ヤマロ・ネネツ族Yamalo-Nenets

ヤマロ・ネネツ族Yamalo-Nenets

 青森県から出土されている遮光器土偶のマスクと同じ紫外線避け遮光器。円形で縦型に覗き溝のある遮光器もある。半年以上も夜が続き、闇夜にすっかり目が慣れると、太陽が出始める季節に雪原が見えなくなる。その時にも着用している。青森県と東北一帯、日本各地から紀元前2000年前の遮光器土偶が発見されているのは、地軸が現在と異なっていたため北極付近と同じようなツンドラ地帯だったか、オホーツク海日本海が氷でつながっていた事などが考えられる。
 トナカイで雪原を走る時、その遮光器を着け、雪が無い場所では着けていない。2頭のトナカイと細長いカヌーのようなソリ、その後ろに2頭のトナカイ、さらにその後ろにソリというように長々と隊列を組み、samoyed dogsと一緒に長距離移動をする事もある。テントと生活必需品の荷物を積めるソリの場合は、トナカイ3頭並列。


Reindeer herding on the Yamal Peninsula


Reindeer Meat Sales Down in Yamal

 ネネツ族は、北極付近のシベリア大陸ネネチアNenetsia自治区とヤマリアYamalia自治区に現存する有史以前からの民族で、東洋人、日本人、アメリカンインディアンの祖先と考えられている。円錐形のテントはアメリカンインディアンと全く同じ。テントには三角形型もあり、トナカイの毛皮を縫い合わせたカバーで全体を覆っている。シベリア大陸北方ツンドラ地帯で農耕生活し、定住している部族。ツンドラは、場所により永久凍土のある夏に草原となる地帯で、潅木類が生えている所もあるが樹木は生えない。針葉樹林におおわれているタイガ地帯の北にある平原。シベリアのタイガは、-50℃の地帯まで植生しているシベリア・モミ(Siberian Fir)の原生林が続いている。トナカイを飼育し、魚を主食として移動する部族もある。
 言語はラウル諸語系サモエード諸語(Samoyedic)。サモエード語は、ネネツ語(コラク語)、エネツ語(エニセイ・サモエード語)、セリクブ語(オスチャック・サモエード語)に分けられる。
 シベリア北西部に所在するラウル川ヤマル川沿いに紀元前3000年ごろからヤマロ・ネネツ族が定住し始め、ロシアの歴史以前から存続している先住民として現在はヤマロ・ネネツ自治区ヤマル民族管区内に在し、天然ガス・石油が産出され始めてきている。

ナホトカ市
 1950年5月18日、労働ナホトカ村はナホトカ市となる。年間平均気温-13℃〜17℃。現在は諸外国との貿易港となり、日本の中古車が輸入されている。人口約15万人(2002年)の産業都市で、1990年から自由経済地帯となる。京都府舞鶴市小樽市敦賀(つるが)市・オークランド市・東海市(韓国)・吉林市(中国)と姉妹都市交流がある。ナホトカ地区にある捕虜収容所16所のうち、日本人捕虜収容所は9箇所。ロシアの日本人捕虜収容所には総計70万人の日本人がいたとされ、そのうち15万人は収容所内で既に死亡していると推定されている。労働内容は、石灰・炭鉱の採掘、煉瓦造り、建設と道路修理、舗装工事など。
サハ共和国サハ・ヤクティアSakha Yakutia in Russia

 ヤマロ・ネネツの隣の隣、シベリア北東部のサハ共和国サハ・ヤクティア地方(Sakha Yakutia)と言われ、北極付近の東シベリア大陸タイガ・ツンドラ地帯。先住民はサハ(ヤクート)人。他エヴァンキ・ツングース・東スラブ系人種。ロシア人とヤクート人が半々居住している。マンモスの墓がある地域。永久凍土の下にマンモスとケブカサイ(毛の生えたサイ)の化石が発見されている。タイガの北側はカラマツがほとんどで、南下するほどモミ、トドマツ、アカマツ類が多くなる。ツンドラ地帯はコケ類が多い。


ツンドラ地帯の油田火災を止めるため原爆が使用されたこともあった。

人口1万5千のウダーチヌイ

 サハ共和国には石油、天然ガス、金銀などの鉱山資源も豊富にある。首都ヤクーツクの人口が年々増加する反面、他の町の人口が近年減りつつある。ヤクーツクの年平均気温30℃〜-70℃と変化が非常に激しい。ダイヤモンドはロシア国内の99%がサハ共和国ウダーチヌイで産出されている。1955年6月15日にキンバーライト鉱床が発見され採掘され始めた。



ウダーチヌイダイヤモンド鉱山 2006.2.27
チュコツカChukotka自治区

 北極海に面した極北のロシア連邦は、北西からネネチアNenetsia, ヤマリアYamalia, クラスノヤルスクKrasnoyarsk, サハSakha, 北東のチュコツカChukotka自治区と並んでいる。最近は開発工事計画が進められているが、地球温暖化による海面上昇、永久凍土の凍解による水没、窪地や低地の湖化などの問題が発生し、トナカイ、ホッキョクグマ、トド、セイウチ、クジラなどが無人地帯に追いつめられ、自然生態系が急速に崩壊、変化し始めている。北極海は、8月に極地氷解し、一般的な船が通れるようになった。シベリアの反対側にあるグリーンランドや南極も急速に氷が溶け始め、大陸の岩石が現われて来ている。

KAL007便生存者存命の可能性

KAL007便生存者存命の可能性 →ENGLISH 



CI120中華航空機炎上Video那覇空港1997年
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 この状態であれば、燃料タンクが爆発した後でも乗員乗客は怪我が無ければ脱出する事ができる。燃料タンクの爆発は、ボワンとした爆発だった。非常口を開けると脱出用シューターが窒素ガスによって自動的に膨らみ降りる。非常口は飛行中開けない。着地か着水してから扉を引くか押す。

