阿久津省一(Shoichi Akutsu 1956〜)

阿久津省一(Shoichi Akutsu 1956〜)

斎藤長三教授の批評を聞く阿久津省一1979年
 東京都内東大和市に阿久津が住んでいた頃、1987年から黒い犬(フラットコーテッド・レトリバー)の世話をし始めた。その犬は、元の主人がどこへ行ったか諦めている様子だった。さらに阿久津が引越しの時に何処へ頼んだか分かっていない。「服部さんが、この黒い犬を連れて来て、世話してくれないかと頼まれたんだ」と言っていた気もするが、記憶が曖昧なため確かでない。その当時、彼が描いていた絵はまったくの抽象画で、1820X1820mmの大きさに缶入りの油絵の具を使用していたため、その匂いもひどかったのではないかと思える。絵の具の厚さがある重い作品をいかにして運んだか、トラックに積むにしても一人で持ち運びすることができない重さだった。2年後、アメリカから服部が帰国した時は、阿久津が住んでいた借家で一泊。英語でのスピーチがまったくきれいな発音になったという事を阿久津は関心していた。「ここで英語で話して行ったけど、すっかりニューヨーカーだったね」「服部さんはニューヨークの書店で働けるようになった。なに書店の荷物運びで、本の搬入や搬出係だけどね」と語っていた。
阿久津省一32才1988年
 1988年32才の時のこの写真は、カラー印刷の色調を見るためプリントしたらしく印刷の色を気にしていた。撮影は彼の友人のフォーク・シンガーによる。阿久津本人の普段の顔の特徴と少し異なっているのは眼鏡フレームを変えたためのようだ。服部次夫からもらったソニーの小型多機能テレビを愛用していた。その後、和歌山の方へ行きたいと聞いていたが、中学校に2年ほど勤務したかも知れない。あるいは直接ニューヨークへ行ったか、この辺の事情に関してはっきりしない。両親のどちらかが亡くなって帰国した後、東京電力に就職したと考える事もできるが、戻った場合、語学関係の仕事で働いているのではないかと思える。あるいは北朝鮮に拉致か、まさかそのような事は無いと思うが手がかりが無いので現在何処にいるかはっきりしない。
 2000年頃、私はウクライナ地方のキエフ公国の官庁公務員をしている女性と文通した事があり、彼女は京都の芸者さんになる事を希望し、日本語を学んでいた。パソコンによる英語文通で聞いて見ると、キエフの町に寿司屋があり、ウクライナ出身の男性が日本で寿司の握り方や文化を学び、帰国して開店。北欧で流行っていると報せてくれた。しかし、日本語の基本が解らないので教えてくれという事だった。使用OSはWindows98だが日本語を表示する事ができないので、gif画像で平仮名の読み方やjpg画像で日本の街の風景などを送った事があった。日本語に達者であれば場所により歓迎される場合もある。阿久津であれば国際公務員試験を受ければ、あるいは特A級が可能に思える。阿久津本人はその種の試験をどのように思っているか道が異なっているので解らない。しかし、少なくとも12年以上ニューヨークで働きながら学び、作品を発表していたことは事実のようだ。