核戦争後の世界(29)

 1983年、大韓航空機撃墜事件後の10月31日と11月1日の2日間、アメリカ合衆国ワシントンDCで行われた「The World after Nuclear War」の記録があり、生物学者Paul R.Ehrlichと 天文学者Carl Saganによって「THE COLD AND THE DARK」としてまとめられ、出版された。 核戦争後の地球はどうなるか。その書物が発表された月日がはっきりしていないが、日本語訳の「核の冬」は、1985年に出版。その本の内容は、もし核戦争になったら世界はどのような状態になるか、ということを実際的なデーターに基づき、NASA惑星探査指導者/惑星研究所長カール・セーガン(1934-1996)が発表したもので、「核爆発によって地球は寒気と暗闇に長期間閉ざされ、急激な気候変動によって生物は死滅する。人類の数は有史前のレベルか、それ以前に減ってしまうかも知れない。そして人間の種そのものの絶滅する可能性も否定することはできない」という結論であった。この書物はソ連アメリカ・イスラエル科学アカデミー会員による多くの科学者と研究者のデータに基づきまとめられた意見で、カール・セーガン自身は、「対流圏と成層圏を突き抜ける爆発の塵は、対流圏の下であれば早目に降塵し、成層圏上であれば遅く降ってくる」という事について解説した。

Russian Nuclea 50 megaton TSAR Bomb/Atomic bomb Nagasaki/Hirosima.1945.08.06.08:15

  1. 50メガトンの核爆弾は広島原爆の3,300倍。
  2. 生物学者ポール・エールリッヒは、「基本的な研究結果は悲惨なもので、控えめに見ても恐怖を感じる。核地獄を起こしてはならないということを確信するための証拠をいくらでも提供できる。かつて私たちが思っていたより生態系の存続が危険にされされていること、数千年かかって獲得した人類の文明のすべてが脅かされていることの証拠を提供することができる。具体的にはオゾン層破壊による紫外線直射によって白内障が増え、失明者が多くなる」ということについて語った。
  3. 「核戦争後の世界についての会議」は長期にわたり、1983年の20年前からワシントン、モスクワ、ストックホルムなど世界各地で開催されていた。科学アカデミー会員と研究者による米ソの核爆発に関するデーター交換と核戦争後の物理的、生物学的、環境的シンポジウムや会議、意見交換であった。
  4. その書物の中に、アメリカ合衆国ロナルド・レーガン政権下の国防次官が書いた「核戦争後の世界・・・その主な結論のひとつは不確実性である」という意見があり、1981年に中国が行った核実験の結果は、ペンシルベニアでの核実験の放射性降下物と放射線量が1/10にも満たない結果だったと発表された。1954年に行われたビキニ環礁での水爆実験の結果が、爆発地点から遠くを汚染するという事も考えられ、バン・アレン地帯への影響、電磁パルス、オゾン層への窒素酸化物の乱入などを検討しなおさなければならないという事も言われた。
  5. これらの科学的な研究結果が提起する政治的問題にどのように対処するか、あまり考えられていなかった。トーマス・W・ウィルソンは、「国家安全保障の認識への変化」の中で、政治的問題の優先権を強調している。「私たちが無事に暮らしてゆく唯一の方法は、地球を安全にすることである。世界の安全は、実用主義者のための政策であり、また詩人のための政策でもある。それは聖人に合った戦略を提供するだけでなく、軍人に合った戦略も提供する。全ての生物たちのためのものである」ということを強調している。
  6. この問題に関しては、「核戦争後の地球を知ってどうするか」「核兵器をどうしたら無くせるかを研究すべきだ」という意見があった。

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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007,25 February 2010-2024-.

米国ジョージ・シュルツ国務長官      「生存者はいない」公表の根拠(28)

 KAL-007が撃墜された翌日、アメリカ・ニューヨーク時間(UTC-4)9月1日午前11時45分、米国ジョージ・シュルツ(George Pratt Shultz)国務長官が、記者会見とテレビニュースで正式に発表した「生存者はいない」という根拠がどこにあったか、もう一度確認しなければならない。

ソビエト極東軍レーダー基地

  1. 「生存者はいない」という米国側の発表は、ソ連極東防空軍基地と迎撃戦闘機の交信会話、「目標を撃墜した」という連絡からの判断で、「高度11,000mでミサイルが命中し、爆発した状況を考えた合衆国政府による結果」であれば、「生存者はいない」と公表できる状態か、判断を急がなければならない理由が他にあったのではないかなどの疑惑がある。ニューヨーク発であれば、解らない状況は許されないことで、正確で理論的な即断が望まれていた。
  2. 「目標を撃墜した」というソ連パイロットによる無線連絡は、稚内自衛隊基地から内調と言われている内閣情報調査室で録音傍聴されていたもので、日本政府は、雑音を排除し爆発音を強調した英語訳付きテロップテープを合衆国へ送った。


防衛庁長官_Masaharu Gotoda

  1. 日本では(JST)9月1日午後4時、後藤田正春防衛庁長官は「撃墜した可能性が大きい」とTV記者会見で発表。午後8時20分、安倍晋太郎外相は「ソ連機によって撃墜された可能性が高い」とTV記者会見で公表。ニューヨーク時間(UTC-4)9月1日午前11時45分(JST_9月1日午後10時45分)、ジョージ・シュルツ米国国務長官によるテレビ放送があった。
  2. ソ連側では事件当日から9月6日まで、大韓航空機007便の撃墜を認めていなかった。
  3. その当時、後藤田正春(Masaharu Gotoda)国防長官がカークパトリック(Jeane Jordan Kirkpatrick)国連大使を通し、日本から合衆国へ送ったテープは、「大韓航空機撃墜の事実をソ連に認めさせる事」が当初の目的だった。後藤田正春は「傍受テープを公開する事はマイナスだが、ソ連側が否定していた撃墜という事実を証明する事ができる必要最小限の発表をした」と語り、その録音テープの公表については合衆国政府に依頼(一任)という方法で対処した。
  4. アメリカ・ニューヨーク時間9月6日正午、合衆国カークパトリック国連大使は、「Mig23型1機、Sukhoi-15TM3機」の交信を傍受した英訳文字入りビデオを国連で発表。
  5. 9月9日ソ連参謀総長オガルコフは、モスクワにおける各国共同記者会見で「領空侵犯機を撃墜した」と正式に表明。その時の解説状況が全国のTVで放送された。


1983年11月ユーリ・アンドロポブKGB書記長
Yurii Vladimirovich AndropovはNATO核ミサイルをアメリカへ向けて配備した。

  1. 撃墜後、「なんて事をしてくれたんだ。あれは民間機だったんだぞ!」という事故直後の交信は、当時民間機の確認が可能だったKGBロマネンコ将軍以外いない。国境警備隊KGBロマネンコ将軍(当時少将)からの聞き伝えの場合、本人が確認していないので怒鳴ることは無理ではないかと思える。ソコル防空軍基地極東司令官コルヌコフ(当時大佐)の場合、自ら完全に撃墜することを願っていたので、その言葉はふさわしくない。
  2. もし、「生存者がいるかもしれない」という発表であれば、KAL007の機体を探すはずで、ユジノサハリンスク空港にもその機体が着陸していないならば、「海上に激突して粉々になった」と誰かからの連絡が入ったのではないか、という事も推測できる。
  3. ミルチンク号の乗組員には、9月1日にカムチャッカ沖で海底油田開発の作業中、急いでモネロン島東側へ来てくれるようにその会社から緊急の仕事の依頼が入り、その理由が伝えられた可能性も出てくる。ソビエト太平洋軍団バシリエヴィッチ・シドロブ(Vasilyevich Sidorov)提督は、JST9月1日に他国の干渉を遮るための作戦会議を開き、将校以上の司令官を集めた。その会議の前に、午前9時頃、油田開発(石油掘削船)会社に緊急の仕事として回収作業用の船を手配してくれるように電報と電話で依頼した。その油田開発会社は、カムチャッカ沖で海底掘削をしていたスエーデン製ミハイル・ミルチンク号を指定し、現在の仕事を中止し、急いでモネロン島東側へ来るように手配。ミルチンク号の乗組員には、「防空軍が中立領域で標的を撃墜し、粉々にした」という状況が伝えられていた。ソ連側ではイズベスチア新聞の記者会見で、シドロブ提督が話した9月1日の内容は、「回収作業のできる石油掘削船会社への緊急手配と作戦会議に関して」であったが、時間的にはその日の夜、アメリカ時間9月1日午前11時40分(日本時間9月1日午後10時45分)、米国ジョージ・シュルツ国務長官によるTV放送での発表があった。

米国ジョージ・シュルツ国務長官発言の重要性

米国国務長官 George Pratt Shultz
 ジョージ・シュルツ国務長官は、アメリカ時間(UTC-4)9月1日午前11時45分、「生存者はいない」とテレビや記者会見で公に発表した情報源は、合衆国NSAによってその情報を確認したCIA、シュルツ国務長官レーガン大統領による判断か、これもはっきりしない。ICAOに提出されたソ連側の爆発後の事実によれば、その後の状況と明らかに違っている。KAL007は、上空と海上で2度爆発して海底に沈んだが、ほとんど完全な状態で、粉々になった訳ではなかった。それらはイズベスチア紙上で公表された事実報告とロシア民間人による目撃談を注意して読むと洞察することができる。
 ボーイング747型機による夜間の不時着水の場合、過去に成功例が無い。事件の究明には、事実的な確認が欠けているために解決しない事があり、この事件で最も重要なことは、"18:26 hours the Soviet pilot reported that he fired missiles and the target was destroyed... and breaking away." "18:34 hours, Korean airplane disappeared from the radar screen.”と公表した米国国務長官の言葉が重要な鍵を握っている。And breaking awayは「破壊したが逃げている」という意味。客観的には"and breaking away"と発音しているので後から追撃したMig-23の交信内容から"and breaking away"と表現した事が理解できる。しかし"no survivors"捜索にも関わらず「生存者はいません」とWashington ABC NewsのTVアナウンサーが解説し、新聞などでも報道されたため、日本にその内容が知らされた。KAL007は、上空で爆発した後、43秒間上昇し、2分後降下しながら北へ向かった。3分間の水平飛行の後、左へ曲がり、右へ曲がり、モネロン島上空で螺旋状に5回まわりながら降下し、レーダーから姿を消した。レーダーから消えた位置は、モネロン島北東5km以内だった。そのレーダーの軌跡は、ソ連極東軍、日本の稚内自衛隊基地で確認されている。客観的にはそれらのデーターに基づいた合議による判断と思われる。日本とアメリカ西海岸の時差は17時間、ニューヨークと13時間。日本時間の方が速いので日本からの報道で伝えられた可能性がある。9月2日の日本の朝刊には「撃墜!大韓航空機の乗員乗客269人全員死亡」、9月2日朝日新聞「韓国機ソ連が撃墜。米国務長官が発表、8機迎撃、ミサイル、乗客ら269人は絶望(夕刊)」と報道された。「乗員乗客269人全員死亡」の記事は、日本からの報道であった。