1.KAL007便生存者存命の可能性に対する解明

  1. ソビエト海軍と民間によるアクアラング・ダイバーたちの中には、「海底に沈んだKAL007には初めから乗客がほとんどいない状態だった」と報告する人もいる。その人たちの結論は、飛行機の外へ間隔を置いて広範囲に落下したということだった。爆発と同時に、上空から外へ放り出された客がいたとしても、ミサイルによって破壊された箇所が180cm四方と大きくなかったため人数が限られている。その他、飛行中にパラシュートを使用すると、後部の垂直尾翼水平尾翼に体が当たり死亡するケースが多いので、大型航空機には乗客用パラシュートが用意されていない。モネロン島上空で螺旋降下を繰り返したのは、着水予定地の位置が、曇り空でもレーダーで解るように意図的に行ったと考えられる。
  2. 航空機の垂直尾翼水平尾翼などの補助翼と主翼は、かなり多くの穴が開いていなければ海面に浮く機体構造になっている。ジェット・エンジン4基と燃料タンク付近にあるランディング・ギアが比較的重いが、両翼が残っていれば航空機は海上に浮く。
  3. ソ連新聞イズベスチア紙上で公開された目撃談の中には、
    1.「ボーイング(KAL007便)は、ほとんど無傷で機内火事の痕跡がなかった」(両翼がある状態)。
    2.「ボーイング海上に浮かべ、トロール船で移動させていた」という幾人かの証言が記されている。
    3.日本のイカ釣り船第48千鳥丸の船員たちは、「大きな爆発の後、小さな爆発があった」と話している(NHK取材放送)。
    4.ソビエト沿岸警備隊の船が到着した時、「爆発後27分以内にロシア民間人の一隻のボートが事故現場へ到着していた」。
  4. ソ連側ではスミルニク空軍基地ノボセレツキー中佐が救助ヘリコプターを出動、極東軍司令官代理ストロゴフ将軍はモネロン島周辺にいた沿岸警備隊と民間艦艇をその救助のために送った。モネロン島付近に停泊していた警備隊の船は、KAL007便がレーダーから消えた直後、救助指令の連絡を受け、着水して爆発する前に海上を走り探し始めた(米国共和党局員によるCIAへの報告書草稿)。ソ連国境警備艇と沿岸警備船計8隻の他、モネロン島付近に停泊していた民間船や漁船も何隻か爆発現場へ向かった。
  5. 海上に浮いていた遺体は発見できなかった」ソ連側ではそうだった。しかしリマン海流が南下している日本海側では、9人分の韓国人遺体が発見されている。これらの目撃談は、この事件の確定的事実である。
  6. 1983年JST9月1日初日の目撃談をさらに考えると、爆発から30分後、夜が明ける30分前にスミルニク空軍基地を出発した救助ヘリコプターは、実際の爆発地点を目撃していない。後から出動した海上警備隊と一緒に、KAL007がレーダーから消えた地点の連絡を受け、その付近を捜索していた可能性が高い。モネロン島東側に遅れて出動した船とヘリコプターが集まり、爆発の炎を見ながら走った救助艇と事故現場の捜索が二分した。「海上に浮いていた遺体は発見できなかった」という言葉は、スミルニク空軍基地のヘリコプターに乗った救助班による公式報告と考えられる。
  7. 最も重要な事は、「ボーイング機はモネロン島東側に着水し、乗客とトランクは沿岸警備隊の船に運ばれた」という目撃談(アブラハム・シフリンAvraham Shifrinによる調査情報1991年)で、KAL007の着水地点が異なっている。考えられるケースとして、モネロン島北20km海域に着水したボーイング機内から運び出された乗員乗客が、モネロン島東側で沿岸警備隊の船からさらに速い国境警備艇に乗り換え、ユジノサハリンスク総合病院へ運ばれた。ヘリコプターの数が少なく、事故現場からもっとも近いサハリン西海岸の町ネベリスクとゴルノザ・ヴォーツクには早朝から収容できそうな病院がなかったため、重傷者はヘリコプターで、軽傷者は船でユジノサハリンスクへ運ばれたと考えると、この目撃談の筋が通る。事故現場からユジノ・サハリンスクまで直行で120km、サハリン南端を辿る船と車で約170kmの距離にある。
  8. 解決が難しい目撃談の2つ目は、海軍ダイバーと民間ダイバーが乗船する船から見ていた民間ダイバーの話で、「ボーイング機をトロール網で1.5km引っ張り、爆破して故意に沈められた。その方法が奇妙に見えるほどだった」。民間ダイバーによるこの目撃談は、話の前後から信憑性がある。「ボーイング機を1.5km引きずった跡が海底にある」という話も他のダイバーによって確認されている。これら二つの目撃談から、海底に沈んでいたKAL007の機体を1.5km引きずった後、その海底から機体を引き上げ、浮かばせて再び曳航したと考えられる。集められたKAL007残骸やKGB役員を運ぶため、9月4日からユジノサハリンスク、ネベリスク、ゴルノザゴーツク、モネロン島を行き来していた民間ヘリコプターのパイロットが、船で引っ張られている海上に浮いたボーイング機の様子を目撃していた。 ソビエトガバン海軍機動部隊によるトロール船(ゲオリギ・コズミン)の網にかかり、海底に沈んだKAL007が引き上げられたのは9月4日だった。その時にはアメリカ、日本、韓国、イギリス、中国からの船とヘリコプター、テレビやマスコミのセスナ機、新聞社のヘリコプターなどで海上が混雑していた。民間機のボーイング747と判る状況が撮影されると騒ぎが大きくなり、証拠写真として後々不利になる可能性も出てくる。その機種が、ボーイング747型であることが明らかだったので、それを隠すために爆破したのではないかという事が考えられる。その処置方法は、参謀本部からの指令以外無い。
  9. トロール船の網にかかり、浮かばせられたボーイング機をモネロン島の方へ曳航中、参謀本部からKAL007の爆破とその後の作業方法の指令が出たためと考えるしかない。ボーイングの2F天井を爆破して沈めた後、9月5日頃、海上から見えない状態でモネロン島北側沿岸まで引っ張った。国際法に基づき民間機かスパイ機かを検証しなければならないことを考えると、その方法しかない。ネベリスクとゴルノザ・ゴーツクのふたつの検査会場で、機内の電子機器や証拠物件を調べ、検証する必要があるため、KAL007を海底にすっかり沈めるわけにはいかなかった。つまり、証拠となりそうな機内の電子機器と残された遺体を最も手早く運び出すため、モネロン島北側沿岸まで隠しながら、そのまま網で引っ張るしか方法がなかった。

2.「大韓航空機撃墜事件」で最も重要な事実の究明

Moneron Island and Sahalin. Under parts are Reibun, Risiri Islands, Hokkaido Wakkanai, Soya Strait

  1. 1983年(JST)9月1日3時38分未明、KAL007がレーダーから消えた時点で救助命令を受けたソビエト国境警備艇と沿岸警備船合計8隻(ソ連側救助船の隻数不明:稚内自衛隊は、KAL007がレーダーから消えた未明に2隻の巡視艇を送り、午後2時までヘリコプターを載せた巡視艇を含め計8隻、飛行機2機出動)は、KAL007を発見できたか。最初に到着したソ連側は、「事故現場へ到着する27分前以内に既にロシア民間人のボートが到着していた」「海上に浮いていた遺体は1体も発見できなかった」とイズベスチヤ紙上で発表している。この2つの話は警備管轄責任者の言葉で、KAL007が海上に浮いていたか、乗員乗客は救出されたかという最も肝心な事実を回避している。軍事機密以外の事実として職務上慎重に考えられた高齢者の言葉である。あるいはKAL007が「領空侵犯によって撃墜されたスパイ機である」と知らされていたために、それを検証確認できるまで軍事機密として厳重に隠蔽した。
  2. ソビエト新聞イズベスチア記者に対し、ソコル空軍基地高級将校(司令官らしき人物)は「無傷だった」、特殊技官は「下から上まで、よじ登れる状態だった」と伝えている。「よじ登れる」とは海底でそうだったのか、海上でそうだったのか、はっきりしていない。もし海上でよじ登れる状態であれば、KAL007が海面から少し浮いていた事になる。このインタビューでは海底か海上か肝心な所が不明で、軍事機密以外として話す事ができる範囲内で言葉を略して伝えている。この時点で民間機かスパイ機か、客観的にまだ検証されていないため、インタビューでの答え方は間違いの無いように慎重だった。
  3. 「下から上まで、よじ登れる状態だった」という言葉をもう一度吟味すると、地上ではボーイングの上へよじ登る事はできない。海底でも側面がほぼ垂直なためよじ登る事はできない。海上でよじ登る事ができる角度は45度前後のため、2Fの窓から上の角度という事になる。技官がよじ登った、あるいは他の誰かがボーイング機の上へよじ登っている所を見た日にちが重要で、9月1日初日であれば、発見当初、KAL007は海面にわずかに浮いていたという事になる。
  4. 理論的に考えると、ソコル防空軍基地コルヌコフ司令官と特殊技官は、事故当日の現場状況を確認し、モスクワのオガルコフ参謀長とKGB書記長に書面、地図、略図・写真などを添付して報告する義務(顛末書)があるので、「無傷だった」「下から上までよじ登れる状態だった」という2つの話は、JST9月1日の初日以外ない。さらに後で厄介な事にならないように矛盾無く正確に報告している。
  5. 「CIA報告書草稿」にも記されている話の中で、「不時着水した飛行機は大半が無傷な状態で、KGBロマネンコ将軍指揮下の国境警備隊の船に回収され、乗客と荷物が飛行機の外に運び出された」という情報がある。これはアブラハム・シフリンが噂話としてロシア漁民から聞いた話で、はっきりしていない。しかし、初日未明にその事故現場へロシアの民間船と漁船が確かに駆けつけ、現場付近の状況を見ている。
  6. 1983年9月1日未明、救助のために事故現場へ直行した人々は、KAL007便の爆発状況、爆発音と海上が燃えている炎の位置を見ている。爆発で燃え上がり、徐々に消えてゆく方向を見ながら走っていた。救助隊が現場に到着した時の説に2つあり、「海上には1体の遺体も浮いていず、ロシア民間人を乗せた1隻の船が27分前以内に到着していた」という報告と、「KAL007は海上に不時着水し、乗員乗客とトランク(手荷物)は無事船に運ばれた」という地元漁民の2つの話がある。前後の状況から推測すると何故2つの話があるか奇異に思える。しかし、さらに考えると、どちらも偽りではなく、「27分前以内に1隻のボート(小型か大型か不明)が到着していた」というのは、事故現場状況の回避で、「救助艇はモネロン島付近から27分で爆発現場へ到着した」という事を暗示し、KAL007便と乗員乗客の救出に関しては触れず、関係のない1隻のボートについて話した意図と趣旨がはっきりしている。ソビエト国境警備隊沿岸警備隊員には「軍事機密として、この事故現場について他の人へ伝えないように強制された」背景がある。
  7. 空白の9月1日未明、KAL007が海上で爆発後、27分で救助隊の船が到着し、20分以内に乗員乗客は沿岸警備隊の船に移動、気絶している人やけが人を病院へ運ぶため、即刻ユジノサハリンスクへ向かった。残りのソビエト国境警備艇が、沈んだKAL007便付近の海上を捜査しているうちに、日の出30分前に出動した救助ヘリコプターが現場上空へ到着した。その時に「海上に浮いていた遺体は1体も無かった」。目撃者が多数いる場合、虚偽を話しても始まらない。それらは全て部分的事実で、時間的な違いがあるため、矛盾する二つの説にとらえられていた。暗闇の中で何隻もの船が、何かを取り囲み、サーチライトと懐中電灯によって海面や空を照らしていた。その周りに民間船や漁船もライトを照らしながら、まわりから近づいたが、サーチライトで照らし返され、近づいて確認する事が難しいほど機関砲を装着した警備艇で取り囲まれていた。その囲みの外にロシア人のボートが1隻。周りの民間船には、軍事機密のため近づかないようにロシア語で警告していた情景を私は必然的に推理せざるを得ない。


