を開催したが、ひとつも売れなかった。(Ref:Secret of the Empty Airplane by Vadim Kondrabaev, Russian magazine Itogi,October 1,2000)


北海道稚内とサハリン付近の水深マップ

  1. KAL007の水没地点の深さが100フィート(30.4m)と174mの2説があり、海底マップによると、モネロン島真北11マイル地点は水深100フィート。この深さであれば、救助隊や海軍ダイバーでも潜水する事ができる。少し位置がずれたとしても60m〜90mで100m以上深くはない。1日目の曇り日は海底の視界3m。2日目の晴れの状況下で海底の視界8m以内。9月1日と2日に救助隊や海軍ダイバーが直ぐに潜水できる深さだった。宗谷海峡は深くとも60mという浅い海域である事が知られている。
  2. コンドラバエブが潜水した場所が174mであれば、場所が異なり、9月10日以前に北北東の国際水域に移動した。潜水作業をしていた際に、海底での会話交信をアメリカ海軍に傍聴され、ダイバーがロシア語で話していたためサメ避けと作業妨害を兼ねた音波妨害を受けた。その場所で174mあれば、最初に水没した地点は、深くとも70〜100mの海域という事になる。西側の傾斜している海盆は約620mの深い海域。浅い海域と深い海域とで識別している。

<イズベスチア特派員セルゲイ・アガフォノブ Agafonov>
イズベスチア特派員「私は何人かのアメリカの専門家と話をしました。死者の身体がなぜ見つからなかったか。彼らから直接聞こうとしました。カニか数種類の微生物によって食べられた。他の可能性は何でしたか?」
ウィリアム・ニューマン(カリフォルニア大学海洋生物学教授)の意見は、「たとえば、カニ、サメまたは何か他のものが肉を平らげたことを認めるとしても、骨格は残らなければなりません。海上で見つかっている骨格、数十年間、そこで卵を産んだ海底の多くの例があります。その上、カニは骨まで食べませんでした」
「強い流れが体をまきちらしたと思うかもしれません。海上に体が浮かばなかったわけは、そのためですか?」
 ニューマン教授は言った。「それらは多くの要因に依存します。腹腔が負傷しないならば、腹部に発生するガスによって海面まで体が浮くはずです。怪我をし、爆発の衝撃で体がバラバラにされているならば、それらの遺体部分は海面へ現われないで、航空機水没地点から流されたと考えられます」
 ジェームズ・エーベリは、「海面に激突する前に、その飛行機がおよそ10分間飛行していた事を思い出してください。この間、乗客は、全てではないにしても救命胴衣を着る事ができたはずです。そのうえ、彼らは確かにシートベルトを閉めました。海面に衝突する際の飛行機の勢いがどのくらいあったとしても、跡形もなく姿を消している269人の人々を想像するのは難しい事です。乗客の何人かは、救命胴衣によって海上へ浮かなければなりませんでした。何人かは、シートベルトを着けながら海底に残ったはずです。乗員乗客全員が、姿を消すなど無理な話です」と言っている。

さらにイズベスチア特派員は東大法医学部の解剖学専門家に聞きました。
「死体は、およそ200mの海の底で停止している事ができません。海水の比重で必然的に表面に浮き、潮流によって運び去られる。極めて希ですが海上の墓近くで漂います。時間が経つにつれ死体は分解されます。海中の環境の方が強く進行します。しかし、様々な条件を推測すると極度に複雑なようです」

日本海保安庁裁判医学専門部門
「深さ200mでの死体の条件は、以下の要因に影響されます。死亡した時の状態、海水温度、潮流、沈泥の深さの構造などの組み合わせに依存します。具体的な条件や情報、知識無しでは最終的な答えは全然でません」「従ってこれらの判断は生物学者海洋学者によってなされるべきです」

 オホーツク海に生息するカニとして大きいものは、タラバガニ(学名:Paralitodes camtschaticus)が、1m以上に成長する。タラバガニは肉食性で殻がゴツゴツしている。ズワイガニ(Chionoecetes opilio)も70cmまで成長する。ズワイガニは、雑食肉食性で、脚が細長く甲羅が比較的小さい。どちらもオホーツク海に生息している。タラバガニやズワイガニは、海の底に沈んだ鯨などの肉を食べたり、メタンガスが発生している海底でバクテリアが繁殖するため集まる場合もある。

 プロダイバーのコンドラバエブは、9月11日から第2地点のハイドロノート漁船で他の2人のダイバーたちとダイビング作業を始め、9月末に第1地点の掘削船ミハイル・ミルチング号に連れて行かれた。その後1ヶ月間ミルチンク号に宿泊する事となり、その船の圧力室とダイビングベルを使用して4人等間隔に並び、作業していた。彼は、「およそ飛行機の残骸とは思えないものが散らばっていた。一本の車輪支柱だけが目印で、機体残骸は細かく、最大でも1m以内だった」「遺体は手袋をした潰れた片腕だけが残されていた」と1990年頃Itogi雑誌インタビューで述べていた。

