KAL007便生存者存命の可能性(50)

1.大韓航空機撃墜事件の概略

  1. ニューヨーク発アンカレッジ経由ソウル行き大韓航空機KAL007は、1983年8月31日JST9月1日未明、ソ連領空侵犯後、南サハリン上空高度10,668m(35,000フィート)を通過し、モネロン島ソ連領空から脱した中立地帯でSu-15TMのミサイル、レーダー式と赤外線式ミサイル2発によって攻撃された。
  2. 最初の赤外線ミサイルはジェット・エンジンをかすり、次のレーダー式ミサイルがボーイング機右後ろから10m、前から50mの所に命中(JST3時26分2秒)。爆発で180cm四方の穴が開き、炎上した。外気温-75〜-50℃、外気圧200〜250hPa。Su-15TMは、標的(ターゲット)が上昇した後、垂直にそり返り、炎上しながら急降下してゆく状況を見ながら爆発地点で360度一周し、ソコル防空軍基地へ戻った。
  3. KAL007は、自動操縦を手動に切り替えるスイッチが入らず、43秒間自動操縦で上昇し続け、高度11,000m(38,250フィート)で、ほぼ垂直に立ってから急降下(JST3時26分45秒)し始めた。ジェット・エンジン4基正常。降下3秒前(JST3時26分42秒)、操縦が手動に切り替わり、爆発53秒後(3時26分55秒)、酸素マスク着用の機内アナウンスが放送された。
  4. その後KAL007は、高度9,500mで3分間水平飛行をしながら北へゆっくり進み、モネロン島上空7,000〜5,000m付近で螺旋降下を2回繰り返しながらさらに降下した。第58千鳥丸船員たちは、モネロン島上空で音をたてながら2回旋回し、降下する飛行機の様子を目撃していた。
  5. 高度4,000mでMiG-23とRTF(MiG-25 or MiG-31)2機に追跡され、左旋回右旋回を繰り返した。追跡機2機のうち1機(RTF)が標的を発見してすぐに長射程空対空ミサイル2発を発射し、KAL007は、そのミサイルをかわしながら右旋回。その後レーダーから消えた(3時38分)ため追跡機2機はソコル防空軍基地へ戻った。高度2,000m以下は場所により水蒸気雲、海上には霧が発生していた。
  6. レーダーから消えたKAL007便は、モネロン島北側約30km海域(国際水域)で操業していた日本のイカ釣船第58千鳥丸上空を轟音をたてながら低空飛行、モネロン島北24km付近で爆発した。(ソビエト連邦によって宣言された領域限界は、モネロン島とサハリン沿岸から12マイル(国際海里の場合22.224km)。モネロン島からサハリン西海岸まで49km、稚内からモネロン島まで約70kmの距離がある)

2.ソ連防空軍による攻撃事実

  1. 1983年9月1日、日本時間23時40分、ロナルド・レーガン(Ronald Wilson Reagan)大統領時代にシュルツ(George Pratt Shultz)国務長官がテレビ会見で発表したところによると、MiG-23とソ連空軍の交信をアメリカ側で傍受、「ソ連パイロットはミサイルを発射し、目標は破壊された」と報告した。これは、Su-15TMの交信と異なる「MiG-23との交信内容で、後から発進した2機(MiG-23とRTF/MiG-31)のうちの一機MiG-31がR-33長射程空対空ミサイルを発射し、KAL007が低空飛行中命中した意味」か、「Su-15TMの撃墜報告がアメリカ側で傍受できなかった」のではないかという意味にも解せる。アメリカ空軍の傍受であれば、Su-15TMとMiG-23を混同するはずがない。日本側のマスコミは、初めの内MiG-23に撃墜されたと報道していたのは、アメリカ側の交信傍受の事実に基づいていた。
  2. ソ連防空軍側で公表した1993年ICAO報告書によると、初めはSu-15TMのミサイルがKAL007の機体後部に命中し、それでもレーダーから消えずに飛行していたので、MiG-23とRTF(MiG-25 or MiG-31)で追撃した。(RTFはニックネームとして現実的交信内容通りに注釈を加えず報告されている) 交信内容では、ソコル防空軍基地コルヌコフ(Kornukov)司令官からMiG-23に対して発射命令が下され、それがアメリカ側に傍受されていた。しかし、その前にRTF(MiG-31)はR-33ミサイルを既に発射していた。KAL007便は、発射されたそのミサイルを右旋回で避けた後、レーダーから消えた(ICAO報告書参考)。