Michail Merchink

  1. 9月2日の朝、カムチャッカ沖で石油掘削をしていたスエーデン製ミハイル・ミルチンク号が、モネロン島東側に到着。連絡を受けたその場所で初めのうちは仕事をしていたが、その日にモネロン島北20km地点46"27N,141-13Eへ移動した。ロシア領海域は、モネロン島沿岸とサハリン西海岸から12国際海里22.224kmで、それ以外は国際水域International watersと言われる公海。モネロン島からサハリン西海岸まで49kmのため、この間は普段国際水域で通れるはずだが、この事件の間ソ連側では輸送航路を確保するため、モネロン島からサハリン西海岸の間を潜水艦や軍艦で閉鎖した。この二つの地点は、他国船や潜水艦の入り口として軍事的に重要な拠点で、実際の事故現場か、さらに考えると怪しい。ミルチンク号は、9月2日と3日はKAL007を探し、ついに見つけられず、9月3日からモネロン島北20km地点でKAL007着水時の爆発で四散した燃料タンクと胴体下部破片、トランクと貨物の一部を回収し始めた。ランディング・ギヤ(主脚)は燃料タンクが爆発してさえ、めったなことでは胴体下部から外れない。ミルチンク号は9月2日と3日、ソナーと水中テレビカメラを使用してKAL007を探したが、海底の視界が3mと見えず、ヘリコプターの騒音でソナーを使用しても効果がなかった。海中で流されながら沈んだKAL007をソビエトガバン地区海軍機動部隊が4日目に網で捕らえ、やっと引き上げる事ができた。
  2. 事実に基づいて言える事は、1983年JST9月1日未明、海面から少し浮いていたKAL007の操舵室から、KGBロマネンコ将軍の指揮で発信機とブラック・ボックスのテープ3本を抜き取り、生存していた乗員乗客を沿岸警備隊の船に手荷物と一緒に運び出した。そうしている間にKAL007はさらに沈み、中部後部座席に残されていた乗客の遺体搬出をあきらめざるを得なかった。KAL007の機体と乗客の遺体は、海底まで沈む途中の流れの速い海流によって南へ何キロも流され、ブラック・ボックスに装着されていた発信機も取り外したため、KAL007の位置がまったく判らなくなった。そしてさらに、ヘリコプターの音でソナーが使えなくなり、9月1日から9月3日までソ連側でさえKAL007を見つける事ができず、ありとあらゆる船や飛行機、ヘリコプターが駆り出され探し回る事態となった。
  3. ソ連新聞イズベスチアで公表された目撃談の中で、「機内の乗員乗客は全員死亡していた」「全員死亡していた所を確認した」という話が無い。しかし、ソビエト政府、KGB参謀本部に提出された書類には、「KAL007便の生存者は居ない(あるいは全員死亡)」と報告されてある。そのためにエリツィン大統領でさえ、1992年10月28日、「KAL007便の生存者はいない」とアメリカ側に返答するしかなかった。ここで注意しなければならないのは、「生存者はいない」と「全員死亡」の意味が全く違っている。「生存者は居ない」と報告されている所を「全員死亡」と訳したかどうか確認する必要がある。
  4. KAL007は、高度11,000mでミサイルの爆発によって右後ろから10mの箇所に180cm四方の穴が開き、爆発で吹き飛び炎え上がった。後部座席の乗員乗客は爆発の破片で死傷後、炎と減圧で気を失いながら焼死、-50℃以下で死体は凍結した。仕切られていたその前の部屋の乗員乗客は、酸素マスクさえ降りれば不時着水前の爆発の時まで生存していた。
  5. 高度11,000mでミサイルが爆発した時(JST3時26分2秒)、即時に酸素マスクが降りたか。コクピット・ボイステープCVRによれば、機長が全圧縮のスイッチを入れた時間(3時26分48秒)は急降下し始めた時(3時26分45秒)で、酸素マスク着用のアナウンスが放送されたのは爆発後53秒(18時26分55秒)と遅かった。KAL007が急降下し始めたのは、機内気圧が抜けて外気圧(200-250hPa)と同じになった時点で、マスクが降りてから着用のアナウンスが放送されるものであれば、助かる見込みのある場所は、中間から前の席と2Fしかない。その気圧下だと男性は15秒で気絶し始める事が臨床実験で知られている。最良の場合で生存者200名、最悪で2Fと前室の乗員乗客50名以上が生き残った。酸素マスクが即座に降りなければ、急減圧で気絶し、シートベルトを締めたまま無傷で死んだ人も後の座席に何十人もいた事が考えられる。
  6. 1983年JST9月4日、KAL007を海底からトロール網で引き上げた際、ボーイング機内に遺体が20体から50体ほど残っていたはずで、そのままモネロン島付近の浅瀬まで引いていかれ、無残な遺体はシートなどで覆い外へ運び出された。三日三晩、海の底でふやけ、カニやサメによって荒らされた部分遺体と所持品、泳ぐために脱ぎ捨てた靴などがモネロン島と北海道北側へ漂着した。
  7. 乗員乗客269名のうち、部分遺体を含め遺体として発見されているのは、Su-15TMによるミサイルが爆発したKAL007便後側の20名から50名以内で、残り250名の遺体に関して目撃した話が無い。生存者が自ら移動しない限り、救助隊が短時間で運び出せる人数ではない。


ホホジロザメ

  1. アザラシやトドの子供を捕食するホホジロザメは、モネロン島付近やサハリン北側まで生息している。KAL007のエコノミークラスで死んだ50名ほどの遺体はどこへ行ったか。ミサイルによる180cm四方の穴や非常口からサメがボーイング機内に入れたのではないか。血の匂いでサメは集まりやすい。9月10日後のダイビング最中にサメを目撃した話が無かったが、サメが来たとしたら9月1日から3日までが怪しい。9月10日以後のダイビング中は、サメ避けに海底で電流を流していた話があり、夜に海底電流を止めた時にどうなるか、9月1日から10日までの夜のサメ対策に関してまで言及されていない。夜明け前と日没後の真っ暗な海底で、ほとんどの海中生物は獲物を探すため最も活動する。残された乗客の遺体は1日から3日までの間、ボーイング機内に入れる大きさのサメによって骨ごと食われた可能性は十分にある。地元の漁民や海軍であれば、そう考えたに違いない。
  2. 9月2日からモネロン島北側の浜に海岸線沿いに漂着した遺体部分と所持品、機体破片などがソビエト沿岸警備隊によって集められた。
  3. 9月4日、モネロン島付近までトロール船で浅瀬に引いて来られたKAL007便から、電子機器や記録テープ、飛行機内の機器部品なども取り出され、ヘリコプターでネベリスクとゴルノザ・ヴォーツクの二つの検査会場に運ばれた。この時に貨物なども取り出されたと考えられる。
  4. 9月5日から、民間のヘリコプター操縦士は、KGB役員たちをユジノサハリンスクからモネロン島北側の臨時会場へ運んだ。
  5. KAL007機内に固定されている客席とキャビンの荷物は、そのままの状態だった。
  6. 9月8日から9日、KAL007の機体はモネロン島北側の浅瀬から10人分ほどの遺体部分と一緒に、北北東、水深174m海域へ移動。その後、KAL007を解体するため潜水艦の魚雷で何度か爆破された。
  7. 9月10日、モネロン島北北東、水深174m海域で作業をしていた◦ハイドロノート船乗組員やダイバーたちには、「防空軍が中立地域で標的を撃ち、粉々にした」という事が知らされていた。
  8. 9月10日以後に海底作業をした小型潜水艇機長やアクアラング・ダイバーたちの中には、残された骨、胴体、腕や頭を見つけた人もいた。残留していた遺体部分に関しては、ダイバーたちに指示が無く放置状態だった。