9月末に第2地点から第1地点へ移動させられたコンドラバエブとダイバーたちが作業にあたる前、第1地点でミルチンク号は9月中どのような作業をしていたか、作業内容が空白で目撃談が無い。
 ミルチンク号での作業も海軍機動部隊が行い、厳重に隠蔽した。この時期に考えられる事は、コンテナー二十数台を全て海底に落とし、それをクレーンで吊り上げ、ガバン海軍基地へ他の船で運ぶ作業を20日間していた事が十分に考えられる。この事件から30年以上が過ぎ、時効になったためか、2005年頃からデジタルビデオで動画サイトに投稿され始めていた。レインディアーのキャンプ生活ビデオ、どこかの監獄の管理者が初期パソコンのバイオスを使用して勉強していた様子等を見る限り、初期パソコン機器やアルミ蒸着シートロールなどが使用され始めていた。その他、セーター等の衣類、食品など外部諸国の製品で、アメリカから韓国への輸出品などが主だっていた。それらを戦利品としてガバン(ガバニ)海軍基地まで船で搬送し、隠蔽したと考えられる。

 ミルチンク号が停泊していた第1地点には燃料タンクの爆発で機体底の外壁が粉々に壊れ、機体底部にある油圧系配線ケーブルが引きちぎられ、積まれていたコンテナー以外の荷物が散乱していた。1本の車輪支柱は海上で爆発した時に車輪が一基、根元から脱落した事により、海上爆発地点の位置の目印として最後まで残されていた。

(C)Junpei Satoh/Several viewpoints from Japan side/The truth of Korean Air Lines Flight 007

消えた乗員乗客の謎の解明(11)


燃料タンク内のガスが噴出して燃えている墜落飛行機
"But there was no fire in the Boeing - that is for sure. Things ware intact, although all thoroughly saturated with kerosene" Izvestia 6 February 1991.
「しかし、ボーイングに火事はありませんでした。それは確かです。 全てがケロシンですっかり浸されていましたが、機体はそのままの完全な状態でした」

  1. KAL007事故現場の初期の目撃者によれば、このような不思議な話があり、長い間何故?と気がかりだった。ロンドンの保険会社スチュワート・ライトソン社による戦時保険に関わるデマゴジー(demagogy)にしては、動機や背景に不思議さがある。海上に浮かばせた状態で機内の海水を外に抜き出し、ボーイング機内に入り、確認のため調べた様子を思わせている。
  2. この目撃談のThingsは機体内部のシートや備品、機体部分で、この場合はボーイング機が壊されていない時の引き上げ当初の状態を言っていることになる。持ち出された機体部分に焦げた跡が無く、「焼けた痕跡がある」という報告や話が少ししかない。燃料タンクに近いランディングギヤ付近の機体破片と右後ろのミサイル爆発付近以外、焦げ跡がない。しかし、外観は焼けていないが、機内の中部と後部座席、天井裏は、1分近く燃え続けていたので焦げていたはず。機体を海面に浮かせた状態の時、後部座席は海面下に浸っていたため、前の方と2Fまでしか見れなかったようだ。
  3. ゲオルギコズミン(トロール船)によってKAL007を海上に浮かばせ、海水を抜いた後であれば、事故現場の軍事機密立会い人として司令官と特殊技官、保険会社調査員たちと社長、KGB重役、ソビエト政府調査委員と検視官、検察官たちしか中へ入れない。さらに飛行機内の海水を機内1Fの下まで抜くのは、海上では無理なため、モネロン島北側の浜の浅瀬まで引っ張り、陸揚げしたのではないか。
  4. 実際、燃料タンクの灯油が水中花火のように周りに飛び散り、機内は何故か燃えなかったのではないか。両翼の真中の下にある燃料タンクの上のフロアが爆発で穴が開き、機内1Fの座席やフロアに石油が飛び散った事になる。ボーイング機は窓ガラスや非常口が壊れても完全であれば、浮くはずで、燃料タンクの上のフロアに大きな穴が開き、そこから海水が1F全体に勢いよく吹き出たため、爆発後、ほとんど同時に機体が沈み、機内の火が消えたと解釈する事ができる。後ろにはミサイルによる穴があいていたので全体が水没するのに20秒から60秒。後ろから沈む勢いで2Fまで沈んだ。外は火の海だったが、燃料タンク上のフロアから勢いよく湧き出た海水で、シートベルトを締めた死傷者以外の乗員乗客は、非常口から外へ流し出された。
  5. 私は、この不思議な目撃談の可能性をある程度信じる事によって、「海底に沈んだKAL007機内に、誰も居なかった謎」をこのように解釈するに至った。たったひとつの目撃談が消えた乗員乗客の謎を解く鍵になるとは、非常に長い間、思いもしなかった。