 

 1983年(JST)9月2日のサンケイ新聞には「付近海上に油、捜索機が発見」と地図入りで掲載されている(海上に浮遊する油はモネロン島北20km付近の西寄りで表示)他、「ソ連 墜落だけ認める」「撃墜には触れず、海馬島海域に事故らしい形跡。ソビエトのパブロフ駐日大使、外務省に通告」「燃料タンクにミサイル命中?」「高空で突然消えたのは・・・専門家の分析」「レーガン大統領休暇打ち切る」「サハリン上空で大爆発音」「閃光も見えた」「付近で操業のイカ釣り船_確認急ぐ」など。TV放送による「生存者はいない」という発表は、これらの事々に基づき、これ以上の確かな根拠がなかった。もし、これ以上の確かな根拠があれば、それを公表し、納得させるはずと言っても過言ではない。


 2013年9月2日(月)朝日新聞<北海道版>「現場からの報告(下)」特集記事より  ---サハリン在住の人が語った話---大韓航空機撃墜「事件直後に漁船でモネロン島に渡った父が話すのを聞いた」「モネロン島周辺の海に無数の遺体の一部が浮かび、子どもの服もあるのを見た」「その日はちょうど学校の始業式の日でした」。---サハリン西海岸の住民の話---「夜明け前、突然爆発音が響き、窓ガラスが揺れました」「ソ連ではスパイ機と新聞やラジオで報じられていましたが、日本語ニュースで旅客機と伝えられていました。しかし当時のソ連では怖くて旅客機であるという事を言うことはできませんでした」。


解説:不時着水時の燃料タンクの爆発だけであればボンという音で、50km離れているサハリン西岸までそれほど響かない。サハリン西ゴルノザゴーツク25km沖、上空11kmのミサイル炸裂音ではないか。海上に浮かぶ無数の遺体部分は、11,000m上空の爆発で飛び散った乗員乗客の遺体と手荷物、朝食用食物などが考えられる。事件直後にモネロン島へ実際に漁船で渡った人の話であれば、事実と思えるが、モネロン島北側と限定せず、---"島周辺の海に"---と伝えられている所に特殊で最も重要な真偽の問題性がある。島の上空で螺旋状に5回まわりながら降下した時も含め、モネロン島に直接落下した手荷物や遺体もあった事が現実的可能性として出てくる。高度11,000mから9,000mまでの急降下中、後部火災と煙のため、エコノミークラスの乗員乗客は耐え切れずにビジネスクラス・ファーストクラスへ自発的になだれ込み、滑り落ちて避難。KAL007の最も後ろの座席に便乗していたデッド・ヘッドと言われる客室乗務員(交代パイロット・スチュワーデス・スチュワード合計27名)たちは、後部座席で気絶した負傷者や同僚がいるか、高度9,000mの水平飛行中(3分間)に調べたはずであった。もしDHの何人かが生き残っていれば、そうする義務と時間は10分ほどあった。爆発による機内火災は、機内空気が急激に抜けると同時に炎の先も爆発で開いた穴から外へ抜け出る。リクライニングシートで爆発による金属破片と放射熱を防げた場合は、最も後ろの座席でさえ生き残れる可能性はあった。
"島周辺の海に"という話は初めて聞く目撃で、もしそれが本当なら、モネロン島上空の螺旋降下の時に誰かがエコノミークラスを調べていたか、人為的な第3者の手が加わったことも考えられる。緊急事態の訓練を何度も行った経験のあるKAL_DHの何人かが、ミサイルか窓際の自爆テロの可能性もあると判断した場合、わずか10分ほどでは無理と思えるが、エコノミークラスを調べ、生存者がいるか探す必要があった。
日本側の海上で発見されたボーイング747の窓付き外壁は約1.8m×1.8m(1.78m)。だいたい四角形であまり歪んでいなかった。爆発によって吹き飛んだと思われる部分として当時の北海道新聞に写真入りで報道されていた。破壊された個所は、約1.8mと推定されていたが、「モネロン島周辺の海に無数の遺体の一部が浮かんでいた」という言い伝えが本当であれば、シートベルトを外していたエコノミークラスの乗員乗客は、急上昇中に体が逆さまになり、吹き飛ぶ勢いで手荷物や毛布と一緒に機外へ放り出されたり、水平垂直尾翼で切断されたという事になる。その規模であれは、破壊された外壁は1.8mではなく、3m近いという可能性もでてくる。口径25mmの徹甲弾ボーイング機の外壁を貫通する威力があり、乗客は緊急事態で反射的にシートベルトを外したはずであった。ミサイル爆発時のKAL007の飛行速度は時速900km前後だった事が確認されている。
「機内は空だった」という報告は、ソビエト海軍の場合は機密で、事件10日後の民間ダイバーによれば遅過ぎの報告のため、機内後部に遺体や手荷物は残されていたと見当をつけるのが正当に思える。
着水時の海上爆発は、イカ釣り船の乗組員による話(NHK特集)では、「ドカーンと音がしてから水平線がピカーと光り、ぱーっと明るくなった」。その状況では危険貨物として爆発物、ミサイルや爆薬と限らずバッテリー・ガソリン・自動車などを積んでいた事も充分に考えられる。乗客数が少ない割合に上昇速度が遅かったというのは重い貨物を積んでいた事による。

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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007,11 October 2010-2024.5.26-

KAL007乗員乗客リストと座席番(27)

ボーイング747座席配置図と爆発状況


KAL007爆発状況の解説

  1. KAL007便はボーイング747-230B型で、47Aの座席背後は非常口用の通路と2列の休憩席だった。エコノミークラス全部が1室で、トイレ(洗面室)とキッチン(厨房)は10m前にあり、現在の747-400のようにトイレはあったがキッチンによって2つに仕切られていなかった。席番にもズレがあり、47番はボーイング747-400に無い。しかし、747-400の40Aから42Aとだいたい同じ位置ある。
  2. KAL007の爆発直後、エコノミークラスで乗員乗客の毛布い引火し、爆発の破片で負傷した乗客たちは、仕切り前のビジネスエリート空席へ死にもの狂いで避難したにちがいない。全身火達磨の場合、腕で目を隠し、もがきながら前方へ歩こうとする。エコノミークラス前列であれば、次々に前の部屋へなだれ込んだ。エコノミークラスの乗員乗客は150名近くいた。Su-15TMが「撃墜した」とソコル空軍基地に報告できるほどの炎上の仕方であれば、後部座席1室まるごと、少なくとも50名以上は、ミサイルの爆発による放射熱で火達磨になった。エコノミークラス前列と後列で火傷を負いながら何とか非難できた乗員乗客の数は、限られている。爆発物の破片によって死傷、大怪我をしていない人々が背後からの火炎で燃えながら移動できた人数は、50名から100名前後ではないかと推測できる。エコノミークラスの前半分は、リクライニング・シートで放射熱は防げたはずで、炎の間合いを見ながら前方の部屋へ駆け込めた。爆発場所から後ろの座席の乗員乗客の顔は、金属破片と放射熱で怪我や火傷をし、気絶した人は焼け死んだ。
  3. 爆発後、43秒間で500mから1,000m上昇した時の機内角度は、最初は緩やかに10度から20度程度であれば、火炎に追われながらも20秒以内に前の席の方から50名から100名近く移動できた可能性がある。

「太陽が沈まない」

  1. KAL007の生存者がかなり多くいたとしてもロシア風に改名し、過去の自分の名前を記憶していても思い出す必要が無い状態にされている。先住民の戸籍登録が完全になされていないロシア過疎地の地方自治区であれば、ロシア名で新規に移民登録した場合、KAL007の乗員乗客は書類や法律上で、もはやロシアに存在していない状態となる。
  2. タイガとツンドラの中間地帯であれば、-50℃まで下がり、−50℃以下までさがる地帯は樹木が生えない。トナカイの肉を焼いて食べる場合は、斧や鉈、樹木が必要で、その臨界地帯から離れると樹木がないため、生肉で生きざるを得ない。
  3. もし、戦時下民間人捕虜の扱いであれば、アブラハム・シフリンが言っていたように、強制収容所の周辺で自活することを強いられる。アムール川森林地帯で2年間伐採の重労働をした後、1985年にペレストロイカが提唱されてから、野生のトナカイが群生するシベリアで最も過疎地のネネチアNenetsia、 ヤマリアYamalia、 クラスノヤルスクKrasnoyarsk、 サハSakha、 北東のチュコツカChukotka自治区に配置移動させられた。
  4. 連絡が取れたKAL007の生存者がほとんどいないと言う事は、何がしかの規制が行われている。アブラハム・シフリンのリサーチセンターが調査した話が現実であれば、KAL007便の生存者は、自分の名前すら思い出せない、あるいは思い出す必要性が無いように要領よく記憶を消され、先住民や開拓民と同じようにシベリアの自然に適応させられている。
  5. 電気の無い-70℃まで下がる極北の地でトナカイと一緒にテント生活をすることを、中沢建志は望んでいたか。どちらの生活環境が良いかは本人しか知らない。社会主義国で新規に戸籍登録をした人は、地域別共同施設を使用したりコミュニティーに参加することができたとしても、結果的に国外からの拉致、誘拐ではないか。もし中沢建志が死なずに生きているということを確認する事ができ、本人であると自分で言うことができれば、さらにKAL007の乗員乗客の過半数がロシアにいるという事がはっきりすれば、国際法では政府とKGB組織ぐるみの犯罪ということになる。TVで放送されたり、訴訟を起こすだけで、再び他の過疎地へ移転することを余儀なくされ、どこへ行ったか判らない状態にさせられる手口は、社会主義国による拉致に共通している。
  6. 上層部の管理者にKAL007の乗員乗客の行方が極秘に口頭で報告されていたとしても、提出された書類上で「生存者はいない」という報告しかなされていない。定住型上層管理社会と、移動型底辺層の管理者、西ロシアと東ロシアに初めから著しいズレが生じていた。
  7. 東ロシアは前人未踏の未開地が多い。移動しながら生活する先住民、遊牧民であれば、戸籍など必要とされず、30年前であえば人口数さえはっきりしていない。トナカイが群生する無人地帯へ放置。過疎地の場合は、その方法が外国人捕虜に対する定例的で手間のかからない処置と、初めから知っていたとしか考えようがない。 