■北海道オホーツク海沿岸への漂着

  1. 9月9日までに北海道オホーツク海沿岸クッチャロ湖付近、頓別の浜沿いに大韓航空機の機体破片が漂着。さらに知床半島北側、遠音別の浜に腐乱した子供の死体が漂着。翌日10日から岸沿いに本格的な捜索が行われた。しかし、腐敗した子供の遺体に関しては、大韓航空KAL007便の乗客の子供か、事件の関連付けができない状態と報道された。
  2. KAL007には12才以下23人の子供たちが乗っていたので確認ぜずにはいられない国外の遺族もいる。髪の毛の色と長さ、身長、性別、歯などの特徴、残りの衣服から見当が付けられるか新聞紙上で詳しく報道されていなかった。その事件については北海道警察がある程度の資料を残している。
  3. 北海道警察は、9月1日から海上保安庁自衛隊ヘリコプターなどで捜査し始め、9月30日まで合計27,000人の警官を動員。沿岸に漂着した9人分の遺体、所持品などの遺品377点、機体破片334点を回収した。その後、KAL007の機体破片は韓国政府へ、遺品29点は乗員乗客の遺族へ返還され、残りの遺品は展示会などでも公表された。
  4. 韓国人9遺体と報道した記事もあったかも知れないが、実際には、海水で腐乱した皮膚などの遺体部分も含まれ、韓国人とは限らず身元がはっきりしていない。


国境付近の密漁事件

  1. 2003年7月3日、ロシア船トロールグラント号は、サハリン北端で密漁中、沿岸警備隊の停止命令を無視したため銃撃され、ロシア国籍漁船乗組員3名が負傷した。この事件の現場がサハリン北端とされている。もしロシア沿岸警備隊による銃撃事件であれば、不法密漁による国際水域へ逃走した不審船は、自国籍であろうと他国籍であろうと民間人であろうと、不明の状態で警告、誘導、停止命令に自国領内で従わなかった場合、逃走した場所が国際水域内であろうと銃撃できるという国内法がロシア側にはあり、射殺しても銃撃した警備隊は正当という「不法侵入とその警備に関する法律」があるという事になる。(注意:不法侵入の場合の国際様式と考えられているこの法律が問題で、これを緩めると密漁不法侵入が増える)
  2. 第31吉進丸密漁銃撃事件:2006年8月16日、北海道根室市花咲(Hanasaki)漁港を出港した日本の漁船第31吉進丸(Kissin-maru)は、早朝4時過ぎ北海道歯舞(Habamai)沖で密漁中、ロシア国境警備隊により銃撃され、吉進丸乗組員1名が死亡した。第31吉進丸は、ロシア国境警備隊の停止船命令を無視し、警備艇ゴムボートへ体当たりしようとしたため銃撃したとロシア側では報告している。第31吉進丸がカゴ漁により密漁していたタラバガニ科花咲ガニ(学名:Paralithodes brevipes)は、8月22日北海道根室市納沙布岬から最も近い歯舞市場へ約1t水揚げされた。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,18 January 2010.

JAL123 航空機事故の比較

JAL123 航空機事故の比較
Automatic English translation
参考ビデオ:JAL123 01 02
 航空機事故の機内状況が、その生存者によって記録として知らされる事は少ない。航空機事故の現実は下記のようであった。
日本航空123便墜落事故
1985年8月12日午後6時56分 高度7,200m 死亡520人 生存4人 
墜落地点:群馬県多野郡上野村御巣鷹の尾根 JAL ボーイング747SR-46
落合由美さんの証言 吉岡忍「墜落の夏」新潮社出版/引用と要約

  1. パーンという、かなり大きい音がしました。ピストルの音のようなバーンではなく、*1高めのパーンという音です。耳を押さえたくなるような音です。
  2. 音は私の後ろ天井のあたりからしたようです。そこだけでなく全体的に広がったように思います。私は思わず天井を見上げました。しかし、振動はまったく感じませんでした。機体も揺れなかった。
  3. パーンという音と同時に白い霧のようなものが発生しました。かなり濃くて前の方が薄っすらとしか見えないほどです。その白い霧は数秒で消えました。機内の空気の流れや抜ける音は、ほとんどありませんでした。
  4. パーンという音と同時に酸素マスクが自動的に落ちてきました。ジャンボ機は2席に3つのマスクが一斉にバウンドするように落ちてきます。それを引っ張ると酸素が流れ出し、口もとの袋が膨らむ。酸素が出ないマスクもありました。
  5. 同時にアナウンスで「ただいま急降下中。マスクを付けてください」と、日本語と英語で放送されました。
  6. 「タバコをすぐ消してください」のアナウンスはありませんでした。しかし禁煙ランプのサインが自動的に点灯しました。
  7. 破裂音の後、*2「うわっ」「きゃ」という、一瞬、喉に詰まったような声。騒がしくなるとか、悲鳴があがるということはありませんでした。耳は痛くなるほどではなく、ツンと詰まった感じでした。ちょうどエレベーターに乗った時のような感じ、しかし、それもすぐに直りました。
  8. 酸素マスクのチュウブは3列のシートまで伸び、スチュワーデスがマスクを着けたまま見回り、他の客のマスクを直していました。
  9. トイレのドアは閉まっていました。その上の*3横長の天井壁(91x182cm)がすっぽり外れていました。壊れたというより継ぎ目が外れた感じで、パネルはどこへいったか解りませんでした。
  10. 壁のはずれた外側に厚地の布が、運動会のテントの生地のようにひらひらしているのが見えました。それが破れた布ではなく、風にあおられていました。そこから外の青空は見えませんでした。その布は機体の内側の壁に付いているものらしいです。
  11. もうひとつ、座席から天井を見ると、整備用の50cm四方の長方形の穴の蓋(排気口とダクトスペース )が開いているのがこちらの方から見えました。
  12. 「座席の下にある救命胴衣を取り出して、着けてください」と、スチュアーデスから指示が出ました。(脚注:救命胴衣ライフジャケットは、ひもを引っ張ると二酸化炭素で膨らむベストで、着水後に膨らませる。着水後に膨らませなければならない理由は、一旦膨らませてしまうと体を前に曲げて膝の間に頭を入れる安全姿勢が取れず、体を曲げられなくなるためと言われている。体を曲げないと衝撃の時に顔や頭が最も危ない。ライフジャケットは、海上で体を浮かせるための救命具だが、クッション代わりにも使用できそうなので間違いやすい)
  13. 救命胴衣を着けた後、ひもを引っ張り、すぐに膨らませてしまった人が何人もいました。
  14. 機内はいくらかの空席があり、救命胴衣を着けている間に空席を詰めて客が固まるように移動しました。「どうなるんだ」「大丈夫か」「助かるのか」と、スチュワーデスに男性が不安そうに聞いていました。スチューワーデスは、「絶対大丈夫です」と答えるしかなかった。揺れが激しくなると、「足首をつかんで頭を膝の中に入れる!全身緊張!」「--して下さい」とは言いませんでした。上下の揺れではなくものすごい揺れでした。
  15. そしてすぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいです。頭の両脇の髪が後ろに引っ張られる感じでした。もう思い出したくない恐怖です。これはもう死ぬ。振動は無く、真っ直ぐ落ちていきました。
  16. 衝撃は投げ出されたような感じです。激突の後も安全姿勢をとっていなければいけないですが、私はもう怖くて顔を上げました。その途端、顔にはいろんな物がぶつかってきました。硬い物、砂のような物がいっぺんにです。激突後、埃が舞っているようでした。目の前はもやーとしているだけです。すごく臭かった。機械室に入った時のような機械の匂いです。座席に座っているような姿勢でしたが両足が挟まれ動かせません。目に砂がいっぱい入り、左の目が飛び出したように熱く感じました。はあはあと息をするだけで死んでゆく直前なのだとぼんやり思っていました。
  17. その時考えたのは早く楽になりたいという事です。死んだほうがましだと思って、私は舌を強く噛みました。苦しみたくないという一心でした。しかし、痛くて強くは噛めないのです。
  18. 何人か生きていました。子供の声もしました。暗闇の中からヘリコプターの音が聞こえ、明かりは見えませんでしたが、すぐ近くまで来て、段々遠くへ行ってしまいました。多分それから私は眠ったのです。次に気づいた時は、ヘリコプターの風と音と光が目の前にあふれていました。