Boeing747-230 structure

  1. さらに気を付けて考えると、ひとつの状況で片付けられない。乗員乗客の場所によって、幾つかのケースに分けられる。後部座席のドアのところまで、ミサイルの爆発の後の急な減圧のためアナウンスが聞こえず、シートベルトを締めたまま血管が破裂して即死したり気絶し、焼死したあと凍結した客が100名ほどいたはずです。中部座席は着水時の爆発の破片でほとんどが吹き飛び、わずかに生き残った2Fと1F前列の乗員乗客は海面に浮いた油で呼吸できず溺死した。中部と後部座席で死傷、気絶した客は、座席にすわりながらシートベルトを締めたまま海底に沈んだ。
  2. KAL007水没数日後、流された場所で海面に浮いていたものであれば、ライフジャケットを着たまま遺体が浮くはずで、海上で発見された遺体に関してソ連側では依然「1人の遺体も人間も見つからなかった」と主張している。
  3. アクアラング・ダイバーと有人潜水艇の乗組員の話を合計すると、水没したKAL007の残骸のある海底に約10人分の遺体部分が発見されている。1人の遺体も見つからなかったというのは、初日早朝の水没現場付近の海上報告をそのまま伝え残しているのではないか。
  4. KAL007が水没する時、生存者が多かれ少なかれ居たとしても、機外に出ずに飛行機と一緒に沈んだのであれば、機体の後ろから沈む最中にシートベルトを外し、海面の炎の薄明かりを頼りに機内で前方へ浮かび泳ぎ、2Fへ上がれた人も何十人かいた。しかし2Fも沈むと天井にわずかに残っている空気を頼りに暗闇の機内でそのまま浮上した。しかし、ボーイングの2F天井に徹甲弾による穴が開いていたため空気が短時間しか残らず、海中は真っ暗で機外へ出られなかった。2Fで生き残っていた50名以上の乗員乗客は、外が火の海であれば、飛行機の天井裏で溺死、窒息死した。海の中は真っ暗闇だった。
  5. 9月1日の朝、どのような捜索と作業がなされ、どこまで可能だったか。1日の夕方から夜、さらに2日目の夜明け前、サメ対策としてどのような事がなされたか。放置状態であればサメに食われた可能性も考えられる。海軍が携った仕事内容に関しては、報告書を作成する必要が無かったか簡略化したため、海底のKAL007が発見されるまで写真や文書で作業報告を書き残さなかったのではないか。事故現場への到着時間までは記されているが、海底で最初に発見された時間と機内状態に関しては、要領よく空白にされている。CIAの報告書も9月1日から10日までの箇所が欠け、民間の目撃者談しか残っていない。
  6. 高度10,000mでミサイル爆発後、KAL007が11,000mまで42秒間上昇し続け、その間に酸素マスクが手動で下りたか、酸素ボトルを使用できたか、パイロット以外シートベルトを締めながら全員気絶したか否かで異なる。酸素マスクは急降下の時に自動で一斉に落ち、酸素が出ない時は、空いていれば隣のマスクも使用する事ができる。上昇中手動の緊急用ボタンがあるはずで、水平飛行中でさえ手動ボタンひとつで酸素マスクを降ろす事ができる。しかし急減圧の場合、温度降下が早い。しかも急激過ぎると何秒かで動けなくなる。機内の気圧が抜ける強風と壊れた窓からの-70℃の強風で後部座席の人たちはほとんど凍った。乗客室から操縦室への呼び出しは21秒後から31秒後まで計3回あった。しかし、31秒後は呼び出しの音がしなくなった。2Fと1F乗客室前室からの連絡だったのではないか。
  7. 機内に誰もいなかったという話は、12日後の後日談で、実際には乗客の多くが残り、9月1日と2日まで遺体を海の底で網に集め、モネロン島まで運び、戦時下の法律を適用して火葬した可能性が高い。無人島のモネロン島でなければ人が居るため事実が漏れやすい。ウィットな誤報として「サハリンのローカルな火葬場」と確認されずに報道された説もあった。
  8. 海軍であれば船長の権限で水葬(日本では禁止)ということも可能なようだが、民間人であれば死体遺棄になるので、身元確認と検死、死亡証明書などの手続きと書類も火葬する際には法律的に必要となる。本人写真の撮影、遺髪、遺品の保管をし、遺体が浮き上がらない処置をした上で相当の儀礼をもって行うことなどが条件としてある(各国によってある程度異なっている。日本では現在法律的に水葬が禁止されている)。
  9. 火葬場として整っている町であれば、ゴルノザ・ヴォーツクかネベリスク郊外の斎場しかない。北東にあるサハリン西海岸ゴルノザ・ヴォーツクやネベリスクは、町として人口数が多いため、電子機器やボーイング破片をヘリコプターで運び、証拠物件の検証場所として指定された(ネベリスク会場は電子機器類)ことは事実として報道されている。
  10. 海の底で沈んだボーイング機内を海底で片付けてから機体を浮かばせ、現場検証し、誰もいなかったという話にしたとしか考えようがない。
  11. 戦時下の場合、指令や伝達が単純化され、正確に伝えられるために誤報や矛盾、時間的な変化と複雑な状況が省かれる。隊の規律や信用を失うという事から最初の事故現場の海面の状況を押し通したのではないか。
  12. つまり、事故現場の検証の時に外国の民間人の遺体が機内に多く残されていると、それを目撃したショックで重大な国際問題となるので、9月1日から5日、この作業に携ったソビエト海軍救助隊、海軍機動部隊、海軍ダイバーには軍事機密として口止めし、メダルや記念品、感謝状と賞与金を給付して意図的に隠したとしか考えようがない。実際には9月10日以後しか知らされていず、9月1日から10日までは、現場の作業に携わった民間人による目撃談の断片からしか当時の状況が知らされていない。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side, 18 September 2009-2024-

