東横美術研究所長の変死 1


 服部次夫(Tsugio Hattori)の話方や気質に、以前の東横美術研究所長の面影が僅かに偲ばれるので、その所長は鹿児島県出身ではないかと、最近になって思い出す事がある。どちらも既に死去しているが共通なある種の気質があった。そのニュアンスをうまく言い表せない。ジェントルマンの典型ではあったがダンディーとまではいかない、神経質なところがあるという事を当たり前と自分で容認しているところがあった。しかし、小椋桂の「あいつが死んだ。生きたって死んだって俺には同じ」という歌詞を思い出すと、その考え方が類似している状態だったのではないか、そんなに単純に同じ動機だったのかと怪しむ刹那がある。所長の死であれば、関係しているのは、そこで働いていた教職員と奥さんが関わっている事件のため、当時画学生であった私が関与している事は微塵も無いと今でも思っている。お祝いのために贈ったジョニクロとサントリーレッド以外は。しかし、風呂の中で手首を切り自殺したのは何故か。正常な状態だったのか。酒を飲みすぎたためか知らされていなかった。関係者に思い当たるところはあっても、複数の事柄が複雑にからんでいるため、真相が解明されていず、未だ納得できない人が多いのも事実のようだ。
 後日、白血病のため36歳で亡くなった女性美術教師(平野良子)の場合、体の調子が悪化したため点滴を打って寝込んでいたが、数日後の朝、点滴が外れた状態で死んでいた。自殺か、病気で死亡した後、点滴が外れたものか、全く見当が付かない。薬局の彼女の友人も、5年後白血病で亡くなった。陶芸家の知人も、最近、白血病で亡くなっている。
 嫌疑の域でしかないが白血病が自殺の動機のひとつと思える節もある。東横美術研究所所長の自殺に関して阿久津省一と関康から聞き、所長から作品の批評や指導を直接受けたことのある人は誰もが「なぜ?」と愕然とし、理由が解らなかった。職員の給与額と当時美術手帖に時々掲載していた広告費のどちらを優先しなければならないかなどの悩みは自殺の動機となるとは思えない。一説として「建設費の残金や地代、他にも借金があった」と聞いた事があったが確かな事ではない。それから10年後、阿久津の話だと「加藤先生が所長になってから生徒数が減り、ついに倒産して作品など全部売ってしまった」とか。「イーゼルと石膏像は佐藤先生が引き取り、大阪で再び研究所を開くため全部運んだ」「あれ?知らなかったの?東横なんてとっくの昔に無くなったんだよ」と語っていた。その後の事に関しては後任として所長となった加藤勝久氏しかその真実を知る人はいない。

 前所長はミケランジェロメディチ家墓碑「昼と夜」のデッサンを描いた人で、そのデッサンが最も優れていたかどうかは、かなりうまい人でないと解らない。鉛筆デッサンということを聞いていたが。A1かB1サイズか薄おぼえではっきりしていない。阿久津は、本人が気付かないところで微かに記憶に引っかかっているのではないかと心配している。ニューヨークのアート・スチューデント・リーグに6年も在籍していたのは、どのような作品が参考作品として残されていたか見ておきたかったのかも知れない。パリのジュリアン・ソレルで描いた安井曽太郎のデッサンの背後の壁に飾られてあった作品のレベルがどの程度だか見当が付かなかったようだ。
 気になる事として仕事の合間にその研究所で時々指導していたデザイナーで「あまい」という言い方をするアメリカで働き帰国した人がいた。その「あまい」と言う意味が、生徒も職員も具体的には解らなかった。心理学者の宮城音弥に著作「甘えの構造」とか、佐藤というみよじをなじっている訳とは思えないので、1970年代の白人社会での日本人としての偏見やベトナム戦争による人種的抵抗と適応力に関してではないかと漠然と推測するしかなかった。しかし、日本社会の英語のレベルを具体的に言っていたという事が、後で解るようになった。無駄を省いて枯れ果てた状態が厳しいとは到底思えない。
 「あまい」という言い方が人を間接的に傷付ける意図が、悪意として感じられる場合もある。空手をしていた職員は、あまいという言葉は使用しなかったので、白人社会の中で仕事をする場合、日本人デザイナーが人種や文化の異なる相手方の感覚的な意図を察する事が難しく、仕事で失敗したり傷付くことが多かった事から伝えられたことばのようであった。置き換えて考えると解りやすいことで、インドネシア人や韓国人デザイナーが日本国内で働く場合に状況が似ている。大戦による傷跡が尾を引いている社会であった。