 救助隊は翌朝到着し、事故現場は身元が判明しないほど悲惨さを極めた。木の枝に体が刺さっていたり、重圧で2体が1体にめり込み合体したり、腹部のシートベルトから体が分断され、頭部は前座席に打ちつけられて形として残っていない。歌手の坂本九の遺体は胴体のみだった。機長の遺体は、前歯5本の付いた下顎のみであった。
 遺体搬出は8月14日から始まり、墜落現場から45キロ離れた群馬県藤岡市市民体育館へ自衛隊や警察ヘリコプターで運ばれた。遺体総数は2,065体、520人の犠牲者のうち、5体そろった遺体は177体。アメリカ人乗客1名と外国人1名の遺体は判別不可能だった。(乗員乗客リストは、外国人が何人いたかはっきりしないので、Web上で公表されるべき)
 事故原因は様々な説があり、航空事故調査委員会とNTSBアメリ国家運輸安全委員会は、機体後ろの圧力隔壁の修理部分が不適切だった事による金属疲労であると結論した。


 しかし、落合由美さんが伝えた機内状況から考えると、トイレの上の空気取り入れ口が直接的な原因となる。飛行経路上からシール・リテーナ(1mX20cmX10cmと2mX20cmX10cmの金属リム)2本とプレッシャー・リリーフ・ドア(1.0mX1.0mX20cmの金属)、海上からAPUダクト(空気取り入れ口1.7mX1.5mX1.5m)と壊れた垂直尾翼の部分が回収された。トイレの上にあった空気取り入れ口付近の外壁が2mX1.5m以上剥がれ、外壁が固定されていたシール・リテーナ2本の金属リムが、風にあおられ引きちぎれた。2mと1mのリムが固定された外壁が真後ろに飛び、同時に1.5m四方のAPUダクトも吹き飛び、垂直尾翼に命中した。後ろにある1m四方のプレッシャー・リリーフ・ドアは、その時の激突ショックで剥がれ飛んだ。垂直尾翼がほとんど破壊されたため、操縦が利かなくなった事故と考える事ができる。最も後ろにある圧力隔壁が壊れた場合、急減圧と気温の急低下により乗員乗客は気絶するので、事故調査委員会と安全委員会の結論は、間違っていると考えられる。

*1:剥がれた外壁が垂直尾翼に当たった音。同時に剥がれた外壁に固定されていた2本の金属リムが垂直尾翼に激突し、壊れた音。

*2:解説2:トイレの横長の天井板(91X182cm)が急減圧で外へ飛び出すほどであれば、外側の剥がれた壁の面積の方が大きい。さらに「うわっ」「きゃっ」という客の声が聞こえたのであれば、大人と子供の親子、あるいは男性と女性の2名が2つのトイレ内にいれば、ドアが閉まっていたので、吸い込まれるように外へ吹き飛ばされたかも知れない。

*3:解説3:横長の天井板とその外壁が剥がれ飛び、尾翼に当たっても壊れる厚さではないので、硬いフレームかリム(シール・リテーナ)が付いた外壁。

オゾンホールと地球温暖化

オゾンホールと地球温暖化


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Tarctic and Antarctic records by Canada Ozon Maps 2009-10-15
 南極のオゾンホールは黄緑色の部分で、時間ごとに形状と穴の大きさが拡大縮小、時には2つ3つに分離し、揺らぐように変化している。南極の場合、オゾンホールの周りがホールとは逆にオゾン濃度が最も高くなっている。ピンク色の中の濃紺と水色の部分のオゾン濃度が最も高い。黒い背景は平均濃度。黄緑色の中がオゾンホール。モスグリーン箇所はオゾン濃度が比較的薄い紫外線に注意すべきオゾンホール地域。
北半球の場合、アラスカ、カナダ、ノルウェースウェーデン、北シベリアにも発生し、北緯60度上を雲の速さとほぼ同じ速度で東へ移動している。南極より完全にホール化していない状態で、オゾン濃度の高い所の間に分散してオゾン濃度の低い場所が揺らぐように発生している。
 オゾンホールは両極付近だけでなく、北緯30度付近の北メキシコにも時々発生したり消えたりしている。さらに赤道付近のミクロネシアパプアニューギニア・アフリカ・ブラジルにも発生する。赤道付近のホールは西へ移動している。温帯や熱帯にも現われ、その発生と消滅は雲の動きより速い場所とあまり移動しない場所がある。1万メートル以上の高さの雲と気圧の変化による気象条件、磁場と関連してオゾンホールが発生したり消滅したりしている。オゾンホールの危険性は、南極、北緯60度、赤道付近、北緯30度の順でそれぞれ濃度や大きさが異なっている。

World records by Canada Ozon Maps 2009-10-17
 北極と南極付近の極冠地帯は、曇り空が多く晴れることが少ない。白夜や長い夜の季節は、紫外線は無関係で、両極付近を覆っている雲の上面とその周りのオゾンホールの隙間から、紫外線と太陽光が直射して氷が溶け出し始めている。さらに二酸化炭素による温室効果が極付近の気温上昇を速めさせている。両極に比較すると、温帯の温度変化は、今の所少ない。世界の平均気温は、1900年から2009年まで、全国的に1.2℃上昇している。

最近の南極沿岸Seal landの平均気温と降水量
赤い折れ線グラフは気温。青い棒グラフは降水量。南極点基地アムンゼン・スコットの年間平均気温は、現在-28℃〜-60℃。南極大陸の海に面した基地付近の年間平均気温は、夏期冬期の寒暖の差があまり激しくない。平均気温は3℃〜-8℃。

南極ロス島
南極ロス島の活火山エレバス山Mt.Erebus 3,794mは、現在も時々噴火し、麓の観測所の氷や雪、岩の上に火山灰を降り積もらせている。

精神矯正収容所と精神医療剤

精神矯正収容所と精神医療剤


 北極海に面した北方シベリアでは古来からシャーマンの宗教的儀式にイボテン酸を含むベニテングタケが用いられていた。それは精神に作用する薬物LSDで、微量であれば心地良さがあり、少し多くなると幻覚作用ある。