コクピット・ボイステープの信用性(10)


Black-box:航空機用ブラック・ボックスは、目立たないように工夫され、最大400時間以上収録する事ができる物もある(航空機用は2時間以上)。奥がコクピット・ボイス・レコーダー、真中がフライト・レコーダー

 KAL007操舵室に設置されてあったブラックボックスのボイステープは、初めソ連が入手し、9年間所持している事を否定していた。その後、国連部局ICAO(国際民間航空機関)に渡され、フランスのBEA(飛行機事故調査と安全飛行勧告部門)で解読するように、このテープの調査が依頼された。ソ連がロシア共和国に変わり、ボリス・エリツィン大統領がフライトレコーダのテープDFDRとボイステープCVRを国連に提出した物で、このテープはさらに何本か複製され、ダビングされている。ロシア共和国はオリジナルテープを所有し、BEAはその複製を後から再調査できるように何本も、さらに国連でもこのテープの重要性を考慮し、何本か複製している。コリンズ社のこのテープが合成されたものか、信頼できるものか、雑音箇所なども可能な限り調べられてある。

Boris Yeltsin and Bill Clinton,1999 
ブラックボックスのボイステープから確認できる事実>

  1. このテープの音声が、本人のもので、他の誰かによって芝居として作成された声ではない。
  2. 27:04の解読不能箇所がテープのキヅによるものか、略された言葉か不明。
  3. 27:26以後の記録が故意に消されている可能性もあり、会話の内容を部分的に修正できる箇所もある。
  4. ミサイルの爆発時間と東京管制塔への連絡時間や内容に関して一致しているので、このテープ内容を修正したり調整する必要はない。
  5. 調整や変更をすることによって得られることは、このテープの信頼性を意図的に無くす目的と考えられる。
  6. ボイステープ4本のうちのひとつで、最も重視される会話だが、この前と続きもある。アンカレッジ出発後の雑談は他のテープに録音されている。プロダイバーのバディム・コンドラバエブ(Vadim Kondrabaev)はレコーダーとボイステープを9月15日、海底で発見した。その時までボイスレコーダーとフライトレコーダーが収まっていたブラックボックスは、海底に残されていた。
  7. 減圧のため緊急降下し、酸素マスクを付けてからは会話無しでテープが終了している。ブラックボックスであれば、ここでテープが終了するはずは無く、ソ連にとって「KAL007乗員乗客の運命が明確に解る個所」なので、緊急降下以降の終盤テープをカットして除去し、つなげてから厳重に保管し隠したか、もともとの未修正ボイスレコーダーを同じ品番の新しいボイスレコーダーにコピーし、意図的に削除した。

燃料タンクが爆発して機体下部の外壁が壊れても、ジャンボジェット機ボーイング747の1F2Fと操舵室は爆発せず、1F天井まで後ろから沈みはしたものの、しばらくの間(5分~10分)海上に浮かんでいた。その間、正常にブラックボックスが作動していた事は、その後の航空機事故例を調べ、比較検討すれば、はっきり判る。