KAL007生存者存命の可能性
 現在居る地点がどの辺りか、見当がつかないKAL007の生存者たちが、極東のバッファゾーンと言われる生物保存地域付近で生活している。その可能性は非常に高い。アラスカに最も近いシベリア大陸、極東の果て、チュコツカChukotkaにもトナカイが群生している。しかしチュコツカのツンドラ地帯に樹木は生えていない。雪の下は草原。トナカイの乳、血と生肉しか食料が無い。ベーリング海峡85kmは、冬に凍結するということをアメリカ人であれば何人かが知っている。しかし氷が割れている場所があったら、さらに国境付近で隠れる場所が無い場合、ヘリコプターで狙い撃ちされる危険性もある。
 衣服などで以前の文化圏や国柄が解るので、民族衣装や毛皮で隠すことに反対している元自由主義国の人々、アメリカ人やニューヨーカー捕虜も撮影されている。元々の運命的な国家間の犠牲となっている問題を曖昧にするため、コミュニティー・ディスカッションによる懐柔策を取り、自治体への斡旋を行っている。Inariとは日本語の稲荷(いなり)。ラーゲリの外国人捕虜ということには触れていず、それを知っていたとしても面白いライフ・スタイルとして英語で紹介している。-50℃まで下がるタイガ地帯での彼らの生活環境は厳しく、テント住まいをCampus homeと言っている。ラーゲリの監視をゆるめ、自治体あるいは共和国に変わりつつあるサハ・ヤクーティアの油田開発やダイヤモンド鉱山の給料は、1ヶ月200〜250ルーブル(800〜1,000円)。移民キャンプ生活者には、元外国人捕虜、拉致被害者、移住者なども含まれているが、エスニックグループは少ない。



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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007,12 February 2010-2014

KAL007乗員乗客リストと座席番号(26)