  1. LSDは、1953年にカナダで開発され、囚人の社会的甦生に用いられた。しかし、強体験を抑圧できない場合、精神的症状が悪化する危険性もあるとされている。
  2. 1950年代から各国の捕虜収容所、強制収容所KGB、CIAがLSDを自白剤として用いた。わずかであれば、睡眠不足、疲労中の催眠に効果があり、秘密としている事々を吐かせる事ができ、さらにその自白体験を忘れさせる事ができる。
  3. 自白させる方法としては、強制的に過労と睡眠不足にさせた後、一世代年上の利口そうな厳しい尋問官に長々と尋問させ、気質の合いそうな老練の聞き手役尋問官あるいは精神科医の順番の時にLSDを飲み物に入れて使用すると効果がある。
  4. LSDは、臨床心理学の研究で用いられる精神医薬剤である。しかし、思想的確信のある被験者や誇大妄想者には効果が無いと言われている。
  5. 小麦の麦芽菌の麦角カルカロイドもLSDで、情緒的作用が拡大される。麦角菌はライ麦に多く中毒症状があり、筋肉痙攣、ひきつり、幻覚、てんかん症状がでる反面、血管収縮作用があるため止血剤として用いられていた。
  6. 精神矯正収容所の尋問は、セッションと言われている。
  7. LSDは、0.001mgで穏やかな幸福感、精神的抑圧の解除、感覚が研ぎ澄まされ感応性が鋭くなる。0.05mgでサイケデリック体験と言われる幻覚症状が現われる。
  8. サイケデリック体験とは、知覚が先鋭化した後、音や遠近、直線や空間に歪みが出る。さらに残像が尾を引き、周囲が揺れてうねる。人や動物、虫、物の形が大きくなったり小さくなったりする。色彩は彩度が鮮やかになり、輪郭がくっきり見え、情緒的反応が激しくなる。情緒的反応としては、恍惚、恐怖、悲嘆、不安、絶望、快感、不快感など。
  9. 丸い瞳の周りが二重になり、青い大き目のコンタクトレンズをはめているような目になる。薬だけでなくウィスキーなどの酒を飲むと、その症状が瞳に表われる人もいる。
  10. 薬物による幻覚は、形状や音の歪みと強弱、彩度などに特徴があり、直線が曲線、空間に強弱と歪みが現れる。
  11. 目を閉じた時は、眼球の網膜と残像、毛細血管や血流などが模様化する。合成された記憶と潜在意識や夢などが混ざる場合もある。
  12. 誰もが同じ状態になるのではなく、信仰や思想的確信、環境的量的条件や性格的体質的特性によって違いがでる。
  13. シベリア大陸極北のベニテングタケは、凍った雪の下の草の発熱による湿った場所で成長する。ほとんどのトナカイは、凍った雪を蹄でガツガツ砕き、ベニテングタケを食べずに時々なめている。わずかであれば美味なため、そうする事によって心地よくなるという事らしい。ベニテングタケを食べたトナカイの大きな瞳は少し小さくなり、丸い瞳の輪郭が二重にだぶる。充血している場合もある。
  14. ベニテングタケの場合は、赤い斑の傘のベニテングタケが巨大化し、その下を走ったり、休んだり、歩いたりしながら、たくさん生えている幸福の村へたどり着くような幻覚を見る。食べると美味と言われている。しかし毒性があり、嘔吐する。解毒剤はないので吐いた後に胃を洗うしかない。
  15. 石油系幻覚の例:目を開けると広く明るい室内にいた。碁盤の目のような白黒のPタイルが敷かれ、壁が薄いクリーム色で壁も四角いタイル貼りだった。窓が無く天井が非常に高い。蛍光灯やライトもひとつもない。しかし何故かくっきりしていた。その部屋の中の匂いで目が覚めた。遠くを見ても壁が果てしなく続き、物も無く人もいない。間もなくトンカチで釘を打つ音が段々と大きくなり小さくなった。次にのこぎりを引く音が一定の音量で聞こえ、部屋の中で響くその音がくっきりしていた。私はその音のする方へしばらく歩き続けると、木箱の上で薪を切っていた人がいた。その人は、私の方を見ながら挨拶した。農家や田舎でよく見かける顔をした普通の村人で何も聞かなかった。しばらくすると、最初に見た情景のところで再び目を覚ました。のこぎりの音が聞こえ出し、それが歪んで少しずつ大きく響いたり、少しずつ小さな音になり、消えていった。周りを見ると柱が一本も無い。天井が果てしなく高い。歩いても歩いても壁に行き当たらない不思議に広々とした所だった。

 シャーマニズムの記憶痕跡として、パッチワークや衣服、土器、陶器などの模様に表現されている。原始美術の模様は、薬物による幻覚症状が表われたものとは一概に言えない。しかしその記憶が後遺症として残り、様式として伝達されている場合もある。
 数学的、デザイン的な模様は、薬物とは全く関係していない。反復や増幅による感覚への心地良い楽しいなどの快不快、単純あるいは複雑な複合的刺激によるもので、サイケデリックオプティカルの違いがある。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,10 October 2009

ラリー・マクドナルド議員の運命

ラリー・マクドナルド議員の運命 JAPANESE→ENGLISH


 シフリンのリサーチ情報によれば、米国民主党下院議員マクドナルは、1983年9月8日、ソブガバン基地から飛行機でハバロスク経由でモスクワへ輸送された。モスクワ市内のKGB監獄ルボヤンカで尋問を受けた後、レフォルトボ収容所へ入れられた。この収容所では数ヶ月間尋問を受け、モスクワ近郊スハノーファーKGB夏季保養所へ移され、その後カザフ共和国カラガンダ監獄へ移された。この頃からマクドナルド議員は、薬物によって自分が誰なのか忘れるほどの状態にされた。その後、カラガンダ監獄から隣町のテミールタウに移された。週一回の散歩と週一回の尋問、他の囚人との会話は厳しく禁じられていた。1987年にはカラガンダ監獄からカザフの小さな収容所へ護送された。ソビエトの監獄当局で言う「治療」とは、低カロリーの食事で長時間の重労働をさせられる。さらに精神病監獄院があり、どのような事をしても答えさせる。口を割らせる吐かせる意味で、薬物や前頭葉切開手術が行われ、記憶喪失か狂人に仕立てる方法を言っている。1999年以後のマクドナルド議員の消息は不明とされている。


ローレンス・ラリー・パットン・マクドナルド議員の消息



Lawrence Larry Patton McDonald 1983/His face-photo on News paper 1983/From the video scene of "Chukotka EALAT Info,March 2008"
 右上の画像は、2008年2月末から3月頃に撮影された、Chukotka Anadyrで生活しているトナカイ遊牧民のビデオで、その中に精神状態が不安定な人がいた。眉間のY字型、鼻と鼻の下の長さがLawrence Larry Patton McDonaldと一致している。25年前に比較すると顔が面長に変化している。しかし、特に上唇と下唇の形、鼻から口端にかけて皺の溝の形が左右完全に一致している。1983年の彼の顎の骨の形は二股型。この画像一枚からだと一瘤型のようだが、場面を少しずらすと顎の下の先がふたつに分かれ、顎先の真ん中にわずかな窪みがある。眉毛と目の大きさが変化している。しかし、歯が小さめで弱いため、下顎の歯の大きさを見る事ができれば、それで確認する事ができる。
 Lawrence Larry Patton McDonaldは、目が時々ギョロリと大きくなる人で、視線などにも彼の特徴が表れている。右側の画像の人がラリー・マクドナルドと確信したのは、彼の左側の頬の肉付きと頬から鼻の根元までの面積比や角度が全く同じで、左側の顔に対する右側の顔の面の角度と形、頬骨による。左側の頬骨は逆三角形型、右側の頬骨が平ら。左右非対象で似ているだけでは済まされない同一性がある。1983年の事故当時48才。2010年、現在も生存していれば75才ということになる。

 右側の老人の性格が猜疑的で何かに脅されている被害妄想感は、長い間の獄中生活による。アブラハム・シフリンは、毎晩11時過ぎに死刑が執行される監視の靴音が近づく時の恐怖感について書いている。その時間に監獄の前で靴音が止まった時、死刑が執行される。談話中の人たちの内、その心配をとくため、"Do you see, to change us, related to the warming?"と、「あなたは、我々が温暖化に関係していると思いますか?我々の境遇を変えられますか?」という要望の意味を含め、はっきりしない英語で介入した事から、その人も獄中で尋問を受けた経験があるKAL007の乗客の一人ということになる。撮影グループのロシア語の話し方に、KGBや管理者の口調と共通している所があるので、この場面を見る限り、地元の情報局から来たのであれば偵察を兼ねているはずと、初回の来訪者に敵意を持ってにらみつけている。この後の場面が無いのは、撮影拒否によるものと考えられる。彼らは、電気の無い生活で、あの事件から何年の歳月が経ち、どのようにロシア社会が変わったか、知る事もできない状況の中にいる。

 ラリー・マクドナルド元議員は、多くの監獄を変転させられた経験があり、移転する時の呼び出しを何度も体験している。KGB関係の者でなければ、樹木の無い所まで来れない。民間でこの場所を知っている人は、いないはずで、ここまで連れて来た者だけが彼らの居場所を知っている。この撮影の企画者は、なぜ多人種グループか、怪しいと思いながら確認する方法を知らないため、地理的な紹介としてこのビデオを編集している。Workshopとは仕事場という意味で、国外へ向けてのEALAT情報局による公開ビデオと考えられる。ここで撮影されている人たちが、KAL007の生き残りであることは、直接監視を担当したことのあるKGBや監獄務めのわずかな人たちしか知らない。その監視者たちも年上が多ければ、既に逝去してほとんど居なくなっている。アブラハム・シフリンの情報が比較的正確であれば、ラリー・マクドナルド元議員は、様々な尋問の末、自由主義国の社会思想犯として精神病監獄院で投獄され、薬物によって自分の過去と名前を忘れさせられている。廃人となってからChukotkaへ配置されたため、この場所の他の人たち(エスニック・グループと言われている多人種共同体)にも、彼が米国の元下院議員だったということや名前すら知らされていない。この老人の鼻の歪みと左目は、拷問あるいは凍傷や老齢による。このビデオによれば記憶喪失か、唖にさせられてからChukotka Anadyrに配置させられた様子に見える。
 丸メガネをかけたChukotka副知事のVladimir Etylinは、他のビデオで、ロシアの地理的背景とチュコツカに関する紹介、この辺りでは1年365日の内、200日から250日、地域により300日は寒さや暴風で仕事ができず、実質60日ぐらいしか野外で働くことができないと解説している。夏の間のその60日間は農業の期間で、Reindeer Husbandry(トナカイ農業)という栽培方法を行っていると語っている。チュコツカのこの多人種共同体がKAL007の生存者たちとその子孫であることに関しては一言も触れていない。