U.S.A.President Ronald Wilson Reagan
 ソ連側ではこのテープを修正する事で、信用の無い物にする事ができる。そうする事によって「スパイ幾説」の反証となるソ連政府軍部とKGBに不利になる事実を隠すことができる。ソ連政府はオリジナルの未修正ボイステープを持っている事が十分に考えられ、それが、この事件の証拠となる鍵を握っていた。ソ連がロシア共和国に変わった後、KAL007のコクピット・ボイステープをロシア政府が所有し、隠し持っていた事実が国連に発覚。ロシア共和国大統領ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンによって、そのテープ(未修正オリジナルか、終盤を削除したコピーか不明)はICAOへ提出された。

 KAL007事件に関してアメリカ合衆国ロナルド・レーガン大統領は、ソ連政府に対し、「うそつき」「悪の帝国」とののしり、「まさにスターウォーズだ」と記者会見で公言した時もあった。アメリカ人の話で、合衆国ではロシア語、スペイン語など5ヶ国語が選択科目で、ロシア語を学んでいる学生が比較的多い。ソ連では英語が必修科目だった。


 ソ連軍部上層の指導者や管理者は、核実験が拡大化してゆくのを目の辺りに観察してきた世代で、人命に対する価値観が民間人と異なっている。旧組織の中では能力や機能が行動心理学的に優先される。アメリカ軍捕虜が、その実験台に使用されていたのではないかという懸念が、合衆国軍部の核実験見学情況から予想されていた。放射能の危険度や遺伝する程度を調べるため、半ば実験台にされていた兵士も多かった。参謀や将軍クラスは、核実験がある度、それを鑑賞してきた世代で、いわゆる創造、生産の反対にある破壊、壊滅の世界であった。

しかし、ミハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフロナルド・レーガンの首脳会談により、1987年12月8日、「中距離核戦力全廃INF条約」が締結され、冷戦が一旦おさまったように民主主義、自由主義国からは見える。


 ソ連側では、「KAL007の乗員乗客は全員死亡」と事件後間もなく報告公表しているが、その根拠となる事実と経過、証拠が隠され、明らかにされていない。KAL007事件で乗員乗客はどうなったか、生存者はいたのではないかという真相究明の問題は解決されていず、閉ざされた状態のまま放置され現在に至っている。KAL007爆発後の仕事にあてられたソ連の3隻の船とモネロン島の作業報告書、撮影された写真やビデオが公表されれば、この事件は具体的にはっきりするはずである。


注意:機内会話(その2)の録音は、ソ連政府と参謀本部KGBに不都合な箇所が部分的に無いため、最後の個所以外無修正と考えられる。解読不可の所は、意図的に何かで擦られ聞き取れなくされているか、マイクロフォンの性能が悪かったか不明。記録テープとしての役割上、製品価値として粗悪録音という事はない。解析可能なテープだったに違いない。3時18分06秒に介入したモールス信号の内容は、解読可能箇所で知らされていない。そのモールス信号が増幅し、その後の1分34秒間が解読不可になっている。しかし、後から「警報用モールス信号を電波で発信した」とオシポビッチ防空軍少佐はさらに細かく朝鮮日報特派員に状況を説明した。
ソ連当局は、「夜間、領空侵犯したスパイ機を撃墜し、海面に激突して粉々になった」「機体の中には誰もいなかった」と国営放送しており、オシポビッチ防空軍少佐とソコル防空軍基地の無線を傍聴していた内容から、「大韓航空機KAL007はソ連機によって撃墜された」と日本政府と合衆国政府が判断して報道された事件であった。ソ連側では、初め撃墜を否定していたが、9月5日、国連で合衆国側が撃墜した時の交信テープを英語訳テロップテープとして公表したために、大韓航空機KAL007が撃墜された事件としてテレビや新聞で報道された。しかし事実、雲の上ではそのように見えていたが、エンジン4基が正常だったため、手動操縦によって雲の下で低空飛行し、海上に不時着水。燃料漏れをしていたため、燃料タンクに引火して大爆発を起こした。雲から下の降下から爆発までの状況を日本のイカ釣り船乗組員8人が目撃していた。
民事ではどこまでも真実が追求される。しかし、冷戦下の軍部では行動心理・社会心理が優先され、結果のために様々な作戦が練られた。ソ連最上層部では、アメリカ人をいかにしてだますか、参謀本部作戦会議が開かれていた。当時のソ連は冷戦軍事体制下にあり、秘密警察KGBが政治的に有力だった。勝つための結果が良ければ、おとり、見せかけ、罠、隠蔽は、作戦として重要で必要な事であった。

