東横美術研究所長の変死 3


Charcoal dessin of Venus by Junpei Satoh,1990
 その所長が住んでいたマンションに「キルケゴールの言葉」大谷愛人(おおたにひでひと)訳、彌生書房発行があったかどうかまでは知らないが、1969年(昭和44年)の初版が手元にある。現在、その本を部分的に読んで見ると、本当に理解している分野とそうでない事々に足を踏み入れているため自家撞着なところがある。アイロニーという概念が特徴的で少し臭みがあった。所長にとって死体置き場の真実は、解剖用に血抜きをした状態か、死体を洗う仕事だったのか疑問だったかも知れない。手を描いていた人が何故、赤黒い色調にしていたか、不思議に思える節もある。加藤勝久氏は「薄気味悪い」と言っていたが、佐藤先生はその色にこだわらず「いいや、やはりうまい」と評価していた。
 戦争中、小学生だった所長は、どのような体験をしたか言えない事もあるはずと思える。いずれにしても間接的にフランス革命時の断頭台が問題だったようだ。阿久津省一は服部次夫に、関康は中沢建志に、東横美術研究所所長の変死に関して話した痕跡が絵に間接的に表われていると見るのは行き過ぎだろうか。
 キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard1813-1855)のその本は異端の悪書のひとつで、完全に理解しようとすると時代も異なり、神学を背景にしているため無理が生じる。浅間山荘事件や三島由紀夫のようになる場合もある。論理的に明快な所は考え方や方法の参考になるが、抽象的論理の狭間を彫る方法が実験的あるいは遊戯的で、具体的に解らない領域を概念のテンションをたよりに組み合わせたり、関係から生じるニュアンスを作っている節もある。哲学分野の論理の展開には、各駅停車のように一般的に解りやすい場合と、特急のよう簡単に超越する場合があり、混在している事が当たり前にあるところが異なっている。
 Ironyアイロニーの語源は、ギリシャソクラテスプラトンに発し、意図的に装われた無知を意味するギリシャ語eironeiaに由来する逆説や皮肉の意味に訳される。キルケゴールが考えていたアイロニーは「現象は本質ではなく本質とは反対のものである」「アイロニーは主体性の実存の規定で、主体は否定して行くことによって自由である」というようないくつかの概念的規定を試みている。「主体は否定して行くことによって自由である」という意味は、何を何からが抜けているため、三島由紀夫のように自己否定や自殺を暗示する論理ではないかと疑問に思える。主体の謙虚さや、法的な否定によって実際の罪から逃れる当時の世相や客観的な方法などを揶揄していると言う事もできるが、キルケゴールの場合、この言葉に他の現実を反映させている。「ソクラテスの死」に関して言っていると考える事ができる。