左腕の無い女性
 KAL007の生存者の1人と言われている片腕の無い女性が、シベリア北西の先住民ネネツ族の居住地域に住んでいるという知らせがアブラハム・シフリンに入り、1990年に1名のロシア人と2名のイスラエル人が調査した事があった。その女性は、1983年から1985年までの2年間、アムール川に近いシベリア鉄道のティンダ駅付近、モンゴル北東部の国境に近いソ連強制収容所で、伐採作業をさせられていた。しかし1985年、彼女はその仕事の最中、左腕の肘から腕を切断してしまった。
 その後、その女性は、シベリア北西部タゾフスカヤ・クーバ湾に隣接するナホトカ村に移された。ナホトカ村は、モスクワから北東2000km離れているヤーマロ・ネネツ自治管区の北部にあり、北極に近いツンドラ地帯の漁村で、20〜30世帯の家屋がある村だった。一年の半分は太陽が地平線から上がらない。南はタイガの原生林に覆われているため、他の場所と隔絶され、夏の8月にしか汽船が来ない。道も無く交通手段はヘリコプターしか無い永久凍土地帯だった。この村はKGBが監視していた。確認のために派遣された3人は、その村へ行くにも通行許可証が無ければ射殺される。その警備が少し緩んだぺレストロイカ(再編成・改革)時代の1990年に、3人の調査員たちは、無理を通してその女性に面会した。その女性は、魚の一部とウォッカを交換し、暮らしている。村人たちは、ウォッカは無いかという言葉が第一声だった。村人は、付近を通る蒸気船で魚とウォッカを物々交換する。長く寒いシベリア西北端で生き抜くため、体が温まるウォッカ以外の土産物には彼女も村人も全く関心を示さなかった。
 その女性は、自分が誰なのか知らなかった。記憶喪失者だった。自分の名前すら、過去に関して全く記憶が無い人だった。腕を切断した時の激痛と強制収容所の治療によって記憶を喪失したか。KGBが言う治療という処置が、それ以前になされていた女性か。村人たちは多少のロシア語も話すが、口が重く多くを語らなかった。おしゃべりは禁止されているようすだった。結局、その片腕の女性がKAL007の乗員乗客の1人だった証拠に関しては何も得られず、3人の調査員たちは帰らざるを得なかった。自分の名前すら知らない、記憶を喪失している女性という事が判った。他の村人は、彼女に関して何も知らせる事がなかった。


アムール川沿いの外国人捕虜収容所
 アムール川奥地のタイガにおおわれた原生林地帯に外国人捕虜収容所が距離を置いてまばらにあり、大韓航空機に乗っていた成年男性たちは、その場所へ収容されているという話を現地の友人から聞いた事があるという知らせが入り、シフリンの依頼を受けた2人のロシア人が、1993年の夏、奥地へ潜入した。
 その場所にある外国人捕虜収容所には、ルーマニア国籍のドイツ陸軍将校が捕虜として監禁されていた収容所だったが、1976年から77年にアムール川で大洪水があり、その大洪水によって収容所から脱出し、中国からインド、スイス経由でルーマニアに生還した人がいた。その逃亡の途中でアムール川沿いのタイガには厳重な秘密収容所がある事をその将校は脱走する事によって知る事ができた。
 アムール川沿いの追跡調査の仕事を依頼された2人のロシア人は、鉄道路線を使用してイルクーツクハバロフスク、バイカル・アムール鉄道に乗った。しかし、エロフェイ・パブロビッチ駅で降りると検問所があり、KGBと軍が管理している区域のため通行許可証の提示を要求された。この2人は、他の道を探るため、アムール川上流にあるブラゴベシチェンスク駅で降りたが、ここにも検問所があり、入域許可証を提示しなければ通行できない状態だった。アムール川沿いに住んでいるロシア人でさえ入域許可証が必要で、その手続きが難しい地域だった。しかし、2人のロシア人は、この区域に間違いなく収容所があるという事を確認する事ができた。




ソビエト強制労働収容所の実態
 戦時下捕虜収容所は、東南アジアに日本の捕虜強制労働収容所が無数にあったように、アメリカやドイツにも強制労働収容所があり、国や地域によって異なっている。強制収容所の作業ノルマは、1日最低12時間労働で、16時間まで残業させられる時もある。ソ連の場合も、場所によって異なっている。フリーマントル著「KGB」を参考。

  1. ノルマを達成した囚人には1日800gのパンが支給され、ノルマに満たない者は500gだった。懲罰の一方法として食料が更に減らされる。300gは死を意味していた。
  2. 1977年になってさえ管理の厳しい収容所は、1日2,600カロリー、懲罰で2,100カロリー、厳罰は1,300カロリー。一般人の標準カロリーは、3,100〜3,900。
  3. コルイマ収容所では、ビタミン不足による壊血病を防ぐため、松葉や潅木類の葉を漬けた水を飲まされた。
  4. 看守による囚人への暴力は禁止されていたが、脱走用金属の体内所持を調べるための強姦が許可されていた。
  5. 古い建造物の収容所は、シラミや害虫の繁殖も激しく、発疹チフスが続発した。
  6. 収容所内の他の囚人と会話する事が禁止されている。
  7. 毎年33%の餓死、病死などの死者が出ると言われている。
  8. 1993年ごろのカザフスタンの収容所は、市内のレストランから運び込まれる食事で、白パンが食べ放題。マットレス付きのベットだった。しかし他の囚人との会話が禁止されていた。
  9. 1983年は米ソの冷戦時代で、ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカが提唱され始める前だった。仮にKAL007の生存者がいたとしても、自由主義国の民間人は、捕虜あるいは拉致と同じ状態で、成人の男女であれば強制労働収容所へ連行された。少なくとも1985年まで強制労働収容所での処置方法は変わらなかったと考えられる。ソ連は近代化を行うために多くの労働力を必要とした。
  10. 1945年ごろシベリア捕虜収容所に入監させられていた日本兵の場合、とにかく栄養失調で死ぬ者が続出するため、伐採労働の者は、クワガタの幼虫を蛋白源として食べて生き長らえた事があったと地元の新聞で経験談などを公表していた。
  11. スプーンや番線、釘、ハリガネ、カミソリの歯などの金属が泥団子の中や素焼き団子、殻になるものの中へ詰めて隠している場合もあり、身体検査は抜き打ちと定期で行われた。発見されると食事の量が減らされ餓死する。囚人間の会話は無し。
  12. 脱走者が出ると、警戒や取締りがさらに厳しくなった。
  13. レスリング、ボクシング、空手、合気道、柔道などの格闘技の必殺技などを知っている者は、看守に目をつけられる。脱走で殺られる場合があるので、どの程度だか調べられる。他に特殊な技能や経験など。
  14. 顔写真と囚人番号が添付され、書類と一緒に他の監獄へ護送。監獄の環境や尋問官の性格、方法によって異なるため、様々な監獄へ移動され、尋問の内容と話した内容は調査書に書きたされる。
  15. 米ソ冷戦時代の1985年まで、アメリカのロシア人捕虜リストや捕虜収容所の場所、軍事施設のコード番号やパスワード、核兵器の所在位置、新兵器の開発計画や内容などがソ連政府にとって必要な事で、それらの事に関して知っている者に対して、厳重な取調べと尋問がおこなわれた。
  16. ソビエト北方の寒冷地帯は、何ヶ月も日が沈まないため、時間の概念が温帯の人々と異なっている。日は昇らず横に移動する。さらに夜が何ヶ月も続く。気温は1日中変化が少なく、季節によりゆっくり寒くなり、ゆっくり暖かくなる。シベリアの北方内陸は寒暖の差が激しく夏は30℃、冬は-70℃まで下がる時がある。ツンドラが草原地帯になる8月には、5℃前後の昼が1ヶ月続き、長い夜の季節は最も寒い所で-70℃まで下がる。何年も人里離れた寒冷地に適応できなければ凍死して死ぬ。
  17. 現在のウラジオストックは、秋田市、新潟、函館、釜山、大連、サンディエゴ市などと姉妹都市関係にある。しかし、現在でも軍事施設や捕虜収容所付近の管理区域には通行許可証がなければ入れない。民間人が管理区に入って走ると射殺される。
  18. 中国や韓国国籍であれば、アメリカやロシアの大国の方が有利と考えざるを得ない。
  19. 2009年の共産圏は、携帯電話やパソコンによる電子通信機器が急速に普及し、ソ連の隅々までネットを張り始めてきている。PCのOSは共産圏の役所でさえWindowsマルチメディアが一般的に普及している。
  20. ミハイル・ゴルバチョフの提唱による1985年からのペレストロイカで、ロシア国籍の一般市民は外国への渡航が自由になっている。