ロシア大統領ボリス・エリツインによってICAO国際民間航空機関に渡されたKAL007のフライトレコーダーとボイスレコーダーは、外見が海水に浸かった痕跡のあるボックスか、新品のボックスかまではICAOで公表していない。中身のレコーダー自体はダビングコピーして入れ換える事が可能で、その時に不時着水前後のフライトレコーダーテープとボイスレコーダーテープをカット(又は消去)し、ダビングコピーした2つのブラックボックスが返還された。その結果、旧ソ連政府当局は、「パイロットたちが酸素マスクを外した後から、海上に不時着水し、機体が海面下に沈みELT自動遭難信号を発するまで」の元々の未修正記録テープを所有し、保管隠蔽している事になる。
オリジナル原本が一つしかない報告書や重要書類などは、コピーが渡される場合が多く、ソ連政府の参謀本部会議やKGB委員会等では、そうする事が当たり前だった。
この時期、国連がブラックボックスボイスレコーダーとフライトレコーダー)の返還をソ連政府に要請したとしても、オリジナルかダビングコピーかは指定しなかった。この場合、着水前後が含まれているオリジナルを返還するはずがなく、テープの最後の個所をカットして取り外し、他のレコーダーに保存した可能性が高い。
 事故や遭難等で海水に浸かったブラックボックスの中身は、海水を入れたクラーボックスの中に浸けた状態で箱ごと運ばなければ酸化して変色劣化しやすい。オリジナルを保存したとしても、新品ダビングテープより経年劣化しやすいため、予備に1台か2台コピーする必要があった。
脚注22:テープをカットするより「消去して最後の個所まで回した」方がこの場合は無難。結果としては、最後の個所を消去したダビングテープが返還された事になる。
どこに保存したかは、当時の旧ソ連軍部とKGB書記長しか知らない場所か空調設備の整っている軍部用保管倉庫で、ロシア大統領専用の金庫や保管倉庫と異なっていた。軍部が管理する資料倉庫については、年期が限られている大統領には知らされていないはず。
 9月9日、オガルコフ参謀総長によるモスクワ共同記者会見で「夜間侵入機を撃墜した」事が正式に報道された後、ソコル防空軍基地には、ソ連最新鋭戦闘機Mig-31が配備され、「ソコル防空軍滑走路沿いの戦闘機がいつの間にか一新されていた_オシポビッチ防空軍少佐談」。

 合衆国では、1988年まで存在自体が極秘扱いされていたネバダ州ゴーストタウン、核実験演習場トノバー空軍基地米空軍42号(ロッキード工場10号)で開発されたステルスF-117(ナイトホーク)のテスト飛行を1982年に終え、トノバー空軍基地に配備され始めていた。ステルスF-117は黒色で、レーダーに映らない(又は映りづらい)夜間用戦闘機で爆撃機だった(ステルス機は、雲の上を飛行すれば、地上レーダーに映らない)。
(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side/Free Document Lisence, 14 September 2012-2024-

KAL007_コクピット会話(9)

KAL007最後の機内会話(2)

Boeing747-230
<3:15:52-3:27:46a.m. 1st Septmber 1983>
機長 チュン・ビュン・イン Chun Byung-In 千炳寅
副操縦士ソン・ドン・フイ Son Don-Fui
航空機関士キム・ユイ・ドン Kim Yui-Don
グリニッジ標準時間GMT18:00:00 日本時間JST03:00:00>


18:15:52 聞き取れる程度の音でモールス信号の伝達が始まる。
18:17:44 015 HF 大韓航空015は、37,000フィートに到達した。KA015は、KA007の後の便で、
既に11,000mまで上昇した事がKA015から東京管制塔へ連絡された。

18:17:49 TOKYO HF 大韓航空015 東京了解
18:18:06 聞き取れるモールス式伝達。モールス信号のボリュームの著しい増加。
18:19:20 雑音のため解読不可 Su-15TM通過時のジェット轟音と機関砲の連射音 
     オシポビッチ元空軍大佐の解説図を参考にすると100m以内の至近距離でフロン
     トガラスが振動するほどの爆音
    (機内会話のボリュームに合わせ、聞き取りやすくするため、過剰な金属音を省
     き音量を均一に下げた個所)


18.19:26 雑音のため解読不可 Mig23による追撃が加わる
18.19:40 雑音のため解読不可
18.20:02  TOKYO HF 呼び出し装置
18.20:09   007 HF 1  KA007 呼び出し
18.20:11 TOKYO HF KA007クリアー東京ATCクリアー KA007が上昇してフライト
     レベル350に達しようとしていた。
18.20:21 007 HF 1 了解、大韓航空007上昇350を維持して下さい。
     この時KA007の高度は、330(33,000フィート10,058m)だった。