Num Name Title Age State Country Seat
001 Ahn In-Soo Ms 28 Bronx, NY USA 38D
002 Diane
003 Ariadej Sammy Baby 8 months Bronx, NY USA 38D
004 Avecilla Josefina Miss 40 New York Philippines 49A
005 Yoon-Jong Mr New York Korea 17D
006 Bahk Mric Mr Korea 54D
007 Bayona Anita Miss Caldwell, NJ USA 43A 
008 Bayona Lilia Miss    Caldwell, NJ USA 43B
009 Bae Boon-Soon Mrs Korea 31C
010 Bae Young-Rang Mrs
011 Bae Young-Rang
012 Beirn James Mr 50 Piscataway, NJ USA 32J
013 Bevins Richard Mr 32 New Windsor, NY USA 10B
014 Bissell Eleanor 71 Au Gres, MI USA 28C
015 Bok Hyun-Mok
016 Bolante Eusebio Mr 63 East Orange, NJ Philippines 30D
017 Bolante Nymfa Miss 24 East Orange, NJ Philippines 30E
018 Burgess James Mr 57 Seneca, SC USA 25A
019 Campbell Susan Lee Dr 28 Shrewsbury, MA USA 49H
020 Carasco Christian Mr 14 New York, NY USA 27E
021 Carasco Elizabeth Miss 17 New York, NY USA 27F
022 Caser Corneho Mr 67 New York, NY USA 50C
023 Soo-Myung Mr 12 Tokyo,Japan Korea 36A
024 Chambers Joyce Ms 35 Detroit, MI USA 27G
025 Chan Amado Mr Samar, Philippines Philippines 49K
026 Chan Joseph Mr Samar Philippines Philippines 45K
027 Chan Shu-lin (Shu-jin). Mr Taiwan Taiwan 29F
028 Chang Mason Mr Taipei, Taiwan Taiwan 31K
029 Chang Tsaichen Mr 63 Taiwan Taiwan 51A
030 Chanlin Yee Shin Ms Taiwan Taiwan 29G
031 Chen Fu Long Mr Taiwan Taiwan 55G
032 Chen Juyen Ms 29 Taipei, Taiwan Taiwan 41J
033 Chen Lee Jenrong Child Taiwan Taiwan 55J
034 Chen Shiaofen . Ms Taiwan Taiwan 55H
035 Cheng Chih Chong Mr Taipei, Taiwan Taiwan 55K
036 Cho Hyeong-Shim
037 Cho Jae-Mook16C Mr Korea
038 Cho Kyeong-Ja
039 Choi Kyeong-Ae
040 Chuapoco Cecilio Dr 52 Teaneck, NJ USA 47H
041 Chuapoco Celita Ms 3 Teaneck, NJ USA 47J
042 Chuapoco Mary Ms 29 Teaneck, NJ USA 47K
043 Chun Byung-In
044 Chung Hwa-Soon Mrs 31 Korea 26G
045 Chung Ok-Soon Mrs Korea 35H
046 Chung Yum-Soon Mr 50 Seoul, Korea Korea 42A
047 Covey Mary Lou Ms Canada 50A
048 Cruz Alfredo Mr New Rochelle, NY Philippines 40B
049 Cruz Edgardo Mr 59 Irvington, NJ Philippines 40G
050 Cruz Edith Ms 24 Chattanooga, TN Philippines 40A
051 Cruz Frisca Mrs 60 Irvington, NJ Philippines 40H
052 Culp Marie Ms 75 Pontiac, MI USA 53C
053 Dang Loc Mr Monroe, NC Vietnam 51H
054 Dawson Lucille 57 Warwick, RI USA 26A
055 de Massy Fran Mois Robert Mr Montreal Canada 45A
056 Dorman S Mr Montreal, Canada USA 17C
057 Draughn Sarah Miss 20 Medford, MA USA 31A
058 Ellgen Richard Mr New York, NY USA 17G
059 Ephraimson-Abt Alice Miss 23 Saddle River, NJ USA 28H
060 Fitzpatrick Lillian 60 Warwick, RI USA 26C
061 Forman Evelyn Mrs 30 New York, NY USA 26J
062 Galang B Mr Laguna, Philippines Philippines 38K
063 GrPgoire Jean-Paul Mr 65 Montreal Canada 53H
064 Grenfell Carol Ann Mrs 33 Australia 08A
065 Grenfell Neil Mr 36 Australia 07B
066 Grenfell Noelle Ann Miss 5 Australia 07H
067 Grenfell Stacey Marie Miss 3 Australia 07J
068 Guevara A Mrs Manila, Philippines Philippines 46A
069 Guevara T Infant Manila, Philippines Philippines 46A
070 Myo-Soon Mrs. 66 Seoul, Korea Korea 22A
071 Haba Hiroki Mr 18 Tokyo, Japan Japan 57H
072 Han Jung-Min Miss Korea 36E
073 Han Man-Chul Ms Korea 36F
074 Han Oong-Jeon Korea 36G
075 Han Seong-Seok Mr Korea 52B
076 Hansuwanpisit A. Ms Bankok Thailand 35A
077 Hendrie Mary Jane Ms 25 Canada 38A
078 Hjalmarsson J Mr 38 Sweden 18G
079 Ho Ming Tai Mr 27 Hong Kong Hong Kong 18C
080 Ho Yuk Lee Miss 28 Hong Kong Hong Kong 41A
081 Homloar Thomas 4 Bangkok Thailand 35B
082 Hong Hyong Ung (Billy) Mr 41 Greenville, SC USA 25C
083 Hwang Byung-Sook Mrs Korea Korea 17J
084 Inoue A Child Tokyo, Japan Japan 32D
085 Inoue K Mrs Tokyo, Japan Japan 32E
086 Inoue M Miss Tokyo, Japan Japan 32F
087 Ishihara Masuyo Mrs Kyoto, Japan Japan 41K
088 Iu Wai Kong Mr 33 Hong Kong Hong Kong 32H
089 James Hazel Detroit, MI USA 53A
090 ang Seung-Jip Korea 20H
091 Jang S.T. Korea 21H
092 Jang Sang-Joon Korea 17K
093 Jang Seung-Young 72 Korea 21K
094 Jang Young-Tae Korea 20K
095 Jeong Keum-Joo
096 Jeong Ran
097 Jung Moo-Ho Korea 25H
098 Kang Jin-Hae
099 Kang Youg-Jae Child Korea 36K
100 Katz Jack Mr 62 Plainview,NY USA 21C
101 Kawana Hiroaki Mr Shizuoka,Japan Japan 48H
102 Kim Beom-Cheon Korea 52A
103 Kim Cheong-Yoong Mr Pusan,Korea Korea 19C
104 Kim Choong-Ryul
105 Kim Eui-Dong
106 Kim Hak-Yoon
107 Kim Hui-Cheol
108 Kim Keum-Soon
109 Kim Kyeong-Soon
110 Kim Lee-Kyu . Mr Korea
111 Kim Gan-Ran . Korea Mrs Seoul Korea 25D
112 Kim Jin-Hong . Mr New York,NY Korea 54H
113 Kim Lee-Shik Mr 25 Staten Island,NY Korea 56A
114 Kim Mi-Hyang
115 Kim Rae-Soo Mr Korea 51J
116 Kim Seo-Il +Kim Soon-Taek Korea 17A
117 Kim Hyeon-Bok Mrs 60 Seoul Korea Korea 38H
118 Kim Woo-Shik Mr 67 Seoul Korea Korea 23B
119 Kim Yeong-Ran
120 Kim Young-Shik Ms Korea 24K
121 Kitao Hito Miss Tokyo,Japan Japan 37K
122 Ko Young-Ho . Mr Korea 54A
123 Kobayashi Ikuko Miss Tokyo,Japan Japan 30A
124 Kobayashi Shoichi Mr 60 Tokyo,Japan Japan 30B
125 Kohn Allen Mr 63 Bala Cynwyd,PA USA 33A
126 Kohn Lillian Mrs 56 Bala Cynwyd,PA USA 33C
127 Kole Muriel Ms 39 Londonville,NY USA 28K
128 Kong King Mr Taiwan Taiwan 56H
129 Kono Tomiko Ms Osaka,Japan Japan
130 Kung Chin-Fan Mr 60 Taiwan Taiwan
131 Kwon Seong-Hee Miss 18 Seoul,Korea Korea
132 Kwon Yeon-Keum Mrs Seoul,Korea Korea
133 Lal Yung Ms Hong Kong Hong Kong
134 Lantin Raymundo Mr 36 New York,NY Philippines
135 Lee Boon-Rye
136 Lee Chul-Kyu 30 Seoul Korea Korea
137 Lee Eun-Hui
138 Lee Eun-Hyung Mr 36 Yonkers,NY Korea
139 Lee Eun-Mi
140 Lee Hee-Ryung Mr 36 Detroit,MI Korea
141 Lee In-Ho Mr 23 Jersey City,NJ Korea
142 Lee Joong-Keun
143 Lee Jeong-Bong Seoul,Korea Korea
144 Lee Kwi-Hyun 9 Detroit,MI Korea
145 Lee Kim-Kyong Mrs Detroit,MI Korea
146 Lee Li Cheng . Mr Taiwan Taiwan
147 Lee Myung-Hwan Korea
148 Lee Myung-Jae Korea
149 Lee Sang-Kyoon Korea
150 Lee Seong-Joon 13 Detroit MI Korea
151 Lee Joon-Hyouk Child
152 Lee Joon-Won Child
153 Lee Yoon-Jae
154 Leung Chiman . Mrs 46 Toronto Canada
155 Leung K.O Mr 57 Hong Kong Hong Kong
156 Lim Jong-Chul 50 Queens,NY Korea
157 Lim Jong-Jin Dr 51 New Milford,NJ Korea
158 Lim Sang-Kee
159 Lim S.M Mr Hong Kong Hong Kong
160 Lim Won-Bok
161 Lin Sanmei Mr Taiwan Taiwan 37C
162 Liu C Mr Hong Kong Hong Kong 34H
163 Liu C Mrs Taiwan Taiwan 34J
164 Liu John Mr. Hong Kong Hong Kong 44A
165 Liu P Miss Taiwan Taiwan 34K
166 Liu Y Mr Taiwan Taiwan
167 Lombard Aiden Mr 43 Hatboro PA USA 08H
168 Lombard Donald Huntingdon. Mr 41 Valley,PA USA 09H
169 Ma Shi-Jen Mr Taiwan Taiwan 34C
170 Mano Sayori Miss Nagoya,Japan Japan 43H
171 McDonald Lawrence Mr 48 Marietta,GA USA 02B
172 McGetrick Mark A Mr 33 Danbury,CT USA 11B
173 McNiff Kevin Mr 28 Beverly,MA USA 24C
174 Metcalf Chong Mrs 30 Korea USA 55A
175 Metcalf Christa Gayle Miss 3 Korea USA 55B
176 Metcalf Rita Denise Miss 7 Korea USA 55C
177 Miller Edna Ms Madison Heights,MI USA 28A
178 Min Kyung-Hoon 26 Athens,OH Korea 57A
179 Moline Jan Mrs New York,NY USA 16K
180 Nakao Osami Mr Nara City,Japan Japan 43K
181 Nakazawa Takeshi Mr 25 Kanagawa,Japan Japan 47A
182 Nassief Anthony Mr Curacao Canada 43C
183 No Joon-Shik
184 No Kwang-Oo
185 Ocampo Cecilia Miss 2 Staten Island,NY USA 31E
186 Ocampo Corazon Miss 4 Staten Island,NY USA 31F
187 Ocampo Suellen Mrs 39 Staten Island,NY Philippines 31G
188 Oh Jung-Joo Ms Korea 07A
189 Okai Makato Mr Hakata,Japan Japan 19G
190 Okai Yoko Mrs Hakata,Japan Japan 19F
191 Oldham John Mr Washington,DC USA 31H
192 Omblero A Philippines 49C
193 Oren William Mr 31 Middletown,NY USA 10A
194 Osaka Noriyuki Mr Tokyo,Japan Japan 52K
195 Osedo Midori Mrs 62 Kanagawa,Japan Japan 33K
196 Pakaranodom S Mr Bangkok,Thailand 42H
197 Pakaranodom S Ms Bangkok Thailand 42J
198 Pakaranodom W Ms Bangkok Thailand 42K
199 Pan Limei Ms Taiwan Taiwan 39C
200 Panagopoulas George Mr 32 Toronto Canada 53K
201 Park Ae-Kyung Mrs Buffalo,NY Korea 41D
202 Park Graham Mr 2 Buffalo,NY USA 41G
203 Park Han-Tae Mr Valley Forge,PA Korea 27K
204 Park Heung-Seol 55 Seoul,Korea Korea 52G
205 Park Hong-Soon Mrs 40 Seoul,Korea Korea 37A
206 Park Ilcheong . Mr 39 Seoul,Korea Korea
207 Park Jahngaun Mr. Korea 20C
208 Park Min-Shik Dr 31 Buffalo,NY Korea 41D
209 Park Sarah Miss 4 Buffalo,NY USA 41G
210 Park Seung-Ha Seoul,Korea Korea 19A
211 Park Yoon-Seong
212 Patel K . Mr India 41C
213 Petroski Raymond Mr 36 Dunellen,NJ USA 32K
214 Powrie Ian Mr 24 Washington,DC Hong Kong 26K
215 Putong Jovita Mrs 65 Staten Island,NY Philippines 31D
216 Rhee Soon-Shik Korea 23K
217 Rhee Jae-Il Korea 52D
218 Robert F Mr 27 Montreal Canada 45B
219 Ryu Choon-Taek Mr Korea 20A
220 Ryu Kyung-Keon Mr Greenbelt Korea 40C/MD
221 Ryu Ok-Myung Mrs Korea 36D
222 Sayers L. Mr Ontario Canada 54K
223 Scruton Rebecca Mrs 28 Meriden,CT USA 50H
224 Seo Jeong-Sook
225 Seo Joo-Ok . Mrs 29 Suwon,Korea Korea 48K
226 Shiiki Lune Miss 12 Tokyo,Japan Japan 29A
227 Shiiki S. . Mrs Tokyo,Japan Japan 29B
228 Shimizu Miyako Mrs Tokyo,Japan Japan 46K
229 Shin Jeong-Moo
230 Siow Woon Kwang Mr Malaysia 34A
231 Siripoon Juntana Mrs Wat,Thongple Thailand 42C
232 Siu Robin Hong,Kong Hong Kong 09A
233 Slaton Jessie Ms 75 Detroit,MI USA 27C
234 Sohn Kyun Eok Mrs 48 New York,NY Korea 36H
235 Sohn So-Ja Mrs Korea 22J
236 Sohn Young-Ja Korea 22K
237 Son Dong-Hui
238 Song Anna Mrs 63 Yonkers,NY USA 49E
239 Song Yeong-Min
240 Spier Kathy Brown Ms 39 Secaucus,NJ USA
241 Steckler Irene Bigotte Mrs Osaka,Japan USA 37D

KAL007機体の海底移動と残骸(25)


MONERON ISLAND MAP:KAL007 explosion spot 46"27N, 141-13E, present spot 141-20E,46"35N 