(C)Junpei Satoh/The truth of Korean Air Lines Flight 007/Several viewpoints from Japan side,14 January 2014

アブラハム・シフリンの再調査(2)

アブラハム・シフリンの再調査(2) 



アブラハム・シフリンとリサーチセンターの情報
 KAL007で生き残った乗員乗客が救出された結果、サハリンKGB基地へ連行されたとシフリンは断定している。1983年9月4日までサハリン対岸のシベリヤ本土ソビエツカヤ・ガバンKGB基地へ連れて行かれた。その場所で男女と子供はグループに分けられ、男女はバイカル・アムール鉄道ティンダへ列車で運ばれた。乗員乗客がスパイと見なされていれば、シベリアの至る所にある収容所に拘置された。その収容所にはアメリカ人戦争捕虜と外国の囚人が収容されていた。ソビエトの収容所は、まわりに何も無く隔絶された人里離れた所にあった。囚人が捕虜収容所から解放されるとその付近で流刑生活を強要されます。外国の囚人は解放される事がありません。周りには村も無いのです。
 KAL007乗客の子供たちは、ソビエツカヤ・ガバニSovetskaya Gavanの孤児院に10月末まで収容されていました。子供たちは、その後ウラジオストックノボシビルスク、オムスク、バルナウルカザフスタンの孤児院に移動させらました。そのように子供たちを移動させた理由は、その地域の人種に同化させる事が目的でした。
 マクドナルド議員は、ルビヤンカKGB収容所へ連行され隔離されました。覗き穴を通して観察される独房に入れられ、彼は何度もKGB第一総局長ウラジミール・クリュチコフに尋問されました。
<解説2>

  1. デッドヘッド(他の便の待機パイロットと交替職員)や添乗員たちが不時着水時の訓練を受け、ボーイング747の2Fが比較的安全という事を知っていれば、シートベルトを閉めて生存していた乗員乗客を着水前の水平飛行中、燃料タンクの爆発を避けるため、2Fへ全員誘導させたのではないか。
  2. ボーイング機のフロアーの下のフレーム構造は特殊で、機体が折れても爆発して吹き飛んでも残るように軽く頑丈につくられているという事をパイロットと航空機関士たちは知っている。
  3. 2Fの天井に弾丸の穴が開いていたかが問題で、もし開いていなければ、ゲンナジー・オシポビッチが2Fの上を撃たなかったら、ボーイング機はしばらくの間、海面に浮いていた事になる。
  4. 海面上の炎の状態によるが、生存者が比較的多かった可能性もある。海水に浮いた油に火がついた場合、最初は勢いがあったとしても油の層が薄くならざるを得ないため、長くは燃え続けない。厳密には火が消える速度と水没の速度、海面の流れの速さなどの条件によって異なっている。
  5. KAL007乗員乗客の生存者がいるかどうかが、遺族とその関係者にとって最も重要な事で、ロシア漁民の目撃談だとKAL007の乗員乗客は無事救出され、トランクや荷物も運び出されたと繰り返し話している。不時着水時間の3時38分は暗い。爆発しなければ真っ暗闇であった。高度0メートル地点でレーダーから消えたソ連と日本の2つの基地の記録があるので、それをどのように解釈するか。1.着水するとレーダーから消えるか。2.ボーイングの2Fが海上に少し浮かんでいる状態は、レーダーに反応しないか。3.日本のイカ釣り船第58千鳥丸船員たちが見た爆発は、不時着水後のしばらく時間がたってからか。これらが生存に関わる重要な論点となる。目撃談には、時間まで細かく言われていなかった事がKAL007の生存者がいるかいないかの問題をこじれさせている。国境警備隊が到着した27分後の4時過ぎは、まだ真っ暗で見えなかったのではないか。その日は曇り空で霧が海上で発生していた。救出されたのは明るくなってからか、まだ暗いうちか。日本のイカ釣り船が目撃した爆発は、真っ暗な時刻だった。どちらの状況を信じるかと言われれば、イカ釣り船乗組員の話の方に信憑性があると思っている。そうであれば、爆発してもボーイング機は数十秒間沈まなかった事が可能性として考えられる。
  6. KAL007の生き残りがいるとすれば、1983年から1985年までアムール川沿いの強制収容所森林伐採の仕事をし、ペレストロイカが提唱された1985年以後、シベリア北西から北東の管理区域内の開拓地で、1人1人分配されるように別々に配置された。2人以上集まると事故当時の強い記憶が残され、他の軽い刑の民間の囚人に漏れる場合がある。1人の場合、孤独の中で事故当時の記憶とそれ以前の記憶が繰り返えされ、強い記憶となって残される。それ以前の記憶と事故当時の記憶は、ロシア政府にとって不都合なため、さらにロシアに同化させるため、可能な限り細かな事まで聞き取った後は、催眠術で甦生されないように薬と脳手術で物理的に抹消されている。その考え方と方法はブラックボックスのボイステープと全く類似している。乗客の国籍が中小国であれば、移民団か移住扱いにされ、外科的に記憶が消されていない人も職種や待遇の違いによってある。その場合は、帰国せず以前の事に関して口外しない事を条件としている。
  7. アブラハム・シフリンの乗員乗客生存説が主張された後、ゲンナジー・オシポビッチがミサイルを発射する前に「2連射を撃った」という報告から「徹甲弾243発を撃った」とさらに細かく言い直した。彼の判断によれば、「民間機を装ったスパイ機乗員」としてシフリンと同じように扱われた可能性もあり、書面上の事務的な分類とその事後処置を考えると、ロシアの捕虜収容所へ送られた話を否定することはできない。強制労働収容所と精神矯正収容所には、イスラエル人やアメリカ人、他の国々からの戦争捕虜、軍人や民間人が多く、成人以上であれば同じように扱われる。しかし、パスポートと所持品があればスパイ行為の証拠がないので、処置が軽減され、活動範囲が制限されているか、あるいは最初の処置内容を訂正できない場合、戦時下民間人捕虜と同じにされていることも考えられる。
  8. ロシア収容所には約1000万人の人々が抑留されていると言われている。森林伐採、開墾、鉄道や鉄橋、建設物工事、石炭採掘、貨物荷物運びなどの重労働があり、労働時間数がロシア国民より多く、粗食のため栄養失調で死ぬ人も出ると言われている。
  9. 1997年、アブラハム・シフリンがソビエトの社会組織に関して多くの事を知った後、KAL007便の子供たちのほとんどは、中国とソ連の国境沿い「東洋人共和国」(モンゴル国北端ソビエト国境沿い居住区)に送られたでしょう。様々な人種地域に分散させる事によって外見的に目立つ事はなかった。1990年代後半まで、ソビエトには閉鎖された都市や村が存在していました。「軍の制限地域」と「民間人の居住区」は別々にあり、民間人の居住区は軍のように制限されていないため、ソ連には子供たちの拉致がありました。KAL007の子供たちは、他の乗員乗客や両親と別々に離されて生かされた可能性がありますとバート・シュロスバーグに語った。そのアブラハム・シフリンは、1998年に亡くなった。

 1953年にスターリン暗殺未遂事件の嫌疑で投獄されたアブラハム・シフリンは、ルビヤンカ監獄で25日間、昼も夜も立ちっぱなしで尋問され続けた。尋問官は24時間6人交替、直立不動の姿勢で休憩時間も睡眠時間も無い。気を失い倒れると頭から水をかけられた。レフォルド監獄からブトイルギー監獄へ移され、罪状はアメリカとイスラエルのスパイとされていた。軍法会議の結果は、死刑判決だった。死刑執行時刻は毎日夜11時。死刑日が知らされず、毎晩、その時間に通る死刑執行官の靴音に耳を傾け、脅かされ続けた。しかし、25年間の強制労働に軽減された後、さらになぜか5年間の流刑と5年間の市民権剥奪へと減刑された。レフォルトボ監獄へ入監させられた時は、独房の床が深さ12cmの泥水で覆われ、その中で28日間しゃがんで眠った。ベット無しの独房だった。