18.20:28 TOKYO HF 「了解」

18.21:48 F/D 高度警報の音がする。
18.22:55 F/D マイクロフォンのカギ音
18.22:56 007 HF 1 東京管制塔 大韓航空007到達地点レベル350

18.23:00 TOKYO HF 大韓航空007 東京了解
18.25:55 DYNASTY 312 HF 東京管制塔、ダイナスティー302 on 56。
ダイナスティーはコールサイン
18.26:00 TOKYO HF ダイナスティー312 東京
18.26:02   爆発音


レーダー式ミサイルが水平尾翼を外れ、KAL007の前から50m右後ろに命中。その爆発のショックが伝わる。
18.26:03 DYNASTY 312 HF ダイナスティー312 飛行位置の確認ぺヨン 1825レベル30 estimate Shemya 1935 remainder ... remaining 12...6 decimal 0 minus 50 ... 10 diagonal 40 です。どうぞ。

ダイナスティー312からKA007へ飛行位置の連絡中、KA007の機首が縦に揺れ、緩やかに上昇。縦揺れのヨーイングが起こる。第1第2第3油圧装置が故障。高度警報が鳴る。
18.26:06 Chun 「何が起こったんだ?」

爆発4秒後、大声で言った。
18.26:08 Son 「何ですか?」
18.26:10 Chun 「スロットを引け!」
18.26:11 Son 「エンジン正常」

ジェットエンジン4基正常。
18.26:14 Chun 「着陸ギヤ!」
18.26:15 F/D 高度警報が鳴る。
18.26:17 F/D 着陸ギヤのスイッチが選択可能になった。その音がカチとする。
18.26:18 F/D 高度逸脱警報器が鳴る。
18.26:21 F/D 自動操縦外の警報が鳴る。

客室のスチュワードたちは、消火器で機内火事を消そうとしていた。
18.26:22 Chun 「高度があがっているぞ!」
18.26:23 F/D 操縦室呼び出し音

操縦室のパイロットは、呼び出しに出る余裕がなかった。
18.26:24 Chun 「高度が上がっているぞ!」
18.26:25 Chun 「スピードブレーカーだ!」
18.26:26 Son 「何ですか?」「何なんですか?」
18.26:27 F/D  
18.26:29 Chun 「調べろ!」
18.26:30 F/D 操縦室連絡用チャイムが鳴る

1F後部は火事。
18.26:30 TOKYO HF ダイナスティー312、アンカレッジ応答して下さい。
18.26:33 F/D 操縦室呼び出しの音



18.26:33 Chun 「現在、高度を下げることができない」

機長から乗客席添乗員への連絡

18.26:34 Anaunce 緊急降下です。注意して下さい。


高度が上がり続けているにもかかわらず、緊急降下のアナウンスが放送されたのは、酸素マスクのボタンを誰かが押した事による。緊急降下で酸素マスクが自動的に降りることになっている。
18.26:35 DYNASTY 312 HF "Thank you out." 直訳で「終了」「外だ」「外れた」の意味。ダイナスティー312は、キンポ国際空港からの呼び出し番号で、KAL007は韓国側のレーダー圏内ぎりぎりの位置にいたが、前後の関係から「定期コースから外れている」という意味に近い。


18.26:38 Anaunce 緊急降下です。注意して下さい。
18.26:38 Chun 「高度が上がっているぞ!」

上昇中にも関わらず、緊急降下のアナウンスが放送されている理由が、機長や乗員乗客には理解できなかった。/TD>

18.26:40 Chun 「手動に入らない」
18.26:41 Chun 「いつも通りに」
18.26:42 Chun 「手動が利かない!」

その時カチッと音がして自動操縦装置が手動モードに変わる。自動操縦が解除された音だった。機長が操縦桿をコントロールできるようになる。機体後部爆発後、42秒間上昇し続けた。
18.26:42 Anaunce 緊急降下です。注意して下さい。

日本語で放送される。機内圧力が外の圧力200hPaと同じになるまで抜けたため、勢いが無くなり、直立した後、急降下し始める。ミサイル爆発後約42秒。前列中列の座席客の中には酸素ボトルさえ吸っていれば無事だった人もいた事は充分に考えられる。
18.26:43 Chun 「これも駄目だ!」