  1. KAL007の機体は、モネロン島北方約24kmの海底から引き上げられ、ほぼ完全な状態で海面に浮かばせたられた。それを韓国・米国・日本を初めとする他の国の船による干渉を避けるため、島の北側2.6km(1991年6月NSA米国国家安全保障局による着水地点再分析結果、KAL007は北から飛行し、モネロン島北2.6km地点に着水し爆発したとされている。2.6kmとタイピングされているが26kmの間違いの可能性もある)水深10m以内の浅い海域に曳航し、調査後爆破して沈めた。サハリンとモネロン島の間の国際水域(International waters)を、それ以前は航行できた。幅49kmの海域の内、モネロン島東側大潮干潮時の岩と海面の接点から22.224km(12航海マイル)、サハリン西海岸大潮干潮時の岩と海面の接点から22.224km、モネロン島中心からその島の東側岩礁まで2.5kmであれば、サハリン西海岸とモネロン島の間は約1kmの幅で国際水域のため、南北へ他国船が航行する事ができた。しかし1983年9月1日の大韓航空機追撃事件以来、ソ連側はその間を軍艦で閉鎖し、通れなくした。8月31日の最高気温は16℃、9月1日は19℃と夏にしては寒い曇り空で、この事件の日はリマン海流が南下し始め、雲と風は南東に吹いていた。爆発地点から南に遺体や遺品が流れるのを止めるためにはソ連艦艇で閉鎖するしかなかった。韓国・米国・日本・他国船は、モネロン島西側からタタール海を北上し、モネロン島北側27km〜30km付近の国際水域から遠方の様子を見るしかなかった。ソ連側では9月10日まで、その場所から水深160mの北側へKAL007の機体を移動し、1983年10月20日までKAL007の尾翼が残っている機体後部などの残骸をモネロン島北側N46°33' E141°19'に移動し、水深180mの海底に沈め、爆破した。現在、KAL007の残骸は、さらに北側46°35' E141°20'水深200〜260mの海底にある。
  2. KAL007を爆発させて沈める必要性があったか。海面に浮いていた機体を最も近いモネロン島(Остров Монерон)の北の浜へ陸揚げする方法もあった。ソ連防空軍にしてみれば、「目標は破壊された」と報告した交信内容がアメリカ側に傍受され、アメリカ時間午前11時40分(JST1983.9.1.23:40)即日、シュルツ国務長官はテレビ会見で「目標(KAL007便)は破壊されたというソ連側の交信をアメリカ合衆国側で傍受した」という事を公表した。その報道のため、その通りに破壊しないとうるさくなるという意味があった。この場合はソコル空軍基地コルヌコフ(Kornukov)極東司令官が、KAL007を跡形も無く破壊するように海軍指揮官に頼んだと考えられる。その判断を下せるのはソ連防空軍コルヌコフ極東司令官しかいない。アメリカ合衆国艦隊と救助船は、墜落現場へ向かったが、数時間後、シュルツ国務長官からの命令で救助活動を断念して帰還させられた。アメリカ合衆国艦隊と救助船は帰還命令が下された理由が解らなかった。
  3. ソ連防空軍がICAO報告書として公表したソコル空軍基地での会話によると、ゲンナジー・オシポビッチ(Gennadie Osipovich)空軍少佐が発射したミサイルの威力と「撃墜した」という交信報告にソ連防空軍コルヌコフ極東司令官は激怒していた。撃墜したはずの標的が北へ向かって移動している状態がソコル基地のレーダーに映っていたからだった。その後に追撃したMiG23とRTF(MiG31)の内、RTFが発射した長射程ミサイルR-33の追撃能力にも憤慨していた事は間違いない。ボーイング747は、2発のミサイルを避けて右旋回し、雲の中へ姿を消した。ミサイルによって爆発した標的の機体は、結果的にあまり破壊されず、ほとんど無傷のごとく海面に浮かび原形のままだった。国産ミサイルの打撃力が不信で、Su15〜MiG31に搭載されている新型空対空ミサイルは、空母や軍艦に対して威力を発揮できないとしか考えようがなかった。KAL007の機体は潜水作業ができない深さへ移動し、外部諸国で言う「撃墜」という言葉通り、海面に激突してバラバラになったように見せかけなければならなかった。

脚注21:アブラハム・シフリンの調査報告書によると、モスクワのオガルコフ参謀総長は、ロマネンコ少将へ ①「浅い海域で沈んだボーイング747をさらに深い海域へ沈めるように」指示を出し、②「民間機であってもスパイ機で乗員乗客はいなかった」と主張するように命令を既に下していた。
 ところが、この指令では深い海域のどのあたりが適切で、どのくらいの深さの場所にすべきか、ロマネンコ少将にはその意図が解らなかったために、無線でオガルコフ参謀総長に指示を仰ぐしかなかった。
この時期9月6日アメリカ時間正午、「大韓航空機KAL007便が30,000フィートの上空でソ連迎撃戦闘機Su-15TMのミサイル攻撃を受け、大韓航空機が爆発するまで」のソ連防空軍地上基地と迎撃戦闘機パイロットの無線交信を録音した英訳テロップテープが合衆国カークパトリック国連大使によって国連ロビーで放送された。これによって、大韓航空機が撃墜された事が公けになった。ソ連側では当初撃墜を否定していた。KGBソ連国家保安委員会メンバーとオガルコフ参謀総長をはじめとする軍部の主要総司令官等が現場を確認するため、ユジノサハリンスクKGB本部に集まり、そこからヘリコプターでモネロン島へ移送された。

9月2日にモネロン島東側海上に停泊し、落下物の回収作業をしていたミルチンク号は、3日目に島の北側へ移動し、しばらくの間、あちこち移動しながら捜索していた。そしてやっと、海底でボーイング747が発信する遭難信号をキャッチする事ができた。ミルチンク号には有人潜水艇2つ、無人潜水艇2つが装備されており、海底に沈んでいる機体付近の位置へ移動した後、それらの潜水艇で、海底捜査をし始めた。3日と4日、ミルチンク号は水中カメラとテレビモニターを使用していたが、海中の視界が3mで、発見は困難だった。
海軍トロール船ゲオリギ・コズミンのネットにボーイング747がかかったのは9月4日で、それをモネロン島の方へ1.5km引きずり、5日から浮かばせて曳航し始めた。どこへ引っ張るか、オガルコフ参謀総長は「より深い海域へ」移動させる事を命令していたが、その場所が具体的に解らなかった。おそらくこの時にモネロン島で作戦会議を開き、「民間機であったとしてもスパイ機を撃墜し、海面に激突して粉々になった。生存者無し。乗員乗客はいなかった」という事を、ソ連政府上層部の合議の上で相談しなければならなかった。「大韓航空機がソ連機によって撃墜された」という合衆国国連大使によるニューヨーク国連本部ロビーでの放送デモンストレーションをユジノサハリンスクKGB本部で(日本のラジオ放送やTASS通信、ニューヨーク・タイムズ新聞によって)確認する事ができた。日本と合衆国では9月2日に「大韓航空機KAL-007便、乗員乗客全員死亡」「ソ連の迎撃戦闘機によって撃墜された」と報道されていた。
着水現場から、より深い海底へ曳航し、爆破してから沈め、9月8日以降、バラバラになった残骸を回収して整理し、スパイ行為の証拠となる機器を探さなければならなかった。
モネロン島でのこの会議の後、バディム・コンドラバエブをはじめとするプロダイバー16人が指定された。コンドラバエブはこの時、16人のダイバーたちとバレンツ海で救助艇とダイビングの仕事に取り組んでいたが、モスクワ経由で直ちに彼らと空軍輸送機で移送され、9月11日からこの仕事に携わる事になった。

9月5日から臨時雇用されたヘリコプターパイロットの話しによれば、「ユジノサハリンスクからモネロン島へ委員会の連中を運んだ」という事をイズべスチア新聞で知らされていた。

 委員会とはソ連国家保安委員会KGBソ連政府の重役たちで、9月6日、オガルコフ参謀総長と軍部総司令官たちもモネロン島へ移送された。そこで現地視察をしてから作戦会議を開き、ソ連政府(又はソ連当局)として、どのように対処するかを合議の上で相談しなければならなかった。
 この時の議題として考えられる事は、
1.自由主義・資本主義など外部諸国の報道とソ連国内の報道、及びモネロン島での事実が異なっており、それらを調整する必要がある。外部諸国の報道は事件の一側面で、ソ連国内放送の内容も否定したり訂正する事はできない。従ってソ連政府の方針を決定し、事実のつじつまを合わせなければならない。
2.現在曳航中のボーイング747を、どこへ廃棄すべきか。条件として、アクアラングダイバーが作業できる限界の深さ180mである事。さらに事故当時、モネロン島北海岸に停泊していたサハリン西海岸の一部の住民たちと日本のイカ釣り船乗組員8人は、大型飛行機の海上爆発を目撃していたので、海上爆発の現場付近でサハリン西海岸領海外の国際水域である事が条件として加えられた。オガルコフ参謀総長は、それらを充たす必然的な位置は、この場所ですと言いながら、モネロン島北北東の第2地点を地図上でマーキングして解説した。
 ボーイング747をそこへ曳航し、爆破して沈めた後、海底からバラバラになった機体部品を回収し、スパイ機の証としての電子機器を見つけ出さなければならなかった。
 侵入機の残骸は、電子機器類をノベリスク(公民館など)の指定会場、衣類・靴・バッグ及び残骸破片などはゴルノザゴーツク指定会場へ運び、テーブルの上に並べ、検査する予定。
3.遺体処理方法と隠蔽について。
ボーイング747に残されていた遺体は、海軍機動部隊によって青いポリエステルシートに包まれ、モネロン島北海岸の浜へボートで運ばれた。急減圧・酸欠・凍死のため死体が無傷であったとしても、爆発による二度の機内火災で焼死したという事にされ、モネロン島スタリツキー山北側の浜に面した裾野で跡形も無くなるまで火葬し、「生存者はいなかった」事にした。乗員乗客の遺体収集と処理に関しては、「ガバニ地区海軍機動部隊」だけに作業の権限が割り当てられていた。シドロフ提督はこの作業の2ヵ月後、ガバニ地区海軍機動部隊の活躍を表彰し、記念品と贈呈品を贈り、軍事機密事項として厳重に隠蔽する必要があった。
(乗員乗客の遺体処置に関しては、地元漁民のうわさや情報がないため、はっきりしていない。考えられる事は、モネロン島北側の裾野に穴を掘り、まとめて埋葬したか、火葬して証拠を完全に隠蔽した。その作業に携わった人たちは、海軍機動部隊に限られ、その様子をソ連民間人や漁師たちに見えないように隠しながら行った。火葬によって煙を立ち昇らせると、目撃者がでるので、埋葬の可能性もある。遺体は十数体で、片付けた後も見えない状態で機内に十人分の遺体部分が残されていた)。
4.大韓航空機はイギリスの戦時下航空機保険に加入していたために、間もなく保険会社の調査員が事故現場と状況を調べに来るはずで、その時、機内に遺体があれば、外部諸国で大騒ぎになるため、機内を完全に片付け、遺体処置については完全に秘密にしなければならなかった。それらの合議による会議内容は、ソビエト連邦による「防衛秘密の保護」の観点から、「国家機密法、スパイ防止法」にもとづき、合法的に処置された。
5.スパイ容疑者と民間人捕虜の措置。合衆国下院議員マクドナルは、重要スパイ参考人として、パイロットたちもスパイ行為容疑でモスクワへ護送。乗客たちは、戦時下民間人捕虜としてユジノサハリンスクKGB本部へ連行され、取り調べをうけた後、子供たちと成人に分けられ、通常のルートを辿り強制収容所へ送られた。