<事実と誤謬>
●KAL007のジェットエンジン4基は正常。油圧装置4基のうち第1〜第3油圧装置が故障。(参:ブラックボックス
●モネロン島上空で合計5回、螺旋降下。追撃機のMig-23は、降下しながらモネロン島上で右旋回した後、侵入機を見失ったと報告。見失った位置はモネロン島北東5km以内。(参:ICAO報告書)
●第58千鳥丸船員(8名)たちは、頭上をかすめるほどの低空飛行だった。さらにモネロン島上空で轟音を発しながら螺旋状に降下するジャンボ機を見ていた。




3.乗員乗客がKAL007機内にいなかった理由

  1. ボーイング機のフロアが、下の燃料タンクが爆発しても突き抜けない構造であれば、機体がほぼ完全な状態で残されていたと言う話も大げさではない。他の航空機事故を参考にすると、21-33,33-46のシート番号の乗員乗客は、燃料タンクの大規模な爆発によって吹き飛んだと考えざるを得ない。衝撃が比較的少なかった席番は、プレミアム1-8,12-21と2階の71-89で、2Fの乗客が少なかったとしてもパイロットたちはどうなったか。生存の可能性が全く無い訳ではない。
  2. 機内の火が海水に浸ったためにすぐに消えれば、残りの酸素マスクも使用できたはず。
  3. 海上での油の広がり方によるが、燃料の広がり方がアスファルト上と同じであれば、機体は海上に何分か浮きながらゆっくり沈み、脱出できた生存者がいた可能性の方が高い。機体はほとんど無傷の状態だったという事が知らされている。
  4. 水面や海面上での油の広がり方は、表面張力がかからないので風のように速い。所々隙間がでる一定の皮膜状の薄さで広がる。緩やかなうねりがあったり、物を投げると、いくつかの不定形の皮膜のように油面が分離し、移動する。
  5. 後から目撃した人の話によれば、「機内は油で浸されていたが、燃えた痕跡は無かった」。それは何故か。外側の海面が火の海で機内は燃えず、沈みながら油の浮いた海水に浸され、早目に火が消えたとしか考えようがない。海面の炎は、2007年の中華航空120便炎上事故に比較すると範囲が広く薄かったため、沈みながら30秒以内、早くて十数秒で消えたと類推できる。
  6. 第58千鳥丸船員たちは、「爆発後、しばらくしてから灯油の匂いが届いた」と語っている。その話から燃料タンクの爆発は海面下の水中爆発であることが判る。水中花火と同じような飛び散り方をしたと考えられる。火の消え方は燃料が四散した範囲に比例して早くなる。おそらく十数秒間の火事でチャイナエアライン120便のように長く燃え続けなかった。焦げ跡や火事の痕跡が無かったのは、火がすぐに消えたためという事になる。
  7. 重要な事は、事件に対する立証方法で、事実の裏付けは検証にあり、証言でさえ後々訂正されて来た事です。根拠の無い推測や当て推量がこの事件を曖昧にさせてきたということです。
  8. 検証でさえ、ひとつの事実が欠けていたり、重要な箇所のわずかな歪曲、回避によって180度違った結果になる場合もあり、絶対的な証にはならない。真実がもっともらしく偽装されている事は何処の世界にもある。
  9. 結果的にはソ連と日本領海で発見されたKAL007乗員乗客の靴が、1983年9月26日(月)早朝、サハリン州ネベルスクにおいてソ連側代表者団によって合衆国・日本・韓国代表者団へ返還された。その後、北海道千歳空港で公開された213人分の乗員乗客の靴にKAL007機内の火事で焦げた跡や爆発で引きちぎれた靴が何足かあったとしても、ほとんどの靴がそのままの状態で、爆発による傷跡が無かったという事実です。
  10. KAL007の右後ろ15〜20mの箇所がミサイルの爆発によって穴が開き、燃料タンクが爆発したその2箇所以外、ボーイング機はほとんど無傷だったという何人もの目撃があった。そうであれば200名から100名近い生存者がいた可能性は十分に考えられるという事です。
  11. この事件の1983年9月1から10日までの事実と撮影された写真や映像、作業報告書、手書きメモなどの証拠物件は、ソ連政府参謀本部KGB、政治家たちによって意図的に放置、あるいは隠されているのは確かです。