自動操縦以外の警報が鳴る。
18.26:45 Son 「エンジンは正常です!機長!」


機長が操縦桿を前に出していないにもかかわらず、KAL007が急降下し始めた。
18.26:46 Anaunce タバコを消してください。これは緊急降下です。

「タバコを消してください」は、発煙警報代わりの機内放送で「これは緊急降下です」というボタンと異なっている。後部客席室の空気が抜け、火が消える。その後、急減圧による白いガスと煙が機内に充満。緊急降下のアナウンスの時に酸素マスクが自動的に降り、酸素ボトルを直接使用する事もできる。しかしこの時の機内火災と煙の状態でエコノミークラスの乗員乗客は2Fや前方へ避難し始めた。
18.26:48 F/D 解読不可
18.26:49 Anaunce タバコを消してください。これは緊急降下です。
18.26:50 Son 「それは全圧縮ですか?」
18.26:51 Son 「それで大丈夫ですか? 」
18.26:52 Anaunce タバコを消してください。これは緊急降下です。

と日本語で放送される
18.26:52 Chun 「どっちも全部だ!」

機内客席用の圧縮酸素のスイッチは機内温度調節のエアコンと同じようにコクピットと別々に2つあると考えられる。
18.26:54 Son 「それでいいですか?」
18.26:55 Anaunce マスクを鼻と口に着け、頭のバンドを調整してください。


爆発53秒後、マスクを使用する指示が機内で放送された。
9秒間沈黙の急降下後、8秒間機首を上げ水平飛行をした。
18.26:57 007 HF 1 F/D 「東京管制塔 こちら大韓航空007」
18.27:01 Anaunce マスクを鼻と口に着け、頭のバンドを調整してください。
18.27:02 TOKYO HF 東京管制塔KA007
18.27:04 Son こちら大韓航空機007 ...私たちは(事故に)..遭遇している..
...。
18.27:08 Anaunce マスクを鼻と口に着け、頭のバンドを調整してくださいと日本語で機内放送される。
18.27:09 Chun 「全圧縮だ!」
18.27:10 Son 「急速減圧のため10,000フィートへ降下」
18.27:15 Anaunce "Put out your cigarette." 

タバコを消してくださいと英語で機内放送される。
18.27:19 Anaunce "Attention emergency descent."

緊急降下に注意してくださいと英語で機内放送される。
18.27:20 Kim 「現在、私たちはこれをセットした」

操縦席の酸素マスクは、片手で届く所にあり、3人のパイロットは酸素マスクの用意をする事ができた。
18.27:21 TOKYO HF KA007 読めない。読めない。10048(高度フィート/無線周波数)で無線チェックしてください。
18.27:23 Anaunce 緊急降下に注意してください。

と日本語で機内放送される。
18.27:23 Chun 「スピード!」


手動操縦が利くようになり、飛行機を加速させながら急降下させた。
18.27:26 Chun 「徐々に少しずつ少しずつ」

急降下後、少しずつ機首を上げ、水平飛行をしている間に酸素マスクを着けた。

この時、進路を北へ取った。北であれば、重症者の病院設備のためユジノ・サハリンスク空港(あるいは千歳空港)へ緊急着陸する可能性を考えていた。方位計と高度計で進路を取っていたのではないか。
18.27:27 Anaunce タバコを消して下さい。緊急降下ですと英語で機内放送される。コクピットにも煙が入る。
18.27:33 Anaunce タバコを消して下さい。緊急降下ですと日本語で機内放送される。
18.27:38 Anaunce 鼻と口にマスクを着け、頭のバンドを調整して下さい。
18:.27:43 Anaunce 鼻と口の上にマスクを装着していください。
18:27:46   録音終了

[英文和訳と解説:佐藤]

 録音終了という事はあり得ず、これ以後のボイス・テープも回っているはずで、高度3,000m以下で酸素マスクをはずした時から再び始まり、東京管制塔を呼び続けていた。しかし着水時の爆発まで応答が無く、その間に「ランディング・ギヤを下げろ」という会話もあったという話が伝えられている。この話は、出所がはっきりしていないため、推理による可能性もあり確かではないが、KAL007に関する韓国側のブログで発見した事があった。東京管制塔の方が距離的に近く、連絡が取れやすかったためと思える。

 上空での爆発後、第1〜第3油圧装置が故障し、第4油圧装置だけが作動していた事を考えると、第4油圧装置によって降下上昇の操縦は可能であったとしても、左右へ曲がる事ができなかった。第1エンジンから4エンジンの出力を調整して旋回する事を試みたが、燃料漏れによる燃料不足のために海上へ着水するしか方法がなかったようだ。油圧装置が故障していたため、その時ランディング・ギヤは降りなかったのではないか。理論的には、着水時の爆発から水没までボイス・テープは回り続け、機内会話や脱出状況が解るそのテープが存在する。燃料タンクの爆発であれば、すぐには沈まず、爆発後もKAL007が海上に浮いていた間、録音テープが回っていたはずと考えられる。その最後の箇所が最も重要で、生存者がいた可能性もそれによって解る筈だが何故か肝心な箇所が公表されていない。



(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side/Free Document Lisence,12 September 2009-2024