脚注22:機体内に残された遺体処理方法については不明であるが、オガルコフ参謀総長が詳しく熟知している「国家安全保障と軍法の特例法事例等から防衛秘密保護法」が適用されたと推測される。




※ 遺族の方や関係者の方は、左下の[コメントを書く]をクリックして、感想や相談等を入力してお知らせください。入力ミスの場合、ご自分で消去・修正ができます。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007, 27 August 2009-2024-

KAL007乗客の行方:中澤建志(24)

ロシアテレビ放送2003年頃 REF:Nomadic life on reindeer land



Nakazawa Takesi(50 ages) in Saha Republic(Yakutia/Oymyakon)    


Hattori Tsugio 28, Nakazawa Takesi 22 ages,1980/1982.12.28/Recent home of Nakazawa,1991-2005-
 KAL007の生存者がいるか、いないか。本当に全員死亡した事件か。はっきりしないため、仕事に就いていた時は関わりを持たず、すっかり忘れてしまいたかった。そう割り切った方が、神経を集中しやすかった。しかし、昔、友人だったTsugio Hattoriの消息が気がかりになり、インターネットで探している内に、ニューヨークに住んでいた彼は、46才で2人の息子と1人の奥さんを残して睡眠中に死んだという知らせを発見し、非常に深く悲しい思いがした。ニューヨークのギャラリーで発表した服部次夫の作品を探しているうちに、彼の絵の中にKAL007に関する印象と空想が織り込まれている事が気掛かりだった。さらにNHK特集で何度か放送された中沢建志(Nakazawa Takesi)の自画像、身近に見ていた者として誰かが、中沢について自発的に言わなければならないのではないか。大韓航空機撃墜事件とその乗員乗客はどうなったか。

オイミャコンの外気温-40~-60℃の冬、永久凍土の地下は-10~-20℃前後。
コリマ収容所時代から夏の冷凍保存倉庫と冬のねぐらに使用されていた地下道。オイミャコンの永久凍土は深さ0~200mと言われている。地下に給湯パイプが引かれている所を見ると、宿泊施設をつくる予定なのかも知れない。

氷が溶けて地面が陥没した北極圏の永久凍土。土が混ざって凍結した凍土と氷河の上に厚さ1~2mの土が被さった凍土がある。 

  1. 2008年12月中旬、日本カモシカ蝦夷鹿・トナカイの違いを調べるため、ロシア番組英語版SahaYakutia(サハ共和国)のReindeerというビデオをYouTubeで見ているうちに、中沢建志Takesi Nakazawaらしき人を偶然見つけた。似ている。似ているだけではないか?もし中沢であれば何故こんな所で生活しているのか?彼は大韓航空機撃墜事件で死んだはずではなかったか?最初は怪しくはっきりしなかった。
  2. 右手でバンドを固定しながらしゃがみ、左手で何かを拾うしぐさが中沢建志の動作と一致している。元々の先住民やロシア生まれの人であれば、このようなセーター姿で外を歩かない。私は、この番組画像から中沢建志に間違いないと言える特徴を探した。1.右側の頬の下に膨らみがあり、頬がわずかに白っぽい。2.眉毛の上が横一列に少し眉上隆起している。3.長髪ぎみの髪型は、韓国や中国人に少ないため、ますます中沢建志の髪型に近い。4.背丈と脚の動き、肩の張り方などが類似している。他、耳、鼻、手が凍傷に見える。
  3. わずかに恥ずかしい気持ちを表す素振りと自意識の程度が全く同じ。
  4. 決定的な中沢建志の特徴は、右眉毛の形で、1982年に東京都新宿北京飯店で撮影した顔写真の右眉毛の形と一致している。
  5. 自由主義圏や温帯で育った人は、着ている服や毛皮にも過去の環境条件が表われている。ニューヨーク育ちか、東京育ちか、田舎育ちか、衣服と動作からある程度解析できる。このセーターをいつでも着用しているわけでは無い。撮影日の予定が組まれた時、意思表示として選択したのであれば、ますます怪しい。KAL007の乗客としてさりげなく伝えられる方法は、これ以外ないと考えた最後の方法だったのではないか?中沢建志が着ているセーターは、27年前にニューヨークで買った韓国製品にも見える。さらによく見ると、他にも2人同じデザインのセーターを着ている。----KAL007の貨物として、戸籍と住所を持たない元乗客たちに配給された服ではないかと思えてきた。-----しかも収容所で数字番号で呼ばれ、解放されてからは名前をロシア語にしているはず。
  6. カメラを前にした時のわずかな反応に中沢建志の特徴が表れている。顔や姿だけだとよく似ている人だなあ。猫背ぎみだったが、背中の肩甲骨が特徴として気になる。火傷のカバーとして何かを着込んでいるようにも思える。半信半疑で見過ごしやすい彼の顔に貼ってある絆創膏や左側の厚手の湿布のようなカバーを拡大して見ると、KAL007の乗客の1人、中沢建志に間違いない。1983年から20年は経っている顔付きのようだ。少し変わったが、動作や顔形に彼の特徴が残っている。
  7. 上の画像を拡大して見ると、右側の頬と額、耳と鼻に肌色のガムテープのような絆創膏が貼ってあり、左側の見えない頬と額にも厚い銀色の湿布で固定されてある。左側の顔の大怪我は、凍傷かトナカイの角による最近の怪我かは解らない。飛行機内の窓際で、はね返った金属破片が刺さり、重症だったのではないか。
  8. 斧などで木を切り倒し、薪割りをする仕事は、体が熱くなるので熱中しやすい。中沢の両肩は、その作業によって鍛えられた感じがする。上半身が20才前後の時より逆三角形型に引き締まり、肩が張り、背中に筋肉が付いている。気温と自然環境に慣れるため、1985年までアムール川沿いの森林伐採、その後何年かモンゴル国境付近の東洋人居住区、バイカル湖付近の強制収容所からオイミャコン郊外で遊牧生活をし始めたようだ。


Oymyakonとヴィノクロフ家のヤクート馬。Yuchyugeiはトナカイ牧畜民の集落 2020年。

  1. RT番組編集者たちは、「Yakutian indigenous population, who are mainly reindeer herders.ヤクート原住民、彼らは主にトナカイ遊牧民です」と、一般向けにその生活状況を解説している。「地元の原住民(ヤクート人)としているのであれば、ラーゲリから既に開放されて、その周辺で条件付で生活している」。正確には強制収容所外で、内では無い。もし強制収容所内であれば、遊牧民としてのテント生活ではなく、寮や宿舎になる。ロシアでヤクート人というのは、サハ・ヤクティア共和国の原住民、おもに黄色人種系の瞳や髪の毛の色が異なっている混血の人々を漠然と言っている。元中国・韓国・日本人の場合、瞳と髪の毛が黒い。原住民に同化するため、移民ということを隠し、黒髪を染めている人もいる。そのため白人系の人々から見ると、髪の毛や瞳が黒くても黄色人種系原住民は全てヤクート人として白人系ロシア人と識別している。エスニック・グループとは多民族団体、多人種共同体の意味。この村には昔、コリマ収容所があったと言われている。戦後の捕虜収容所へ古くは元日本赤軍が加わり、軍人捕虜と民間人捕虜、大韓航空機事件の生き残りがまざったヤクート人居住区で、モンゴル系移住者も多く居る。
  2. 中沢が住んでいる場所が、ヤクーツク郊外かオイミャコンか、解説ではその2つの居住地域が合成されている。共同生活であれば、周囲の山の形から場所がオイミャコンのようにも思える。ヤクーツクとオイミャコンの間は、車で3日かかると解説されている。直線で500km、道程1,000kmの場合、1日300km。氷道のため時速30kmで1日10時間走ると運がよければ3日目で到着する。冬季期間は、-50℃前後でエンストを起こしやすいので1台では危険な感じがする。
  3. 最も肝心な事は、ヤクート人には、ロシア政府が発行する身分証明書(国民健康保険者証や運転免許証)が無い。そのために土地を登記する時に必要な身分証明書を提出できず、ロシア政府から原住民、遊牧民扱いにされ、放置されている。
  4. 何がしかの身分証明書を発行してもらうには、戸籍抄本が必要となる。パスポートがなければ出身国を証明することができないので不法入国者と同じになるが、ロシアでは近代化を進めるための労働力が必要なため、それを黙認し、ラーゲリから開放された後は、古来からシベリアで生活していた遊牧民の部類に加えられている。旧制ロシア帝国の組織を考えると、旧社会システムの主要な枠組みが残されている。


オイミャコン・ロード(コリマ高速道路)の長い夜(真冬)2020年頃。 
春夏秋の最高気温が零度以上の日は危険。

  1. 太陽が隠れる真冬は、零下50℃~70℃まで下がる。春か秋の零度以下の日であれば通れる氷結した車道。
  2. ヘリコプターの機種にミールとあるのは、旧ロシア帝国農奴制と農村共同体ミールをロシア国内の人であれば誰でも思い起こさせる。そのヘリコプターの機種は、ソフォーズ(国営農場)やコルフォーズ(公営農場)のような大規模農場の農薬撒き用と作物や荷物、人運び用に量産されたものかも知れない。レナ川の氾濫の時に軍隊が活躍し、爆弾の投下でレナ川の大氾濫を食い止めた時もあった。ロシアの場合、ヘリコプターは、氷結した湖や川、ツンドラ地帯であればどこにでも離着陸できる便利さがある。
  3. この当時のソ連は、宇宙ステーション・ミールが活躍中で、1986年2月19日から2001年3月26日まで続けられた。ロシア語のミールとは、平和な世界の意味。7つの宇宙船モジュールをドッキングすることにより、宇宙ステーションを組み立てていたが、1997年、船内火災やその後のスペクトル・モジュールのドッキングの失敗で空気漏れなどの事故が多発し、スクラップとなって地球上の海へ廃棄させられた。現在進展中の太陽電池をはじめとする電子機器に比較すると、コンピュータの性能や画像送信速度でさえ初期の時代で、フロンティアとしての可能性はあるが時代的に無理な所があった。宇宙船から送信される画像も年々改良されてきているので、他の重要な機器の性能が発展するまで待つ必要性があるように思える。その宇宙ステーションは、何のためにあったか。月や火星に宇宙船を送るための中継施設であった。他の国にはその成果が知らされていないが、ソ連では火星にマルス無人探査機を何回も送っている。
  4. 元都会育ちであれば、家賃・ガス・水道・電気・電話・市民税・県民税・国民健康保険などの支払いに追われなければならない現代文明の批判的な生き方に、次の世紀の人間社会を基本から考える上で哲学や社会学上で一理あると考えられる。
  5. 現在のパソコンは0℃から30℃までしか使用できず、-5℃の室内でCPUの動きが鈍くなり少し音をたてる。温帯用パソコンは、-30℃以下の所に放置すると20分以内に霜が着き壊れる。-37℃だと30分で眉毛と睫に霜が着き白く凍り、角膜上の水分も凍り始める。周辺機器を含む電子機器類は現在も発展中で、寿命が短く丈夫で長持ちしない欠点も今の所ある。


