東横美術研究所長の変死 2

 
 その研究所の生徒数が1976年度から激減した事により、地代や職員の給料が払えなくなったという理由が、その所長の自殺の原因だったと考える事が最も近い。銀行で貸してくれなかったか、銀行から借りてまで研究所を維持したくなかったか。加藤勝久氏でさえ判らないかも知れない。生徒数の激減の理由は美術教育に関わるようになってから気付いた事だが、学校案内やポスターなど高校へ配布されていた時期で、すいどーばた美術学院新宿美術学院などカラーポスターや広告に力を入れ始めてきた時代であった。
 1974年だったか武蔵美(むさび)から芸大大学院に入り、病院の死体置き場でバイトをした事のある人が、東横美術研究所で働けないか、作品アルバムを携えて来たこともあった。しかし佐藤先生の話だと、「油絵科は職員3人でたくさんだったため、断った」という話を聞いていた。まだ画学生であった私は参考のためその作品アルバムを拝見したことがある。手を様々な角度から何度も描いていた人で、何故か肖像画や自画像、裸体画が無かった。赤黒い色調の油彩画だった。佐藤先生は、「この位だと芸大でも1番か2番だなー」と言っていたが、解剖学的なその作品アルバムから実際の絵を推測することは難しかった。その作品アルバムが東横美術研究所長の変死と関係しているかは、関係があるようでまったく無いと考えている。その後だったか、芸大大学祭や資料館、石膏室講堂で描いていたデッサンなども見回った。「ガッタメラータ将軍騎馬像」を背景にした「ボルゲーゼの剣闘士」の木炭デッサンは初めて見るレベルで今でも記憶している。その巧みさから見当を付けても年期が入っている様子だった。おそらく本格的に描き始めてから10年は経っているか、一旦止めて改めて描き出した教官による作品のようだった。2つの椅子の片方に、芯が抜いてある細いニュートンの柳木炭と擦筆(さっぴつ)、ガーゼとカッター、食パンと練りゴムが置かれてあった。カッターは10円のもので擦筆を平らに削り、際を磨り潰し、食パンと練りゴムで影や際(きわ)が描かれていた。際の折込み方に神経を集中している作品であった。ガッタメラータは講堂の真中にあり、天窓だったが日の陰り方が速いため、1〜2時間程度しか描けないのではないかと思える。午前と午後の日差しが逆になるような場所だった。
 ミケランジェロの彫像を注意して見るとわかるように手が特に優れ時間がかかっている。丸みを帯びて浮き出た血管などが強調されていた。塑像であれば比較的造りやすい。彫刻で血管に丸みを付けるには時間がかかり過ぎるのではないか。特殊な執念と作業の手早さが無いとできない技であった。油彩画展示室にそのデッサンと同質の作品が無かったのは、油絵の具の硬さや粘性による素材の違いによる。デッサンの方はカラッと晴れたような空間が印象的で別々に進展したようだった。