オイミャコンの電線。家屋の暖房は薪で、最近は各家々に給湯管が設置され、お湯が使用されている。

  1. ロシアでは土地が共有地で、職種により分け与えられることになっていたが、ロシア国内の土地の私的所有に関して、1985年頃からミハイル・ゴルバチョフによって提唱された「ペレストロイカ(再構築)」「グラスノスチ(情報公開)」、1991年ソ連崩壊後、ボリス・エリツィンによるロシア連邦共和国に変わったころから土地改革が行われつつある。2001年10月25日、ロシア連邦第136FZ号5条2項、土地基本法第15条第3項、「外国人・企業は、国境地帯の土地を購入・所有できない」。2002年7月24日、連邦法第101FZ号農地取引法第3条「又、外国人は農地を購入・所有できない。但し、賃借は可能」など、土地基本法の改革が行われている。土地を既に所有している国や他者から個人的に土地を購入した後は、土地売買に関する記録がロシア連邦国家土地台帳に記載されなければならない。各地域にある不動産業者や不動産登記院に登記法に基づく必要書類を提出し、(不動産)登記証明書を発行してもらうことによって購入した土地所有権を証明することができる。登記カテゴリーとしては、農地、畜産用地、工業用地、林業用地、企業用地、団地、宅地などがあり、登記後、後々登録したカテゴリーを変更することもできる。
  2. 外国人による土地の購入、登記方法は、民主主義国家の土地基本法と大体同じように国際化されつつある。日本の場合は、現在の所10万円未満の土地に地税はつかない事になっている。低価格不動産の場合は、ロシアの場合も区画面積が狭い場合、地税がつかない限界があると考えられる。外国人による土地の私有化が可能になると、大企業が進出し、大土地所有者と土地を持たない農奴(ミール=農村共同体/自治体)の貧富の差が激しくなるという旧制ロシア帝国の復活と弊害も生じてくる。現代史的には格差社会に歯止めをすべき具体的な処置がなされるべきに思える。
  3. シベリア・タイガ地帯の自然林は、ほとんどが国有林と言うことになるが、原住民のヤクート人という事でトナカイと同じように自然林として曖昧にしているところもある。遊牧民に何かを言える管理者は、オゾン層破壊の対策に関係している連邦自然林管理局に権限があり、ヤクート先住民の筋の通った主張がなければ、政策により、トナカイや森林伐採、漁獲が制限されたり、移動させられたりする場合も生じてくる。そのために原住民による自治体やコミュニティーが必要とされ、アメリカン・インディアンによる自治自治区と同じように変革されつつある。国際捕鯨問題もそうだが、特定された狩猟先住民以外は、トナカイも乱獲されないようにある程度規制され始めている。
  4. 髭が生えていないということは石鹸と剃刀がある。食器類、石鹸、剃刀、テント、斧、鉈、鋸、釘、ハンマーなどは配給物か。テント生活の場合は定住者ではない。猟銃は拾い物かなどの疑問がある。トイレ風呂洗濯小屋が共同であれば、テント生活で、ある程度の期間定住していることになる。
  5. -30℃まで下がった朝、凍死していたシベリア抑留者も多かったという戦中戦後の事実があり、睡眠中は交替で焚火番をするなどの工夫も考えられるが、-70℃の場合どうやって耐えているか想像がつかない。-50℃以下だと火は見えるだけで手をかざしても熱くなくなる。抑留者はドラム缶風呂で、お湯ではなく水だったという話など、現在もそうか疑問が多い。
  6. この番組の中で無線交信用手動発電機の機械音を何故付け足したか、理由など無かったかも知れない。通過時のジェット音は、そのように聞こえるという意味か、その表現意図が疑問に思える。


秋春の零度以上の日が続く季節は、氷が割れて車体が埋没し、夏の道路はぬかるみで車も危険。

  1. ミハイル・ゴルバチョフは1987年頃からソ連国内の強制収容所の制限をゆるめ、未成年者・高齢者と反体制派を開放し、収容人数を半数まで減らしたという記事を読んだ事があった。ラーゲリの外で生活する多民族グループの遊牧民が増えたのは、その政策によるものではないか。この番組に登場する人たちは、他の国で育った文化的な背景の違いが感じられる。1986年4月チェルノブイリ原発事故が発生。その時期からグラスノスチ情報公開が提唱され始めた。
  2. トナカイ遊牧民とは戸籍や国籍が無い状態に置かれている人々を総括的に漠然と言っているということになる。


Takesi Nakazawa 22 ages,1980 中沢建志

  1. 大戦後のシベリア抑留者は、1年間に何度も移動させられ、極寒と栄養失調で全員死亡した強制収容所もあるそうです。現在も方法が同じであれば、発見できる可能性は、ほとんど無くなります。
  2. 乗員乗客の内、既に死亡している人々と生存者がはっきりしていず、事故後の生存者名簿はあったとしても、現在存命中の名簿は無いはずです。監獄、強制労働、抑留経験のあるアブラハム・シフリンの体験によれば、外国人捕虜は軍人も民間人も一緒で分散させて解らなくしているという事です。米国マクドナルド議員は、囚人番号3でした。
  3. 第二次世界大戦後の日本人捕虜は107万人と言われ、過酷な環境の強制労働のため戦後4年間で35万人が死亡したと推定されています。
  4. この事件の曖昧性は、第二次世界大戦後、帰国できなかった何十万人もの日本人捕虜と同じにされているということで、何十年も歳月を経るほど、本人の識別や身元がはっきりしなくなります。
  5. Youtubeでオイミャコンを見る限り、真冬に40℃~70℃まで下がるので、暖炉のある家で生活するしかないようです。テント生活を始めたのは収容所から解放されて間もない2003年9月頃(事件から20年後)で、冬期のテント生活は耐えられないはずです。
  6. 彼が住んでいる所は、オイミヤコン郊外の小高い丘か、場所がハッキリしません。配給されている川氷がある所であれば、オイミヤコンの村に近い所と思います。
  7. 永久凍土の氷や溶けた水は、250万~1万年前の氷河期に氷結した古代ウィルスや線虫が復活するので、氷は煮沸する必要があります。また、復活した新種の古代ウイルスが感染してトナカイ数千頭が死滅し、少年が死んだ事もあったそうです。夏に永久凍土が溶け、大量のメタンガスが発生する地域もあるそうです。
  8. 南極や北極、南グリーンランドの氷が溶けだし、平均気温が100年前より5℃上がっているようです。その原因は廃棄ガスや山林火災で発生した二酸化炭素によって、大気が温室効果の状態になっているためと言われています。

アブラハム・シフリンの調査レポートには「過去の自分の名前を覚えていない。部分的に記憶を消されている。ロシア名で呼ばれている」ということもあり、その時にどうするかまで、少なくとも考えておく必要があります。



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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side, 25 March 2010-2024-

大韓航空機撃墜事件の概略(23)


大韓航空機Boeing747-230B_HL7440 2Fの窓数10で同じ機種 

  1. ニューヨーク・ケネディ国際空港発JST13:05、アンカレッジ経由(JST21:50)ソウル行き大韓航空機KAL007は、1983年8月31日JST9月1日1時30分、カムチャッカ半島北東上空を通過。ソ連防空軍迎撃戦闘機は、スクランブルを試みたが、発見できなかった。
  2. さらにKAL007は、南サハリンSakhalin上空高度10,668m(35,000フィート)を通過。ソ連領空侵犯後、サハリン(又はモネロン島)のソ連領空を脱した中立地帯で、Su-15TMのミサイル2発レーダー式と赤外線式によって攻撃された。
  3. 最初の赤外線ミサイルは左翼ジェット・エンジンをかすり、次のレーダー式ミサイルがボーイング機右後ろから10m、前から50m(ボーイング747は全長70.7m)の間に命中(JST3時26分2秒)。爆発で180cm四方の穴が開き、燃え上がった。外気温-75℃〜-50℃、外気圧150hPa〜250hPa。
  4. 爆発後、自動操縦で上昇中、高度警報、高度逸脱警報、自動操縦以外の警報が鳴り、爆発から21秒後、31秒後まで3回、操縦室呼び出しのブザーが鳴った。
  5. Su-15TMは、標的(ターゲット)が上昇した後、垂直にそり返り、炎上しながら急降下してゆく状況を見ながら爆発地点で360度一周。「ターゲットを撃墜した」と基地へ報告した後、南サハリンのソコル防空軍基地へ戻った。
  6. KAL007は、自動操縦を手動に切り替えるスイッチが入らず、43秒間自動操縦で上昇。高度11,000m(38,250フィート)で、ほぼ垂直に立ってから急降下(JST3時26分45秒)し始めた。ジェット・エンジン4基正常。着陸ギヤのスイッチが入る状態だった。
  7. 降下3秒前(JST3時26分42秒)、操縦が手動に切り換わり、爆発53秒後(3時26分55秒)、酸素マスク着用の機内アナウンスが放送された。
  8. その後KAL007は、高度9,144mで3分間水平飛行をしながら北へゆっくり進み、モネロン島上空7,000〜5,000m付近で螺旋降下を2回繰り返しながらさらに降下した。第58千鳥丸船員たちは、モネロン島上空で音をたてながら螺旋降下をする飛行機の様子を目撃していた。
  9. 高度4,000mでMiG-23とRTF(MiG-31)2機(3機の説もある)に追跡され、左旋回右旋回を繰り返した。追跡機2機のうち1機(RTF)が標的を発見してすぐに長射程空対空ミサイル2発を発射し、KAL007は、そのミサイルをかわしながら右旋回。その後レーダーから消えたため(3時38分)追跡機2機はソコル防空軍基地へ戻った。高度2,000m以下は場所により水蒸気雲、海上には霧が発生していた。
  10. レーダーから消えたKAL007便は、モネロン島北側約30km海域(国際水域)で操業していた日本のイカ釣船第58千鳥丸上空を轟音をたてながら低空飛行し、間もなく爆発した。どの方向に飛んで行ったかまで説明されていないが、モネロン島上空で螺旋降下をしたのなら、北側からモネロン島へ向かう途中で着水したと考えられる。ソビエト連邦によって宣言された領域限界は、モネロン島とサハリン沿岸から12マイル22.224km。モネロン島からサハリン西海岸まで49km、稚内からモネロン島まで約70kmの距離がある。
  11. ブラック・ボックスに納められているフライトレコーダDFDRとボイステープCVRが解読され、KAL007便コース逸脱の原因として、「アンカレッジ離陸時の慣性航法装置設定ミス」が最も有力な説と現在は考えられている。(1)アンカレッジ空港で発進位置設定エラーを見過ごし、ヘディングモードのまま飛行 (2)現在位置を確認するための手段や飛行航路を表示するディスプレーが無かった。
  12. 1983年9月1日、韓国と日本の夕刊には、「大韓航空機ユジノ・サハリンスクへ強制着陸」「邦人27名全員無事」「ソ連が連行の可能性」と報じられた。しかし、アメリカ時間9月1日の午前中、「生存者はいない」と米国ジョージ・シュルツ国務長官(George Pratt Shultz)が記者会見とテレビニュースによって正式に発表。翌日の9月2日、日本国内の朝刊で「大韓航空機行方不明事件」「生存者はいないと米国務長官が発表」「大韓航空機 ソ連が撃墜 乗員乗客269名全員死亡」と報道された。その後も、ソ連参謀本部、ロシア政府大統領によって「KAL007の生存者はいない」と返答された。米国シュルツ国務長官が「生存者はいない」と発表したのは、KAL-007(KE-007)がコースを逸脱しソ連領空を侵犯、レーダーから消えた位置、Su-15TM迎撃戦闘機及びMiG-23迎撃戦闘機とソコル防空軍基地司令官の会話などから判断されたもので、ミサイルを発射した後、「ターゲットを撃墜した」という無線報告を日本の自衛隊基地で傍受録音していた。そのロシア語無線会話が即日アメリカへ送られ、合衆国のテレビで正式に発表。米国シュルツ国務長官による記者会見の内容が、日本の報道機関にも伝えられた。
  13. 日本側の新聞による報道では、1983年9月1日サンケイ新聞夕刊_大韓航空ジャンボ機サハリンに強制着陸。ソ連領空を侵犯、269人乗り日本人は27人、撃墜された恐れも、関係筋。9月2日朝日新聞_韓国機ソ連が撃墜。米国務長官が発表、8機迎撃、ミサイル、乗客ら269人は絶望。9月2日読売新聞、大韓機、ソ連が撃墜。ミグ23、ミサイル攻撃、8機が追尾の末。日本側の捜索阻む。9月2日サンケイ新聞_韓機ソ連、ミサイルで撃墜。サハリン横切り海馬島付近で領空侵犯。警告無し。米国務長官が発表、8機で交互に追尾、米空母派遣を検討。
  14. 1988年のサンケイ新聞には、大韓航空機、強制着陸のナゾを追う。精密誇る機器にミス?5年前の”悪夢”再び。事故後5年間は、様々な噂や説があり、強制着陸のナゾとされた時もあった。
  15. その後、ソビエト政府はその言葉を繰り返し、「生存者はいない」と1993年にもアメリカ側に返答している。しかし、1991年までのアブラハム・シフリンの調査(1989-1991)報告書によると、彼の友人だった米国民主党下院議員ラリー・マクドナルドと子供たちをはじめとするKAL007の生存者がいるという情報や噂があり、サハリン西海岸ネべリスクの複数の地元漁民たちによれば、「KAL007は海上に着水し、乗員乗客はトランクといっしょに船に運ばれた」と伝えられている。アブラハム・シフリンは、その目撃談を彼の調査書に繰り返し書き記した。そしてその漁民たちの話がイズベスチア紙上で公表されたこともあった。


ソ連防空軍による攻撃事実



George Pratt Shultz and Ronald Reagan

  1. 1983年9月1日、日本時間23時40分、アメリカ時間午前11時30分過ぎ、ロナルド・レーガン(Ronald Wilson Reagan)大統領時代にシュルツ(George Pratt Shultz)国務長官がテレビ会見で発表したところによると、MiG-23とソ連防空軍の交信を傍受、「ソ連パイロットはミサイルを発射し、目標は破壊された」と報告した。9月1日の「邦人27名全員無事」という記事は、ソ連側の誰から日本の新聞社に伝えられた内容か、はっきりしていない。在ソ日本大使館からの情報であれば、KGBロマネンコ将軍、あるいはソ連国境警備隊南サハリン管区責任者からの指示で伝えられた話で、軍事機密として事実を隠し、ソ連側では本当の所、何も知らせていないという疑いも出てくる。9月2日の韓国側新聞は、「KAL007便はユジノ・サハリンスクへ強制着陸させられた」と報道。それが報道関係機関にFAXで配信された発信者不明の情報と伝えられたこともあった。
  2. さらに、アメリカ側でSu-15TM1機による最初の撃墜報告と、その後からのMiG-23を初めとする2機か3機の発進を一緒にしている意味と解せる。1回の追撃に簡略化したため事実がこじれた。初めの内、日本側のマスコミが、MiG-23に撃墜されたと報道していたのは、日本側の交信傍受の録音テープ解析に基づいていた。
  3. ソ連防空軍側で提出した1993年ICAO報告書によると、初めはSu-15TMのミサイルがKAL007の機体後部に命中し、それでもレーダーから消えずに飛行していたので、MiG-23とRTF(MiG-25 or MiG-31)で追撃した。(RTFはニックネームとして注釈を加えず報告されている) 交信内容は、ソコル防空軍基地コルヌコフ(Kornukov)司令官からMiG-23に対して発射命令が下された。しかし、その前にRTF(MiG-25 or MiG-31)は、ミサイルを既に発射していた。KAL007便は、発射されたそのミサイルを右旋回で避けた後、レーダーから消えた(ICAO報告書参考)。

乗員乗客がKAL007機内にいなかった理由

  1. ボーイング機のフロアが、下の燃料タンクが爆発しても突き抜けない構造であれば、機体がほぼ完全な状態で残されていたと言う話も大げさではない。他の航空機事故を参考にすると、21-33,33-46のシート番号の乗員乗客は、燃料タンクの大規模な爆発によって吹き飛んだと考えざるを得ない。衝撃が比較的少なかった席番は、プレミアム1-8,12-21と2階の71-89で、2Fの乗客が少なかったとしてもパイロットたちはどうなったか。生存の可能性が全く無い訳ではない。
  2. 海上での油の広がり方によるが、燃料の広がり方がアスファルト上と同じであれば、機体は海上に何分か浮きながらゆっくり沈み、脱出できた生存者がいた可能性の方が高い。機体はほとんど無傷の状態だったという事が知らされている。
  3. 水面や海面上での油の広がり方は、表面張力がかからないので風のように速い。所々隙間がでる一定の皮膜状の薄さで広がる。緩やかなうねりがあったり、物を投げると、いくつかの不定形の皮膜のように油面が分離し、移動する。
  4. 後から目撃した人の話によれば、「機内は油で浸されていたが、燃えた痕跡は無かった」。それは何故か。外側の海面が火の海で機内は燃えず、沈みながら油の浮いた海水に浸され、早目に火が消えたとしか考えようがない。海面の炎は、2007年の中華航空120便炎上事故に比較すると範囲が広く薄かったため、沈みながら30秒以内、早くて十数秒で消えたと類推できる。
  5. 第58千鳥丸船員たちは、「爆発後、しばらくしてから灯油の匂いが漂って来た」と語っている。その話から燃料タンクの爆発は、水中花火と同じような飛び散り方をしたと考えられる。火の消え方は燃料が四散した範囲に比例して早くなる。おそらく十数秒間の火事でチャイナエアライン120便のように長く燃え続けなかった。焦げ跡や火事の痕跡が無かったのは、火がすぐに消えたためという事になる。
  6. 結果的にはソ連と日本領海で発見されたKAL007乗員乗客の靴が、1983年9月26日(月)早朝、サハリン州ネベリスクにおいてソ連側代表者団によって合衆国・日本・韓国代表者団へ返還された。その後、北海道千歳空港で公開された213人分の乗員乗客の靴にKAL007機内の火事で焦げた跡や爆発で引きちぎれた靴が何足かにあったとしても、ほとんどの靴がそのままの状態で、爆発による傷跡が無かったという事実です。
  7. ソ連側のダイバーによれば、「海底に沈んでいた機内のシートベルトは、外されていた」という事が知らされている。
  8. KAL007の右後ろ10〜20mの箇所がミサイルの爆発によって穴が開き、燃料タンクが爆発したその2箇所以外、「ボーイング機は、最初はほとんど無傷で焦げ跡もなかった」というダイバーによる報告があった。

※その他、「ソ連空軍」と「ソ連防空軍」は異なっているので注意。




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(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,12 January 2014